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第96話 扉の声は、名前を忘れたのではなく捨てたかった

 翌朝、ノエルは目の下にうっすら影を作っていた。


 本人は平然としている。


 けれど、机の上には見慣れない魔道具が三つ並んでいた。


 銀色の小さな輪。

 青い石を埋め込んだ薄い板。

 それから、耳飾りのような形をした通信補助具。


 どう見ても、寝ずに作ったやつである。


「ノエル」


 リリアの声が柔らかくなった。


 柔らかいが、かなり危険な柔らかさだ。


「昨夜は眠りましたか?」


「少し」


「少しとは?」


「目を閉じた」


「眠ったとは言いません」


 ノエルは視線を逸らした。


「でも、必要だった」


「必要でも、睡眠は必要です」


 リリアが一歩近づく。


 ノエルが魔道具を一つ抱えた。


「これは夢干渉補助具。レンが夢の中で扉の声と接触した時、外から名前確認の声を届きやすくする」


 リリアの表情が一瞬だけ揺れる。


 怒りより先に、心配と理解が来たのだろう。


 ノエルは淡々と続けた。


「前回、レンは夢の中でもみんなの声を聞いた。完全な通信ではないけど、名称固定リンクが通っている。なら、そこを補助できる可能性がある」


「それは……ありがたいですけど」


「でも寝てない」


 セリカさんが横から言った。


「はい、そこ」


 ノエルは少しだけ肩を落とした。


「仮眠は」


「目を閉じた、でしょ」


「……はい」


 ユリアナ先輩が記録板を閉じる。


「ノエル様。本日の午後、最低一時間の休息を命じます」


「一時間」


「不服なら二時間にします」


「一時間で」


 交渉が成立した。


 俺は魔道具を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 無茶はよくない。


 でも、ノエルが俺を一人で夢に行かせないために、夜中まで考えてくれたのは分かる。


「ありがとうございます、ノエル」


「必要」


 彼女は短く答えた。


 それから少しだけ、付け足すように言った。


「レンが夢で一人になると、危ない」


「はい」


「だから、なるべく一人にしない」


 その言い方が、いつもの研究者の言葉ではなく、友人の言葉に聞こえた。


 リリアもそれを感じたのだろう。


 少しだけ表情を緩めた。


「では、ノエルさんが休むことも、レンを一人にしないために必要です」


「……分かった」


 ノエルは素直に頷いた。


 通信水晶からミュレアが言う。


『ふむ。研究者娘も丸くなったのう』


「ミュレアも休んでください」


 リリアが即座に言う。


『妾は封印中じゃ。寝不足など――』


「甘味は一品です」


『まだ何も言っておらぬ!』


「休息確認です」


『白き娘、もはや妾の発言より先に結論を置くな!』


 朝の相談室に、少しだけ笑いが起きた。


 その笑いがあるだけで、黒い扉のことを話す空気も少し軽くなる。


     ◇


 午後、睡眠時接触の対策会議が開かれた。


 今回は学園長室ではなく、相談室だ。


 黒い扉の声は、相談票や受付箱を通して何度も反応している。


 なら、あえて相談室という場で対策を組む方がよいのではないか。


 そうユリアナ先輩が判断した。


 アイリスは窓際で、守護氷結の小結界を確認している。


 白銀の薄い氷が、窓枠に沿って静かに光っていた。


「今夜の結界は、少しだけ内側へ向けます」


「内側?」


 俺が聞くと、アイリスは頷いた。


「外からの干渉を防ぐだけではなく、レン・クロフォードが夢から戻る時の目印になるように。冷たすぎないよう調整します」


「そんなこともできるんですか」


「試用中です」


 そう言いながら、彼女の声には少し自信があった。


 守護氷結。


 本人はまだ正式固定していないが、かなり彼女のものになっている。


 リリアが微笑む。


「アイリスさんの氷、最近は本当に優しいですね」


 アイリスの手元の氷が、一瞬だけ形を崩しかけた。


「……防壁として適切な温度にしているだけです」


「はい。優しい防壁です」


「リリアさんは、時々とても直接的ですね」


「本当のことですから」


 アイリスは少しだけ顔を赤くし、視線を逸らした。


 セリカさんがそれを見て笑う。


「慣れないわねえ」


「慣れる必要は未定です」


「その未定、便利に使ってるでしょ」


「……少し」


 アイリスが素直に認めた。


 ノエルが即座に記録しようとして、リリアに見られて手を止める。


