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第93話 名前を書かない相談者は、嘘つきなのか

 翌朝、相談窓口の前には、いつもより人が多かった。


 相談者の列ではない。


 見物人だ。


 廊下の壁際に、数人ずつ固まっている。

 表向きは掲示板を読んでいるふりをしている者もいれば、明らかにこちらの様子をうかがっている者もいる。


 昨日貼り出した保護印制度の掲示。


 あれが、学園内で思った以上に話題になっていた。


 名前を書かなくても相談できる。

 本名を伏せたまま、保護印で記録できる。

 呼ばれたくない名前を、休ませることができる。

 家名や役割名と、自分の名前を一度分けられる。


 必要な人にとっては、息をするための入口だ。


 だが、必要ない人から見れば、こう見えるらしい。


 ずるい。


 責任逃れ。


 匿名で何でも言える制度。


 名前を書かない相談者は、嘘つきなのではないか。


 俺は、廊下に立つ学生たちの視線を受けながら、思わず肩をすくめた。


「レン、背中が丸い」


 セリカさんが横から言った。


「視線が刺さるんです」


「刺さっても丸くならない」


「精神論が強い」


「背筋を伸ばすと、少しは負けてない感じが出る」


「誰に?」


「視線に」


 セリカさんらしい答えだった。


 意味があるような、ないような。


 でも、言われた通り少し背筋を伸ばすと、たしかに気持ちが少しだけましになった。


 リリアは相談室の入口で、掲示文を見直していた。


 彼女の表情は穏やかだが、少しだけ緊張がある。


「やはり、“名前を書かなくても相談できる”という部分だけが広がっているようですね」


 ユリアナ先輩が頷いた。


「はい。制度の目的より、表面的な印象が先に伝わっています」


 ノエルは記録板を見ながら、淡々と言った。


「情報伝達の偏り。短い噂ほど強い」


「嫌な性質ですね」


「でも事実」


 通信水晶からミュレアが鼻で笑う。


『人は長い説明より、短い誤解を好むからのう』


「身も蓋もないです」


『だからこそ、物語には分かりやすい見せ場が必要なのじゃ』


「また読者目線ですね」


『大事じゃぞ。制度説明だけでは人は読まぬ。怒る者、泣く者、救われる者がいて、ようやく理解される』


 悔しいが、少し分かる。


 保護印制度の説明だけを読んでも、実感は湧きにくい。


 未定、灯、雨、羽。


 それぞれの相談があったから、俺たちは制度の意味を理解できた。


 でも、その内容を外へそのまま出すことはできない。


 相談者の秘密を守る必要がある。


 だから、誤解が生まれる。


「難しいですね」


 俺が呟くと、ユリアナ先輩が静かに言った。


「難しいです。だから、制度にします」


「そこに戻るんですね」


「はい。感情に頼ると、対応する者によって結果が変わります。制度は冷たいように見えますが、一定の温度で守るために必要です」


 その言葉は、ユリアナ先輩らしかった。


 冷たいわけではない。


 むしろ、温度を保つために制度を作る。


 相談窓口は、そういう場所になりつつある。


     ◇


 午前の相談が始まってすぐ、例の男子生徒が来た。


 昨日、保護印制度に反対していた貴族教養科の生徒だ。


 姿勢は相変わらず整っている。

 制服の襟も、袖も、完璧に正しい。

 ただ、顔色は昨日より少し悪かった。


 彼は相談室の入口で一度足を止めた。


 廊下にいた見物人たちが、ちらりと彼を見る。


 彼はその視線に気づいているはずだ。


 だが、逃げなかった。


「……昨日の件で、話があります」


 声は硬い。


 けれど、昨日ほど攻撃的ではなかった。


 ユリアナ先輩が頷く。


「どうぞ。座りますか?」


「いえ、立ったままで」


 そう言いかけて、彼は少し黙った。


 昨日、セリカさんに「ここでまで無理に背筋伸ばさなくてもいい」と言われたことを思い出したのかもしれない。


「……座ります」


 椅子に座った。


 それだけで、少し大きな一歩に見えた。


 リリアが温かいお茶を置く。


「飲めそうなら、どうぞ」


