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第97話 名前で呼ばれて嬉しかった記憶

 翌朝の相談室は、いつもより静かだった。


 受付箱に新しい相談票は入っていない。

 黒い紙片もない。

 扉の声からの問いも、今のところ届いていない。


 けれど、机の上には一枚の紙が置かれていた。


 ユリアナ先輩が用意した記録用紙だ。


 表題は、こうだった。


 ――名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 文字にすると、少し照れくさい。


 いや、かなり照れくさい。


 俺はその紙を見つめながら、朝から何度目か分からない息を吐いた。


「レン、逃げ腰」


 セリカさんが壁際から言った。


「逃げてません」


「顔が逃げてる」


「顔でそこまで分かるの、もう才能ですよ」


「たぶん才能名は未定ね」


 セリカさんは、しれっとそう返した。


 未定の使い勝手がよすぎる。


 リリアは机の向かいに座り、手元の紙を丁寧に揃えていた。


「無理に長く話さなくても大丈夫です。思い出せる範囲で、言葉にできるところだけで」


 その声は優しい。


 けれど、今日の議題はやはり少し緊張する。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 そんなものを改めて話すのは、思っている以上に恥ずかしい。


 ノエルは記録板を抱えて、いつも通り真面目な顔をしていた。


「これは重要。扉の声は、名前で傷ついた記憶を多く持っている。だから、名前で救われた記憶を具体例として渡す必要がある」


「分かっていますけど」


「恥ずかしい?」


「かなり」


「記録上は必要」


「記録で押し切らないでください」


 ユリアナ先輩が咳払いした。


「本日は、あくまで任意共有です。話したくない部分は話さなくて構いません。記録の公開範囲も、相談窓口主要メンバーと王宮結界補助に限定します」


 さすが、そこは抜かりない。


 アイリスは窓際で小さな氷盾を作りながら、どこか落ち着かない様子だった。


 彼女もまた、名前で呼ばれて嬉しかった記憶を話す側だ。


 冷血魔女と呼ばれてきた彼女にとって、これは軽い話ではない。


 通信水晶からミュレアの声がした。


『ふむ。名で喜んだ記憶か。なかなか甘ったるい議題じゃな』


「ミュレアは話さなくてもいいんですよ」


『誰が話さぬと言った。妾にもあるわ。少しだけな』


「あるんですね」


『少しだけじゃ』


 そこを強調するところがミュレアらしい。


 アリシア様の通信水晶も淡く光っている。


『私も、可能な範囲でお話しします。名前で呼ばれることは、王宮にいると意外と難しいものですから』


 王女という立場。


 殿下、王女様、ルミナスの姫。


 そう呼ばれることが多いだろうアリシア様にも、きっと彼女自身の名前を求める瞬間があるのだろう。


 ユリアナ先輩が記録用紙の中央にペンを置いた。


「では、順番にいきましょう。最初は……」


 全員の視線が自然と俺に向いた。


「なぜ俺を見るんですか」


「中心人物ですから」


 ユリアナ先輩が即答する。


「今日はレン様の夢接触に向けた準備でもあります。まずレン様自身の記憶を確認するのが自然です」


「自然ですかね」


「自然です」


 逃げ場がない。


 リリアが少しだけ微笑んだ。


「無理に綺麗に話さなくて大丈夫ですよ」


「はい」


 俺は少し考えた。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 前世の記憶には、あまりない。


 呼ばれたことはあった。

 でも、嬉しかったかと言われると、すぐには出てこない。


 出席確認。

 事務的な呼び出し。

 からかい半分の呼称。

 ネット上のどうでもいいハンドル名。


 どれも、俺を俺として見てくれたというより、そこにいる人間を確認する記号のようだった。


