第92話 黒い紙片は、相談窓口を試す
黒い紙片は、机の上に置かれていた。
白い文字で、たった一行。
――距離を選ぶ名。
それだけなのに、相談室の空気は重かった。
未定、灯、雨、羽。
保護印相談は、たしかに一つの道を作り始めている。
名前を書けない人。
名前を休ませたい人。
嫌な記憶と名前を分けたい人。
家名から少しだけ距離を取りたい人。
その人たちを、名乗れないからと追い返さず、かといって完全な無記録にもせず、本人が選んだ保護印で受け止める。
それは、俺たちが黒い扉の向こうの声へ示した、ひとつの答えだった。
名前は鎖だから捨てろ、ではなく。
名前との距離は、本人が選べる。
その答えを、向こうは見ていた。
そして、紙片に残した。
――距離を選ぶ名。
「観測されていますね」
ユリアナ先輩が静かに言った。
声は落ち着いている。
でも、目は鋭い。
「こちらの制度、言葉、対応。それらが、第四の系統側に届いている可能性があります」
ノエルが黒い紙片に小さな測定具を近づける。
「魔力反応、かなり薄い。攻撃性なし。干渉というより、返答に近い」
「返答……」
リリアが小さく呟いた。
「扉の声が、私たちの言葉を聞いているということでしょうか」
「聞いてるというより、学習してる」
ノエルは測定具の光を見ながら言った。
「未定、灯、雨、羽。それぞれの相談を通して、名前の扱い方を観測してる。今の紙片は、たぶん向こうなりの要約」
「要約にしては、不気味ね」
セリカさんが腕を組む。
「でも、攻撃じゃないなら、すぐ切り捨てるわけにもいかない」
「はい」
俺は紙片を見つめた。
黒い紙。
白い文字。
昨日までのような、名前を奪う強引さはない。
けれど、ずっと見られているような気配はある。
それが気味悪かった。
「レン」
リリアが俺を呼ぶ。
「はい」
「見すぎないでください。昨日も疲れが残っていましたから」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
リリアは少しだけ疑うように見てくる。
最近、俺の「本当に」は完全に審査対象だ。
セリカさんも横から言う。
「顔色はまだ普通。でも、紙片を見てる時の呼吸が浅い」
「そこまで見られているんですか」
「見るわよ。倒れられたら困るし」
ぶっきらぼうだが、心配してくれているのは分かる。
通信水晶からミュレアの声がした。
『レン。黒い紙片などに気圧されるな。相手は、まだ扉の隙間からこちらを覗いているだけじゃ』
「覗かれている時点で落ち着きません」
『それはそうじゃな』
「認めるんですか」
『妾も覗かれるのは好かぬ。覗く側でありたい』
「さらっと問題発言しないでください」
リリアが即座に言う。
「ミュレアさん、覗きは駄目です」
『白き娘、そこは真面目に取らぬでよい!』
「駄目です」
『ぐぬ……』
いつものやり取りに、少しだけ空気が戻る。
ありがたい。
重いものを、重いまま抱え続けると、心が先に沈む。
笑える隙間があることは、たぶん思っている以上に大事だ。
◇
だが、昼前には、その隙間が狭くなった。
保護印制度の試験運用について、教師会から意見が出たのだ。
学園長室に呼ばれた俺たちは、そこで数人の教師と向かい合った。
魔術科主任。
貴族教養科の教師。
記録管理担当教師。
そして学園長。
ユリアナ先輩は、保護印制度の概要を説明した。
本人名を書けない相談者に対し、保護印で一時的に相談記録を作成すること。
本人名は必要に応じて封印記録とし、担当者限定で管理すること。
相談者が望まない呼称を避けること。
保護印は名前ではなく、記録上の仮印であること。
説明は明快だった。
だが、すぐに反論が出た。
「匿名相談を認めれば、悪用されるのではありませんか」
貴族教養科の教師だった。
年配の女性で、声は厳しい。
「身分や責任を隠したまま、他者を告発したり、都合の悪い義務から逃れたりする者が出る可能性があります」
記録管理担当も頷く。
「本人確認ができない記録は、正式書類として扱えません。後日、相談内容の真偽を確認する際にも困難が生じます」
もっともな意見だった。
嫌な言い方ではない。
制度を運用するなら、当然考えなければならない問題だ。
セリカさんは少し不満そうだったが、黙っている。
リリアも、相手の言葉を否定しなかった。
