第90話 雨という印の相談者は、泣かないために笑っていた
その日の午後、学園には細い雨が降っていた。
窓硝子を叩くほど強くはない。
けれど、気づけば制服の肩を湿らせ、石畳の色を濃くするような雨だった。
相談室の窓から外を見ると、中庭の木々がしっとりと濡れている。
訓練場へ向かう学生たちも、今日は足早だ。
午前中に届いた保護印相談票。
保護印、雨。
相談内容は短い。
――呼ばれると泣きそうになる名前があります。
それだけだった。
未定。
灯。
そして、雨。
名前を書けない相談者が、少しずつ窓口へ来始めている。
黒い扉の向こうの声が、本当に彼らを導いているのか。
それとも、学園中に広がった噂を聞いた学生たちが、自分の意思でここへ来ているのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ言えるのは、相談票の向こうには、たぶん本物の痛みがあるということだった。
「レン、また考え込んでる」
セリカさんの声で、俺は窓から視線を戻した。
「雨の相談票のことを考えていました」
「でしょうね。顔が湿ってる」
「顔が湿ってるとは」
「雨っぽい顔」
「新しい表現ですね」
セリカさんは壁際で腕を組み、少しだけ窓の外を見る。
「でも、分からなくはないわ。雨って印、かなり感情がある」
リリアも静かに頷いた。
「呼ばれると泣きそうになる名前……。嫌いな名前とは、少し違うのかもしれません」
「灯さんの時みたいに、休ませる名前でしょうか」
「まだ分かりません。でも、泣きそうになるということは、そこに悲しい記憶があるのかもしれません」
ノエルは相談票を見ながら言った。
「攻撃反応は低い。第四の系統関連はあるけど、昨日の灯さんと同じで、相談者側の感情が強い」
ユリアナ先輩は、新しい保護印相談記録用紙を準備していた。
「雨さんには、灯さんの時と同様、呼称確認を最初に行います。保護印で呼ばれることが可能か、ベル対応がよいか、筆談がよいか」
「かなり制度が整ってきましたね」
「整えなければ、対応する側の善意だけに頼ることになります。善意は大切ですが、善意だけでは人を守り切れません」
ユリアナ先輩らしい言葉だった。
通信水晶からミュレアの声が響く。
『ふむ。雨か。泣きそうになる名とは、また厄介じゃな』
「ミュレアは、何か思うところがありますか?」
『雨は恵みにもなるし、冷えにもなる。誰かにとっては美しい音でも、誰かにとっては濡れて帰れぬ夜の記憶じゃ』
珍しく詩的だった。
リリアが微笑む。
「今の言葉、素敵でした」
『であろう。では菓子二品――』
「一品です」
『余韻を返せ、白き娘!』
いつものやり取りに、相談室の空気が少しだけ軽くなる。
だが、その軽さは長く続かなかった。
受付箱が、かたりと鳴った。
全員の視線がそちらへ向く。
箱の中には、返答用紙が入っていた。
保護印、雨。
――入ってもいいですか。
――声が震えるかもしれません。
ユリアナ先輩がすぐに返答を書いた。
――入って構いません。
――声が震えても構いません。
――話せない場合は、筆談でも構いません。
――途中で退室できます。
――こちらは保護印「雨」として記録します。呼ばれ方は入室後に確認します。
返答を箱に入れる。
しばらくして、扉が叩かれた。
雨音に紛れそうな、小さな音だった。
「どうぞ」
ユリアナ先輩が言う。
扉が開いた。
◇
入ってきたのは、魔術科の制服を着た少女だった。
黒に近い紺色の髪を肩口で切りそろえている。
肌は白く、目元は少し赤い。
泣いていたのか。
それとも、雨の中を歩いてきたせいか。
分からない。
ただ、彼女は部屋に入るなり、無理に笑った。
「す、すみません。えっと、雨です」
自分で保護印を言った。
けれど、その声は震えている。
リリアが優しく言った。
「来てくれてありがとうございます。保護印は、雨で大丈夫ですか?」
「はい。あ、でも、呼ばれると少し変な感じがするので……」
