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第95話 未定は名前なのか、状態なのか

 その夜、俺はなかなか眠れなかった。


 眠る準備は、いつも通り厳重だった。


 リリアの香草茶。

 セリカさんの木剣。

 ノエルの夢干渉検知具。

 ユリアナ先輩の起床後記録用紙。

 アイリスの小さな氷結界。

 ミュレアの通信水晶。

 アリシア様の王宮結界補助。


 ここまで揃うと、もはや睡眠というより、封印儀式に近い。


「寝るだけですよね、俺」


 思わず言うと、セリカさんが腕を組んだまま答えた。


「寝るだけで黒い扉が来るからでしょ」


「反論できない」


 リリアが香草茶のカップを差し出す。


「今日は特に、未定という言葉に反応がありました。無理に夢へ入ろうとしないでくださいね」


「はい」


 ノエルが枕元の魔道具を調整している。


「今回の検知対象は三つ。黒い扉反応。名前欄揺らぎ。未定欄干渉」


「未定欄干渉」


「うん。レンの才能名未定欄が狙われやすい」


 嫌な言い方だが、事実だった。


 ユリアナ先輩は机の上の確認票を見ている。


「本日、私たちは黒い紙片へ共同回答をしました。未定は正式な名ではない。しかし何もないという意味でもない。選ぶ時間を守る保護印であり、状態であり、場所でもある、と」


