目撃者を探しています
恵美が最後に店に来たのは、十一月の最後の土曜日だった。
朝の九時、開店前だった。恵美は通用口から入ってきて、事務所の戸口で、退職届と書いた白い封筒を差し出した。修はそれを受け取った。恵美はロッカーの中の私物を紙袋に詰め、エプロンと名札を畳んで、事務所の机の端に置いた。
佐々木が、何か言いたそうな顔で、売場の入口から事務所を見ていた。恵美は佐々木に、お世話になりました、と言った。佐々木は、こちらこそ、と言った。それ以上は、誰も何も言わなかった。
恵美は紙袋を提げて、事務所の戸口に立った。
修は、机の前に立っていた。
恵美は、修に向かって頭を下げた。
何も言わなかった。お世話になりましたとも、すみませんでしたとも、言わなかった。修も、何も言わなかった。言える言葉が、どちらの側にも無かった。
恵美は顔を上げて、通用口から出ていった。自転車に乗っていった。前かごに、紙袋が入っていた。
十二月の第一週に、倉持から電話があった。
息子さんには、もうお話を伺うことはありません、と倉持は言った。それから、柏木さんご自身については、また署へ来ていただく日を、こちらから連絡します、と言った。修は、はい、と言った。
「自転車は、お返しします」と倉持は言った。「調べは終わりましたので」
次の日、若い刑事が、白い自転車を軽トラックの荷台に載せて持ってきた。前かごは曲がったまま、ライトは割れたままだった。若い刑事は、それを自転車置き場の元の場所に戻し、受領の書類に修の判をもらって、帰っていった。
本部からも電話があった。人事の課長だった。警察の件は聞いている、処分は警察の判断が出てから決める、それまでは通常どおり勤務するように、と課長は言った。修は、はい、と言った。
その週の金曜日の夜、台所で、樹が言った。
「冬休みになったら、母さんとこ行く」
修は、テーブルで缶ビールを持っていた。樹は冷蔵庫の前に立っていた。
「転校の手続きは、母さんがする。三学期から、向こうの高校」
「……分かった」
樹は冷蔵庫を開けて、麦茶を出して、コップに注いだ。飲み終えるまで、台所にいた。コップを流しに置いて、戸口で、少しだけ立ち止まった。
何か言うのかと、修は思った。
樹は何も言わずに、階段を上がっていった。
十二月の半ばの日曜日に、三浦が店に来た。
昼過ぎだった。修が売場から入口の方を見ると、三浦は掲示板の前に立って、真ん中のビラの画鋲を抜いていた。上の二つを抜き、下の二つを抜いた。紙を外すと、コルクの板に、小さな穴が四つ残っていた。その下に、最初のビラの、もっと小さな穴が四つあった。
三浦は、外したビラを丁寧に半分に折った。
修は、入口まで歩いた。
「店長さん」と三浦は言った。「長いあいだ、ありがとうございました。おかげさまで、分かりました。高校生の子でした。友達の自転車を借りて、バイトの帰りに」
三浦は、折ったビラを鞄に入れた。
「警察の方が、目撃した方が名乗り出てくださったって。それで分かったって。誰かは、教えてもらえなかったんですけど。お礼を言いたいって言ったら、伝えておきますって」
三浦は、小さく息をついた。
「父には、間に合わなかったけど」
自動ドアが開いて、客が入ってきた。三浦は、掲示板の方へ半歩よけた。
修は、三浦の前に立っていた。
ここで、ご苦労さまでしたと言って、頭を下げれば、三浦は帰っていく。倉持は、誰かは伝えない。三浦は、ビラを貼らせてくれて、ビラ配りを手伝ってくれた店長として、修を覚えている。
「三浦さん」と修は言った。
三浦は、修を見た。
「目撃者は、私です」
三浦の顔から、何かが抜けていった。
修は、続けた。
「あの夜、交差点で、信号待ちをしてました。自転車が、車の前を横切りました。その自転車は、息子のでした。息子が乗っていると思って、黙ってました。ドライブレコーダーに映っていたのを、消しました。警察には、猫だと言いました」
三浦は、黙っていた。
「ビラを貼ったときも、駅前で配ったときも、知ってました。名乗り出たのは、お父さんが亡くなった次の日です」
自動ドアが、また開いて、閉じた。
