◆ 最終章 物語のその先へ -2-
場の空気が張り詰めた。
「不必要な処分が下されることのないよう、文官として尽力する」
「……その申し出だけで、十分です」
落ち着いた声で、ルクレールがそう告げる。
「……父上、俺も、リシャールに――」
言いかけたところで、
「やめておけ」
ルクレールが遮った。
「これは、古来より曲げられない規則だ。長く続いてきたものには、今の感覚ではおかしいと感じるものにも、それ相応の理由がある」
珍しく淡々と話すその声は、感情を削ぎ落とした理知的な響きを帯びていた。
「機能しているのか、していないのか分からない規範でも、無闇に壊すべきではない。理由を理解する前に排除すれば、同じ問題が別の形で再発する」
そこで一度、ルクレールは言葉を切る。
「常に閉ざされた門を見て、無駄だと笑う者もいる。だが、その門が閉じられている理由を知らずに開ければ、招き入れるべきでないものまで通すことになる――規律は規律、咎は咎。守らなければならない」
俺は、息を呑んだ。
言っていることは、何ひとつ間違っていない。
むしろ、正しいのはルクレールのほうだ。
魔眼は危険。
王族には効かないとはいえ、本来なら他者の意思に干渉し、場合によっては支配すら可能な力。使い方ひとつで、いくらでも悪用できる。
だからこそ、この国では古くから厳しい規律が定められているのだろう。
魔眼を持つ者が暴走しないために。あるいは、魔眼を持つ悪人が抜け道として利用できないように。
情状酌量だの、功績だの、善意だの。
そういう曖昧なものを理由に例外を作れば、いずれ必ず誰かがそこへ入り込む。
たとえ魔眼を持つ者が極めて少数だとしても、それは例外を許していい理由にはならない。
むしろ数が少ないからこそ、一度作られた前例は重く残る。
善人のために用意された抜け道ほど、悪意ある者にとって都合のいいものはない。
きっと、この規律はそうした失敗を経て築かれたものなのだ。
それは理解できる。
理解は、できる。
……だが。
アルチュールから離れ、俺は、一歩、前へ出た。
「……ルクレール」
名を呼ぶと、彼は静かに上から視線を向けた。
「もし、俺とお前が、反対の立場なら?」
「……どうした、セレス?」
ほんのわずかに、その眉が動く。
「俺が、もしも魔眼を持っていて、お前を守るために魔眼を使って、それで……その結果、目を失うことになったとしても? お前は、本当に何も言わず、なにか回避できる手段はないかとか、色々考えたりもせずに、簡単にそれを受け入れられるのか!?」
言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
ルクレールは答えなかった。
わずかに目を細める。だが、その沈黙が、何より雄弁だった。
この男は、理解している。
規律の意味も、必要性も、全部。
そのうえでなお、自分自身にだけは一切の情状を認めないつもりなのだ。
どうして私生活はあれほど乱れていたのに、任務や責任に対しては、こんなに強情なんだよ!
