第94話 保護印制度、正式試験運用開始
黒い紙片に残された問いは、相談室の机の中央に置かれていた。
――なら、名はなぜ必要か。
その一文は、朝になっても消えていなかった。
紙片そのものは小さい。
けれど、そこから伸びる影は、相談窓口全体を覆っているように感じられた。
名前を書けない者。
名前を休ませたい者。
名前の意味を分けたい者。
家名との距離を置きたい者。
名乗り続けることに疲れた者。
俺たちは、その一人ひとりと向き合ってきた。
その結果、扉の声は問いを投げてきた。
名が傷になるなら。
名が重荷になるなら。
名が嘘や責任や役割を背負わせるなら。
それでも、名はなぜ必要なのか。
簡単に答えられる問いではない。
けれど、答えを急ぐ前に、今日やるべきことがあった。
保護印制度の正式な試験運用である。
◇
学園長室では、朝から臨時会議が開かれていた。
学園長。
各科の代表教師。
生徒会からユリアナ先輩。
相談窓口側として、リリア、セリカさん、ノエル、俺。
通信水晶越しに、ミュレアとアリシア様。
そして、少し離れた席にアイリスもいた。
昨日までの相談対応で、守護氷結による結界補助が有効だと分かってきたからだ。
本人は「試用中です」と言い張っているが、もはや相談室の安全管理に欠かせない存在になりつつある。
「では、保護印制度の正式試験運用について確認します」
ユリアナ先輩が、作成した書類を配った。
昨夜、また寝る時間を削ったのだろう。
リリアが書類を受け取りながら、静かに言った。
「ユリアナさん、今日は必ず休憩を取ってくださいね」
「はい。会議後に」
「会議後ではなく、昼にもです」
「……はい」
ユリアナ先輩が少しだけ目を逸らした。
会議室の空気がほんの少し和らぐ。
こういう柔らかさも、今の相談窓口には必要だった。
ユリアナ先輩は気を取り直して説明を始める。
「保護印制度は、本人名の記入が困難な相談者に対し、一時的な保護印を用いて相談記録を行う制度です。目的は、本人名の削除や責任回避ではなく、相談初期段階の負荷軽減です」
教師たちが資料に目を落とす。
「対象は四分類に限りませんが、試験運用上、現在確認されている相談傾向を四つに整理します」
リリアが横に立ち、掲示用の説明板を広げた。
そこには、丁寧な文字でこう書かれている。
一、呼ばれたくない名前。
二、休ませたい名前。
三、意味を分けたい名前。
四、距離を置きたい名前。
リリアは、一つずつ説明した。
「呼ばれたくない名前は、今その名前で呼ばれること自体が苦しい場合です。たとえば、本名や家名に役割や予定が強く結びついてしまう時です」
未定さんのことだ。
だが、もちろん個人名は出さない。
「休ませたい名前は、大事だった呼び名でも、今は期待や失敗の記憶と結びついていて苦しい場合です。削除するのではなく、本人の希望で一時的に使わない形にします」
灯さん。
「意味を分けたい名前は、からかいや嘲笑と、自分の好きだった意味が混ざってしまった場合です。呼称そのものを急いで捨てず、本人が受け止められる意味へ分け直します」
雨さん。
「距離を置きたい名前は、家名や肩書きや役割を否定したいわけではないけれど、常に背負い続けることが苦しい場合です。本人名、家名、役割名を一時的に分離して記録します」
羽さん、そして昨日の男子生徒。
リリアの説明は穏やかで、分かりやすかった。
感情に寄り添いながら、制度としても崩れない。
隣で聞いていたセリカさんが、小さく呟く。
「リリア、説明上手くなったわね」
リリアが少し顔を赤くする。
「そ、そうでしょうか」
「うん。前より強い」
「ありがとうございます」
そのやり取りに、教師たちの表情も少し緩んだ。
ノエルが続いて、魔力的な安定性について説明する。
「保護印は、本人が選んだ場合、第四の系統干渉に対して一定の安定性を示す」
教師たちの視線がノエルへ向く。
ノエルは記録板を光らせ、簡単な図を出した。
「本人名を無理に書かせると、名前と役割の過負荷が上がる。完全匿名にすると、記録の輪郭が弱くなる。でも、本人が選んだ保護印は、その中間になる」
「中間?」