三浦は、修の顔を見ていた。長いあいだ、見ていた。修は目を逸らさなかった。逸らせば、また何かを決めずに済ませてしまう気がした。
三浦の口が、少し開いて、閉じた。
「……家に、来てください」
三浦の声は、低かった。
「父の前で。全部、話してください」
樹が家を出たのは、終業式の次の日だった。
朝の十時に、妻が車で来た。借りてきたらしい白い軽自動車だった。樹の部屋から、段ボールが四つと、布団袋が一つ、運び出された。
修は、玄関で段ボールを持とうとした。
「いい」と樹は言った。「自分でやる」
修は手を引いた。妻は、修を見て、少しだけ首を振った。修は玄関の脇に立って、樹が段ボールを一つずつ運ぶのを見ていた。
最後の段ボールを車に積んで、樹は自転車置き場の前を通った。
白い自転車は、元の場所にあった。曲がった前かご。割れたライト。泥よけの、青いシール。
樹は、それを見なかった。見ないで通り過ぎた。止まりもしなかった。妻の車の助手席に乗って、ドアを閉めた。
妻が、運転席の窓を下ろした。
「じゃあ」
「ああ」
車は門を出て、坂を下りていった。修は門のところに立って、それを見ていた。曲がり角で、ブレーキランプが一度光った。それから、見えなくなった。
修は、自転車置き場の前に戻った。
白い自転車の前に、しばらく立っていた。
その次の日、修は三浦の家を訪ねた。
東原交差点から、北へ十分ほど歩いたところにある、古い平屋だった。玄関の脇に、植木鉢が並んでいた。三浦は、黒いセーターを着て、玄関の戸を開けた。修を見て、どうぞ、と言った。
奥の六畳に、仏壇があった。真新しい位牌と、写真があった。写真の中の三浦正一は、作業服を着て、どこかの川の堤防の上で、まぶしそうに笑っていた。
修は、仏壇の前に座った。線香を上げて、手を合わせた。三浦は、修の斜め後ろに座っていた。
修が向き直ると、三浦は言った。
「全部、話してください。あの夜、見たもの」
修は話した。
十一月七日の夜、赤信号で止まっていたこと。ラジオが鳴っていて、窓は閉めていたこと。押しボタンの横断歩道は、左の建物の角の向こうで、見えなかったこと。次の日、ビラの四隅に画鋲を押したこと。その夜、店の駐車場で見た十五秒のこと。
歩道の端で止まった乗り手の、肩で息をしていた背中。それから、その肩が、こちらへ回りかけたこと。
そこで止めたこと。息子の顔だったらと思うと、続きを見られなかったこと。カードを抜けば残ると知っていて、抜かなかったこと。次の朝、いつもの道を運転して、消したこと。
三浦は、途中で一度も口を挟まなかった。
修が話し終えると、部屋の中は静かになった。線香の煙が、まっすぐ上がって、天井の近くで崩れていた。
「その子は」と三浦は言った。
修は、三浦を見た。
「振り返ったんですか。止まって」
「……肩が、回りかけていました。こちらの方へ。来た方へ」
「来た方」
「東です。横断歩道の方です」
「その先は」
「見ていません」と修は言った。「見ていれば、顔が映っていたと思います。あと一秒か、二秒。そのあとで、走っていったんだと思います」
三浦は、仏壇の写真を見た。
しばらく、そうしていた。それから、写真に向かって、小さな声で言った。
「振り返ったんだって。お父さん」
修は、膝の上で手を握っていた。
三浦は、修の方へ向き直らなかった。写真を見たまま、言った。
「今日は、ありがとうございました、とは言いません」
「はい」
「来てくださって、とも言いません」
「はい」
「でも、聞きました。全部」
三浦は、それきり黙った。
修は、仏壇に向かって頭を下げた。それから、三浦の背中に頭を下げた。三浦は振り返らなかった。修は立ち上がり、六畳を出て、玄関で靴を履いた。戸を開けると、冬の昼の光が、植木鉢の並んだ玄関先に落ちていた。
修は戸を閉めた。
東原交差点の方へ歩いた。押しボタン式の横断歩道の前を通った。路肩の黄色い立て看板は、もう無かった。
横断歩道を過ぎたところで、修は一度だけ、来た方を振り返った。
植木鉢の並んだ平屋の玄関は、もう角の向こうで、見えなかった。