ユリアナ先輩は静かに答えた。
「おっしゃる通りです。保護印制度は、完全匿名を認める制度ではありません」
彼女は書類を一枚出した。
「初回相談では、本人名を非開示にできます。ただし、緊急性が高い案件、他者への危害、法的・学則的対応が必要な案件では、封印記録による本人確認へ進みます」
「封印記録の管理者は?」
「相談窓口責任者、学園長、必要に応じて担当教師。閲覧には二名以上の承認を必要とします」
「虚偽相談だった場合は?」
「意図的な虚偽が確認された場合、通常の相談記録とは別に対応します。ただし、恐怖や混乱により内容が曖昧だった場合は虚偽とは扱いません」
ユリアナ先輩の返答は淀みない。
昨夜から考えていたのだろう。
いや、たぶん仮眠を削って考えたのだろう。
リリアがあとで絶対に休ませるはずだ。
貴族教養科の教師は、まだ納得しきっていない顔だった。
「しかし、名前を書かないという選択が広がれば、学園の秩序が揺らぎます。貴族の子女にとって、名乗ることは責任でもあります」
その言葉に、俺は少しだけ胸が重くなった。
責任。
名乗ることの重さ。
それは間違っていない。
でも、昨日の羽さんの顔が頭をよぎる。
家を嫌いになりたいわけではない。
家名の重さを否定したいわけでもない。
ただ、家名と自分の間に少し風がほしい。
俺は口を開いた。
「名前を隠して責任から逃げるための制度ではないと思います」
教師たちの視線が俺に集まる。
少し緊張する。
でも、言わなければならない。
「名前を書くこと自体が苦しくて、相談の入口に立てない人がいます。そういう人に、最初から全部名乗れと言うと、相談そのものが消えます」
貴族教養科の教師が俺を見る。
「では、名乗らないまま話せばよいと?」
「ずっと名乗らないでいい、という制度ではありません。名乗れるところまで一緒に進むための入口です」
言いながら、自分でも少し驚いた。
入口。
それがしっくり来た。
保護印は、逃げ場所ではない。
門前払いされないための入口だ。
リリアが続けた。
「最初から名前を書ける人もいます。けれど、書けない人もいます。書けない人に合わせた入口があるだけで、救える相談があります」
セリカさんも口を開く。
「名前を名乗れない人に、最初から責任を全部背負わせるのはきついです。少なくとも、助けてって言う前に潰れる」
ノエルが淡々と言った。
「保護印は無責任化じゃない。段階的本人確認。情報開示の負荷調整」
「負荷調整」
記録管理担当が少し反応した。
ノエルは頷く。
「羽さんの風と同じ。重さを消すんじゃなくて、持てる重さにする」
そのたとえが、妙に分かりやすかったのか、教師たちは少し黙った。
ユリアナ先輩が静かにまとめる。
「保護印制度は、名乗る責任を否定しません。ただし、名乗る前に話せる段階を作ります。本人名、家名、役割名、才能名。それらが重なりすぎて声を出せない者に、まず相談室へ入る道を作る制度です」
学園長は、しばらく黙って聞いていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「試験運用を許可します」
貴族教養科の教師が口を開きかける。
学園長は手で制した。
「ただし、ユリアナさんが提示した安全策を条件に。封印記録の管理、虚偽相談への対応、公開範囲の制限。この三点を文書化してください」
「承知しました」
ユリアナ先輩が頭を下げる。
学園長は俺たちを見る。
「保護印制度は、名前を軽んじるものではありません。むしろ、名前の重さを知った者たちが作った制度です。だからこそ、慎重に運用してください」
「はい」
俺たちは頷いた。
◇
会議が終わり、相談室へ戻る途中だった。
廊下の掲示板の前で、数人の学生が話しているのが聞こえた。
「名前を書かなくても相談できるって、本当らしいぞ」
「それってずるくない?」
「何でも匿名で言えるなら、悪口言い放題じゃん」
「身分を隠して相談とか、貴族教養科だと問題になるんじゃないの?」
早い。
もう噂になっている。
セリカさんが眉をひそめる。
俺も足を止めかけた。
だが、ユリアナ先輩が小さく首を振る。
「今は直接反論しません。正式掲示を出してからです」
「でも、誤解が」
「感情的に説明すると、制度そのものが軽く見られます」
ユリアナ先輩は冷静だった。