 相談室は、こういう小さなやり取りで何度も救われている。


 ユリアナ先輩が改めて言った。


「今夜、扉の声が再接触してくる可能性は高いです。前回、相手は“未定”という言葉を自分自身の状態として受け取りかけました」


「はい」


「次は、その理由へ近づくかもしれません。なぜ名前を拒むのか。なぜ無名を自由とするのか」


 ミュレアの声が低くなる。


『そこで踏み込みすぎるな。名を捨てようとした者の傷は深い。無理に暴けば、扉は閉じるか、噛みつく』


「噛みつく……」


 嫌な表現だ。


 でも、分かる。


 俺だって「好意支配」と呼ばれる恐怖に無理やり触れられたら、冷静ではいられない。


 扉の声も同じかもしれない。


 リリアが俺を見る。


「レン。相手が拒んだら、そこで止まってください」


「はい」


 セリカさんも言う。


「知りたいからって追わない」


「はい」


 ノエルが補助具を机に置く。


「これを枕元に置く。強い夢干渉時、外側の声を届けやすくする。ただし、完全に会話できるわけではない。名前確認が届く程度」


「十分です」


 ユリアナ先輩が書類をまとめる。


「起床後の記録では、相手に勝手な名前をつけないことを再確認します。現時点での記録名は“扉の声”または“黒い扉の向こうの声”。正式名ではありません」


「はい」


 俺は自分の確認票を見る。


 レン・クロフォード。

 才能名、未定。


 そして、本人意思。


 誰かを支配する力ではなく、本人の名前と才能と意思を支える力にしたい。


 今回も、それを忘れてはいけない。


 扉の声に対しても同じだ。


 相手の名前を勝手に決めない。


 相手が嫌だと言ったら止める。


 でも、こちらの名前も奪わせない。


     ◇


 夜、俺はベッドに入った。


 枕元にはノエルの補助具。

 窓際にはアイリスの氷結界。

 机の上には確認票。

 手の届く場所にセリカさんの木剣。

 香草茶の温かさが、まだ喉の奥に残っている。


 扉の外には、セリカさんが巡回している気配がある。


 リリアは隣室で待機。


 ノエルは別室で仮眠中だが、補助具の反応があれば起きると言っていた。


 ユリアナ先輩は記録準備。


 ミュレアとアリシア様の通信水晶も待機状態。


 俺は目を閉じる前に、小さく呟いた。


「レン・クロフォード」


 名前はある。


 才能名は、未定。


 無名ではない。


 その確認をしてから、俺は眠りに落ちた。


     ◇


 夢の中で、俺は雨の降る回廊にいた。


 学園ではない。


 石造りの古い回廊。

 壁には見覚えのない紋章が刻まれている。

 窓の外は暗く、雨が斜めに降っていた。


 ただ、その雨には音がなかった。


 無音の雨。


 灯りも少ない。


 足元には、たくさんの札が落ちている。


 名前札だ。


 誰かの名前。

 誰かの役職。

 誰かのあだ名。

 誰かの才能名。


 だが、そのほとんどは黒く塗りつぶされて読めない。


 俺は一枚を拾おうとして、手を止めた。


 勝手に触れていいものではない気がした。


「レン・クロフォード」


 自分の名前を呼ぶ。


 声は回廊に響いた。


 すると、遠くの闇から黒い扉が現れた。


 扉は回廊の奥にあった。


 その向こうに、灰色の存在が立っている。


 顔のない輪郭。


 でも、前より少し人に近い。


 そして、その周囲には無数の名前札が浮かんでいた。


 どれも読めない。


 読もうとすると、文字が崩れる。


 扉の声が響く。


 ――レン・クロフォード。


「はい」


 俺は返事をした。


 呼ばれた。


 今度は確かに、俺の名前を呼んだ。


 まだぎこちないが、以前より拒絶は少ない。


 ――未定。


「俺の才能名は未定だ」


 ――わたしは。


 声が止まる。


 前回と同じ。


 自分を示そうとして、止まる。


 俺は踏み込まない。


 ただ、静かに待った。


 扉の声は、少し時間を置いて言った。


 ――わたしは、名を忘れた。


「忘れたのか?」


 問い返した瞬間、空気が揺れた。


 回廊の壁に、いくつもの影が映る。


 小さな子どもの影。

 若い学生の影。

 誰かに頭を下げる影。

 机に向かって書類を書き続ける影。

 そして、扉の前に立ち尽くす影。


 声が重なる。


 ――違う。


 ――忘れたのではない。


 ――捨てた。


 その言葉と同時に、回廊の床に落ちていた名前札が一斉に震えた。


 俺は息を呑む。


 名前を忘れたのではなく、捨てた。


 それは、かなり大きな違いだった。


