第88話 未定という名ではない相談者
相談窓口に、「未定」が来る。
その一文だけを聞けば、意味が分からない。
人が来るのか。
名前が来るのか。
状態が来るのか。
それとも、黒い扉の向こうの声が、またこちらを試しに来るのか。
分からない。
分からないからこそ、俺たちは朝から相談室を整えていた。
机の配置はいつもより少し変えた。
正面から向き合う形ではなく、斜めに座れるようにする。真正面に座ると、詰問されているように感じる人もいるからだ。
受付票も新しくした。
本人名欄の横に、小さくこう書かれている。
――今は書けない場合、空欄でも構いません。
――呼ばれたくない名前は書かなくて構いません。
――必要なら、一時保護印を選べます。
――未定でも構いません。
ユリアナ先輩が、朝のうちに正式な臨時様式として整えた。
仕事が早い。
早すぎて、もはや怖い。
「ユリアナ先輩、昨日の今日でよくここまで作れましたね」
俺が言うと、ユリアナ先輩は淡々と紙束を揃えた。
「必要でしたので」
「寝ました?」
「短時間ですが」
「寝てない人の言い方です」
セリカさんが即座に突っ込む。
ユリアナ先輩は少しだけ視線を逸らした。
「仮眠は取りました」
「仮眠」
リリアの声が柔らかくなる。
「ユリアナさんも、今日は休憩を入れてくださいね」
「はい。善処します」
「善処ではなく、入れてください」
「……入れます」
リリアが強い。
ここ数日で、相談窓口の健康管理担当として完全に覚醒している気がする。
ノエルは新しい受付票をじっと見ていた。
「保護印、選択式にしたんだ」
「はい」
ユリアナ先輩が説明する。
「本人が選べるように、いくつか候補を用意しました。花、星、月、灯、雨、羽、白紙、未定。もちろん自由記述も可能です」
「白紙もあるんですね」
俺が聞くと、ユリアナ先輩は頷いた。
「はい。ただし、完全な空白だと記録上区別できません。ですから“白紙”という保護印として扱います」
「名前じゃなくて、印」
「はい。呼ぶための名ではなく、記録を見失わないための仮印です」
そこが大事だった。
名前を書けない人に、新しい名前を押しつけてはいけない。
でも、記録がなければ支援できない。
だから、保護印。
本人が選び、後から変えられる仮の印。
未定も、その一つだ。
通信水晶から、ミュレアが感心したように言った。
『名を拒む者に、名ではなく印を差し出すか。ふむ、悪くない』
「素直に褒めていますね」
『妾は良いものは良いと言う』
「甘味は一品です」
リリアが先に言った。
『まだ要求しておらぬ!』
「流れで来ると思ったので」
『白き娘、妾の先読みが巧くなりすぎておる……』
ミュレアが悔しそうにうなる。
その声で、少しだけ空気が緩んだ。
でも、俺の胸の奥は落ち着かない。
今日、本当に来るのだろうか。
昨日の相談票には、確かにこう返ってきた。
――未定で、行きます。
あれは比喩だったのか。
それとも、本当に誰かが来るという意味だったのか。
分からない。
セリカさんが俺を見る。
「レン、顔」
「今日は何の顔ですか」
「来るか来ないか分からなくて、勝手に緊張してる顔」
「正解です」
「素直でよろしい」
リリアがそっと声をかける。
「怖いですか?」
「少し」
「はい」
彼女は否定しなかった。
怖くないと言う必要はない。
怖いまま、準備する。
最近、少しだけそれが分かってきた。
◇
午前中、相談窓口には普通の相談がいくつか来た。
才能名が未定のままでも大丈夫か確認したい魔術科の生徒。
家で呼ばれている嫌な幼名を、学園内で使わないようにしたい貴族教養科の生徒。
実技杯で覚醒した才能名を、まだ正式記録にしたくない剣術課程の生徒。
いずれも、これまでの積み重ねで対応できる相談だった。
未定は保護する。
拒否呼称は記録する。
本人の意思が固まるまで、周囲が勝手に固定しない。
慣れてきた、とは言いたくない。
慣れたと思った瞬間に、第四の系統は隙を突いてくる。
でも、相談窓口の対応は確実に早くなっていた。
リリアが相手の不安をほどき、セリカさんが曖昧な言葉の裏にある怒りを拾い、ノエルが現象を整理し、ユリアナ先輩が制度へ落とし込む。