厄介にもほどがある。
刹那、ふいに、視界が滲んだ。
「……あれ」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
熱いものが頬を伝っていく感覚に、ようやく自分が泣いているのだと気づいた。
泣くつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。
戦って。守って。失いたくないものを、どうにか全部抱え込んで。
身体も精神も、とっくに限界だったらしい。慌てて拭おうとするが、次から次へと視界が滲む。
まずい。
ただでさえ感情的になって詰め寄ったというのに、そのうえ泣きながら反論なんて、まるで駄々をこねる子供じゃないか。
しかも、涙なんてものは見せた側が圧倒的に有利になる。
こんなの、ほとんど反則だ。自分でもずるいと思う。
これ以上ここにいたら、色々な意味で格好がつかない。
本当に泣き落としみたいになってしまう。
それだけは絶対に嫌だった。
相手が自分に好意を寄せていると分かっているのに、その前で涙を見せて考えを変えさせるだなんて、あまりにも卑怯だ。
たとえ結果的にルクレールの目を守れたとしても、それで彼の意思を曲げさせるのは違う。
俺が欲しいのは、そんな形の譲歩じゃない。
半ば反射的に顔を背け、そのまま逃げるように身体をよじり、向かった先は、ルクレールのすぐ隣に立っていたロジェだった。
「えっ……」
ロジェの短い困惑の声が落ちるが、構わず、その胸元へ飛び込み、硬い甲冑に額を押しつけ声を殺した。
無骨な感触と、その奥にある確かな体温に、ようやく少しだけ呼吸が整う。
数秒の沈黙。
それから、頭上で小さく息を吐く気配がした。
「可哀そうに、セレス」
ぽん、と頭に手が置かれる。
「ルクレールにいじめられたな」
「おい、ロジェ……語弊のある言い方をするな」
即座に返ってきたルクレールの低い声に、少しだけ場の空気が緩んだ。
「いや、泣かせてる時点で十分だろう」
ロジェはどこ吹く風だ。
そのまま、慰めるように俺の背に片手をまわして頭を軽く撫でる。
「よく頑張ったな」
完全に子供扱いだった。
……だが、それがありがたい。
「なぜ、ロジェなんだ」
ぽつり、と聞こえてきたのはアルチュールの声。
仕方ないだろう。
心の中で、思わずそう返す。
転生前の俺は、今のお前より年上だったんだ。
学院を卒業して、原作通り『黒の騎士』と呼ばれる頃のお前だったなら、たぶん、いや、迷わずそっちへ行っていた。
でも、今は違う。
泣いてるんだぞ、俺は。
こんな情けない顔、お前に見せられるか。
あとで埋め合わせはするから、少しくらい意地を張らせろ。
そっと、ロジェの胸元に顔を埋めたまま、ちらりと視線だけを動かす。
盗み見るようにうかがうと、アルチュールは本気で解せない、とでも言いたげな顔をしていた。
その隣で、ルクレールがこめかみにうっすらと血管を浮かせている。怒っているのか、それとも別の感情なのか。本人にも分かっていなさそうな、言葉では表しにくい複雑な表情だった。
「まったく。なんて悪い男だ。お前のことを心配してくれているのに、こんな可愛いセレスを泣かせやがって」
ロジェが、わざとらしく一拍置いて、「贅沢者め。あとで俺が、きっちり相手してやる」と言った。
その声音は冗談めいているのに、妙に物騒だ。
即座にルクレールが返す。
「ロジェ、冗談に聞こえない」
「冗談じゃないからな」
さらりと言い切るロジェに、今までずっと黙っていたジュールがとうとう吹き出した。
「おい、ジュール」
ルクレールが低く名を呼ぶ。しかし、ジュールはまだ肩を震わせながら口元を押さえていた。
「いえ……失礼しました」
そう言いながらも、目元にはまだ笑いの余韻が残っている。
だが、次に口を開いた声音は思いのほか真面目だった。
「でも、ヴァロアさん」
ジュールは静かにルクレールを見る。それから少しだけ眉を下げた。
「あなたの秘密を知っているメンバーの誰もが、あなたの目が抉られることに納得していません」
「……」
「規律や事情は分かります。分かりますけど……だからといって、はいそうですか、とはならないでしょう」
一度、言葉を切り、