「では、こちらからは無理に呼びません。必要ならベルで合図します」
「ありがとうございます」
彼女はまた笑った。
さっきと同じ、無理に作った笑顔だった。
セリカさんがそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「座れる?」
「はい。大丈夫です。全然、大丈夫です」
大丈夫。
その言葉が多すぎる。
リリアも気づいたのだろう。けれど、すぐには触れなかった。
少女は斜めに置かれた椅子に座った。
手には、濡れたハンカチを握っている。
ユリアナ先輩が静かに確認した。
「本名は、今は記録しなくて構いません。保護印『雨』として扱います」
「はい」
「呼ばれると泣きそうになる名前がある、とのことでした」
少女は小さく頷いた。
「あります」
「その名前は、ここで言わなくても構いません」
「……いいんですか?」
「はい」
ユリアナ先輩の声は、今日も落ち着いている。
「言わずに相談することもできます」
少女の作り笑いが、少し崩れた。
「言わなくても、いいんですね」
「はい」
「じゃあ……少しだけ、話します」
彼女は濡れたハンカチを握りしめた。
「私、昔からよく泣く子だったんです」
雨音が窓を撫でる。
「嬉しくても、悲しくても、怒っても、怖くても、すぐ泣く。小さい頃は、家族も友達も笑っていました。泣き虫だねって。悪気はなかったと思います」
彼女は、笑おうとして失敗した。
「それで、いつからか、あだ名がついたんです。雨みたいにすぐ降るからって」
保護印、雨。
それは、本名ではなく、あだ名だった。
「最初は嫌いじゃありませんでした。雨って、静かで、落ち着く感じもするし。私が泣いても、みんなが『また雨だ』って笑ってくれたから、怒られるよりましでした」
リリアが静かに聞いている。
「でも、学園に来てから、変わりました」
少女の声が細くなる。
「魔術の授業で失敗して泣いた時、誰かが言ったんです。また雨が降った、って」
セリカさんの目が鋭くなる。
「それから、試験で緊張して泣きそうになった時も。友達と喧嘩して、廊下で泣いてしまった時も。いつも、誰かが言うんです」
彼女は唇を噛んだ。
「雨が来た。雨が降る。泣くぞ。濡れるぞ。面倒だぞ、って」
部屋の空気が重くなった。
名前は、最初は優しい冗談だったのかもしれない。
でも、繰り返されれば変わる。
泣いてもいい場所ではなく、泣くことを笑われる印になる。
「私は、泣きたくて泣いているわけじゃないのに」
その言葉と同時に、彼女の目から涙が落ちた。
彼女は慌ててハンカチを顔に当てる。
「すみません、また」
「謝らなくて大丈夫です」
リリアがすぐに言った。
「ここでは、泣いても大丈夫です」
「でも、泣いたら、また雨って……」
「言いません」
リリアははっきりと言った。
「泣いているあなたを、笑うために雨とは呼びません」
少女の肩が震えた。
セリカさんが壁際から口を開く。
「泣いたら面倒って言った人たちの方が、よっぽど面倒ね」
「セリカさん」
俺が思わず言うと、セリカさんは少しだけ肩をすくめた。
「事実でしょ」
少女は驚いたようにセリカさんを見た。
それから、少しだけ涙の中で笑った。
「そんなふうに言ってもらったの、初めてです」
「じゃあ覚えておいて。泣くことと、面倒なことは同じじゃない」
セリカさんの言葉は乱暴だ。
でも、まっすぐ届く。
◇
しばらくして、少女は少し落ち着いた。
リリアが温かいお茶を差し出す。
彼女は両手でカップを包みながら、小さく言った。
「私の魔術も、雨なんです」
「雨?」
ノエルが反応した。
少女は頷く。
「水属性の細かい霧を作るのが得意で。治癒ほどじゃないけど、乾いた植物を潤したり、熱を持った魔道具を冷ましたりできます」
「便利」
ノエルが短く言う。
少女は少しだけ表情を硬くした。
ノエルはすぐに気づき、首を横に振った。
「ごめん。便利、という言い方は違った」
「い、いえ」
「役に立つという意味で言った。でも、便利な係という意味に聞こえたかもしれない」
