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第91話 羽という印の相談者は、家を嫌いになりたいわけじゃなかった

保護印「羽」の相談票は、前の二人とは少し違っていた。


 未定は、家名と予定が名前にまとわりつく苦しさを抱えていた。

 灯は、大事だった呼び名が「失敗しない期待」になってしまった。

 雨は、泣くことを笑われた記憶と、自分の水霧魔術が結びついていた。


 そして、羽。


 相談内容は、こうだった。


 ――家を出たいわけではないけれど、家の名前から少し離れたいです。


 短い文だ。


 でも、そこにある痛みは単純ではなかった。


 家が嫌い。

 名前が嫌い。

 全部捨てたい。


 そういう相談なら、まだ方向が見える。


 けれど羽は、家を出たいわけではないと言っている。


 嫌っているわけではない。

 捨てたいわけでもない。

 でも、少し離れたい。


 この「少し」が難しい。


「こういう相談ほど、外から勝手に決めると危険ですね」


 俺が言うと、ユリアナ先輩は頷いた。


「はい。家名から離れたい、と聞いて、即座に家との断絶や保護措置へ進めるのは早計です」


 リリアも静かに言う。


「家族を大切に思っているからこそ、苦しいのかもしれません」


 セリカさんは窓際で腕を組んでいた。


「嫌いなら嫌いって言える。でも、嫌いじゃないものから距離を取りたい時って、言いにくいわよね」


 その言葉は、妙に実感があった。


 ノエルが記録板を見ながら言う。


「保護印、羽。逃げたいというより、軽くなりたい印かも」


「軽くなりたい」


「うん。飛ぶためじゃなく、沈まないため」


 ノエルらしい短い言葉だった。


 だが、かなり核心に近い気がした。


 通信水晶からミュレアが言う。


『羽か。家の名が翼なら美しいが、翼が重石になることもある』


「今日のミュレア、また詩的ですね」


『妾はいつでも詩的じゃ』


「いつもは甘味的です」


『何を言う。甘味も詩じゃ』


「そこは否定しません」


『ならば菓子二品――』


「一品です」


 リリアが即座に言った。


『白き娘、もはや妾の句読点のように一品と言うな!』


「健康管理です」


 いつものやり取りに、相談室の空気が少しだけ柔らかくなる。


 だが、今日の相談も軽くは終わらないだろう。


 ユリアナ先輩が返答用紙を書いた。


 ――入室できます。

 ――本名を書かなくても構いません。

 ――保護印「羽」として記録します。

 ――家を嫌いになりたいわけではない、という意思を尊重します。

 ――話せる範囲で構いません。

 ――途中で退室できます。


 その返答を受付箱へ入れる。


 しばらく、雨上がりの静けさみたいな時間が流れた。


 そして、扉が叩かれた。


 軽い音だった。


 まるで、本当に羽が触れたみたいに。


     ◇


 入ってきたのは、貴族教養科の制服を着た少女だった。


 金色に近い淡い茶髪を、肩の後ろで丁寧に結んでいる。

 姿勢も礼も美しい。

 歩き方にも、話し方にも、よく教育された跡があった。


 けれど、その綺麗さが逆に窮屈そうだった。


 羽と名乗るには、あまりにも重い空気をまとっている。


 彼女は入室して、完璧な角度で頭を下げた。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 声も整っている。


