決戦の朝 ――地域の温もりと掴み取った合格
二月上旬の入試当日。
その日の朝も、私はいつもと全く同じように午前四時に起き、暗闇の街へと朝刊の配達に飛び出した。二月の朝は痛いほどの寒さだったが、緊張のせいか、冷気すら心地よく感じられた。
順調に最後の三十軒目の家に新聞を配り終えた時、いつもならまだ寝静まっているはずのその家の玄関に、早くから電気が点いていることに気づいた。 カチャリ、と引き戸が開き、中から白髪の奥さんが出てきた。手には、小さな白い包みが握られていた。
「配達のお兄さん、待ってたよ。今日は高校の受験日だよね?」
私は驚いて足を止めた。
「近所の噂でね、毎日半袖で走ってる偉い新聞配達の男の子が、今度一番難しい高校を受けるって聞いたの。まだ暗い中を毎日頑張ってるお兄さんなら、神様が絶対に守ってくれる。これ、近くの天満宮で買ってきたお守り。持って行って、頑張ってね」
奥さんは私の冷え切った両手を包み込むようにして、温かいお守りを握らせてくれた。暗く寒い真冬の早朝、起きて私の配達を待っていてくれたのだ。真冬の街で有名だった私の半袖半ズボン。それは時に好奇の目に晒されることもあったが、同時に、地域の大人たちが私の「努力」をずっと静かに見守り、応援してくれていた証でもあったのだ。五年間の辛かった新聞配達のすべての苦労が、その奥さんの手の温もりによって、一瞬で報われたような気がした。私は溢れ出そうになる涙を必死にこらえ、何度も何度も頭を下げてお礼を言い、決戦の地へと向かった。
入試会場である県立高校の校門前には、私の中学校の担任の先生が立って受験生を激励していた。私の姿を見つけると、先生はガシッと私の肩を掴んだ。
「いつも通りな、〇〇。行ってこい!」
周りの受験生たちは、全員が各中学校の立派な学ランや制服、あるいは暖かそうな厚手の私服コートに身を包んでいた。その中で、少し動くだけでへそが見えるぴちぴちの白い中学校体操服、下は短い半ズボンに白靴下という格好の人間は、当然ながら私一人だけだった。
暖房の効いた教室に入ると、周囲の知らない受験生たちから、一斉に好奇と困惑の視線が突き刺さるのが分かった。恥ずかしさがなかったと言えば嘘になる。だが、私の胸の中には、今朝受け取ったお守りの温もりと、小学校の恩師の言葉、親友のあの姿、そして先輩の参考書があった。
(見たいなら、いくらでも見ればいい。僕は泥棒もせず、自分の力でここまで来たんだ。服の良し悪しで、人間の価値が決まるわけじゃない!)
そう心の中で強く念じると、視線など全く気にならなくなった。試験開始のチャイムが鳴ると同時に、私は無我夢中で鉛筆を走らせた。手応えは、悪くはなかった。しかし、完全に合格を確信できるほど甘い試験でもなかった。
合格発表までの十日間は、人生で最も長い十日間に感じられた。受験勉強という大きなタスクが終わったため、私は朝夕の新聞配達をこなしながら、残りの時間は友達と遊んだり、先生方に無事受験を終えた報告をしたりして過ごした。
そして運命の合格発表日。晴れているものの、北風が強く吹く寒い朝だった。 朝刊の配達を終え、家で簡単な朝食を済ませた私は、一人で高校の掲示板へと向かった。母は「一緒についていく」と言ってくれたが、万が一「不合格」だった場合の母の絶望する顔を、隣で見るのだけは耐えられなかった。だから頑なに一人で行くと張り切った。
午前十時ちょうど。高校のロータリーにある大きな掲示板に、白い布で覆われていた合格者の番号が一斉に張り出された。
周囲の受験生たちが歓声と悲鳴を上げる中、私は人混みの後ろから、静かに掲示板を見上げた。
探す必要すらなかった。
自分の受験番号が、飛び込んでくるように真っ先に目に飛び込んできた。手元の受験票の数字と、掲示板の数字を、何度も、何度も見比べる。間違いなかった。
(合格だ……。僕、受かったんだ……!)
その瞬間、身体の芯から熱い塊が込み上げてきた。近くにいた中学校の同じクラスの友人も合格しており、お互いに顔を見合わせて、言葉にならない喜びを爆発させて肩を叩き合った。
私は高校を飛び出し、凍てつく道を我が家に向かって全力で走った。
家の近くまで来ると、母が玄関の外に立ち、寒さに震えながら私の帰りを待っているのが見えた。走ってくる私の表情を見ただけで、母はすべてを察したのだろう。
「〇〇……!」
母の元へ駆け寄ると、母は私の泥だらけの体操服の肩を強く抱きしめ、大声を上げて泣いた。
「よかった……本当によかった……! よく頑張ったねぇ、〇〇!」
母の涙が、私の剥き出しの鎖骨にこぼれて熱かった。その日の午後、学校へ合格の報告に行くと、職員室の先生たちが拍手で迎えてくれた。あの担任の先生も、我がことのように喜んでくれた。
その日の夜、我が家では小さな、しかし確かなお祝いの夕食が開かれた。
並べられた料理の食材自体は、いつも通りの安い豆腐やモヤシ、少しのひき肉だったが、母の魔法のような料理の腕によって、それはまるで高級料亭のご馳走のように華やかに食卓を彩っていた。珍しく仕事から早く帰ってきた父も、嬉しそうに私の頭を何度も撫で回した。家族全員の笑顔が、小さな居間に溢れていた。