ノエルがそこまで言うのは珍しい。
少女は少し驚いた顔をしたあと、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
俺は静かに確認した。
「その魔術も、雨という呼び方と結びついているんですね」
「はい。私が泣くから雨。魔術も雨。だから、私が水属性の魔術を使うと、また泣いてるみたいって言われて」
彼女の声がまた震える。
「でも、本当は好きだったんです。雨の魔術。強い火を消せるし、熱で苦しんでいる人を冷ませるし、植物が元気になるし」
リリアが微笑む。
「優しい魔術ですね」
少女は泣きそうな顔で笑った。
「そう言ってほしかったんです」
俺は、ここで初めて聞いた。
「少しだけ、見てもいいですか。嫌ならすぐ止めます」
少女は迷った。
ハンカチを握り、カップを置き、俺を見る。
「本名は、見えても言わないでください」
「言いません」
「雨って呼ばないでください」
「呼びません」
「泣いても、笑わないでください」
「笑いません」
彼女は、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
俺は意識を向けた。
保護印:雨
本人名:非表示保護
属性適性:水・霧系統
旧あだ名:雨
状態:感情表出恐怖、嘲笑記憶、魔術抑制
拒否対象:「また雨が降った」「泣くぞ」「面倒だぞ」
本人意思:泣くことを笑われたくない。雨の魔術を嫌いになりたくない
才能名:未定保護中
推奨:呼称休止ではなく、意味の再分離。雨=涙だけではないと再確認
「本名は保護されています。見えていません」
少女はほっと息を吐いた。
「よかった……」
「あなたの魔術は、水や霧の適性が高いです。才能名は未定で保護されています」
「未定……」
「はい。それから、雨という呼び方を完全に休ませるというより、意味を分ける必要があるみたいです」
「意味を分ける?」
「泣くことを笑うための雨と、あなたが好きだった雨の魔術。それを同じものにされて苦しくなっている」
少女の目が大きくなった。
「そうです……全部、同じになってしまって」
「だから、今すぐ雨と呼ばれる必要はありません。でも、雨そのものを嫌いにならなくてもいいと思います」
リリアが続ける。
「泣くことも、雨の魔術も、悪いものではありません」
セリカさんが言う。
「笑った人たちの使い方が悪かっただけ」
ノエルも静かに言った。
「雨は冷やせる。潤せる。隠せる。音を消せる。戦術的にも有用」
ユリアナ先輩が少しだけ咳払いする。
「ノエル様、情緒より性能評価に寄っています」
「でも本当」
少女が、今度は少し自然に笑った。
「戦術的に有用……」
「うん」
ノエルは真顔で頷いた。
「あなたの霧は、たぶんかなり細かい制御ができる。泣き虫の証拠じゃない。技術」
その言葉が、少女に届いたのが分かった。
泣き虫ではなく、技術。
雨という言葉の意味が、少しだけ動く。
◇
試すことになった。
もちろん、無理のない範囲で。
ノエルが小さな熱を持った魔道具を机に置く。
訓練用で、触っても火傷はしないが、冷却練習に使えるものだ。
「冷やしすぎると止まる。強い水だと壊れる。細かい霧が適してる」
少女は不安そうに魔道具を見た。
「失敗したら」
「壊れても直せる」
ノエルが即答した。
「でも、今日の目的は成功じゃない。嫌な言葉に引っ張られず、魔術を少し出すこと」
リリアが頷く。
「怖くなったら、止める言葉を決めましょう」
「止める言葉……」
灯さんの時と同じだ。
少女は少し考えた。
「晴れ待ち、で」
その場にいた全員が、少しだけ目を開いた。
雨が止むのを待つ。
でも、雨を否定しているわけではない。
待つ言葉。
「いいと思います」
リリアが言った。
少女は小さく頷き、指先を魔道具へ向けた。
淡い水色の魔力が生まれる。
それは水滴ではなく、細かな霧だった。
相談室の空気が、少しだけしっとりする。