 だからこそ、この世界で名前を呼ばれることは、最初から少し眩しかった。


「俺は……たぶん、最初にリリアが“レン”って呼んでくれた時です」


 口にした瞬間、リリアの頬が少し赤くなった。


「私、ですか」


「はい」


 俺は視線を少しだけ逸らした。


「最初の頃、俺の力って自分でも怖かったんです。好感度限界突破とか、名前からして危ないし。誰かに近づけば、相手の感情を勝手に見てしまうんじゃないかって」


 今も完全に怖くなくなったわけではない。


 ただ、あの頃はもっとひどかった。


 自分の力が何なのか分からない。

 人を支配しているかもしれない。

 好意が本物かどうか分からない。


 そういう恐怖が、いつも喉の奥にあった。


「でも、リリアは俺を外れスキルとも、危険な力とも呼ばずに、レンって呼んでくれました」


 リリアは黙って聞いている。


「それが、すごく……戻れる感じがしたんです。力の名前じゃなくて、俺の名前で呼ばれたから」


 言っていて、恥ずかしさで顔が熱くなる。


 でも、嘘ではない。


「だから、嬉しかったです」


 少しの沈黙。


 リリアは胸元に手を添え、小さく息を吸った。


「私も、レンが“リリア”と呼んでくれた時、嬉しかったです」


 今度は、俺が固まる番だった。


「聖女候補でも、器でも、治癒役でもなく、リリアと呼んでくれました。もちろん、最初から全部が安心だったわけではありません。でも、呼ばれるたびに、私は役目だけではないのだと思えました」


 リリアの声は静かだった。


 けれど、その奥には確かな温度がある。


「だから、私にとって名前で呼ばれる喜びは……自分が役目だけではないと、思い出せることです」


 ユリアナ先輩が丁寧に記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:役目だけではない自分を思い出すこと。


 その一文を見た時、胸の奥が少し温かくなった。


     ◇


 次はセリカさんだった。


 彼女は腕を組んだまま、少し嫌そうな顔をしている。


「私、こういうの苦手なんだけど」


「無理に話さなくても」


 リリアが言うと、セリカさんは首を横に振った。


「いや、話す。必要なんでしょ」


 セリカさんらしい。


 照れくさくても、必要なら逃げない。


「私の場合は、赤髪とか、剣士とか、戦闘要員とか、そういう呼ばれ方が多かったのよ」


 彼女は自分の髪を指先で軽くつまんだ。


「赤い髪って目立つし、剣も振れる。だから、周りは分かりやすいところで呼ぶ。悪気がないのは分かってる。でも、それだけで見られると、少しずつ自分もそう振る舞わなきゃいけない気がしてくる」


「セリカさん……」


「別に、剣が嫌いなわけじゃない。赤髪も嫌いじゃない。でも、私が怒っても、笑っても、迷っても、結局“赤髪の剣士”で片付けられるのは、ちょっと腹が立つ」


 すごくセリカさんらしい表現だった。


 腹が立つ。


 でも、その奥には寂しさもある。


「だから、レンが戦いの中で“セリカさん”って呼んだ時、嬉しかった」


 俺は思わず顔を上げる。


「戦いの中?」


「うん。指示を出す時、あなたはちゃんと私の名前を呼ぶでしょ。右へ、左へ、じゃなくて、セリカさんって」


「それは、名前確認も兼ねて」


「理由は何でもいいのよ」


 セリカさんは少し笑った。


「私はその時、剣だけじゃなくて、私ごと信じられてる気がした」


 彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。


 照れくさい。


 でも、嬉しい。


 セリカさんは少しだけ視線を逸らす。


「だから、名前で呼ばれる喜びは……役目じゃなくて、自分ごと任されてるって感じ」


 ユリアナ先輩が記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:役目ではなく、自分ごと信じられていると感じること。


