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嚥下

 もう黒板は目の前にあった。僕の前で数人の生徒が先生との問答を終え、ついに僕の番が回ってきた。

「すみません、先生。」

凛とした涼しげな声ではい、と先生は答えた。

「あの、この「蛇足」って、どういう意味ですか。」

僕は手元の原稿用紙に視線を落とした後、先生の顔を見上げながら口を開いた。

「すみません。あまり内容を覚えていないので、作文を見せてもらってもいいですか?」

先生はこめかみのあたりを搔きながら照れくさそうに答える。僕は「蛇足」という言葉の意味を教えてもらえればそれで満足なのだが、先生の厚意だと思って原稿用紙を手渡した。

「...あー。」

先生の黒目がアメンボのように素早く動き、三十秒も経たないうちに「ありがとうございました。」とお礼を言いながら、原稿用紙を返してくれた。しかし、何かを躊躇っているのか。先生は神妙な面持ちで、数秒の間、虚空を見つめていた。

「はい。では、質問に答えますね。」

ほどなくして、先生の目に生気が戻り、依然とした口調で話を始めた。

「蛇足とは、完成した蛇の絵に足を付け足したことで、その絵が妙な物に変わってしまったという失敗談から生まれた言葉です。要するに、付け足す必要のなかった物、余計な物、という意味があります。つまり、君の作文は、この原稿用紙に書く必要が無いということです。」

「....。」

 僕はすぐに返事をしなかった。先生の顔を見て、何度か瞬きをして。確かな意識を持って、大きく息を吸った。それは呆然としていたわけではなく、先生の話が聞こえていなかったわけでもない。ただ、これまでの経験則から「間」が必要な場面だという直感が働いたが故の行動だった。


「それは、どうしてですか?」

真剣みの溢れる毅然とした態度で。かつ、落ち着いた口調で僕は質問した。こういう時は口答えをしないのが正解だということはわかっていたが、出来なかった。学校は、そういう場所だった。


「自分で考えなさい!」

 

 先生は普段から温厚で、決して怒鳴らない。だが、厳重な注意が必要な場合には、それ相応の態度で指導に臨む。語気を強めたり、非難したり。子供にも容赦なく、厳しい言葉を掛ける先生だった。でも、オンとオフがしっかりしているとか。子供に甘くないとか。指導の重要性がわかっているとか。そういう一面があるとか。先生はそういう人間ではなかった。

 いつ、どこを見ても。何を聞いても。先生は、先生だった。先生は、片時も「先生」を崩さなかった。だから、誰も反抗しなかった。


 そんな先生が、吠えた。語気を強め、荒々しい口調で言い放った。微かに乱れた呼吸と、軽蔑を孕んだ乾いた視線が、それが偽りの言葉ではないことをありありと示した。教室も。廊下も。まるで時が止まってしまったように、静まり返っていた。茹る(ゆだる)熱気と、二十あまりの奇異の視線が、僕の輪郭をもみくちゃにした。

「わかりました。ありがとうございました。」

僕は深々と頭を下げる。だが、先生は見向きもしなかった。

「いえ。では、次の人。どうぞ。」

先生は、いつも通りの凛とした口調に戻っていた。その十秒後には、周囲の雰囲気は元に戻っていた。その数十秒後、僕は静かに教室を抜け出した。


 緑の混じった影に包まれた裏門を抜け、住宅街の昏い細道を進む。そのまま駅前の陸橋を渡って、田舎町にしては建造物が多く、賑やかな喧噪を進んでいく。そのまましばらく進むと、ガードレールの軽トラ一台分くらいの隙間から延びるあぜ道が見えてくる。そこを直進して対岸に到着すると、森に接する道路に出る。おあいにく様。陰になっているのは、左側の車線だった。

 生垣に左右を挟まれた脇道から、見慣れた住宅街へと足を踏み入れる。視界の端には、やけに背の高いアパートが一棟だけ立っている。

 そこが僕の目的地で、目的地はもう目の前だった。

 だが、実はここからが一番長い。実際の距離は、多分一キロもないくらい。ここまでの道のりと比べても、相当短いはず。だが、何度通学しても、ここからが一番長いと感じる。よって原因は、精神的な何かなのだろうが、それが味気ない景色のせいなのか、ここが疲労を知覚するタイミングなのかは、定かではない。加えて、今日は猛暑日だった。おそらくだが、現在時刻は十六時半過ぎ。まだ日も高く、凄まじい熱気が周囲に満ちていた。