「どうして」


 口にしてから、すぐに言い直す。


「嫌なら、答えなくていい」


 扉の声は沈黙した。


 雨のない雨が、窓の外を流れる。


 しばらくして、声が返ってきた。


 ――名は増えた。


 回廊の壁に、文字が浮かぶ。


 最初は一つ。


 それがすぐに二つ、三つ、十、百へ増えていく。


 名前。

 役割名。

 才能名。

 蔑称。

 敬称。

 呼び捨て。

 命令のための呼称。

 期待のための呼称。

 罰のための呼称。


 ――本当の名より、役割が強くなった。


 ――役割より、失敗の名が強くなった。


 ――失敗より、罪の名が強くなった。


 ――最後に、誰も本当の名を呼ばなかった。


 灰色の存在の輪郭が乱れる。


 俺の胸が痛む。


 扉の声は、名前がなかったのではない。


 名前が多すぎたのだ。


 多すぎて、本当の名前が埋もれた。


 そして最後には、すべてを捨てようとした。


 ――呼ばれるたび、違うものになった。


 ――名乗るたび、違う責任を背負った。


 ――応えるたび、戻れなくなった。


「だから、名前を捨てた」


 俺が静かに言うと、扉の声は少しだけ揺れた。


 ――捨てれば、静かになる。


「本当に静かになった?」


 問いかけた瞬間、回廊の雨が止まった。


 完全な無音。


 呼吸の音すら消えそうな静けさ。


 扉の声は答えない。


 でも、その沈黙が答えのようだった。


 静かにはなった。


 でも、たぶん救われてはいない。


 俺は一歩だけ前に出た。


 すぐに床の名前札が震える。


 近づきすぎない。


 踏み込みすぎない。


「俺は、勝手に名前をつけない」


 扉の声がこちらを見る。


 顔はない。


 でも、見られているのが分かる。


「おまえが捨てた名前も、今は聞かない。嫌なら聞かない」


 ――問わぬのか。


「聞きたい。でも、嫌だと言ったら聞かない」


 ――なぜ。


「俺たちは、そう決めている」


 リリアの声が、遠くから聞こえた気がした。


 レン。


 セリカさん。


 レン。


 ノエル。


 レン。


 ユリアナ先輩。


 レン様。


 アイリス。


 レン・クロフォード。


 外側からの声が、いつもより少しはっきり届く。


 ノエルの補助具が効いているのかもしれない。


 俺の輪郭が少し安定する。


「嫌な名前は拒否していい。大事な名前でも休ませていい。意味が混ざったなら分けてもいい。重すぎるなら距離を置いていい。まだ選べないなら未定でもいい」


 俺は、これまでの相談を思い出しながら言った。


「捨てるだけじゃなくて、扱い方を選べる」


 扉の声は、低く返す。


 ――選ぶとは、苦しみを残すこと。


 その言葉は鋭かった。


 ――捨てれば、終わる。


 ――選べば、迷う。


 ――休ませれば、いつか起こす。


 ――距離を置けば、まだ繋がる。


 ――未定にすれば、いつか決めねばならない。


 ――苦しみは残る。


 たしかに。


 否定できない。


 保護印制度は、苦しみを一瞬で消すものではない。


 未定さんも、灯さんも、雨さんも、羽さんも、昨日の男子生徒も。


 相談したから全て解決したわけではない。


 名前はまだ重い。


 呼ばれたくないものはまだある。


 涙も恐怖も残っている。


「そうだな」


 俺は認めた。


「選ぶことは、苦しみを残すことかもしれない」


 扉の声が静かに揺れる。


 ――ならば、なぜ選ぶ。


 俺はすぐには答えられなかった。


 黒い回廊に、無音の雨の匂いだけが残る。


 前世の俺なら、捨てる方を選んだかもしれない。


 期待も、好意も、名前も、誰かとの関係も。


 全部捨てれば傷つかない。


 でも、本当にそうだっただろうか。


 傷つかない代わりに、何も残らない。


 誰にも呼ばれない夜。


 誰の名前も呼ばない朝。


 それは、苦しみがないのではなく、喜びも見えなくなっているだけではないか。


「全部消したら、苦しみは減るかもしれない」


 俺は言った。


「でも、喜びも残らない」


 扉の声が止まる。


 ――喜び。


「名前を呼ばれて嬉しかったことがある」


 俺は、自分でも驚くほど自然に言えた。


「リリアが俺をレンと呼んだ時。セリカさんが戦いの中で俺を呼んだ時。ノエルが研究対象じゃなく友人として呼んだ時。ユリアナ先輩が記録じゃなく、俺を見てくれた時。アイリスがフルネームで、それでもちゃんと俺を呼んだ時。ミュレアが茶々を入れながら呼んだ時。アリシア様が王宮から名前を支えてくれた時」