「はい」


「おそらく、扉の声はその答えを確かめに来ます」


 リリアの表情が少し硬くなる。


「確かめるだけならいいのですが」


 アイリスが窓際に氷結界を置いた。


 白銀の小さな盾が、窓枠の内側で淡く光る。


「干渉が強くなったら、ひびが入ります。前回より感度を上げました」


「ありがとうございます、アイリス」


「守護氷結の訓練です」


「はい」


 アイリスはもう、完全に照れ隠しの言い方が定着している。


 通信水晶からミュレアが言う。


『レン。未定を名として奪われるなよ』


「奪われる?」


『向こうは、名を捨てろと言う。だが、そなたらの未定が“便利な空白”だと知れば、それすら無名へ引き寄せようとするかもしれぬ』


「未定を無名に変える、ということですか」


『そうじゃ。決めていないなら、捨てたのと同じ。そう囁いてくるじゃろうな』


 胸の奥が、少し冷える。


 それはありそうだった。


 未定は選ぶまでの時間。


 俺たちはそう答えた。


 でも、扉の声から見れば、決めていないことは捨てたことに見えるのかもしれない。


 アリシア様の声が通信水晶から届く。


『レン様。夢の中で迷った時は、ご自身の名前を先に確認してください。才能名が未定でも、レン様の本人名は固定されています』


「はい。レン・クロフォード」


『はい』


 それだけで、少し落ち着いた。


 俺は香草茶を飲み、ベッドに入った。


 全員が部屋を出る前に、名前確認をする。


「レン」


「はい。リリア」


「レン」


「はい。セリカさん」


「レン」


「はい。ノエル」


「レン様」


「はい。ユリアナ先輩」


「レン・クロフォード」


「はい。アイリス」


『レン』


「はい。ミュレア」


『レン様』


「はい。アリシア様」


 名前が、ひとつずつ灯る。


 俺は確認票を机に置いたまま、目を閉じた。


 才能名は、未定。


 無名ではない。


 そう自分に言い聞かせながら。


     ◇


 夢の中で、俺は相談室にいた。


 現実の相談室とよく似ている。


 机があり、椅子があり、受付箱がある。


 けれど、窓の外は真っ白だった。


 廊下もない。


 扉もない。


 ただ、相談室だけが、白い空間に浮かんでいる。


 机の上には、一枚の相談票が置かれていた。


 本人名欄。


 空白。


 保護印欄。


 未定。


 相談内容。


 ――未定は、名前ですか。


 俺は息を吐いた。


「来たな」


 声に出すと、相談室の隅に黒い扉が現れた。


 いつもの扉だ。


 でも、今日は少し様子が違う。


 扉は完全には開いていない。


 隙間から、灰色の光が漏れている。


 向こうの存在は、まだ姿を見せない。


 声だけが響いた。


 ――未定。


 ぎこちない響きだった。


 まるで、初めて触れる言葉を舌の上で転がしているような声。


 俺は自分の胸元に手を当てる。


 確認票はない。


 木剣もない。


 でも、名前はある。


「レン・クロフォード」


 まず名乗る。


 黒い扉の向こうが、少しだけ揺れた。


 ――レン・クロフォード。


 向こうが、俺の名前を繰り返す。


 前より少しだけ滑らかだった。


 それが嬉しいような、怖いような、変な感覚だった。


「はい。レン・クロフォードだ」


 ――未定。


「俺の才能名は、まだ未定だ」


 ――名ではない。


「正式な名ではない」


 ――なら、無。


「違う」


 俺はすぐに言った。


「未定は、無じゃない」


 黒い扉の隙間が少し広がる。


 ――決まらぬもの。


「そうだ」


 ――持たぬもの。


「違う。まだ選んでいないものだ」


 ――選ばぬもの。


「それも違う。選ぶ前に、考えているものだ」


 扉の声は黙った。


 夢の相談室に、時計の音はない。


 代わりに、自分の心臓の音だけが聞こえる。


 ――なぜ、決めぬ。


「まだ、怖いから」


 俺は正直に言った。


 扉の声が、わずかに揺れる。


「好感度限界突破という仮称はある。才能覚醒リンクという機能名もある。でも、正式名にするには怖い」


 ――怖い。


「俺の力は、誤解されやすい。好意支配とか、危険な洗脳能力とか、人を惚れさせるだけの力とか。そう呼ばれたら、俺自身も信じてしまいそうになる」


 夢の相談室の机に、黒い文字が浮かぶ。


 好意支配。

 危険な洗脳能力。

 便利な覚醒装置。


 見慣れた、嫌な名前。


 俺はそれを見て、少しだけ呼吸が乱れた。


 でも、目を逸らさない。


「だから、まだ正式名を決めない。未定にしている。逃げかもしれない。でも、無理に決めて嫌な名前で固まるよりは、未定の方がいい」


 ――未定は、盾。


「そうだ。セリカさんなら、そう言う」


 黒い扉が静かに揺れた。


 ――未定は、状態。


「ノエルならそう言う」


 ――未定は、保護印。


「ユリアナ先輩なら、そう整理する」


 ――未定は、休む場所。


「リリアやアイリスなら、そう感じるかもしれない」


 ――未定は、仮の灯。


「ミュレアが言った」


 扉の向こうから、初めて少し違う気配が漏れた。


 笑った、のかもしれない。


 いや、そんなはずはないかもしれない。


 でも、何かが少し緩んだように感じた。


 ――多い。


「うん。未定には、いろんな意味がある」


 ――名は、一つではない。


「名前も同じだと思う」


 俺は机の上の相談票を見る。


「同じ名前でも、傷になることがある。灯みたいに、大事だった呼び名が重くなることもある。雨みたいに、からかいと魔術の意味が混ざることもある。羽みたいに、家名を捨てたいわけじゃないのに重くなることもある」