 セリカさんは記録を見て、すぐに言った。


「ちょっと綺麗に書きすぎじゃない?」


「記録として整えました」


「まあ、いいけど」


 耳が少し赤かった。


     ◇


 ノエルは、意外にもすぐ話し始めた。


「私は、変人研究者って呼ばれることが多かった」


「……言われていそうですね」


「うん。言われてた」


 本人はあっさりしている。


 だが、その言葉が傷つかなかったわけではないだろう。


「研究が好き。魔道具を見ると、仕組みを知りたくなる。人の才能や魔力反応も、記録したくなる。だから、変わってると言われるのは事実」


 ノエルは記録板を撫でる。


「でも、変人研究者って呼ばれると、私が何を感じているかは見られない。面白いか、心配か、怖いか、嬉しいか。全部、研究だからで済まされる」


 いつもの短い言葉より、少し長い。


 それだけ、彼女にとって大事な話なのだろう。


「レンは、私をノエルって呼ぶ。研究者じゃなくて」


「はい」


「それに、止める時もノエルって呼ぶ」


「止める時?」


「寝てくださいとか、無理しないでくださいとか、記録は後でとか」


「ああ……」


 心当たりがありすぎる。


 ノエルは小さく頷いた。


「その時、私は研究機能じゃなくて、休まないといけない人間として見られてる気がする」


 リリアの表情が柔らかくなる。


「ノエルさん……」


「だから嬉しい。少しだけ」


 ミュレアが通信越しに言う。


『少しだけ、が多いのう』


「事実」


 ノエルはいつものように返す。


「名前で呼ばれる喜びは、機能じゃなくて個人として止めてもらえること」


 ユリアナ先輩が記録した。


 ――名前で呼ばれる喜び:機能ではなく、個人として見られ、必要なら止めてもらえること。


 その一文は、ノエルらしくて、少し胸に来た。


     ◇


 ユリアナ先輩は、少しだけ考える時間を置いた。


 彼女はいつも記録する側だ。


 制度を作る側。

 判断する側。

 相談を整理する側。


 だからこそ、自分の記憶を話すのは少し苦手なのかもしれない。


「私は、生徒会長、公爵令嬢、記録責任者と呼ばれることが多いです」


 言葉は整っている。


 だが、いつもより少し柔らかい。


「どれも間違いではありません。私は生徒会長ですし、公爵家の娘でもあります。記録責任を負う立場でもあります」


「はい」


「でも、それらの呼称は、私が失敗しないことを前提にしています」


 その言葉に、俺は少しどきりとした。


 ユリアナ先輩は、いつも完璧に見える。


 いや、見せている。


 だからこそ、失敗できない。


「私が迷っていても、生徒会長なら判断できるはずだと言われる。疲れていても、公爵令嬢なら崩れないはずだと言われる。記録責任者なら、感情を交えず正しく残せるはずだと言われる」


 ユリアナ先輩は、少しだけペンを握る手を緩めた。


「でも、レン様や皆さんは、時々ユリアナ先輩と呼んでくれます」


「それは、普通に」


「その普通が、ありがたいのです」


 彼女は微笑んだ。


 ほんの少しだけ。


「生徒会長としてではなく、先輩として頼られる。公爵令嬢としてではなく、少し年上の誰かとして見られる。その時、私は役職の机から少し離れて、同じ部屋に座っていられる気がします」


 リリアが小さく頷く。


「ユリアナさんにも、休む場所が必要です」


「はい。最近、少し分かってきました」


 セリカさんがすかさず言う。


「じゃあ今日も休憩ね」


「……はい」


 ユリアナ先輩が素直に頷くと、相談室に少し笑いが起きた。


 彼女は自分で記録した。


 ――名前で呼ばれる喜び:役職の机から離れ、同じ部屋に座れること。


 綺麗な言葉だった。


 ユリアナ先輩らしい。


     ◇


 アイリスは、窓の外を少し見てから話し始めた。


「私は、冷血魔女と呼ばれていました」


 静かな声だった。


 全員が黙る。


「氷属性だから。表情が少ないから。感情を見せないようにしていたから。そう呼ばれる理由はありました」


 彼女は手元に小さな氷を作る。


 薄い盾の形。


 守護氷結。


「最初は、気にしないふりをしていました。冷たいと言われるなら、冷たくあればいいと思いました。その方が、期待も失望も少なくて済む気がしたので」


 以前、相談窓口で泣いた時の言葉を思い出す。


 冷たくなりたかったわけではない。

 冷たいと言われたから、そう振る舞う方が楽だっただけ。


 アイリスは少しだけ俺を見た。


「レン・クロフォードは、私をアイリスと呼びました」


「はい」


「最初は、落ち着きませんでした。冷血魔女でも、ヴェルナーさんでもなく、アイリスと呼ばれることに慣れていなかったので」


「嫌でしたか?」


「……嫌ではありませんでした」


 いつもの言い方だ。


 だが、その声は以前よりずっと自然だった。


「アイリスと呼ばれると、私は氷だけではないのだと思えました。氷を使う私も、迷う私も、負けて悔しい私も、守りたいと思った私も、同じ私なのだと」


 リリアが微笑む。


「とても大切なことですね」


「はい」


 アイリスは小さく頷いた。


「名前で呼ばれる喜びは、冷たい役割の奥にいる自分を、見つけてもらえることだと思います」


 ユリアナ先輩が記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:冷たい役割の奥にいる自分を見つけてもらえること。