魔術科主任が問う。
ノエルは頷いた。
「本人を縛りすぎず、見失いすぎない。魔力記録としても、本人意思が入った印は安定する」
分かりやすい。
ノエルは言葉数こそ少ないが、こういう時の説明は鋭い。
「ただし、他人が勝手に保護印をつけると逆効果。本人選択が重要」
ユリアナ先輩が補足する。
「したがって、保護印は相談者本人が選択します。未定も選択肢です。担当者が便宜上つける場合は、必ず“仮記録”と明記し、本人確認後に変更できるようにします」
貴族教養科の教師が静かに頷いた。
昨日より、表情が少し柔らかい。
「なるほど。名前を隠す制度ではなく、相談へ入るための一時的な保護形式ということですね」
「はい」
ユリアナ先輩が答える。
「また、悪用を防ぐため、他者への告発、学則違反、危害の恐れがある相談については、封印記録による本人確認へ移行します」
記録管理担当教師も資料を確認して言った。
「封印記録の閲覧権限も明確です。これなら、最低限の管理は可能でしょう」
学園長が全体を見渡した。
「では、保護印制度を本日より正式試験運用とします。相談窓口、生徒会、各科代表教師で連携してください」
その言葉に、リリアがほっと息を吐いた。
セリカさんが小さく拳を握る。
ノエルは記録板に「正式試験運用開始」と書いた。
俺も、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
これで救える相談がある。
もちろん、問題も起こるだろう。
でも、入口はできた。
◇
正式試験運用の告知は、その日の昼前に掲示された。
相談窓口の前、教室棟の掲示板、図書館棟の入口、訓練場横。
人目につく場所に、同じ説明文が貼られる。
ただし、文章だけではない。
リリアの提案で、説明は柔らかい見出しつきになった。
呼ばれたくない名前がありますか。
休ませたい名前がありますか。
意味を分けたい名前がありますか。
少し距離を置きたい名前がありますか。
未定でも構いません。
この最後の一文は、かなり目を引いた。
掲示板の前には、すぐに学生たちが集まった。
「未定でも構いません、か」
「名前の相談って、ここまでやるんだな」
「保護印って完全匿名じゃないのか」
「封印記録があるなら、悪口のためには使えなさそう」
「でも、助かる人はいるかも」
反応はさまざまだ。
完全に好意的ではない。
だが、昨日のような「ずるい」「嘘つき」という短い言葉だけではなくなっていた。
説明を読んだ上で、考えている声が増えている。
その様子を見て、リリアが小さく言った。
「少し、届いていますね」
「はい」
俺は頷いた。
「全部じゃないですけど」
「全部でなくても、少しずつでいいと思います」
セリカさんが壁にもたれて言う。
「一気に分からせようとすると、反発も強くなるしね」
ノエルも頷く。
「段階的理解」
ユリアナ先輩が少しだけ表情を緩める。
「相談制度も、理解も、段階が必要ですね」
その時、廊下の向こうから声がした。
「あの、これ……保護印相談って、今日から使えるんですか?」
振り返ると、下級生らしい男子生徒が立っていた。
手には、掲示から写したらしいメモを持っている。
顔は緊張している。
でも、逃げずにこちらを見ている。
リリアが優しく答えた。
「はい。今日から試験運用です」
「本名は、最初に書かなくても?」
「はい。相談内容によっては後で必要になることもありますが、最初は保護印で大丈夫です」
男子生徒は、ほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ……あとで、行きます」
「お待ちしています」
彼は小さく頭を下げて走っていった。
セリカさんが見送って言う。
「さっそくね」
「はい」
リリアの声は少し震えていた。
嬉しいのか、怖いのか。
たぶん、両方だ。
◇
午後、相談室は久しぶりに忙しくなった。
保護印相談が一気に押し寄せたわけではない。
でも、「制度について聞きたい」という学生が何人も来た。
保護印は後で変えられるのか。
家名を完全に隠すことはできるのか。
才能名だけ未定にできるのか。