「ありがとうございます」


 彼は礼を言ったが、すぐには飲まなかった。


 両手を膝の上に置き、背筋を伸ばしたまま言う。


「私は、まだ保護印制度に全面的に賛成したわけではありません」


 セリカさんが小さく笑う。


「律儀ね」


「重要なことです」


「うん。そうね」


 セリカさんは否定しなかった。


 彼は少しだけ拍子抜けしたような顔をした。


 ユリアナ先輩が促す。


「続けてください」


「名前を書かない相談には、やはり危うさがあると思います。誰が言ったか分からない言葉は、簡単に人を傷つけることができます」


「はい」


 ユリアナ先輩は頷く。


「その懸念は正当です」


「……正当、ですか」


「はい。制度運用に必要な視点です」


 彼は少し目を伏せた。


 反対意見をすぐに敵扱いされると思っていたのかもしれない。


「ですが」


 彼は続ける。


「昨日、受付票を持ち帰って考えました」


 鞄から、一枚の紙を取り出す。


 昨日ノエルが渡した受付票だ。


 本人名欄は空白。


 保護印欄も空白。


 相談内容欄には、何も書かれていない。


 ただ、紙の端が少しだけ曲がっている。


 何度も持ち、何度も書こうとして、結局書けなかったような跡だった。


「私は、名前を書こうとしました」


 彼の声が少しだけ低くなる。


「簡単なはずでした。名前を書くことは、ずっとしてきたことです。家名も、個人名も、肩書きも、何度も書いてきました」


「はい」


「でも、この相談票には書けませんでした」


 リリアが静かに聞いている。


 彼は紙を見つめたまま言った。


「相談内容を書こうとすると、名前を書けない人間の気持ちが少しだけ分かりました。名前を書くと、内容が変わってしまうのです」


「内容が変わる?」


 俺が聞くと、彼は頷いた。


「私の名前を書いた瞬間、これは私個人の相談ではなく、家の相談になる。家の名誉、家の教育、家の方針。それらを背負った発言になる」


 彼の指が、紙の端を押さえる。


「そう思うと、何も書けなくなりました」


 相談室が静かになった。


 昨日、彼は言った。


 名前を書かない相談は責任逃れだと。


 でも実際には、名前を書いた瞬間に背負わされる責任が重すぎて、言葉が出なくなる人間がいる。


 そして彼自身も、その一人だった。


「私は、名前を書かない相談者を嘘つきだと思っていました」


 彼は、苦しそうに言った。


「けれど、書けないからといって、嘘をつこうとしているわけではないのですね」


 ユリアナ先輩が静かに答える。


「はい。もちろん、悪用する者が出る可能性はあります。ですが、書けないこと自体を嘘とは扱いません」


「……そうですか」


 彼は小さく息を吐いた。


 リリアが尋ねる。


「今日は、相談として来られましたか。それとも、制度への意見として来られましたか?」


 彼は即答できなかった。


 少し考えたあと、言った。


「両方、かもしれません」


「では、両方として扱いましょう」


 ユリアナ先輩は新しい記録用紙を取り出した。


「制度意見と個人相談を分けて記録できます。個人相談は、必要なら保護印で扱います」


 彼は紙を見つめた。


「私は、保護印を使う資格があるのでしょうか」


 その言葉は、昨日までの彼からは想像しにくいものだった。


 資格。


 彼にとって、助けを求めるにも資格が必要なのかもしれない。


 セリカさんが少し強めに言った。


「資格って何。苦しいなら使えばいいでしょ」


「しかし、私は反対していた側です」


「反対してたら相談しちゃ駄目なの?」


「……」


「そんな制度なら、こっちから願い下げよ」


 乱暴だが、的確だった。


 リリアも優しく言う。


「反対していたからこそ、見えたこともあると思います」


 ノエルが淡々と付け加えた。


「制度改善に役立つ相談者」


「私は、実験材料ですか?」


 彼が少しだけ眉をひそめる。


 ノエルは真顔で首を横に振った。


「違う。協力者」


「協力者……」


「嫌なら未定」


 彼は、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