俺は必要な時だけ表示を見る。
前より、全部を自分で抱え込まなくなった。
たぶん、少しは成長している。
昼前、受付箱が音を立てた。
かたり、と小さく。
全員が一斉にそちらを見た。
受付箱の中には、一枚の紙が入っていた。
相談票。
本人名欄は空白。
保護印欄に、震えるような文字でこう書かれていた。
未定。
相談内容は、短かった。
――入ってもいいですか。
リリアが息を呑む。
セリカさんが扉の方を見る。
ノエルが記録板を構えかけ、ユリアナ先輩の視線を受けて止める。
ユリアナ先輩は静かに言った。
「返答します」
彼女は別紙に、丁寧な文字で書いた。
――はい。
――入って構いません。
――名乗らなくても構いません。
――嫌だと思った時点で退室できます。
――こちらは、あなたを保護印『未定』として記録します。
紙を受付箱に戻す。
しばらく、何も起きなかった。
秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。
そして。
相談室の扉が、控えめに叩かれた。
一度だけ。
小さく。
それでも、全員に聞こえた。
ユリアナ先輩が立ち上がる。
「どうぞ」
扉がゆっくり開いた。
◇
入ってきたのは、学生だった。
たぶん、女子生徒。
たぶん、としか言えなかった。
制服は着ている。
けれど、所属色を示すリボンが外されている。
髪は灰色がかった薄茶で、長さも中途半端。結んでいるわけでも、整えているわけでもない。
顔立ちは見える。
けれど、どういう印象かを言葉にしようとすると、すっと逃げる。
可愛い、綺麗、地味、大人しい、冷たい、優しそう。
どれも違う。
ただ、そこにいる。
でも、目を離したら輪郭を忘れてしまいそうな危うさがあった。
俺の視界に表示が出かける。
しかし、リリアがそっと俺を見る。
まだ見ない。
俺は頷いた。
本人の許可が先だ。
その生徒は、入口に立ったまま小さく言った。
「……ここは、名前がなくても相談できますか」
声は細かった。
でも、確かに聞こえた。
ユリアナ先輩が、いつもの丁寧な声で答える。
「はい。相談できます」
「本名を書かなくても?」
「はい」
「今の名前が嫌でも?」
「はい」
「何と呼ばれたいか、分からなくても?」
「はい。保護印を未定として記録できます」
その生徒は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
リリアが優しく言う。
「座れそうですか?」
「……はい」
彼女は椅子に座った。
正面ではなく、斜めに置かれた椅子。
ユリアナ先輩の配慮が生きた。
セリカさんは壁際に立っているが、いつもより少し気配を柔らかくしている。
ノエルは記録板を閉じたまま、膝の上に置いている。
ミュレアも通信水晶の向こうで黙っていた。
驚くほど静かだった。
リリアが尋ねる。
「保護印は、未定で大丈夫ですか?」
「……はい」
「では、未定さん、と呼ぶのは嫌ですか?」
その生徒は、少しだけ目を伏せた。
「呼ばれるのは、まだ怖いです」
「分かりました。では、こちらから呼びかける時は、無理に保護印で呼びません。必要な時は“あなた”でも大丈夫ですか?」
生徒は迷った。
そして、首を横に振った。
「あなた、も少し怖いです」
俺の胸が少し痛んだ。
夢の中で、扉の声は俺を「おまえ」と呼んだ。
名前ではなく、対象物みたいに。
この子も、それが怖いのかもしれない。
ユリアナ先輩がすぐに記録する。
「二人称呼称も慎重に扱います。では、呼びかけが必要な時は、手元のベルを鳴らしてもいいですか?」
机の上に、小さな銀のベルを置く。
名前でもない。
あなたでもない。
ただ、会話の合図。
生徒は少し驚いたようにベルを見た。
「……それなら、大丈夫です」
「分かりました」
リリアが微笑む。
「では、無理に話さなくて大丈夫です。書いてもいいですし、頷くだけでも構いません」
生徒の指が、膝の上で震えていた。
しばらく沈黙が続く。
セリカさんも、ノエルも、ユリアナ先輩も、誰も急かさない。