「普段あれだけ、俺たちカデ・ド・ノクターンには、生き残れだの、死ぬなだの、最後まで抗えだの、諦めるなだの、しつこいを通りこすぐらい言うくせに、なんで自分のことになると、そんなにあっさり切り捨てようとするんですか」
その問いは責めるようでいて、どこか困ったようでもあった。
「まだ時間はあるんですし、何か別の方法がないか探しましょうよ。こういうときのために、上も下も関係なく、面倒くさい連中が集まってるんじゃないんですか? ノクターンって」
さっきまでの張り詰めた緊張が、嘘みたいにほどけていく。
――そのときだった。
天幕の外に控えていた者たちが、一斉に姿勢を正すような張り詰めた気配が伝わってきた。
なにごとだ……? と思った瞬間、
「相変わらず、そのあたりだけは筋金入りだな、ルクレール・シャルル・ヴァロア」
聞きなれた声が耳朶を打ち、全員の視線が一斉に入口へと向けられると、布幕が静かに持ち上がり、リシャール殿下が姿を現した。
めくれた布の隙間から、殿下の背後に王国軍騎士たちの鎧が一瞬だけ覗く。
「殿下……」
「セレス! 私のことは、シャーと呼べと言っているだろう!」
そう言った直後に、そのまま膝を折ろうとしていた父上を含む部屋に居た全員を、リシャールは片手を上げて制した。
「どうか、そのままで。ここには、セレスの“一番“の友人として来たつもりだ」
誰も動かないのを確認してから、ゆっくりと中へ進み、リシャールは俺の前で足を止めた。
「セレス……、本当に、この度は感謝している」
その言葉に、ようやく現実へ引き戻された。
気づけば、まだロジェに抱き支えられていたままだったことを自覚し、慌てて身体を離す。
俺は、呼吸を整えながら、一度だけ俯くと、指先でそっと目元を拭った。
「とんでもないです、リシャール……」一瞬迷ってから、言い直す。「いや、シャー……。ご無事で何より」
「うん」
満足そうに頷いたあと、リシャールは小さく息を吐いた。
「王国軍の遠見魔法専門部隊から、お前たちの状況は逐一報告を受けていた……かなり気が気ではなかったぞ」
リシャールは珍しく少しだけ眉を寄せた。
遠見魔法専門部隊。
遠見魔法そのものは決して珍しいものではない。ある程度の魔力と技術があれば扱える。だが、あそこに所属する者たちは別格だ。
通常の遠見では拾いきれないほど遠方や広範囲の情報まで観測し、戦況把握や広域索敵、情報収集を専門に担っている。
前世の知識で例えるなら、 ISR部隊に近い。
いわば、王国軍の“目”そのもの。
「セレスが倒れたと聞いたときなど、本気で寿命が縮むかと思った。今すぐ駆けつけたいのに、こちらは全体指揮から動けない。報告だけを延々と聞かされ続けるあの時間は、なかなかに地獄だった」
肩をすくめるようにして笑うが、その目はまったく笑っていない。
「――気が狂いそうだった」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
そんなふうに思われていたとは、想像していなかった。
リシャールは少しだけ表情を和らげると、不意にアルチュールへと視線を向けた。
「アルチュール」
「なんだ、シャー?」
「セレスを抱き締めてもかまわないか?」
――……。
なぜ? なぜ俺ではなく、そっちに確認を取るんだ?
さっきから、俺に触れる許可権がアルチュールに移譲されていないか?
アルチュールは一瞬だけとてつもなく嫌そうな顔をしたあと、盛大に間を置いてから頷いた。
「……少しだけなら」
「ありがとう」
礼まで言った。
いや、だからなんでだ。
理解が追いつかないまま、俺は、次の瞬間にはリシャールに引き寄せられていた。
「シャー?」
思ったよりもずっと強い力で抱き締められる。
ふと、気づく。
抱き締める腕に、ごくわずかな震えが混じっていた。
外から見れば分からないほどの、ほんの微かな揺れ。
けれど、こうして密着しているからこそ分かってしまう。
「セレス……無事に戻ってきてくれて、ありがとう」
耳元で落とされた声は、驚くほど率直だった。
学院で見せる気安さとも、先ほどまで軍を率いていた王族としての顔とも違う。
もっと個人的で、まっすぐな安堵。
一瞬、言葉に詰まる。
それから小さく息を吐いて、俺も答えた。
「……ただいま、シャー」
「ああ、おかえり、セレス」
その言葉が落ちた、ほとんど直後だった。
――ォオオオオオオオオン……!