窓の外の雨音と重なり、不思議な静けさが生まれた。
だが、霧が出た瞬間、少女の表情が歪む。
「また雨が――」
記憶の声だ。
彼女の魔力が乱れる。
「晴れ待ち」
少女が自分で言った。
霧が止まる。
失敗ではない。
止まれた。
リリアが微笑む。
「止まれましたね」
「……はい」
少女は泣きそうだった。
でも、今度は涙をこらえきれないことを責める顔ではなかった。
二度目。
彼女はもう一度、霧を出した。
今度は短く。
霧が魔道具を包む。
熱がゆっくり下がっていく。
ノエルが測定具を見る。
「冷却、安定。強すぎない。かなり上手い」
「本当ですか?」
「本当」
ノエルは迷わず言った。
「雨みたい、じゃなくて、霧冷却。技術名としては、微雨冷却とか」
少女は少しだけ固まった。
ノエルも「あ」と気づく。
「ごめん。名前をつけすぎた」
少女は首を横に振った。
「いえ……微雨冷却」
小さく繰り返す。
「少し、嫌じゃないです」
俺の表示が変わる。
保護印:雨
才能名候補:微雨冷却
本人受容:低〜中
注意:正式固定は早い。試用名として扱うこと
本人意思:雨を涙だけの意味にしたくない
「才能名候補が出ました。微雨冷却。ただ、正式固定は早いです。試用名なら大丈夫そうです」
少女は、涙を拭きながら笑った。
「微雨なら、少し静かでいいですね」
「はい」
リリアが言う。
「優しい雨ですね」
少女は今度こそ、ちゃんと笑った。
◇
確認票には、こう記録された。
保護印:雨。
旧あだ名:雨。現在、嘲笑記憶と結びついているため直接呼称は休止。
呼びかけ方法:ベル、または本人許可時のみ保護印。
属性適性:水・霧系統。
才能名:未定。
試用才能名:微雨冷却。
拒否表現:「また雨が降った」「泣くぞ」「面倒だぞ」。
本人意思:泣くことを笑われたくない。雨の魔術を嫌いになりたくない。雨を涙だけの意味にしたくない。
ユリアナ先輩は記録を丁寧に封印した。
「これで保護します」
「ありがとうございます」
少女は立ち上がった。
帰る直前、彼女は窓の外を見た。
雨はまだ降っていた。
けれど、さっきより少し明るく見えた。
「今日、雨でよかったかもしれません」
小さな声だった。
リリアが微笑む。
「そうですね」
「まだ、雨って呼ばれるのは怖いです。でも……雨そのものは、嫌いじゃないかもしれません」
俺は頷いた。
「それでいいと思います」
少女は、少しだけ頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
相談室に、窓の外の雨音だけが残った。
セリカさんが息を吐く。
「今日は、少しだけ軽く終われたわね」
「はい」
リリアも穏やかに頷いた。
「泣くことと、雨が少し離れました」
ノエルが記録板を見ながら言う。
「微雨冷却、技術としてかなり有望」
「ノエル、そこは本当にぶれませんね」
「大事」
アイリスが静かに言った。
「嫌な言葉と、自分の力を分ける。やはり必要ですね」
「アイリスも?」
「はい。氷を嫌いになりたくありませんでしたから」
彼女の手元で、小さな氷盾が光る。
守護氷結。
まだ少し大げさで、でも彼女のものになりつつある才能名。
ミュレアが通信越しに言った。
『未定、灯、雨。次は羽か』
「はい」
ユリアナ先輩が新しい相談票を見た。
保護印、羽。
――家を出たいわけではないけれど、家の名前から少し離れたいです。
未定さんと近いようで、違う痛み。
家から逃げたいわけではない。
でも、家名から少し離れたい。
それもまた、難しい相談になりそうだった。
俺は窓の外の雨を見た。
名前は、本当に難しい。
同じ言葉が、笑いにもなる。
傷にもなる。
思い出にもなる。
技術名にもなる。
そして、いつかまた好きになれるものにもなる。
黒い扉の向こうの声は、名前は鎖だと言った。
たしかに、鎖になることはある。
でも今日、雨は少しだけ鎖ではなくなった。
まだ灯ではない。
まだ晴れでもない。
ただ、微雨として。
静かに、彼女の手元へ戻り始めた。