相談室の外の音が遠くなる。
やがて、その生徒は小さく口を開いた。
「私、名前があるんです」
それは、予想していたようで、予想していなかった言葉だった。
「あるけど、言いたくないんです」
リリアが頷く。
「はい」
「その名前で呼ばれると、息ができなくなります」
彼女の声が震える。
「でも、名前がないと、誰も私を見つけてくれない気がして」
相談票と同じだ。
呼ばれたくない。
でも、見つけてほしい。
矛盾しているように見えて、たぶんとても切実な願い。
俺は手を握った。
表示を見たい。
でも、まだ見ない。
彼女が許可していない。
セリカさんが静かに言った。
「その名前で何か嫌なことがあった?」
生徒は、びくりと肩を震わせた。
セリカさんはすぐに続ける。
「答えなくていい。聞き方が強かったなら、ごめん」
生徒は少し驚いた顔をした。
セリカさんが謝ったことに驚いたのかもしれない。
「……嫌なこと、というか」
彼女は言葉を探す。
「家の名前です。私の名前は、家の名前と一緒に呼ばれると、全部決まってしまうんです」
貴族か。
ユリアナ先輩の表情が、わずかに変わった。
生徒は続ける。
「誰の娘。どこの家の子。誰と婚約する予定。何を継ぐ予定。どの派閥に入る予定。そういうものが、私の名前に全部くっついてきます」
リリアが静かに聞いている。
「学園に来ても、名前を書けば、全部思い出される。名前を呼ばれると、その後ろから家も、期待も、予定も、全部来る」
彼女は胸元を押さえた。
「だから、書けませんでした。でも、書けないと相談できないと思っていました」
ユリアナ先輩が、ゆっくりと言った。
「相談できます」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「家名を出さずに相談できます。必要な場合も、公開記録では保護印を使います」
「本当に?」
「はい。制度として整えます」
「制度……」
「はい。あなた一人の特例ではありません。今後、同じように名前を書けない人のための正式な道を作ります」
その生徒の目に、少しだけ光が戻った。
自分のためだけではない。
同じ苦しさを持つ誰かのためにもなる。
そう知ることが、少し支えになるのかもしれない。
ノエルが静かに言った。
「才能名も、同じ?」
生徒はノエルを見る。
「才能名……?」
「家や予定に結びつく才能名がある?」
生徒は少し迷ってから、小さく頷いた。
「あります。でも、それも言いたくありません」
「言わなくていい」
ノエルは即答した。
「未定で記録できる」
その生徒は、今度こそ少しだけ息を吐いた。
「未定……」
その言葉を、初めて自分の口で確かめるように。
◇
しばらく話した後、彼女は俺の方を見た。
初めて、まっすぐに。
「レン・クロフォードさん」
名前を呼ばれた。
声は震えている。
でも、呼んでくれた。
「はい」
「あなたは、見えるんですよね。名前とか、才能とか」
「見えることがあります。でも、勝手には見ません」
「嫌だと言えば、見ない?」
「見ません」
「途中で嫌になったら?」
「止めます」
「……本当に?」
「本当に」
彼女は俺をじっと見た。
疑っている。
当然だ。
信じろと言われて信じられるなら、ここまで苦しんでいない。
「少しだけ、見てください」
彼女は言った。
「でも、本当の名前は言わないでください。見えても、ここで言わないでください」
「分かりました」
リリアが俺を見る。
「レン、負荷は?」
「低いです。短時間で」
ユリアナ先輩が頷く。
「本人許可あり。ただし、公開発話禁止。必要な情報のみ、本人に確認します」
「はい」
俺は深呼吸した。
表示を見る。
ただし、名前を暴くためではない。
彼女が何に苦しんでいるのか、何を守るべきかを知るために。
保護印:未定
本人名:非表示保護
状態:家名連動恐怖、役割過負荷、自己呼称不安
才能名:未定保護中
拒否対象:家名付き呼称、婚約予定名、後継役割名
本人意思:名前から家と予定を一度切り離したい
注意:本名を発話しないでください
見えた。
でも、本名は表示されない。
非表示保護。
