十五秒
朝の七時に、修は自転車置き場で、息子の自転車の前かごが潰れているのを見た。
カーポートの横の、波板の屋根の下だった。白い自転車は、いつもの場所にいつもの向きで停めてあった。前かごだけが、外から殴られたように内側へ曲がっている。ハンドルの真ん中のライトは、レンズが割れて、中の電球が見えていた。
修はゴミ袋を提げたまま、しばらくそれを見た。
今年の春に買った自転車だった。高校の入学祝いに、樹が自分で選んだ。後輪の泥よけには、青い四角の通学許可シールが貼ってある。学校でもらってきたシールを、修が台所のテーブルで剥がして貼ってやった。樹はそのとき、まっすぐ貼れよ、と言った。父親と口をきいた、たぶん最後の長い会話だった。
ゴミ袋を集積所に出して戻ると、樹が台所にいた。寝癖のまま冷蔵庫を開けて、牛乳のパックをそのまま口へ運んでいる。
「自転車、どうした」
樹は牛乳のパックを持ったまま、手を止めた。
「……知らない」
修の方は見なかった。パックを冷蔵庫に戻し、扉を閉め、洗面所へ行った。水の音がした。
修は、それ以上は訊かなかった。
修は四十八歳で、地元のスーパー「たかの」の東原店で店長をしている。家から店までは、白いミニバンで二十五分かかる。
樹は十六歳で、高校一年だった。三年前に妻が家を出たとき、樹は父親の家に残ると言った。学校と、友達がいるから、と言った。父親がいるから、とは言わなかった。それ以来、家の中の会話は、要るものと要らないものの連絡だけになっている。牛乳ない。買っとく。そういうものだった。
だから「知らない」は、いつもの返事と変わらなかった。変わらなかったはずだった。
昼前に、店に女の人が来た。
サービスカウンターで、副店長の佐々木が修を呼んだ。三十代の半ばくらいの女の人が、紙の束を胸に抱えて立っていた。黒っぽいコートの前を、片手で押さえていた。
「三浦と申します。こちらに、これを貼らせていただけないかと思って」
差し出された紙は、ワープロで打った一枚のビラだった。
――目撃者を探しています――
11月7日(木)午後9時ごろ、県道の東原交差点の東にある、押しボタン式の横断歩道で、父(78歳)が自転車にはねられました。父は今も意識が戻りません。
自転車は西の方向へ走り去りました。白っぽい自転車だったそうです。
何か見た方、聞いた方は、どんなことでもかまいません。ご連絡をお願いいたします。
下に、警察署の電話番号と、携帯の番号が並んでいた。
「昨日の夜なんです」と三浦は言った。「交差点のまわりのお店を、回らせていただいてて」
修はビラを見ていた。
東原交差点は、修の帰り道だった。
「もちろんです」と修は言った。「どうぞ。いちばん目立つところに」
入口の掲示板には、地域の祭りのポスターと、ピアノ教室の生徒募集と、迷い猫の貼り紙が並んでいた。修は祭りのポスターを外して、真ん中を空けた。三浦が頭を下げた。修は画鋲を受け取り、自分で四隅を押した。押しながら、ビラの「午後9時ごろ」という字を見ていた。
三浦は残りの束を抱え直して、次のお店があるので、と言った。自動ドアが開いて、閉じた。
昨日の夜、修は隣町の支店で店長会議に出ていた。八時四十分に終わって、車で帰った。
県道に出る手前の、東原交差点で、赤信号に止まった。ラジオがついていた。窓は閉めていた。
信号を待っていると、ヘッドライトの中を、左から右へ、白い自転車が横切った。
危ないな、と修は声に出した。自転車は右の歩道へ上がって、西の方へ消えた。信号が青になって、修は交差点を渡った。それだけだった。それだけのことを、修は、ビラの字を見るまで思い出さなかった。
白い自転車。西の方向。
西は、家の方角だった。
昼の休憩になっても、修は車へ行かなかった。
事務所でパンを食べて、発注の画面を見た。駐車場の車には、ドライブレコーダーが付いている。前と後ろにカメラがある、どこにでもある機械だった。三年前に車を買い替えたとき、カー用品店で付けてもらった。取り付けた店員は、カードが一杯になると古いのから上書きされていきますから、一時間ちょっとですね、大事な映像があったら抜いてください、と言った。去年、店の駐車場の入口の段差を越えるたびに警告音が鳴るので、修は衝撃の感度をいちばん下まで下げた。それから一度も、映像を見たことはない。
夕方の品出しのあいだも、行かなかった。
閉店の音楽が鳴り、レジを締め、売上の数字を本部へ送った。パートの人たちが一人ずつ、お先に失礼します、と言って事務所の前を通っていった。
十時十分に、修は通用口から出て、駐車場の自分の車に乗った。
エンジンをかけ、ルームランプを消した。