「その未定という言葉は、便利ですね」


「便利」


 ノエルは満足そうに頷いた。


     ◇


 保護印を選ぶ段階で、彼はかなり迷った。


 花。

 星。

 月。

 灯。

 雨。

 羽。

 白紙。

 未定。


 候補を見つめ、何度も視線を行き来させる。


「どれも、自分には似合わない気がします」


「自由記述もできます」


 ユリアナ先輩が言う。


「自由と言われると、余計に難しいですね」


「分かります」


 俺が思わず言うと、彼は少し驚いたように俺を見た。


「レン・クロフォードさんでも、難しいのですか」


「俺の才能名、まだ未定ですから」


「ああ……」


 彼は少し考えたあと、納得したように頷いた。


「そうでしたね」


「未定って、決められない逃げにも見えますけど、今の俺には必要なんです」


「必要な未定」


「はい」


 彼は保護印欄にペンを置いた。


 だが、まだ書けない。


 リリアが優しく言った。


「今日は決めなくても大丈夫ですよ」


「保護印も未定でよいのですか」


「はい」


「……では」


 彼は保護印欄に、丁寧な字で書いた。


 未定。


 そして、その横に小さく括弧を書き足した。


 制度意見兼相談。


 ユリアナ先輩がそれを見て頷く。


「保護印は未定。相談種別は制度意見兼個人相談。これで記録します」


 彼は、少し肩の力を抜いた。


 次に、相談内容を書く。


 長い沈黙。


 ペン先が止まる。


 紙に落ちた最初の一文は、短かった。


 ――名乗ることを、休みたいです。


 彼はそれを書いたあと、手を止めた。


 その一文だけで、十分だった。


 リリアが静かに言った。


「名乗ることを、休みたい」


「はい」


 彼の声は小さい。


「家名を捨てたいわけではありません。家を恥じているわけでもありません。ただ、いつも名乗る前に、背筋を伸ばして、顔を作って、家の者として正しくあろうとすることに疲れました」


 羽さんに似ている。


 でも、彼の場合はさらに「名乗る行為」そのものに疲れている。


「私は、名乗ることは誇りだと教わりました」


「はい」


「そうだと思います。誇りであるべきだと思います。でも、誇りでなければならないと決められると、苦しい」


 セリカさんが小さく言う。


「誇りも強制されたら重いわね」


 彼は頷いた。


「はい」


 ノエルが記録板に書く。


「誇りの強制。名乗り疲労」


 ユリアナ先輩が少しだけ眉を動かす。


「ノエル様、記録語としては後で調整します」


「分かった」


 だが、言葉としては分かりやすかった。


 名乗り疲労。


 名前を背負い、名乗り続けることに疲れた状態。


 俺は彼に聞いた。


「少しだけ、見てもいいですか。嫌ならすぐ止めます」


 彼は俺を見る。


 ためらいはあった。


 でも、昨日とは違い、逃げるような視線ではなかった。


「お願いします。ただし、家名は」


「言いません。見えてもここでは発話しません」


「ありがとうございます」


 俺は意識を向けた。


保護印:未定

本人名:非表示保護

家名:非表示保護

状態:名乗り疲労、誇り強制、家名責任過負荷

拒否対象:「名乗れない者は信用されない」「家名に恥じるな」「常に家の顔であれ」

本人意思:家名を捨てたいわけではない。名乗ることを少し休みたい

才能名:未定

備考:制度反対感情の一部は、自身が休めなかったことへの痛みに由来


 胸が少し痛んだ。


「本名と家名は保護されています。見えていません」


 彼は、ほっとしたように息を吐いた。


「あなたの状態は、名乗り疲労……という表現が近いかもしれません」


「名乗り疲労」


「はい。家名を捨てたいわけではない。でも、名乗ることを少し休みたい。そう出ています」


 彼は、深く目を閉じた。


「……それです」


「それから、保護印制度への反対感情の一部は、自分が休めなかったことへの痛みと関係しているようです」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 だが、彼は怒らなかった。