腹の底まで響くような、凄まじい遠吠え。
天幕そのものが揺れたように錯覚する。
俺を抱き締めていたリシャールが、身体を離した。
空気そのものがびりびりと震え、肌の上を見えない圧が這っていくような感覚に思わず息を呑む。
圧倒的な威圧感。
外にいた騎士たちの間にも、一瞬ざわめきが走った。
ただの咆哮ではない。
知らなければ、魔物の襲撃かと勘違いしてもおかしくない。
だが――、
遠吠えに混じるこの魔力。
「シオン……?」
思わず、その名が零れた。そのとき。
場にいた者たちの奇石が一斉に反応した。
各々の伝書使たちから、次々と報告が飛び込んでくる。
天幕の空気が、一瞬で慌ただしく変わった。
「セレスさまっ!」
聞き慣れた声が響く。
父上たちに遠慮して後方に控えていたナタンが、隠しきれない安堵と喜びが入り混じった、どこか泣きそうにも見える笑みを浮かべながら駆け寄ってきた。
「オグマからの報告です! 討伐完了、安全宣言ですよ、セレスさま!」
「討伐……、完了……」
「はい! シオンとモロー隊長たちの戦場確認が終了したそうです! 外周部も制圧完了です!」
ナタンの報告中にも、天幕の外から歓声が波のように広がっていくのが分かった。
誰かが笑い、誰かが腹の底から叫ぶ。
スタンピードが、ようやく終わったのだ。
知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
守り切れたのか。
いや、俺もみんなから守られた。
全身から一気に力が抜けそうになる。
それにしても。
さっきの遠吠えは、やはり派手すぎる。単なる討伐完了の合図ではない。
あれは、周囲一帯に残っている魔獣や魔物への威嚇も兼ねているのだろう。
まるで大地そのものに印を刻みつけるような、神獣フェンリルの領域宣言だった。
イスファルド・ルーメン・エテルニタス・グラシエルム・アウロラシオン。
……本当に、規格外だ。
心の中で、そっと感謝を送る。
「シオンはもうすぐ帰って来るだろう」
リシャールが、少しだけ表情を和らげた。
「すまないな。しばらく、セレスの使い魔を借りていた」
「いえ」
俺は、小さく首を振る。
「彼はガルディアン所属の警備補助獣シーさんでもありますから。必要なら、当然そちらが優先です」
「助かる」
リシャールが短く頷いたあと、父上が静かに一歩前へ出た。
「では殿下、私は王軍司令部の天幕へ戻ります」
落ち着いた声音だった。
「まだ処理すべき職務が残っておりますので。息子が気を失ったと聞いて駆け付けましたが――目は覚ましましたし、怪我もない。どうやら安心して預けられる相手も揃っているようですから」
その視線の先には、アルチュール、ルクレール、ロジェたち。
どこか含みのある言い方に、少しだけ気まずくなる。
「侯爵、私も後ほどそちらへ戻る」
リシャールが一度ルクレールへ視線を流し、それからわずかに口元を緩めた。
「……そこの頑固者の馬鹿に関する件も、改めて相談したい」
父上はほんの一瞬、口角を持ち上げて一礼し、そのまま出口へ向かいかけた。
……が、不意に足を止めた。
「ああ、そうだ」
くるり、と振り返る。
「アルチュールくん」
「えっ――は、はい!」
突然名指しされ、アルチュールの声がわずかに裏返る。
……可愛い。
父上は穏やかな微笑みを浮かべたまま、さらりと言った。
「私も、セレスタンを抱き締めてもよろしいかな?」
「…………」
アルチュールが硬直した。
明らかに頭の中で何かを高速処理している顔だ。
ごく普通に許可すべきか。
だが相手は父親だ。
しかし今さらここで自分が判断するのもおかしいのではないか。
そんな思考が透けて見えるくらい、分かりやすく混乱していた。
見かねて、俺は小さく息を吐く。
「失礼します、父上」
自分から一歩踏み出し、そのまま父上の腕の中へ飛び込んだ。
逞しい腕が、俺をしっかりと抱き留める。
それは、元のセレスタンと俺の記憶が混じったその奥に、大切に保管されていた懐かしくて落ち着く体温だった。
「父上、ご報告が遅れ、申し訳ございません」
胸元に顔を寄せたまま告げる。
「セレスタン・ギレヌ・コルベール、ただいま戻りました」
「……うむ」
低い声が頭上から落ちる。
しばしの沈黙。
「私の指示を聞かず、勝手に参戦した件については、後ほど話を聞こう」
「……申し訳ございません」
素直に謝る。
すると横から、
「今回の件は、私の判断でもございます」
ガエが一歩前へ出て、深く頭を垂れた。
それに続くように、私設騎士団の面々も一斉に膝を折る。
「申し訳ございませんでした」
父上は静かに彼らを見渡した。
その眼差しは厳しく、場の空気がわずかに引き締まる。
「本来であれば、命令違反は看過できるものではない。独断行動は時として全体を危険に晒す。今後はより慎重に判断しなさい」
淡々と告げる声に、誰も顔を上げない。
「はっ」
短い返答が重なる。
そして、父上は、ほんのわずかに声音を和らげた。
「……だが」
全員が息を呑む。
「よくやった――此度の働き、コルベールの名に恥じぬもの」
そのまま、父上の手が、俺の頭にそっと置かれる。
「セレス」
優しく名を呼ばれ、顔を上げる。
「お前を誇りに思う」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
……危ない。これ以上は本当にまた泣きそうだ。俺の涙腺、どうなったんだ?