「まず文書で示します。保護印は完全匿名ではないこと。相談内容の悪用を許さないこと。本名を書けない人のための段階的保護であること」
リリアが少し心配そうに言った。
「未定さんたちが、噂を聞いたら傷つくかもしれません」
「はい。だから急ぎます」
ユリアナ先輩の足が速くなる。
本当に休ませなければ。
でも今は、彼女の速さが必要だった。
相談室に戻ると、ユリアナ先輩はすぐに掲示文を書き始めた。
ノエルが補足する。
リリアが言葉を柔らかくする。
セリカさんが「これ、冷たくない?」「ここ、責めてるみたい」と感覚的に指摘する。
俺は、保護印相談者側から見て怖くないかを確認した。
できあがった掲示文には、こう書かれた。
保護印相談は、名前を軽んじる制度ではありません。
名前を書くことが今は難しい相談者が、相談室へ入るための一時的な保護手段です。
悪用、虚偽申告、他者への攻撃目的の利用は認められません。
必要に応じて、封印記録による本人確認を行います。
呼ばれたくない名前、休ませたい名前、意味を分けたい名前、距離を置きたい名前がある場合、相談できます。
未定でも構いません。
最後の一文は、リリアが入れた。
たぶん、一番大事な文だった。
◇
掲示文を貼り出してすぐ、相談室に一人の男子生徒が来た。
貴族教養科の制服。
姿勢はよく、顔立ちも整っている。
だが、表情は険しかった。
「保護印制度について、意見があります」
声には棘がある。
ユリアナ先輩が丁寧に応じた。
「どうぞ。お座りください」
「いえ、立ったままで結構です」
男子生徒はそう言った。
「名前を書かない相談を認めるのは、責任逃れではありませんか」
さっき廊下で聞いた言葉と似ている。
もしかすると、彼が噂の中心なのかもしれない。
セリカさんが何か言いかけたが、リリアがそっと目で制した。
まず聞く。
相談窓口の基本になりつつある。
男子生徒は続けた。
「貴族の子女は、家名とともに責任を負っています。平民であっても、自分の名で発言する責任はあるはずです。それを隠して相談するのは、都合がよすぎます」
言葉は強い。
でも、ただ意地悪で言っているようには見えなかった。
俺は表示を見ない。
まだ許可がない。
でも、なんとなく分かる。
この人も、名前に何かある。
ユリアナ先輩が静かに答えた。
「保護印相談は、責任を消す制度ではありません。相談の初期段階で、本人が話せる状態を作る制度です」
「ですが、名前を隠せば何でも言えます」
「悪用は認めません。必要に応じて封印記録で本人確認します」
「それでも、最初に名乗らないのは不誠実です」
セリカさんが低く言った。
「名乗った瞬間に潰れる人もいる」
男子生徒はセリカさんを見る。
「潰れる?」
「そう。名前に家とか役割とか期待とか、全部くっついてくる人もいる。いきなり全部背負って話せって言われたら、話せなくなる」
「それは……」
彼は一瞬言葉に詰まった。
何か引っかかったようだった。
リリアが優しく言う。
「あなたは、名前を名乗ることをとても大切にしているのですね」
「当然です」
「それは、誇りですか。それとも、そうしなければならないものですか」
男子生徒は黙った。
空気が変わった。
彼はすぐに反論しなかった。
ノエルが小さく呟く。
「刺さった」
「ノエル」
俺が小声で止めると、ノエルは口を閉じた。
男子生徒はしばらくして、硬い声で言った。
「私の家では、名乗れない者は信用されません」
それは制度論ではなく、彼自身の話だった。
「幼い頃から、名乗れ、家名を背負え、顔を上げろと言われてきました。泣いても、怖くても、具合が悪くても、家名を名乗れば立っていなければならない」
リリアの表情が痛む。
彼は続けた。
「だから、名前を書かなくても相談できると聞いて……腹が立ちました」
「なぜ?」
セリカさんが聞く。
「私には許されなかったからです」
その声は、さっきまでの棘よりずっと静かだった。
「名乗れないなんて、言えなかった。責任から逃げるなと言われた。なのに、今になって、名前を書かなくてもいいと言われたら……私は何をしてきたのか分からなくなる」
相談室は静かになった。
反対していた彼も、名前に縛られていた。
名乗ることを誇りとして教えられたのではない。
名乗れなければ価値がない、と叩き込まれてきたのだ。
