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第98話 黒い扉に、嬉しかった名前を届ける

 その夜の相談室は、いつもより少しだけ明るかった。


 灯りを増やしたわけではない。


 むしろ、ランプの数はいつもと同じだ。


 けれど、机の上に置かれた記録用紙が、妙に温かく見えた。


 ――名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 そこには、みんなの言葉が並んでいる。


 リリア。


 役目だけではない自分を思い出すこと。


 セリカさん。


 役目ではなく、自分ごと信じられていると感じること。


 ノエル。


 機能ではなく、個人として見られ、必要なら止めてもらえること。


 ユリアナ先輩。


 役職の机から離れ、同じ部屋に座れること。


 アイリス。


 冷たい役割の奥にいる自分を見つけてもらえること。


 ミュレア。


 恐れられる肩書きの前に、自分がまだいると確認できること。


 アリシア様。


 立場を失わずに、個人も消えないこと。


 そして、俺。


 消えそうな時に戻る場所があること。


 それぞれ違う。


 けれど、どれも「名前が嬉しかった記憶」だった。


 黒い扉の声は言った。


 喜びとは何だ、と。


 その問いに、俺一人では答えられなかった。


 だから、みんなで答えを集めた。


 完璧な答えではない。


 未定の答えだ。


 でも、今の俺たちが持てる、いちばん正直な答えだった。


「レン」


 リリアが声をかけた。


「はい」


「今夜は、無理にすべてを伝えようとしなくて大丈夫です」


「はい」


「扉の声が拒んだら、止まってください」


「分かっています」


 リリアは少しだけ不安そうに俺を見る。


 前より、リリアは心配を隠さなくなった。


 それは俺にとって、少し嬉しい変化だった。


 心配されるのは申し訳ない。


 でも、隠されるよりずっといい。


 セリカさんは木剣を俺の枕元に置いた。


「今回も、握れる位置」


「はい」


「夢の中で踏み込みすぎたら、戻る。いい?」


「はい」


「返事はいいのよ、返事は」


「行動で示します」


「よし」


 ノエルは、夢干渉補助具を調整していた。


 昨夜の反省から、今日は無理をしない範囲で調整したらしい。


 リリア監視下で。


「今回の補助具は、記憶転送じゃない」


「記憶転送って言われると怖いですね」


「うん。だから違う」


 ノエルは真顔で言った。


「レンが夢の中で、記録した言葉を思い出しやすくするだけ。みんなの声も少し届く可能性がある」


「ありがとうございます」


「ただし、負荷が上がったら中断」


「分かっています」


 ユリアナ先輩は記録用紙を丁寧に封印紙で包んだ。


「夢へ持ち込むのは現物ではありません。レン様の記憶と名称固定リンクを通じた共有印象です。無理に全てを再現する必要はありません」


「つまり、気持ちを持っていけばいいと」


「簡単に言えば、そうです」


「その簡単な言い方でお願いします」


「制度上は正確性も必要ですので」


 やはりユリアナ先輩はユリアナ先輩だった。


 アイリスは窓際に立ち、今日も小さな氷結界を張っている。


 ただ、今夜の氷は少し違った。


 白銀の盾の縁に、淡く光る細い線がある。


「今日は、結界の一部に戻り道を作りました」


「戻り道?」


「夢から意識が戻る時、名前確認の反応を拾いやすいようにしています。成功するかは未定ですが」


「ありがとうございます、アイリス」


「守護氷結の訓練です」


 いつもの返しだ。


 でも、俺が微笑むと、アイリスは少しだけ視線を逸らした。


 ミュレアの通信水晶が光る。


『レン。喜びを届けると言っても、押しつけるでないぞ』


「はい」


『喜べ、などと命じられるほど不快なものはないからな』


「それは、かなり分かります」


『うむ。名で傷ついた者に、名で喜べと迫れば、ただの暴力じゃ。そなたは記憶を置いてくればよい。受け取るかは向こうの未定じゃ』


「向こうの未定」


『そうじゃ。便利じゃろう』


 便利すぎる。


 アリシア様の声も届いた。


『王宮結界も、今夜は受信寄りに調整しています。レン様が危険域に入れば遮断しますが、それまでは対話の余地を残します』


「ありがとうございます、アリシア様」


『どうか、ご無事で』


「はい」


 俺はベッドに入る前に、机の上の確認票へ触れた。


「レン・クロフォード」


 名前はある。


 才能名は未定。


 無名ではない。


 そして、今夜届けるものがある。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 それは、黒い扉の向こうへ持っていく小さな灯だった。