 むしろ、静かに笑った。


 苦い笑いだった。


「そうでしょうね。私は、羨ましかったのだと思います」


 リリアが静かに聞く。


「名前を書けない人が?」


「はい。名前を書かなくていいと言われる人が。そんな場所があるなら、なぜ自分が苦しかった時にはなかったのか、と」


 その言葉は、重かった。


 新しい制度は、救われる人を生む。


 同時に、これまで救われなかった人の痛みも浮き上がらせる。


 ユリアナ先輩が、深く頷いた。


「その痛みも、制度を作る上で記録します」


「記録……」


「はい。保護印制度は、名前を書けない者だけの制度ではありません。名前を書き続けなければならなかった者にとっても、必要な入口になり得ます」


 彼は、ゆっくり息を吐いた。


「それなら、少し納得できます」


     ◇


 彼の相談は、制度意見としても重要だった。


 ユリアナ先輩は、その場で保護印制度に補足を加えた。


 保護印相談は、名前を書けない者だけでなく、名前を書くことに過重な負担を感じる者も利用できる。

 ただし、正式な手続きが必要な場合は、封印記録で本人確認する。

 名乗りの休止は、責任放棄ではなく、相談初期段階の負荷軽減として扱う。

 家名・肩書き・役割名と本人名を一時的に分離して記録できる。


 セリカさんがそれを聞いて、ぽつりと言った。


「名前を書く人も、書けない人も、どっちも休めるようにするってことね」


「はい」


 ユリアナ先輩は頷く。


「名前との距離を選ぶ制度ですから」


 男子生徒は、その言葉を聞いて少しだけ表情を和らげた。


「距離を選ぶ……」


 黒い紙片の言葉だ。


 距離を選ぶ名。


 扉の声が置いていった言葉が、今ここで制度の言葉になり始めている。


 少し不思議だった。


 黒い扉は危険だ。


 でも、その問いがなければ、ここまで考えなかったかもしれない。


 相談の最後、彼は受付票を見つめて言った。


「私はまだ、保護印制度に全て納得しているわけではありません」


「はい」


 ユリアナ先輩が答える。


「ですが、必要な人がいることは分かりました」


 彼は立ち上がり、少し迷ってから頭を下げた。


「昨日は、言い方が強すぎました」


 リリアが微笑む。


「意見を言ってくださって、ありがとうございました」


「私は反対意見を言いに来たのですが」


「それでも、大切な意見でした」


 彼は困ったような顔をした。


 褒められ慣れていないのかもしれない。


 セリカさんが軽く手を振る。


「また疲れたら来れば?」


「……考えておきます」


 ノエルが言う。


「未定でいい」


 彼は少しだけ笑った。


「はい。未定で」


 そう言って、相談室を出ていった。


     ◇


 夕方、相談窓口の掲示文は少し改訂された。


 保護印相談は、名前を書けない相談者のためだけではありません。

 名前を書くこと、名乗ること、家名や役割名を背負うことに強い負担を感じる場合にも利用できます。

 これは責任放棄の制度ではなく、相談初期段階の負荷を軽くするための制度です。

 必要に応じて封印記録で本人確認を行います。

 悪用は認めません。

 未定でも構いません。


 掲示板の前には、また学生が集まっていた。


 今度の反応は、昨日とは少し違った。


「名乗るのがつらい人も使えるのか」


「完全匿名じゃないんだな」


「封印記録ってことは、悪口言い放題ではないわけか」


「未定でもいいって、何か……変だけど、少し分かる」


 誤解が完全に解けたわけではない。


 でも、少しだけ言葉が届いている。


 その時、受付箱が静かに光った。


 中には、また黒い紙片が入っていた。


 白い文字が浮かぶ。


 ――名を隠す者。

 ――名を背負わされる者。

 ――どちらも、名に傷つく。


 そして、少し遅れてもう一行。


 ――なら、名はなぜ必要か。


 ついに来た。


 ミュレアが低く笑う。


『やはり問うてきたな』


 リリアが紙片を見つめる。


「名は、なぜ必要か……」


 セリカさんが腕を組む。


「簡単には答えられないわね」


 ノエルが記録板を持つ。


「次の議題」


 ユリアナ先輩は静かに頷いた。


「はい。これは制度だけでなく、私たち自身の答えが必要です」


 俺は紙片を見た。


 名前を書けない人。

 名前を休ませたい人。

 名前を笑われた人。

 家名から距離を置きたい人。

 名乗ることに疲れた人。


 その全部を見た上で、扉の声は問う。


 それでも、名はなぜ必要か。


 俺はすぐに答えられなかった。


 でも、逃げるつもりはない。


「考えましょう」


 俺が言うと、リリアが頷いた。


「はい」


 セリカさんも。


「一人で考えないこと」


「はい」


 ノエルも。


「みんなで」


 ユリアナ先輩も。


「相談窓口として」


 ミュレアも。


『そして、レン・クロフォードとしてじゃ』


 俺は胸元の学生証に触れた。


「はい」


 名前は、なぜ必要なのか。


 黒い扉の問いは、いよいよ核心へ近づいていた。

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