 整いすぎている。


 リリアが優しく言った。


「来てくれてありがとうございます。保護印は、羽でよろしいですか?」


「はい」


「羽、とこちらから呼んでも大丈夫ですか?」


 少女は少しだけ迷った。


「……記録上は構いません。でも、呼びかけとしては、まだ少し恥ずかしいです」


「分かりました。では、呼びかけはベルにしますね」


「ありがとうございます」


 彼女はまた綺麗に頭を下げた。


 その一つひとつが丁寧で、礼儀正しい。


 けれど、俺には少しだけ息苦しく見えた。


 セリカさんが椅子を示す。


「座れる?」


「はい。ありがとうございます」


 少女は斜め向きの椅子に座った。


 座る動作まで、きちんとしている。


 ユリアナ先輩が確認する。


「本名は、今は開示しなくて構いません。相談記録では保護印『羽』を使用します」


「はい」


「相談票には、家を出たいわけではないけれど、家の名前から少し離れたい、とありました」


 その瞬間、少女の指先がわずかに動いた。


 それ以外は、ほとんど崩れない。


「はい」


「家名が嫌い、という意味ではないのですね」


「違います」


 返答はすぐだった。


 強かった。


「家は大切です。両親も、兄弟も、家に仕える方々も、皆、大切です」


 その声に嘘はなかった。


「家の名を誇りに思っています。先祖が守ってきたものも、受け継いできた役目も、軽んじたいわけではありません」


「はい」


 リリアが静かに相槌を打つ。


 少女は少しだけ呼吸を整えた。


「でも、学園にいても、私はいつも家名で呼ばれます」


 その声が、少しだけ細くなる。


「家の娘。あの家の令嬢。将来は家を支える人。家のためにふさわしい友人を選び、家のためにふさわしい成績を取り、家のためにふさわしい振る舞いをする」


 俺は、未定さんの相談を思い出した。


 家名と予定が名前にまとわりつく苦しさ。


 だが、羽の苦しさは少し違う。


 未定さんは、家名や婚約予定と一度切り離したかった。


 羽は、家を大切に思いながら、それでもその重みから少しだけ息をしたいのだ。


「私は、家を裏切りたいわけではありません」


 少女は、そこを何度も確かめるように言った。


「でも、家の名を背負っていない私が、どんな人間なのか分からなくなる時があります」


 相談室が静かになった。


 セリカさんが小さく言う。


「背負いっぱなしだと、肩が痛くなるわよね」


 少女は驚いたようにセリカさんを見た。


「肩……」


「家が大事でも、ずっと担いでたら重いでしょ。下ろしたいんじゃなくて、持ち替えたいだけじゃない?」


 持ち替えたい。


 その言葉に、少女の目が揺れた。


「……そうかもしれません」


 リリアが微笑む。


「捨てたいのではなく、持ち方を変えたいのですね」


 少女は、ゆっくり頷いた。


「はい。たぶん、それです」


     ◇


 話が少し進むと、彼女の才能についても見えてきた。


 もちろん、まだ俺は能力を使っていない。


 本人の許可が先だ。


 でも、彼女自身の言葉から、少しずつ輪郭が出てくる。


「私、風の魔術が得意です」


「風」


 ノエルが反応した。


「はい。強い風ではありません。物を吹き飛ばすようなものではなく……軽くする風です」


「軽くする風?」


 リリアが聞くと、少女は少し照れたように頷いた。


「荷物を運ぶ時、手元の重さを少しだけ逃がしたり、長い裾が泥に触れないように浮かせたり、書類が濡れないように空気の膜を作ったり」


「便利ですね」


 俺が言うと、少女の表情が一瞬だけ強張った。


 しまった。


 便利、という言葉は慎重に扱うべきだった。


「すみません。便利な係という意味ではなく」


「いえ、大丈夫です。……でも、少しだけ、その言葉も苦手です」


「ごめんなさい」


 俺が謝ると、少女は驚いたように首を横に振った。


「いえ、そんな、謝らないでください。私が過敏なだけで」


「過敏じゃない」


 セリカさんがすぐに言った。


「嫌なら嫌でいい」


 少女は、また少し驚いた。


 貴族教養科では、嫌だという感情を表に出すこと自体、難しいのかもしれない。


 ノエルが淡々と言う。


「軽くする風。技術としてはかなり繊細。便利な雑用じゃない」


「雑用……」


「違う。負荷調整。重さをなくすんじゃなくて、扱える重さに変える」


 少女は、ノエルを見た。


 その表情が、少しだけ変わる。


「扱える重さに……」


「うん」


 ノエルは頷いた。


「たぶん、あなたの風はそういうもの」


 その言葉は、彼女の相談内容と重なった。


 家名を捨てたいわけではない。


 ただ、重すぎる時がある。


 扱える重さにしたい。


 リリアが静かに言う。


「羽という印を選んだのも、飛び去りたいからではなく、少し軽くなりたかったからかもしれませんね」


 少女は、膝の上で手を握った。


「そう、かもしれません」


     ◇


 しばらくして、少女は俺の方を向いた。


「レン・クロフォードさん」


「はい」


「少しだけ、見ていただいてもよろしいでしょうか」