 ――だから、捨てる。


「違う」


 俺は首を振った。


「捨てるだけじゃない。休ませる。意味を分ける。距離を置く。持ち方を変える。未定にする」


 黒い扉の隙間から、灰色の光が少し強くなった。


 ――面倒。


「面倒だよ」


 俺は苦笑した。


「すごく面倒だ。書類も増えるし、確認も増えるし、俺もよく倒れかけるし」


 ――なぜ。


「面倒でも、その方が人を見失わないから」


 扉の声が沈黙した。


 夢の相談室の空気が、少しだけ重くなる。


 ――見失う。


「そうだ。名前を全部捨てたら、傷つかないかもしれない。でも、誰かが倒れても呼べない。助けてと言う相手も、助ける相手も、輪郭が薄くなる」


 ――輪郭。


「名前は輪郭になる。でも、きつく描きすぎると鎖になる。だから、線の濃さを本人が選べるようにするんだと思う」


 自分で言いながら、少し驚いた。


 名前は輪郭。


 強すぎれば縛る。

 薄すぎれば見失う。


 未定は、その線をまだ描き切らないための余白なのかもしれない。


 黒い扉の向こうから、ゆっくり声が来た。


 ――未定は、輪郭の前。


「そうかもしれない」


 ――名になる前。


「うん」


 ――無名ではない。


「そうだ」


 俺は深く頷いた。


「未定は、無名じゃない」


 相談票の保護印欄が、淡く光った。


 未定。


 その文字が、黒に飲まれず、白い紙の上に残っている。


 すると、黒い扉が少しだけ開いた。


 奥に、またあの灰色の存在が見えた。


 顔のない輪郭。


 名前を書く場所だけが空白になっているような、人影。


 けれど、今日は前より少しだけ形がはっきりしている。


 ――わたしは。


 声が止まった。


 俺は息を詰めた。


 今、初めて。


 向こうが、自分を指して「わたし」と言いかけた。


 おまえ、ではなく。


 無名、でもなく。


 わたし。


 扉の向こうの存在は、すぐに揺らいだ。


 ――違う。


 灰色の光が乱れる。


 ――不要。


 ――名は不要。


 ――わたしも不要。


「待って」


 俺は思わず一歩前に出た。


 だが、その瞬間、夢の相談室の床に黒いひびが走った。


 近づきすぎた。


 踏み込みすぎたのだ。


 ミュレアの声が、どこか遠くから聞こえた気がした。


 深追いするな。


 俺は足を止めた。


「分かった。今日は聞かない」


 黒い扉の揺れが、少しだけ弱まる。


「でも、今のは消さなくていい」


 ――今の。


「わたし、って言いかけたこと」


 扉の向こうの存在は、しばらく沈黙した。


 それから、小さな声で言った。


 ――未定。


 俺は、その言葉の意味を考えた。


 それは、俺の才能名の未定ではなかった。


 保護印としての未定でもない。


 向こう自身の状態を、そう呼んだのかもしれない。


 自分をまだ名乗れない。

 でも、完全な無名ではない。

 選ぶ前の場所にいる。


 そんな未定。


「……そうだな」


 俺は静かに答えた。


「今は、未定でいい」


 黒い扉の向こうから、かすかに反応があった。


 拒絶ではない。


 攻撃でもない。


 ただ、その言葉を置いてみるような気配。


 ――未定。


 もう一度。


 今度は少しだけ、穏やかだった。


     ◇


 目を覚ました時、朝ではなかった。


 まだ夜明け前。


 部屋は暗く、窓際の氷結界が淡く光っている。


 ひびは入っていない。


 ただ、表面に小さな水滴のようなものがついていた。


 夢干渉検知具は、静かに青く光っている。


 危険反応ではない。


 記録反応だ。


「レン」


 扉の外から、セリカさんの声。


 すぐにリリアの声もする。


「起きていますか?」


「はい」


 返事をすると、扉が開いた。


 リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナ先輩。

 少し遅れて、アイリス。

 通信水晶のミュレアとアリシア様。


 もう、この流れにも慣れてきた。


 前世の俺なら考えられないが、夢に黒い扉が出る生活も、相談窓口メンバーの即時集合も、今では日常に近い。


 いや、日常にしてはいけない気もする。


「名前確認です」


 リリアが言う。


「レン」


「はい。リリア」


「レン・クロフォード」


「はい」


「才能名は?」


「未定です」


「無名では?」


「ありません。未定です」


 リリアがほっと息を吐く。