     ◇


 夢の中で、俺は白い野原に立っていた。


 空は曇っている。


 足元には草があるはずなのに、触れる感触はない。


 風は吹いている。


 けれど、音がない。


 遠くに、黒い扉があった。


 前回までのような石の回廊ではない。


 学園の相談室でもない。


 ただ何もない野原の真ん中に、扉だけが立っている。


 俺はまず、自分の名前を確認した。


「レン・クロフォード」


 声は届いた。


 胸の奥で、細い光が灯る。


 才能名は未定。


 でも、俺はここにいる。


 扉が少しだけ開いた。


 灰色の光が漏れる。


 向こう側から、声がした。


 ――レン・クロフォード。


「はい」


 前より、呼び方が少し滑らかになっている。


 そのことに気づいて、俺は胸の奥が少し温かくなった。


 けれど、油断はしない。


「来ました」


 ――喜び。


「はい。約束したので」


 扉の隙間が少し広がった。


 灰色の存在が見える。


 顔はない。


 でも、前より輪郭がはっきりしている。


 周囲には、黒く塗りつぶされた名前札が浮かんでいる。


 それはまだ、痛みの記憶のように見えた。


 ――見せよ。


「押しつけるつもりはありません」


 俺は最初に言った。


「嫌なら止めます。見たくなければ見なくていい」


 扉の声は黙った。


 それから、小さく言う。


 ――見たい。


 その声は、とても細かった。


 怒りでも命令でもない。


 知りたい、に近かった。


 俺は深呼吸した。


 まず、リリアの記憶を思い出す。


 聖女候補でもなく、器でもなく、リリア。


 白い光の中で、彼女が少し驚いたように顔を上げる。


 名前を呼ばれて、自分が役目だけではないと思い出す感覚。


 その記憶を、言葉ではなく、灯のように扉へ向けて置いた。


 白い光が野原に広がる。


 扉の声が、びくりと震えた。


 ――役目ではない。


「はい」


 リリアの声が、遠くから聞こえた気がした。


 レン。


 その声は、夢の外から届いたのか、俺の記憶なのか分からない。


 でも、確かに温かかった。


 扉の灰色の存在が、その白い光を避けようとする。


 しかし、完全には目を逸らさない。


 次に、セリカさんの記憶。


 赤髪の剣士ではなく、セリカ。


 戦いの中で名前を呼ばれ、剣だけではなく自分ごと信じられていると感じた瞬間。


 赤い光が走る。


 剣筋ではなく、呼びかけの光。


 ――役目ではなく、自分ごと。


 扉の声が繰り返す。


「はい」


 灰色の存在の周囲に浮かんでいた名前札の一枚が、少し揺れた。


 次はノエル。


 変人研究者ではなく、ノエル。


 機能ではなく、個人として見られ、必要なら止めてもらえること。


 記録板を抱えた小さな影が、少し不満そうにしながらも、休んでいいと言われて目を伏せる。


 青い光が置かれる。


 ――止めることも、名。


「そうだと思います」


 俺は答えた。


「名前で呼ぶことは、進めることだけじゃない。止まっていいと言うことにもなる」


 扉の声は長く沈黙した。


 ユリアナ先輩の記憶。


 生徒会長ではなく、ユリアナ先輩。


 役職の机から離れ、同じ部屋に座れること。


 整った記録用紙と、少しだけ緩んだ表情。


 金色に近い穏やかな光が、野原に重なる。


 ――机から離れる。


「はい。役職から少し離れても、消えない」


 アイリスの記憶。


 ここで、扉の声の反応が明らかに変わった。


 冷血魔女ではなく、アイリス。


 氷だけではなく、迷い、悔しさ、守りたい心まで含めて、アイリスと呼ばれた記憶。


 白銀の光が、静かに扉の前へ広がる。


 灰色の存在が大きく震えた。


 ――冷たい名。


 声がかすれる。


 ――奥に、いる。


「はい」


 俺は静かに言った。


「冷たい役割の奥に、自分がいる」


 アイリスの氷盾が、夢の中に浮かんだ。


 それは攻撃ではない。


 守るための盾だった。


 扉の向こうの存在は、その氷をしばらく見ていた。


 拒絶しなかった。


 ミュレアの記憶。


 恐れられる肩書きの前に、ミュレアとして呼ばれること。


 黒紫の光が、少し高慢に、けれど温かく揺れる。


 ――恐れの前。


「自分がまだいると確認できること」


 アリシア様の記憶。


 王女という立場を失わずに、アリシアという個人も消えないこと。


 淡い王宮結界の光が、野原の上に優しく広がる。


 ――立場と、個人。


「どちらかを消すのではなく、両方残る呼び方もある」


 そして、俺の記憶。


 黒い扉の前で、俺が消えそうになった時。


 リリアが呼んだ。


 セリカさんが呼んだ。


 ノエルが呼んだ。


 ユリアナ先輩が呼んだ。


 アイリスが呼んだ。


 ミュレアが呼んだ。


 アリシア様が呼んだ。


 レン。


 レン・クロフォード。


 名前が何度も重なり、俺を戻してくれた。


 その記憶を、最後に置いた。


 野原にいくつもの灯がともる。


 白。

 赤。

 青。

 金。

 白銀。

 黒紫。

 淡い王宮の光。


 そして、未定の色をした俺の光。


 扉の声は、それを見ていた。


 長い時間。


 本当に長い時間。


 やがて、声がした。


 ――名は、傷だけではない。


 俺は息を止めた。


 扉の声が、自分で言った。


 名は傷だけではない。


「はい」


 俺は静かに答えた。


「傷になることはある。でも、それだけじゃない」


 灰色の存在の輪郭が揺れる。


 黒く塗りつぶされた名前札のうち、一枚の端が少しだけ白くなった。


 しかし、次の瞬間。


 扉の奥から強い風が吹いた。


 灯が揺れる。


 灰色の存在の声が、急に鋭くなる。


 ――なら、傷つけた名はどうなる。


 空気が変わった。


 野原の光が一瞬で冷える。


 ――失敗の名は。


 ――罪の名は。


 ――蔑みの名は。


 ――役割に潰された名は。


 ――呼ばれるたび血が出る名は。


 黒い名前札が、また周囲に浮かび上がる。


 ひとつひとつは読めない。


 でも、そこに痛みがあるのは分かった。


 俺の胸も苦しくなる。


 扉の声は続ける。


 ――灯だけを見せるな。


 ――傷を消すな。


 ――喜びで、傷を覆うな。


 その言葉は、怒りだった。


 当然だと思った。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶を見せたからといって、名前で傷ついた記憶が消えるわけではない。