ユリアナ先輩が、ゆっくりと言った。
「あなたにとって、名前は責任であると同時に、逃げられない証だったのですね」
男子生徒は唇を噛んだ。
「……そうかもしれません」
リリアが言う。
「保護印制度は、あなたが背負ってきたものを否定する制度ではありません」
「でも」
「あなたが苦しかったことも、否定しません」
その言葉で、彼の表情が崩れかけた。
だが、必死に整える。
貴族教養科の生徒らしく、背筋を伸ばす。
セリカさんが少し乱暴に言った。
「ここでまで無理に背筋伸ばさなくてもいいんじゃない?」
「……癖です」
「なら、今は癖を休ませたら」
癖を休ませる。
灯さんの呼称休止にも似ている。
彼は少しだけ笑った。
初めて、硬さが緩んだ。
「癖を休ませる、ですか」
ノエルが受付票を一枚差し出した。
「意見だけでもいい。相談でもいい。保護印を使うかは未定でもいい」
「私は、反対しに来たのですが」
「反対も相談になることがある」
男子生徒は、受付票を見つめた。
本人名欄。
保護印欄。
相談内容。
彼はペンを取らなかった。
でも、票を受け取った。
「……少し、考えます」
ユリアナ先輩が頷く。
「はい。いつでも」
彼は頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まると、セリカさんが息を吐いた。
「反対派も相談者予備軍だったわけね」
「予備軍という言い方は雑ですが……」
ユリアナ先輩は少し考えてから言った。
「しかし、重要な視点でした。名前を書けない者だけでなく、名前を書き続けなければならなかった者もいる」
リリアが頷く。
「どちらも苦しいんですね」
俺は、黒い紙片の言葉を思い出した。
距離を選ぶ名。
名前を書けない人だけではない。
名前を書き続けなければならない人にも、距離は必要なのかもしれない。
◇
夕方、受付箱にまた黒い紙片が入っていた。
今度も、白い文字が一行。
――名を隠す者。名を背負わされる者。
それだけだった。
ノエルが測定する。
「攻撃反応なし。観測継続」
ユリアナ先輩が紙片を見る。
「扉の声は、こちらの相談だけでなく、反対意見まで観測しているようですね」
リリアが少し不安そうに言う。
「それは危険なのでしょうか」
ミュレアが通信水晶の向こうで答えた。
『危険でもあり、好機でもある。向こうは、名を捨てる以外の苦しみを見始めている』
「名を隠す者。名を背負わされる者」
俺は声に出した。
「どちらも、名前との距離を選べていない」
『そうじゃ』
ミュレアの声は低かった。
『レン。扉の声はいずれ問うぞ。隠すことも背負うことも苦しいなら、名など最初から不要ではないか、と』
「それに答えられますかね」
『今すぐは無理じゃろうな』
「正直ですね」
『だが、答えを急ぐな。そなたらは相談を積み重ねておる。その積み重ねこそが、答えになる』
相談を積み重ねる。
未定。
灯。
雨。
羽。
そして、名前を背負わされてきた男子生徒。
一人ひとりの話は違う。
でも、少しずつ黒い扉への答えになっている。
名前は鎖だ。
そう言われた時、簡単に否定はできない。
けれど、鎖になった名前をどう扱うかは、一つではない。
隠す。
休ませる。
意味を分ける。
距離を置く。
背負い方を変える。
未定にする。
捨てるだけではない。
俺は胸元の確認票に触れた。
レン・クロフォード。
才能名は未定。
好意支配ではない。
無名でもない。
まだ、答えの途中だ。
「レン」
リリアが呼ぶ。
「はい」
「今日は、もう休みましょう」
「はい」
セリカさんが少し驚いたように俺を見る。
「素直」
「学習しました」
ノエルが頷く。
「成長」
ユリアナ先輩も、少しだけ表情を緩めた。
「良い傾向です」
ミュレアが通信越しに言う。
『では、成長祝いに菓子二品――』
「一品です」
『白き娘!』
相談室に、いつもの笑いが戻る。
その笑いの中で、黒い紙片は机の上に静かに置かれていた。
不気味ではある。
でも、ただ怖いだけではなくなっている。
扉の声は、こちらを試している。
こちらもまた、扉の声に答えを積み上げている。
次にどんな問いが来ても、きっと一人では答えない。
みんなで聞き、みんなで悩み、みんなで言葉を探す。
それが、この相談窓口のやり方になっていた。