ドライブレコーダーの本体は、ルームミラーの裏に付いている。手のひらほどの大きさで、小さな画面がある。メニューを押すと、日付ごとのファイルが並んだ。昨日の日付。二十時五十八分。五十九分。修は五十九分のファイルを選んだ。早送りで、車が交差点の手前で止まるところまで進めて、再生を押した。
画面に、夜の交差点が映った。
車は止まっている。前の信号が赤い。ワイパーの端が画面の下に少しだけ入っている。県道を、右から左へ、車のライトが二台流れた。
五秒。六秒。
ヘッドライトの中に、左から、白い自転車が飛び込んできた。
前かごが曲がっていた。ハンドルのライトは消えていた。乗っている人間はフードをかぶって、サドルから腰を浮かせ、立ったまま漕いでいた。後輪の泥よけで、青い四角いものが光を返した。
修は息を止めた。
自転車は二秒もかからずに画面の中央を抜け、右の歩道へ上がって、そこで止まった。乗り手は片足をついて、肩で息をしていた。斜め後ろからの背中が、ライトの端に入っていた。黒い上着の背中の真ん中に、白い円が見えた。何かの印のようだった。樹の持っているどれかの服だろう、と修は頭の隅で思った。樹の服を、修はもう何年も知らなかった。
十四秒。十五秒。
乗り手の肩が、こちらへ回りかけた。
運転席の窓が、こつこつと鳴った。
修は反射的に一時停止を押し、画面を手のひらで覆った。
窓の外に、井口恵美が立っていた。夕方から閉店までのパートの人で、もう二年になる。コートを着て、自転車の鍵を指に引っかけていた。修が窓を下ろすと、冷たい空気が入ってきた。
「店長、お先に失礼します。明日、わたし休みなんで、パンの発注、佐々木さんに頼んであります」
「ああ。ありがとう。お疲れさま」
「店長も、早く帰ってくださいね」
恵美は笑って頭を下げ、通用口の脇に停めた自分の自転車の方へ歩いていった。修は窓を上げた。恵美の自転車のライトが駐車場を横切り、道路へ出て、見えなくなった。
修は、画面を覆っていた手をどけた。
画面の中で、乗り手は止まっていた。
右の歩道の端で、片足をついて、肩がこちらへ回りかけたところで止まっていた。フードの縁が、ライトの光を薄く受けていた。顔は、まだ見えない。あと一秒か二秒進めれば、たぶん見える。
修は再生ボタンに親指を置いた。
押せば、それが樹かどうかが決まる。
樹だったら、と修は思った。そのあと、自分が何をするのか、修には分からなかった。台所のテーブルが浮かんだ。ビニールのクロスの、角のところが擦り切れていた。誰かが湯呑みを置く手。
分からないまま、決まってしまうのが嫌だった。
修は親指を、ボタンの上に置いたままにしていた。駐車場の照明が、時間で半分消えた。画面の中の背中は、白い円をこちらに向けたまま動かなかった。
修は親指を離した。
メニューを押して、画面をいつもの録画に戻した。小さな画面に、いま目の前にある、暗い駐車場の通用口が映った。右上の赤い丸が点滅していた。録画が続いている、という印だった。
カードを抜けばいい、ということは分かっていた。
本体の横に、カードの差し込み口がある。爪を掛けて押し込めば、カードは出てくる。抜いてしまえば、もう上書きはされない。昨日の夜の十五秒も、その先も、カードの中に残る。
店員は、一時間ちょっと、と言っていた。昨日の夜、交差点から家までが十五分。今朝、家から店までが二十五分。これから家へ帰れば、また二十五分。
修はギアをドライブに入れた。
カードを抜いたら、それを持っていることになる。どこかにしまい、しまった場所を覚えていなければならない。修は、それが何のためなのかを、自分に説明できなかった。
駐車場を出た。いつもの道を帰った。東原交差点は通らない道だった。信号で止まるたびに、ルームミラーの裏の赤い丸を見ないようにした。
家に着いたのは、十時四十分だった。
カーポートに車を入れ、エンジンを切った。赤い丸が消えた。
自転車置き場の白い自転車は、朝と同じ向きで停まっていた。修はその前を通り、勝手口から家に入った。台所の明かりをつけた。テーブルの上に、樹が食べたカップ麺の容器が置いてあった。
二階の、樹の部屋の戸は閉まっていた。戸の下から、細く明かりが漏れていた。
修は階段を上がって、戸の前に立った。
中から、小さく音楽が聞こえた。何か、知らない曲だった。
修は戸を叩かなかった。
階段を下りて、台所でカップ麺の容器を洗い、ゴミ箱に捨てた。テーブルを布巾で拭いた。ビニールのクロスは掛けていない、木の天板のテーブルだった。それでも、拭いたところを、修はしばらく手のひらで押さえていた。




