中学生活のスタート ――新たなる壁と独自の生存戦略
四月になって、桜の花も満開となるころ、中学校の入学式があった。入学式当日、私は先輩からふたたび借りた制服に身を包み、新しく買ってもらった(交換会にはなかったため、これだけは母が無理をして新品を買ってくれた)中学校指定の真っ白な運動靴を履いて出席した。
小学校の卒業式の時にも着ているが、普段着慣れない長袖長ズボンの制服が持つ、暖かさをしみじみと実感した。だが、それと同時に、手首や足首の素肌に生地が触れる感覚がどうにもむずむずして、落ち着かなかった。
式自体は、体育館のパイプ椅子に座っている時間が大半で、大勢の新入生の中に紛れていたため、私が借り物の制服を着ていることに気づく者はいなかった。
そして入学式の翌日から、私の「中学校・半袖半ズボン編」が本格的に幕を開けた。
登校初日の朝、私は新しく手に入れた、少し大きめの中学校の半袖半ズボン体操服に袖を通した。そして、この日からもう一つ、私のスタイルに変化があった。母からの強い、涙ながらの説得によって、「靴下を履く」ことに同意したのだ。
「〇〇、お願いだから靴下だけは履いて。素足のまま運動靴を履き続けると、靴の中に汗や泥が溜まって、すぐに生地が傷んで破れてしまうのよ。新しい靴を何度も買うお金は、うちにはないの。靴を長持ちさせるためだと思って、お願いね。」
靴を長持ちさせるため、という経済的な理由を出されては、私も拒絶するわけにはいかなかった。こうして私は、「上半身は素肌に半袖、下半身は半ズボン、足元だけは白靴下に運動靴」という、独特のスタイルを完成させた。
クラスの男子の大半は学ラン、女子はセーラー服。数人が冬用の長袖長ズボンのジャージを着て机に向かう中、教室内で半袖半ズボン姿の男は、当然ながら私一人だけだった。他校から進学してきた生徒たちからは、最初は奇異の目で見られたが、同じ小学校出身の友人たちが「あいつは小学校の時からずっとこれだから」と説明すると、数日のうちに誰も何も言わなくなった。中学校の先生たちも、小学校からの引き継ぎ資料で私の家庭事情を把握していたようで、服装について注意されることは一度もなかった。校則の隙間を突いた、完全なる「合法」の勝利だった。
しかし、中学校生活には、小学生時代にはなかった新たな「費用の壁」が次々と立ちはだかった。
その最たるものが「部活動」だった。中学校では全員が何らかの部活に所属することが半ば義務付けられていた。
母は「〇〇、部活動の道具くらいはお金を出してあげるから、自分の好きなところに入りなさい」と言ってくれたが、私のケチ根性、いや、家庭をこれ以上圧迫したくないという防衛本能がそれを許さなかった。
野球部や卓球部は、グローブやラケットなどの個人道具が必須だから論外。陸上部やサッカー部なら、最初は体操服のまま走ればいいから道具はいらないかと考えたが、調べると大会に出場する際の「専用のユニフォーム」を個人で購入しなければならないことが分かった。吹奏楽部や美術部、演劇部などの文化部も、それぞれ独自の教材費や消耗品代、あるいは遠征費がかかる。
行き詰まった私が最終的に見つけた楽園が、「囲碁・将棋部」だった。
部室にある碁盤や将棋盤、駒はすべて学校の備品であり、個人で購入しなければならない道具は一つもなかった。普段の活動も、自分が毎日着ている学校の体操服のままで全く問題ない。大会に出場するとなれば交通費がかかるが、我が囲碁・将棋部は決して強豪とは言えず、せいぜい市内の地区予選で一回戦か二回戦で敗退する程度だったため、遠くの県外へ遠征するような費用の心配もなかった。私は迷わず、囲碁・将棋部の部室の扉を叩いた。
さらに、私にとって最も深刻な変化は「昼食」だった。
小学校時代、私の最大の栄養源であり、合法的な大食いの場であった「給食」が、中学校にはなかったのだ。当時は、毎日自宅から弁当を持参しなければならなかった。
これは我が家にとって死活問題だった。食材が底をつきかけている中、母は毎朝、信じられないほどのアイデアと努力で弁当箱を埋めてくれた。見た目は非常に綺麗で、クラスの友達と机を並べて食べても、貧乏であることが一目でバレるような恥ずかしい見栄えでは決してなかった。しかし、詰められている中身の「絶対的な量」の少なさだけは、どうすることもできなかった。
小学校の給食のように、食缶の前に並んで大盛りのおかわりを貪ることはもうできない。身体が急激に大きくなり、消費カロリーが増大していく中、私は毎日の昼食の時間が終わるたびに、満たされない激しい空腹感に苛まれることになった。
(せめて、毎日激しく動き回る運動部に入らなくて本当に良かった……)
部室の片隅で将棋の駒を動かしながら、私は自分の胃袋の音を必死にかき消していた。