 ひとつずつ、灯る。


 夢の回廊に、小さな光が浮かぶ。


 それは名前札ではない。


 記憶の灯だった。


「名前が鎖になることはある。でも、灯になることもある。俺はそれを知っている」


 扉の声が、低く呟く。


 ――灯は、消える。


「消えたら、また呼ぶ」


 ――呼ぶ者がいなければ。


「それは、寂しい」


 俺は正直に言った。


「だから、呼び合える場所を作りたい。無理に名乗らなくても、未定でも、休ませていても、いつか自分で選べるように」


 扉の声は沈黙した。


 長い沈黙だった。


 やがて、ぽつりと問いが落ちる。


 ――喜びとは何だ。


 その問いは、今までのどの言葉よりも幼く聞こえた。


 怒りではない。


 拒絶でもない。


 本当に分からない者の問いだった。


 俺は胸を押さえた。


 答えようとして、止まる。


 簡単に答えていいものではない気がした。


 喜び。


 名前で傷ついた相手に、名前で呼ばれる喜びを説明する。


 それは、とても難しい。


 ミュレアの声が遠くから聞こえた。


『レン。今日はそこまでじゃ』


 リリアの声も。


 レン、戻ってください。


 セリカさん。


 深追いしない。


 ノエル。


 負荷、上昇。


 ユリアナ先輩。


 記録は明日できます。


 アイリス。


 戻る場所があります。


 俺は深呼吸した。


「今日は、まだ答えられない」


 扉の声が揺れる。


 ――逃げる。


「違う。考える」


 ――未定。


「そうだ。喜びについては、今は未定だ」


 そう言うと、扉の声は静かになった。


 怒らなかった。


 むしろ、その言葉を受け取ったように見えた。


 ――未定。


「うん。次に会うまでに、考える」


 ――喜び。


「考える」


 黒い扉が少しずつ閉じ始める。


 最後に、灰色の存在は小さく言った。


 ――レン・クロフォード。


「はい」


 ――未定。


「それも、今のそっちの場所だ」


 返事をすると、夢の回廊が白くほどけた。


     ◇


 目を覚ますと、窓の外はまだ暗かった。


 けれど、夜明け前の薄い青が少しだけ混じっている。


 枕元の補助具が淡く光っていた。


 氷結界には、ひびはない。


 ただ、表面に細い雨粒のような光がついていた。


「レン!」


 扉が開く。


 リリアが入ってきた。


 その後ろに、セリカさん、ノエル、ユリアナ先輩、アイリス。


 通信水晶のミュレアとアリシア様も繋がる。


 いつものように、まず名前確認。


「レン」


「はい。リリア」


「レン」


「はい。セリカさん」


「レン」


「はい。ノエル」


「レン様」


「はい。ユリアナ先輩」


「レン・クロフォード」


「はい。アイリス」


『レン』


「はい。ミュレア」


『レン様』


「はい。アリシア様」


 全員の声が届く。


 現実へ戻ってきた。


 リリアがほっと息を吐く。


「顔色は悪くありません。でも、少し泣きそうな顔です」


「泣いてはいないです」


「泣きそうな顔です」


 否定しきれない。


 ノエルが補助具を見る。