父上はそんなこちらの様子に気づいているのかいないのか、ふっと表情を和らげたあと、不意に視線を横へ移した。
「ああ、そうだ。もう一つ」
向けられた先にいたナタンが、静かに姿勢を整える。無駄のない所作で一礼するその動きは、相変わらず妙に洗練されていた。
「ナタン」
「はい、公爵様」
「此度のスタンピードにおいて、トレモイユ家が担った兵站、物資調達、武具供給その他の後方支援は極めて優秀」
一瞬、場が静まり返った。
「その功績により、トレモイユ家は男爵家から子爵家へ昇格となる見込みだ」
ナタンが目を見開く。
「……身に余る光栄にございます」
だが声音は崩れず、優雅に礼を返した。
「加えて」
父上は続けた。
「お前個人にも、別途爵位授与の話が持ち上がっている。空位となる男爵位が、お前個人に与えられるだろう」
「……え?」
さすがのナタンも、今度ばかりは間の抜けた声を漏らした。
「以前より、いくつかの家からお前の功績を正式に評価したいとの打診は届いていた。そして今回、ここのガルニエ伯より、先ほど、貢献に対する謝意として、一部領地を添えて迎えたいとの申し出が来た」
「ガルニエ伯が……?」
ナタンが珍しく本気で困惑した顔をする。
あのヴァロンタンのことだ。
実家で学院生活について語るついでに、ナタンの優秀さも延々と吹き込んでいたに違いない。ヴァロンタンの父、ガルニエ伯爵が興味を持つのも理解できる。
父上はわずかに口元を和らげた。
「私は以前より、お前を単なるセレスの侍従として扱った覚えはない。半ば、もう一人の息子のように見守って来た」
ナタンが、息を呑む気配がした。
「だが、ここから先は政治の話になる」
穏やかな声音のまま、父上は続ける。
「お前ほどの才覚を、他家が放っておくはずがない。最終的な判断はお前自身に委ねるが、だが――私は、お前をそう簡単に手放すつもりがないことだけは、知っておいてほしい」
一瞬の沈黙。
それからナタンは、いつになく静かに膝を折った。
「……過分なお言葉、恐悦至極にございます」
深く下げた頭越しに見える耳が、ほんのり赤い。
たぶん、照れている。
……珍しいものを見た。
「さて、本当にそろそろ行かなければならない」
父上は小さく息を吐き、今度こそ踵を返した。
そのまま出口へ向かうかと思ったが、ルクレールとすれ違いざま、不意に足を止める。
そして、おもむろに彼の肩を軽く叩いた。
「ヴァロア殿」
名を呼ばれ、ルクレールが静かに視線を向ける。
「先ほど、私は“不必要な処分が下されることのないよう尽力する”と申し上げた」
「……はい」
「そして君は、その申し出だけで十分だと言った」
「……その通りです」
父上はわずかに表情を和らげた。
「だが、息子の恩人に対して、私がその程度で満足すると思わないでいただきたい」
「……」
「規律は規律。君の判断も理解でるが、それとこれとは別問題だ」
父上の声は穏やかだった。
淡々と、しかし揺るぎなく言い切る。
「私は、私にできる範囲で最善を尽くす」
ルクレールの理屈も矜持も否定せず、その上から静かに押し切るような、それはまるで、宣言だった。
「この件については、少しだけ周囲に任せていただく」
「……侯爵」
珍しく、ルクレールが言葉を失っている。
父上はそれ以上なにも言わず、肩から手を離した。
「では、失礼する。――殿下、またあとで」
「ああ。後ほど向かう」
リシャールが短く頷くと、父上は一礼し、今度こそ布幕の外へと姿を消した。
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