 アイリスは記録を見て、少しだけ顔を赤くした。


「……少し、恥ずかしいですね」


「いい言葉です」


 俺が言うと、彼女は視線を逸らした。


「未定にしてください」


「今の言葉を?」


「恥ずかしさの処理を」


「便利ですね、未定」


「便利です」


 アイリスが真顔で言い、少し笑いが起きた。


     ◇


 通信水晶の向こうで、ミュレアがわざとらしく咳払いした。


『では、次は妾じゃな』


「お願いします、ミュレア」


『妾は、偉大なる魔王令嬢、ミュレア・ノクターンである』


「はい」


『その名で呼ばれることは、当然ながら妾の格にふさわしい。だが……』


 少しだけ間が空いた。


 珍しい。


 ミュレアが言葉を選んでいる。


『封印されてから、妾は多くの者に恐れられた。魔王の血、災厄の娘、封印対象、危険存在。どれも間違いではない面もあろう』


 冗談めいた調子が薄れる。


『だが、レンは妾をミュレアと呼ぶ』


「はい」


『リリアも、セリカも、ノエルも、ユリアナも、アイリスも、アリシアも。妾を封印対象ではなく、ミュレアと呼ぶ』


 水晶の光が少し揺れた。


『それは……悪くない』


 リリアが柔らかく微笑む。


「悪くない、なのですね」


『悪くないと言っておる。かなりの譲歩じゃ』


「はい」


『名前で呼ばれる喜びとは、恐れられる肩書きの前に、自分がまだいると確認できることじゃ』


 ミュレアの言葉は、いつもより静かだった。


 ユリアナ先輩が記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:恐れられる肩書きの前に、自分がまだいると確認できること。