 アスファルトの照り返しが顔をジリジリと約き、滴る汗が足跡を残す。季節の影響だが、肉体的にもここからが一番しんどいと思った。


「でも、ここから、もう、ひと踏ん張り!頑張ろう!」

わざとらしく声を出し、必要以上に足を前に出す。しんどい時、僕はいつもこうする。小さい頃は何も言わない方が楽だと思っていたが、テレビで見た黒くて暑苦しい人の真似をしてみたら、案外悪くないことに気が付いた。

 誰に言われるよりも、自分に言われるのが一番納得できるし、無理矢理振り絞るわけでもないのに、身体に力が湧いた。弱い自分を、強い自分が鼓舞してくれているような、そんな気がした。

「大丈夫。大丈夫。」

だから、大丈夫。無条件に、そう信じられた。



 アパートの階段を上がって、二階の廊下を進む。周囲に同程度の高さの建造物も無く、強い日差しが降り注いでいた。

 最後まで暑苦しい通学路の終着点に立ち、リュックサックのファスナーに括り付けた鍵を探す。手探りでガサガサしていると、カギに着けたストラップが指先に触れる。それを辿ると目的の鍵にありつけた。鉄製の鍵は相応に熱くなっていたが、もう気にしていられず、速攻で鍵穴にぶち込んだ。

 

 中に入ると、いつも通りに仄暗い空間が広がっていた。カーテンを閉め切っているから当然だが。そのまま灯りは付けず、リビングの右側の壁に付いているドアを開ける。しかし、部屋には入らず、隙間からリュックサックを床に置いた。僕はそのまま脱衣所に向かい、最高のぬるいシャワーを浴びた。


 ドライヤーで髪を乾かし、リビングを抜けて自室に向かう。ドアノブを回し、部屋に入るとカーテンまで締め切られた部屋はジメジメと蒸し暑かった。すかさずカーテンを開け、窓も開け放つ。すると、新鮮な空気が部屋を包み。微かに涼しくなった。ただ、それでもクソ暑かったので、エアコンを点けた。


「さて。」

 部屋の中央に置いてある座布団の上で胡坐をかき、リュックの中からA3サイズのプラケースを取り出す。パキパキと二つのストッパーを外して、その中から原稿用紙の束を取り出し、ちゃぶ台サイズの小さめな長方形の机にそっと置いた。

「読むか。」

掠れた声で、小さく呟く。作文の返却の話題が出た当初は、これを読むつもりはなかった。これを書いた時に何度も読み返したし、決して面白い物でもない。ただ、どうせ読むんだろうなとか、そんなありきたりなことを考えていた。先生の感想が添付されていると聞いたときは、せっかくなら、それと合わせて読んでみるのもいいな、と少しわくわくしていた。でも、そうはなっていない。

 

 一体何が、先生の逆鱗に触れたのか。正直に言えば、全く心当たりがない。可能なら、これを読めばわかることであってほしいが、どうだろうか。

 そう願いながら、机の上の原稿用紙を手に取る。付箋をそっと剝がして、それを机の適当なところに軽く押しあてた。

 

 まずは、原稿用紙の一行目、作文の題名へ焦点を合わせる。題名を目視しただけで怒られた原因が分かれば、苦労はしない。正直飛ばしてしまっても構わないのだろうが、そういうものだと既に本能に刻まれてしまっているので、見ないわけにもいかない。万が一にも、大きなミスがあったとしても、それは誤字脱字程度のものだろう。

 しかし、それが先生の逆鱗に触れたとは考えにくい。先生はミスや失敗をあまり咎めないからだ。同じようなミスが続いたときも、小言を言われる程度だった。逆に、先生が何かを咎めるときは、式典中の粗相や、外部講師の話を聞かない。クラスの調和を著しく乱す行為や、いじめに通じる言動など、決まって社会通念上看過できないような出来事が起きたときだった。

 

じゃあ、やっぱり題名飛ばしてもよくね?

ついでに、名前も飛ばそうかな。

 

 そんな考えが脳裏をよぎるが、しかし、既に焦点は題名に合わせられている。僕の目は、既に文字を認識している。だが、それを無駄骨だったと思うほどケチでもないし、別にどうだっていいことだと....