「もちろんです。ただ、本名や家名が見えても、ここでは言いません」


「お願いします」


「嫌になったら止めます」


「はい」


 俺は深呼吸して、意識を向けた。


 彼女の周囲にある風。


 家名の重さ。


 背負うことへの誇り。


 そして、少しだけ息をしたい願い。


保護印:羽

本人名:非表示保護

家名:非表示保護

属性適性:風・軽量化補助

状態:家名責任過負荷、自己分離不安、役割疲労

拒否対象:「家のためなら当然」「便利な令嬢」「家名そのものとして扱われること」

本人意思:家を捨てたいわけではない。家名を背負っていない自分の呼吸も確認したい

才能名:未定保護中

才能候補:荷重緩和風/羽風補助

注意:家名の否定ではなく、距離の調整が必要


「本名と家名は保護されています。見えていません」


 少女は、まずそこに安堵したようだった。


「よかった……」


「見えているのは、家名の責任が重くなりすぎていること。家を捨てたいわけではなく、家名を背負っていない自分の呼吸も確認したい、という意思です」


 少女の瞳が潤んだ。


「はい……」


「才能は、風の軽量化補助。重さをなくすのではなく、扱えるようにする力みたいです」


「重さを、なくすのではなく」


「はい。候補として、荷重緩和風、羽風補助と出ています。でも、正式に決めるには早いです。試用名か、未定でいいと思います」


 少女は、少しだけ笑った。


「羽風補助……少し、可愛いですね」


「嫌ではありませんか?」


「嫌ではありません。ただ、まだ少し恥ずかしいです」


「なら、試用名ですね」


 ユリアナ先輩が記録する。


「才能名は未定。試用才能名として羽風補助。ただし本人受容は低〜中。正式固定は行わない」


 ノエルが補足する。


「荷重緩和風は研究分類向き。羽風補助は本人感覚向き」


 少女は小さく頷いた。


「どちらも、捨てなくていいんですね」


 リリアが微笑む。


「はい。使い分けてもいいと思います」


 セリカさんが言う。


「外向きの名前と、自分の中の名前が違ってもいいんじゃない?」


「違っても……」


「全部一つにしようとするから重いのかも」


 少女は、セリカさんの言葉をゆっくり受け止めた。


「全部、一つにしない」


 それは、家名にも才能名にも言えることだった。


 家の娘。

 風の使い手。

 令嬢。

 学生。

 保護印、羽。


 全部が彼女の一部かもしれない。


 でも、全部を一つの名前に詰め込む必要はない。


     ◇


 実技確認は、小さな荷物を使って行うことになった。


 ユリアナ先輩が書類箱を一つ机の上に置く。


 そこそこ重い。


 ただし、危険ではない。


「これを少しだけ軽くできますか」


「はい」


 少女は書類箱へ手をかざす。


 風が生まれる。


 強くはない。


 むしろ、ほとんど感じないほど柔らかい風。


 けれど、箱の周りの空気がふわりと変わった。


「持ってみても?」


 セリカさんが聞く。


「はい」


 セリカさんが箱を持つ。


 少し目を見開いた。


「軽い」


 少女の表情が少し明るくなる。


「よかった……」


「でも、浮いてる感じじゃない。持ちやすい」


 ノエルがすぐに測定具を出す。


「重力を消してない。持ち手の負荷を分散してる。かなり繊細」


「負荷を分散……」


 少女は自分の手を見た。


「私、そういうことをしていたんですね」


「うん」


 ノエルは頷く。


「あなたの風は、荷物をなくすんじゃない。重さと人の間に入る」


 その言葉に、少女の目から涙が一粒落ちた。


「私も、そうしたかったのかもしれません」


「何を?」


 リリアが聞く。


「家の重さを、なくしたいわけじゃないんです。ただ、その重さと私の間に、少し風がほしかった」


 相談室が静かになった。


 それは、羽の相談の核心だった。


 家を捨てたいわけではない。


 家名を否定したいわけではない。


 ただ、その重さと自分の間に、少し風がほしい。


 リリアがそっと言う。


「では、その願いも書いておきましょう」


 少女は頷いた。


 確認票に、自分の手で書いた。


 家を捨てたいわけではない。

 家名の重さを否定したいわけでもない。

 ただ、家名と私の間に少し風がほしい。

 自分で呼吸できる距離を作りたい。


 その一文を書いた瞬間、少女の周囲の風が少しだけ柔らかく揺れた。


 俺の表示が変わる。


保護印:羽

才能名:未定

試用才能名:羽風補助

本人意思:家名と自分の間に、呼吸できる距離を作りたい

状態:安定傾向

第四の系統反応:低下


「安定しています」


 俺が言うと、少女は深く息を吐いた。


「よかった……」


     ◇


 相談の最後、ユリアナ先輩は少し迷ってから言った。


「一つ、確認してもよろしいですか」


「はい」


「家名から距離を置くことについて、学園内で具体的な対応を希望しますか。たとえば、授業内で家名を呼ばれないようにする、提出物の表示名を一時保護印にする、社交行事の紹介文から家の予定役割を外す、などです」