 そこを間違えれば、こちらの言葉はただの押しつけになる。


 俺は両手を下げた。


「消さない」


 扉の声が止まる。


「傷つけた名は、なかったことにしない」


 ――なら、どうする。


「拒否していい」


 俺は、これまでの相談を思い出しながら言った。


「呼ばれたくない名前は拒否していい。冷血魔女みたいに、相手を決めつける名は受け入れなくていい」


 アイリスの氷が静かに光る。


「大事だったけれど今は苦しい名前は、休ませていい。灯のように、消すのではなく休ませることもできる」


 白い灯の光が、ゆっくり揺れる。


「意味が混ざって苦しくなった名前は、分けていい。雨のように、嘲笑と自分の好きだった意味を切り離していい」


 野原に細かな霧が降る。


「重すぎる名前は、距離を置いていい。羽のように、捨てるのではなく、呼吸できる距離を作っていい」


 柔らかな風が吹く。


「名乗ることに疲れたなら、休んでいい。誇りも、強制されたら重くなるから」


 金色の線が少しだけ緩む。


「まだ選べないなら、未定でいい」


 最後の言葉に、扉の声が大きく震えた。


 ――未定。


「はい。無名ではなく、未定」


 俺は一歩だけ前へ出た。


 今度は床にひびは入らない。


「喜びは、傷を消すための布じゃない。傷は傷として残る。でも、傷だけで全部を決めなくてもいい」


 ――傷だけで、決めない。


「そうです」


 ――名を、捨てなくても。


「捨ててもいい時はあると思います」


 俺は正直に言った。


「どうしても苦しい名前なら、捨てていい。でも、全部を一度に捨てなくてもいい。休ませたり、距離を置いたり、未定にしたりできる」


 扉の向こうの灰色の存在は、長く黙った。


 そして、ゆっくり自分の胸元に手を当てた。


 そこには、黒く塗りつぶされた名前札が一枚だけ貼りついている。


 他の札よりも、ずっと濃く塗りつぶされている。


 まるで、自分でも見たくないもののように。


 ――休ませたい名。


 声がした。


 かすかに。


 本当にかすかに。


 俺は息を呑んだ。


 扉の声自身にも、休ませたい名前がある。


 捨てたいのではなく。


 消したいのでもなく。


 今は呼ばれたくないけれど、完全には失いたくない名前が。


「今は、呼ばなくていい」


 俺は静かに言った。


「見せなくてもいい。言わなくてもいい」


 ――問わぬのか。


「聞きたい。でも、嫌なら聞かない」


 同じ答えだ。


 でも、今度は前より深いところへ届いた気がした。


 灰色の存在は、胸元の黒い札を押さえたまま、少しだけ頷いたように見えた。


 その瞬間、黒い扉の縁が変わった。


 完全な黒ではなくなる。


 扉の端に、白い細い線が走った。


 ほんの少し。


 爪で引いたような細い白。


 でも、確かに黒だけではなくなった。


 ノエルの声が遠くから聞こえる。


 レン、反応変化。


 リリアの声。


 無理しないでください。


 セリカさん。


 戻る準備。


 ユリアナ先輩。


 記録は十分です。


 アイリス。


 結界、安定しています。


 ミュレア。


『レン、そこで止めよ』


 アリシア様。


『王宮結界、帰還路を開きます』


 俺は扉の声を見た。


「今日は、ここまでにします」


 ――喜び。


「少し、届きましたか」


 扉の声は、すぐには答えなかった。


 やがて、小さく言う。


 ――痛い。


 俺の胸が詰まった。


 喜びを見せたのに、痛い。


 でも、それはたぶん悪い反応ではない。


 凍っていた場所に血が戻る時、痛むことがある。