「あれ?」

瞬間。悪寒が全身を走った。妙な違和感に胸騒ぎを覚え、思わず僕は目を擦った。


 それは、僕の考えた題名だった。二行目には、確かに僕の名前が書かれていた。三行目から始まる本文の書き出しは、まったく見覚えのないものだった。その後も、紙の束の中に、僕の書いた文字は一つも無かった。

「そういうことか。」

原稿用紙をその辺に放り投げた。

「そりゃ、先生も怒るよなぁ。」

肩の力が抜けて、俺は後ろに倒れ込んだ。天井を仰ぎ見るが、ピントが合わず、ぼんやりとした世界を見つめる。先生の言う通りだった、これは「蛇足」だった。

 

 その声は、姦しく。脳裏の髄でぬるりと蠢いた。


 おもむろに。俺は捨てた原稿用紙を手に取った。そして、鉄製のクリップを放り捨て、それを力いっぱいに丸めた。やがて、くしゃくしゃになった原稿用紙は、拳より少し小さいくらいの球へと姿を変えた。

歪に折り重なったそれは、高密度でかなりの硬度を持っていた。試しに何度か真上に投げてみて、自分でキャッチする。それはまさしく、ボールであった。

「あー。」

エサを待つ雛鳥のように、首を上に引き伸ばして口を開け放つ。そして、左手の親指、人差し指、中指の三本で鷲掴みにした球を、そのまま口に突っ込んだ。口から手を抜いた俺は、無意識に口を閉じようとした。だが、それは叶わなかった。

 首の筋が張りつめた弓のように強張っていて、下顎のあたりに途轍もないテンションが掛かっている。顎の可動域の限界寸前の挙動が、口いっぱいに詰まった球によって強制的に維持されていた。

 生まれて初めて、俺は顎が外れるかもしれない危機感を覚えた。焦燥感に駆られ、俺は慌てて咀嚼を試みた。すると、折り重なった紙の角が、舌や口内のあちこちに突き刺さり、肉が引き裂かれるような鈍い痛みが走る。

 痛みに怯んで顎の力を緩めたが、それではどうにもならないことを察した俺は、覚悟を決めて球を噛み潰した。玉は僅かに縮んで、俺は窮地を脱した。

 

 それから数十秒が経過した。だが、依然として構内は混沌としている。明確に食べ物ではない舌がヒリつくような「味」と言っていいのかわからない感覚と、明瞭な鉄の味と。生臭い血の香り。唾液を吸って千切れた紙片で、口の中はぐちょぐちょしていた。身体が警告を発しているような異物感が、自然と涙を零れさせた。飲み込んだ紙片が喉の浅いところに貼りついたときは、思わず全てをぶちまけそうになった。でも、俺はやめなかった。

 ここでやめたら、俺は耐えられないと思った。


 その後、数分間の格闘を経て、球は小ぶりのジャガイモくらいまで削り取られた。そして、意図せず飴玉を吞み込んでしまった時のように、(はく)は喉を酷使し、それを奥へ押し込んだ。


「ごちそうさま。」


 顎や首の鈍い痛み。口の中の鋭い痛み。紙や鉄のヒリつく味。唾液と血の生臭い匂い。吐き気を催す喉の異物感も、普段であれば最悪だと思える感覚がまだ十分に残っていた。しかし、(はく)の心は、苛立ちや後悔の念を、まるで感じていなかった。途轍もない達成感が全身を包み、今なら空だって飛べると錯覚するほど。身体は綿のように軽かった。

 

 球を飲み込んだ瞬間。胸につっかえていた正体不明の何か。それだけが、どこかへ消え去っていた。何かに溶けたのか。何かに隠れているのか。それとも、自分の目が何かに覆われてしまったのか。それは、白にとって些末な事だった。それを消し去るために、白は球を飲み込んだのだ。


 球を飲み込んだ(はく)は、猛烈な疲労感と、抗えない眠気に襲われた。しかし、(はく)は一度リビングに戻り、口の中を念入りにゆすいでから、コップ一杯の水道水を一気に飲み干した。そして、再び自室に戻り、座布団を枕代わりにして床に寝転んだ。白は数秒の間にまどろみの淵へと落ちていった。物心がついてからは初めての、昼寝だった。


後日。

(はく)は猛烈な腹痛を訴え、学校を休んだ。

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