 少女は目を見開いた。


「そんなことが、できるのですか?」


「全て即時対応できるわけではありません。ただ、相談内容に応じて調整は可能です」


 少女はしばらく考えた。


 そして、小さく言った。


「授業内だけ、家名ではなく保護印で管理していただくことはできますか。表で呼ばれなくても、成績記録は残る形で」


「できます」


 ユリアナ先輩は即答した。


「ただし、教師側の共有範囲を限定します。悪用や混乱を防ぐため、本人名は封印記録に残し、授業内呼称と掲示名は保護印または試用呼称にします」


「お願いします」


「呼称は羽でよろしいですか?」


 少女は少し迷い、首を横に振った。


「呼ばれるのはまだ恥ずかしいので……掲示名だけ、羽で。授業中は、できれば個別に声をかけられない形がいいです」


「分かりました。必要時は席番号または提出番号で対応します」


「ありがとうございます」


 少女は深く頭を下げた。


 その礼は、最初に部屋へ入った時より少しだけ軽かった。


 完璧な令嬢の礼ではなく、ちゃんと彼女自身が息をしている礼だった。


 リリアが微笑む。


「また、重くなったら来てください」


「はい」


 セリカさんが言う。


「家を嫌いにならないためにも、休憩は必要よ」


「はい」


 ノエルが短く言う。


「羽風補助、また見たい」


 少女は少し笑った。


「練習しておきます」


 アイリスが静かに言った。


「家名と距離を置くことは、家を否定することではありません。きっと」


 少女はアイリスを見る。


「ありがとうございます」


 アイリスは少しだけ視線を逸らした。


「私も、似たようなことを考えている途中です」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 アイリスもまた、ヴェルナーという家名や、氷属性の期待と向き合っているのだろう。


 相談する側だけではない。


 相談窓口の俺たちも、まだ途中なのだ。


     ◇


 羽が帰った後、相談室には静かな風が残っていた。


 窓は閉まっている。


 でも、さっきの魔術の余韻なのか、少しだけ空気が軽い。


 セリカさんが伸びをする。


「今日は少し息がしやすい終わり方だったわね」


「はい」


 リリアが頷く。


「家名を捨てなくても、距離は作れる。大切な相談でした」


 ノエルが記録板を見ながら言う。


「保護印制度、三例。未定、灯、雨、羽。方向性が違う」


「整理しましょう」


 ユリアナ先輩はすぐに表を作り始めた。


 未定:家名・予定役割から名前を一度分離。

 灯:旧愛称を休止。期待と呼称を分離。

 雨:嘲笑記憶と魔術の意味を再分離。試用才能名あり。

 羽:家名を否定せず、距離と呼吸を確保。試用才能名あり。


「こうして並べると、保護印相談は“名前を捨てる制度”ではありませんね」


 ユリアナ先輩が言った。


「名前との距離を本人が調整する制度です」


 俺は頷いた。


「黒い扉の声とは、そこが違いますね」


 ミュレアが通信越しに言う。


『無名になれ、ではない。名との距離を選べ、か』


「はい」


『よい。向こうの思想に対する、こちらなりの答えになりつつある』


 その時、受付箱がまた光った。


 全員が身構える。


 新しい相談票かと思った。


 だが、箱の中には黒い紙片が入っていた。


 黒い扉の色。


 俺の背筋が冷える。


 紙片には、白い文字で一行だけ書かれていた。


 ――距離を選ぶ名。


 それだけ。


 攻撃ではない。


 問いでもない。


 まるで、こちらの言葉を反芻しているようだった。


 ノエルがすぐに測定する。


「第四の系統反応。攻撃性なし。観測記録に近い」


 ユリアナ先輩が紙片を見つめる。


「扉の声が、こちらの制度を見ている」


 リリアが少し不安そうに俺を見る。


「レン……」


「大丈夫です」


 俺は紙片を見た。


 怖い。


 でも、昨日までとは違う。


 扉の声は、こちらの言葉を少しずつ拾い始めている。


 名前は鎖。

 無名こそ自由。


 その一方で、俺たちは別の答えを作り始めている。


 未定でいい。

 休ませてもいい。

 意味を分けてもいい。

 距離を選んでもいい。


 名前を全部捨てるのではなく。


 本人が扱える重さにする。


 それは、羽の風と同じだった。


 ミュレアが低く言う。


『レン。次は、向こうがこちらを試すだけでは済まぬかもしれん』


「はい」


『こちらの答えを聞いたなら、向こうも次の問いを出す』


「どんな問いでしょう」


『おそらく――名を持たぬもの自身が、救われるのか、じゃ』


 その言葉に、相談室は静かになった。


 黒い扉の向こうの声。


 名前を拒み、無名を自由と言う存在。


 その存在自身が、名を持たないまま救われるのか。


 それとも、名前を選ぶ必要があるのか。


 俺にはまだ分からない。


 でも、向き合うしかないのだろう。


 俺は胸元の確認票に触れた。


 レン・クロフォード。


 才能名は未定。


 そして、今日の答えを一つ胸に置く。


 重い名前は、捨てるだけじゃない。


 持ち方を変えることもできる。


 そのための風を、俺たちは作り始めている。

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