呼ばれたくないあだ名を、周囲にやめてもらえるのか。
休ませたい名前を、もう一度使えるようになることはあるのか。
質問は具体的だった。
それだけ、名前の問題を抱えている学生がいるということだ。
ユリアナ先輩は一つずつ制度として答えた。
リリアは相手の不安を受け止めた。
セリカさんは、相手が言いにくそうにしている怒りを拾った。
ノエルは、魔術的な影響や才能名の安定性を説明した。
俺は、必要な時だけ表示を確認した。
その中で、俺はあることに気づく。
俺の才能名未定も、保護印に近い。
好感度限界突破。
才能覚醒リンク。
好意支配。
便利な覚醒装置。
周囲から色々な名前をつけられかける中で、俺はまだ正式名を選べていない。
でも、未定のまま保護している。
それは、逃げではない。
選ぶまでの時間だ。
そして、勝手に嫌な名前で固定されないための盾だ。
「レン」
リリアが気づいたように声をかける。
「はい」
「今、自分のことを考えていましたか?」
「分かります?」
「少し」
リリアは柔らかく笑った。
「レンの才能名も、未定で守られていますね」
「はい。保護印制度を作っていて、自分も同じなんだなと」
「それでいいと思います」
「いいんですかね」
「はい。レンが自分の力を大切に扱おうとしている証拠です」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
大切に扱う。
俺はまだ、自分の力を完全に好きにはなれていない。
でも、怖いから捨てるのではなく、どう使うかを考え続けている。
それも、保護なのかもしれない。
セリカさんが横から言う。
「レンの力も、休ませる時は休ませること」
「はい」
「未定でも、無制限じゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
セリカさんは少しだけ目を細めたが、今回は追及しなかった。
成長した。
俺が。
たぶん。
◇
夕方近く、アイリスが相談室の窓際に立った。
「外部干渉防壁を試します」
彼女の足元に、白銀の魔術陣が広がる。
昨日より、明らかに安定していた。
氷は鋭くない。
冷たすぎない。
薄く、透明で、光を通す結界のように相談室を包む。
「守護氷結」
アイリスが小さく呟いた。
以前なら、言うだけで照れていた名前だ。
今も少しだけ頬は赤い。
けれど、声はまっすぐだった。
結界が相談室の壁に沿って広がり、受付箱と記録棚、机の上の相談票を柔らかく守る。
ノエルが測定具をかざす。
「安定。冷気過多なし。外部干渉があると反応する」
リリアが微笑む。
「とても綺麗です」
アイリスは視線を逸らした。
「防壁として必要な形です」
セリカさんがにやりと笑う。
「褒められ慣れないわね」
「……慣れる必要がありますか」
「あるんじゃない?」
「未定です」
ノエルが即座に言う。
「良い未定」
アイリスは少しだけ困った顔をした。
でも、その表情は以前よりずっと柔らかかった。
俺は表示を見る。
アイリス・ヴェルナー
試用才能名:守護氷結
本人受容:中〜高
状態:安定
備考:正式固定は本人の判断待ち
「かなり安定しています」
俺が言うと、アイリスは小さく頷いた。
「まだ正式固定はしません」
「はい」
「でも、嫌ではありません」
「それも大事です」
彼女は、ほんの少し笑った。
◇
日が沈む頃、受付箱が淡く光った。
全員が手を止める。
また保護印相談かと思った。
だが、箱の中に入っていたのは黒い紙片だった。
今日も、白い文字が浮かんでいる。
――未定は名か。
部屋の空気が変わった。
ついに来た。
詳細プロットで予想していた問いそのものだ。
未定は名か。
リリアが小さく言った。
「未定は……名前なのでしょうか」
セリカさんが腕を組む。
「名前っていうより、状態じゃない?」
ノエルが即答する。
「状態。未決定状態。けど、保護印として機能してる」
ユリアナ先輩が続ける。
「制度上は保護印です。ただし、本人を呼ぶための正式名ではありません」
アイリスが静かに言う。
「休む場所、のようにも思えます」
「休む場所……」
リリアがその言葉を受け取る。