「接触強度は中。攻撃反応なし。感情負荷は高め。でも危険域ではない」


 ユリアナ先輩が記録用紙を用意する。


「話せますか?」


「はい」


 俺は夢の内容を話した。


 無音の雨の回廊。

 黒く塗りつぶされた名前札。

 扉の声が、名前を忘れたのではなく捨てたと言ったこと。

 役割名、失敗の名、罪の名が本当の名を埋めていったこと。

 選ぶとは苦しみを残すことだと言われたこと。


 そして最後の問い。


「扉の声が言いました。喜びとは何だ、と」


 部屋の空気が変わった。


 リリアが小さく息を吸う。


 セリカさんが目を伏せる。


 ノエルの手が記録板の上で止まる。


 ユリアナ先輩は、しばらくペンを動かさなかった。


 アイリスも静かに氷結界を見つめている。


 ミュレアが、珍しくすぐには茶々を入れなかった。


 アリシア様の通信水晶も、静かに光っている。


 やがて、リリアが言った。


「喜び……」


 その声は、とても柔らかかった。


「それは、答えるのが難しいですね」


「はい」


 俺は頷いた。


「だから、未定にしました」


 セリカさんが少しだけ笑う。


「いい判断」


「逃げたんじゃなくて?」


「ちゃんと戻るために持ち帰ったなら、逃げじゃない」


 ノエルが頷く。


「喜びの定義、共同検討」


 ユリアナ先輩も静かに言った。


「次回までに、私たちそれぞれの“名前で呼ばれて嬉しかった記憶”を整理しましょう」


「それが、答えになりますかね」


 俺が聞くと、ユリアナ先輩は少しだけ考えた。


「少なくとも、扉の声へ渡せる具体的な記録になります」


 アイリスが小さく言う。


「名で傷ついた記憶だけでなく、名で救われた記憶も」


「はい」


 リリアが頷いた。


「私にもあります」


 セリカさんも。


「まあ、あるわね」


 ノエル。


「ある」


 ユリアナ先輩。


「あります」


 アイリスは少し迷ってから、静かに言った。


「……私も」


 ミュレアが通信越しにふんと鼻を鳴らす。


『妾にもある。少しだけな』


 アリシア様の声も続く。


『私にもございます』


 みんなにある。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶。


 それを集めれば、喜びとは何かを、少しは伝えられるかもしれない。


 俺は胸元の確認票に触れた。


「次は、それを届けましょう」


 リリアが微笑む。


「はい」


 黒い扉の声は、名前を忘れたのではない。


 捨てたかったのだ。


 捨てなければ、耐えられなかったのかもしれない。


 なら、次に必要なのは、名前を取り戻せと言うことではない。


 名前で呼ばれて嬉しかった記憶を、ひとつずつ見せることだ。


 名前が鎖だけではないと、言葉ではなく記憶で伝えること。


 喜びとは何か。


 その問いへの答えは、きっと一人では出せない。


 でも、今の俺には、一緒に考えてくれる人たちがいる。


 だから、未定のまま持ち帰ってよかった。


 次に扉が開く時までに。


 俺たちは、名前の喜びを探す。

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