「大丈夫そうですね」


 ノエルが検知具を見る。


「強い接触。でも攻撃反応なし。むしろ対話反応」


 ユリアナ先輩が記録用紙を開く。


「話せますか?」


「はい」


 俺は夢の内容を話した。


 相談室。

 未定の相談票。

 扉の声が「未定」と繰り返したこと。

 未定は名ではなく、無でもなく、選ぶまでの時間だと話したこと。

 名前は輪郭であり、濃すぎれば鎖、薄すぎれば見失うと言ったこと。


 そして。


「向こうが、“わたしは”と言いかけました」


 その瞬間、全員の表情が変わった。


 ミュレアの声が低くなる。


『ほう』


 ノエルが記録板に素早く書く。


「自己指示語、初出」


 ユリアナ先輩も真剣な顔で頷く。


「重要です。これまで相手は、自分自身をほとんど示していませんでした」


 アイリスが静かに言う。


「自分を“わたし”と呼ぶことも、名前の前段階なのでしょうか」


「たぶん」


 俺は頷いた。


「でも、すぐに否定しました。わたしも不要、みたいに」


 リリアが胸元に手を添える。


「自分を示すことも怖いのかもしれません」


「はい」


 セリカさんが腕を組む。


「それで、最後に未定って言ったの?」


「はい。俺の未定というより、自分の状態として置いたように聞こえました」


 部屋が静かになる。


 アリシア様の声が通信水晶から響いた。


『王宮結界にも、同時刻に小さな反応がありました。第四の系統の波形が、これまでより少しだけ安定していました』


「安定?」


『はい。強い干渉ではなく、自己確認に近い反応です』


 自己確認。


 扉の声が、自分を未定として確認した。


 もしそうなら、大きな変化だ。


 ミュレアが言う。


『よい兆候じゃ。だが、危うくもある』


「危うい?」


『自分を示しかけた者は、次に自分の傷へ触れる。名を拒む理由の根に近づくじゃろう。そこで暴れる可能性がある』


 その声は真剣だった。


 リリアが頷く。


「次は、扉の声自身の傷に触れるかもしれないのですね」


 ユリアナ先輩が記録を閉じる。


「ならば、次回以降はより慎重に。レン様の単独接触は避けるべきです」


「夢の中で、単独じゃない方法ってありますか?」


 俺が聞くと、ノエルの目が光った。


「あるかも」


「あるんですか」


「夢干渉検知具を改良する。名前確認リンクを補助すれば、仲間の声を届きやすくできる可能性」


 リリアがすぐに言う。


「負荷は大丈夫でしょうか」


「要検証。短時間」


 セリカさんが釘を刺す。


「レンで実験しすぎない」


「分かってる」


 本当だろうか。


 ノエルの目が研究者のそれになっている。


 ユリアナ先輩が冷静にまとめた。


「次の夢接触に備え、名称固定支援の安全な形を検討します。ただし、レン様の睡眠を削る形では行いません」


「ありがとうございます」


 俺が言うと、セリカさんがすかさず言った。


「今日は二度寝」


「はい」


「素直」


「学習しました」


 リリアが微笑む。


「それも、よい未定からの成長ですね」


「未定からの成長、という表現は新しいですね」


 ミュレアが笑う。


『よいではないか。未定は止まる場所であり、進む前の場所でもある。そなたらしい』


「褒めていますか?」


『八割ほどな』


「高い」


『ただし、菓子は二品――』


「一品です」


『白き娘! 八割褒めたのじゃぞ!』


「体調管理です」


 夜明け前の部屋に、少しだけ笑いが戻る。


 黒い扉の声は、まだ危険だ。


 次に何を見せてくるか分からない。


 でも今日、ひとつだけ分かった。


 未定は、何もないことではない。


 俺だけでなく、扉の声にとっても。


 自分をまだ名乗れない存在が、初めて置いた小さな場所。


 それが、未定だった。


     ◇


 再び眠る前に、俺は確認票を見た。


 才能名:未定。


 その文字が、昨日より少し違って見える。


 弱さではない。

 逃げでもない。

 無名でもない。


 選ぶまでの時間。


 輪郭を描く前の余白。


 自分を消さないための、仮の灯。


 俺は小さく呟いた。


「レン・クロフォード」


 名前はある。


 才能名は未定。


 それで今は十分だ。


 そして、黒い扉の向こうの声も。


 まだ名はない。


 でも、完全な無ではない。


 未定という場所に、ほんの少しだけ立ち始めた。

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