 ――でも、消えない。


「はい」


 ――灯。


「灯です」


 扉の声は、白く縁取られた扉の奥で、もう一度呟いた。


 ――休ませたい名。


「未定にしておきましょう」


 俺が言うと、扉の声は静かに揺れた。


 拒絶ではなかった。


 夢の野原が、ゆっくり白くほどけていく。


     ◇


 目を覚ますと、朝だった。


 久しぶりに、夜中ではなく朝まで眠れたらしい。


 窓際の氷結界は、割れていない。


 ただ、白銀の盾の縁が、夢の黒い扉と同じように細く光っていた。


 枕元の補助具も、静かな青。


 危険反応ではない。


 俺はゆっくり起き上がった。


 体は重い。


 でも、前ほどの消耗ではない。


「レン」


 リリアの声がした。


 扉が開き、みんなが入ってくる。


 リリア。

 セリカさん。

 ノエル。

 ユリアナ先輩。

 アイリス。

 通信水晶のミュレアとアリシア様。


 いつもの顔ぶれ。


 いつもの名前確認。


「レン」


「はい。リリア」


「レン」


「はい。セリカさん」


「レン」


「はい。ノエル」


「レン様」


「はい。ユリアナ先輩」


「レン・クロフォード」


「はい。アイリス」


『レン』


「はい。ミュレア」


『レン様』


「はい。アリシア様」


 名前が戻る。


 俺は深く息を吐いた。


「届きました」


 そう言うと、リリアの目が少し潤んだ。


「喜びが、ですか」


「はい。でも、痛いとも言われました」


「痛い……」


「たぶん、喜びが傷を消すわけではないから」


 セリカさんが静かに頷く。


「そりゃそうね」


 俺は夢の内容を話した。


 みんなの記憶を届けたこと。

 扉の声が「名は傷だけではない」と言ったこと。

 その直後に「傷つけた名はどうなる」と怒ったこと。

 俺が、拒否していい、休ませていい、意味を分けていい、距離を置いていい、未定でいいと伝えたこと。


 そして。


「扉の声自身にも、休ませたい名前があるみたいです」


 部屋が静かになった。


 ユリアナ先輩がペンを止める。


「休ませたい名前……」


 アイリスが小さく言う。


「完全に捨てたいのではない、ということでしょうか」


「たぶん」


 ノエルが記録板を見る。


「黒い扉の縁、白化反応。夢干渉補助具にも同じ波形あり」


 ミュレアが低く笑う。


『黒一色ではなくなったか』


「はい」


『よい。だが、ここからが面倒じゃぞ』


「分かっています」


『休ませたい名がある者は、その名を守りたい者でもある。傷は深い』


 リリアが静かに言った。


「次は、扉の声自身の相談になるかもしれませんね」


 その言葉に、全員が少しだけ息を止めた。


 扉の声自身の相談。


 名前を捨てようとした存在が、休ませたい名前を抱えて、相談窓口へ来る。


 それはまだ想像しにくい。


 でも、昨日までよりはあり得る気がした。


 アリシア様の声が通信水晶から届く。


『王宮結界側にも、白化反応が残っています。敵性低下とは断言できませんが、対話段階が進んだと見てよいでしょう』


 ユリアナ先輩が頷く。


「記録上、扉の声は“休ませたい名”を持つ可能性あり、と追記します。ただし、名前の特定は試みない」


「はい」


 俺は胸元の確認票に触れた。


 才能名は未定。


 黒い扉の声も、まだ未定の場所にいる。


 でも、少しだけ灯を見た。


 痛みと一緒に。


 それでも、消えなかった。


 なら、次に進める。

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