「決めるまでの場所。呼ばれたくない名前から離れて、息を整える場所」
ミュレアが通信越しに言った。
『ふむ。名ではない。だが、無ではない。未定とは、選ぶ時間を守るための仮の灯じゃな』
「また良いこと言いましたね」
『当然じゃ。では菓子――』
「一品です」
『まだ全部言っておらぬ!』
この流れでも通常運転なのが、ある意味ありがたい。
俺は黒い紙片を見つめた。
未定は名か。
問いは短い。
でも、とても深い。
俺自身の才能名にも関わる。
俺はまだ、自分の力に正式な名前をつけていない。
好感度限界突破という仮称はある。
才能覚醒リンクという機能名もある。
でも、正式名は未定。
それは名前なのか。
状態なのか。
逃げなのか。
選ぶための時間なのか。
俺は、すぐには答えなかった。
ユリアナ先輩が紙とペンを用意する。
「返答しますか?」
「はい。でも、一人で書きたくありません」
俺はみんなを見た。
「相談窓口として答えたいです」
リリアが頷く。
「はい」
セリカさんも。
「それがいい」
ノエル。
「共同回答」
アイリス。
「私も、少しなら」
ミュレア。
『妾の名言も入れよ』
「一品です」
『白き娘!』
少し笑いが起きる。
その笑いのあと、俺たちは言葉を選んだ。
ユリアナ先輩が書く。
――未定は、正式な名ではありません。
リリアが続ける。
――けれど、何もないという意味でもありません。
セリカさんが言う。
――決めろと詰められた時、自分を守るための盾です。
ノエルが言う。
――状態であり、保護印です。本人が選ぶまでの記録点です。
アイリスが静かに言う。
――呼ばれたくない名から離れて、息をする場所です。
ミュレアが言う。
――選ぶ時間を守る仮の灯です。
最後に、俺が言った。
――俺にとって未定は、逃げではなく、選ぶまでの時間です。
ユリアナ先輩が、その言葉を丁寧に書き込んだ。
黒い紙片の横に、返答用紙を置く。
しばらく何も起きない。
やがて、黒い紙片の文字が揺れた。
――選ぶまでの時間。
その一文だけが、新しく浮かんだ。
攻撃はない。
扉も開かない。
ただ、向こうがこちらの答えを反芻しているようだった。
ノエルが測定具を見る。
「反応、静か。観測継続」
ユリアナ先輩が息を吐く。
「今日のところは、これで十分でしょう」
リリアが俺を見る。
「レン、大丈夫ですか?」
「はい。少し重いですが、大丈夫です」
セリカさんがすかさず言う。
「休む」
「はい」
「今日は素直ね」
「未定は休む場所でもありますから」
俺が言うと、セリカさんは少しだけ笑った。
「分かってきたじゃない」
◇
夜、相談室を閉める前に、俺はもう一度掲示文を見た。
未定でも構いません。
その一文が、昨日より少し違って見えた。
未定は名ではない。
でも、無でもない。
選ぶ時間を守る場所。
俺の才能名も、そこにいる。
いつか名前をつける日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
でも、今は未定でいい。
それは、黒い扉から逃げるためではない。
むしろ、向き合い続けるために必要な余白だ。
通信水晶から、アリシア様の声が静かに届いた。
『本日の王宮結界記録にも、黒い紙片への返答後、第四の系統反応が穏やかになった形跡があります』
「少しは届いているのでしょうか」
『断言はできません。でも、対話は続いています』
対話。
危険で、不安定で、何度も傷に触れる対話。
でも、続いている。
ミュレアが言った。
『レン。次は夢に来るぞ』
「やっぱりですか」
『来るじゃろうな。“未定”という言葉を、向こうが直接確かめに来るはずじゃ』
リリアがすぐに言う。
「今夜も睡眠時確認をします」
セリカさんも。
「木剣、枕元」
ノエル。
「夢干渉検知具、調整済み」
ユリアナ先輩。
「起床後記録の準備もしておきます」
アイリス。
「氷結界も張ります」
みんな、当たり前のように動いてくれる。
俺は胸元の学生証に触れた。
「レン・クロフォード」
名前は、ちゃんとある。
才能名は、まだ未定。
でも、その未定も、今は少しだけ頼もしく思えた。