 書き終えた瞬間、ミュレアがいつもの調子を取り戻した。


『よし。これは菓子三品分の名言じゃな』


「一品です」


 リリアが即答する。


『白き娘! 今の余韻を粉砕するでない!』


「体調管理です」


 相談室に笑いが戻る。


 ミュレアもたぶん、それを分かっていて言ったのだろう。


     ◇


 最後はアリシア様だった。


 通信水晶の光が、少しだけ明るくなる。


『私は、王宮では殿下、王女殿下、アリシア殿下と呼ばれることが多いです』


「当然といえば当然ですね」


『はい。それは必要な呼称です。王宮では立場を明確にすることが、争いや誤解を避けるために必要ですから』


 アリシア様の声は穏やかだった。


 でも、その奥に少しだけ寂しさがある。


『けれど、立場だけで呼ばれ続けると、自分が役目を果たすための器のように感じる時があります』


 リリアが静かに頷いた。


 彼女には、その感覚がよく分かるのだろう。


『レン様は、私をアリシア様と呼びます。王女ではなく、アリシアという名前を含めて』


「様はつけていますけど」


『はい。それでよいのです』


 アリシア様は小さく笑った。


『王女としての距離は保ちながら、私の名前もそこにある。その呼び方が、私は嫌いではありません』


 なるほど。


 名前と敬称。


 距離と個人。


 どちらも必要な場合がある。


『名前で呼ばれる喜びとは、立場を失わずに、個人も消えないことだと思います』


 ユリアナ先輩が記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:立場を失わずに、個人も消えないこと。


 とてもアリシア様らしい言葉だった。


     ◇


 全員の記憶が出そろった。


 記録用紙には、いくつもの答えが並んでいる。


 役目だけではない自分を思い出すこと。

 役目ではなく、自分ごと信じられていると感じること。

 機能ではなく、個人として見られ、必要なら止めてもらえること。

 役職の机から離れ、同じ部屋に座れること。

 冷たい役割の奥にいる自分を見つけてもらえること。

 恐れられる肩書きの前に、自分がまだいると確認できること。

 立場を失わずに、個人も消えないこと。


 それらを見て、俺はしばらく黙った。


 名前で呼ばれる喜び。


 それは、ただ嬉しいという単純なものではない。


 役割から戻ること。

 期待から離れること。

 機能ではなく人として見られること。

 距離を保ったまま、個人として残ること。


 扉の声に届けるには、十分すぎるほど重い記録だった。


「レン」


 リリアが俺を見る。


「あなたの記憶も、もう少し書き足しますか?」


「俺の?」


「はい。リリアに呼ばれたこと以外にも、あるのではありませんか?」


 俺は少し考えた。


 そして、ゆっくり言った。


「みんなに呼ばれたことです」


 全員がこちらを見る。


「黒い扉の前で、自分が薄れそうになった時。リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナ先輩、アイリス、ミュレア、アリシア様が、俺の名前を呼んでくれました」


 あの時。


 黒い扉は俺を無名へ引き込もうとしていた。


 好意支配。

 無名の器。


 嫌な名前や空白が迫っていた。


 その中で、みんなの声が届いた。


「俺にとって名前で呼ばれる喜びは、消えそうな時に戻る場所があることです」


 ユリアナ先輩のペンが止まった。


 それから、静かに記録する。


 ――名前で呼ばれる喜び:消えそうな時に戻る場所があること。


 書かれた一文を見て、俺は胸の奥が少し熱くなった。


 これなら、届けられる気がした。


 扉の声へ。


 喜びとは何だ、という問いへの答えとして。


 完璧ではない。


 未定の答えだ。


 でも、今の俺たちが持てる答えだった。


     ◇


 その時、受付箱が静かに光った。


 全員がそちらを見る。


 また黒い紙片かと思った。


 だが、箱の中に入っていたのは白い紙だった。


 普通の相談票。


 ただし、本人名欄は空白。


 保護印欄も空白。


 相談内容欄に、一行だけ書かれている。


 ――喜びを、見せてください。


 リリアが息を呑む。


 セリカさんの目が鋭くなる。


 ノエルが測定具を取り出す。


「第四の系統反応。攻撃性なし。接触要求」


 ユリアナ先輩が紙を見る。


「扉の声ですね」


 アイリスの氷盾が淡く光る。


「今すぐ夢ではなく、相談票で求めてきた」


 ミュレアが低く言う。


『焦っておるのかもしれぬな。あるいは、待てぬほど分からぬのか』


 アリシア様の声が静かに響く。


『王宮結界にも、同じ波形が来ています。これは敵意よりも、問いに近いものです』


 俺は記録用紙を見た。


 みんなの記憶。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 これを、次の夢で届けるつもりだった。


 でも、扉の声はもう求めている。


 喜びを見せてほしいと。


 リリアが俺を見る。


「レン、今は無理に応じない方がいいです」


「はい」


 セリカさんも言う。


「準備してから」


「分かっています」


 俺は相談票の余白に、ゆっくり返答を書いた。


 ――見せます。

 ――ただし、今すぐではありません。

 ――こちらも準備が必要です。

 ――喜びは、無理に押しつけるものではないからです。

 ――次に扉が開く時、私たちは記憶を持っていきます。


 書き終えると、相談票が淡く光った。


 返答はすぐに来た。


 ――待ちます。


 その文字は、これまでのどの文字よりも静かだった。


 俺は小さく息を吐いた。


 待つ。


 扉の声が、待つと言った。


 それは、かなり大きな変化のように思えた。


 ミュレアが呟く。


『待てるなら、まだ完全には壊れておらぬ』


「壊れて……」


『名を捨て、喜びを忘れたものでも、待つことができるなら、対話の糸は残っておる』


 その言葉を聞いて、俺は記録用紙を見つめた。


 次に扉が開く時。


 俺たちは、この記憶を届ける。


 名前が鎖だけではないと。


 名前で呼ばれることが、戻る場所にもなるのだと。


 そして、喜びとは何かを。


 未定の答えのままでも、届ける。

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