おそらく、本人の意思と保護印が効いている。
俺は少し安心した。
「本名は見えていません。保護されています」
彼女の肩が小さく震えた。
「本当に?」
「はい。見えているのは、あなたが何に苦しんでいるかです」
「……何ですか」
「家名と一緒に呼ばれること。婚約予定や後継役割と結びつけられること。名前から家と予定を一度切り離したい、という意思」
彼女は、ぽろっと涙を落とした。
「それです」
声が崩れる。
「それが、言いたかったんです」
リリアがそっと布を差し出す。
彼女は受け取り、何度も頷いた。
「名前が嫌いなんじゃないんです。家が全部嫌いなわけでもないんです。でも、名前を呼ばれた瞬間に、全部決まるのが苦しくて」
ユリアナ先輩が静かに言った。
「名前と家名と予定を、記録上分離しましょう」
「分離……」
「はい。今は保護印“未定”。本人名は封印記録。家名、婚約予定、後継役割は別項目に分け、本人の許可なしに呼称へ混ぜない」
セリカさんが頷く。
「名前に全部くっつけないってことね」
「はい」
ノエルが記録板に書く。
「名前と予定の分離。進路票と同じ構造」
リリアが優しく言った。
「今は、未定のままで大丈夫です」
その生徒は泣きながら頷いた。
「はい……」
◇
相談が終わるまでに、一時間近くかかった。
彼女は最後まで本名を言わなかった。
それでいい。
今日は、言わないことが必要だった。
相談記録には、こう残された。
保護印:未定。
本人名:封印記録、初回時点では非開示。
相談内容:家名付き呼称と予定役割名による過負荷。
希望:名前から家・婚約予定・後継役割を一度切り離したい。
才能名:未定保護。
次回相談:本人希望時。
ユリアナ先輩は、その紙を丁寧に封印封筒へ入れた。
「この記録は、私と学園長、本人が許可した担当者のみ確認できます」
彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
リリアが微笑む。
「来てくれて、ありがとうございます」
「来て……よかったです」
その言葉を聞いて、俺は胸の奥が少し熱くなった。
名前を書けない人が、相談できた。
それは、今日の大きな前進だった。
扉の声との対話がなければ、俺たちはこの制度を作らなかったかもしれない。
そう思うと、敵と味方で単純に分けられない。
黒い扉の向こうの声は危険だ。
でも、あの問いがあったから、見えた痛みもある。
彼女が退室したあと、相談室はしばらく静かだった。
セリカさんが息を吐く。
「重かったわね」
「はい」
リリアが頷く。
「でも、来てくれてよかった」
ノエルが記録板を見る。
「保護印制度、有効」
ユリアナ先輩は少し疲れた顔で、それでもはっきりと言った。
「正式化します。名前を書けない相談者のための道が必要です」
ミュレアが通信越しに言った。
『未定が、ちゃんと相談になったな』
「はい」
『レン。どう思う』
「名前をつけないまま向き合うのは、難しいです」
俺は正直に言った。
「でも、必要なんだと思います。名前を書けるようになるまで待つんじゃなくて、書けないままでも来られる場所が」
アリシア様の通信が静かに響いた。
『王宮にも共有します。匿名嘆願とは違う、保護印相談として参考になります』
ユリアナ先輩がすぐに姿勢を正す。
「ありがとうございます。制度案をまとめます」
セリカさんが少し笑う。
「また仕事増やす」
「必要です」
ユリアナ先輩は即答した。
その時、受付箱がまた小さく鳴った。
全員が振り返る。
箱の中には、新しい紙が一枚。
名前欄は空白。
保護印欄には、こう書かれていた。
灯。
相談内容。
――未定が入れたなら、私も行けますか。
リリアが目を見開いた。
セリカさんが低く呟く。
「一人じゃない」
ノエルが記録する。
「保護印相談、連鎖」
ユリアナ先輩は、ゆっくり息を吸った。
「受け入れます」
俺は新しい相談票を見つめた。
黒い扉の向こうの声が何を意図しているのかは分からない。
でも、確かに今、名前を書けなかった人たちが、少しずつ窓口へ向かい始めている。
未定。
灯。
次は、誰が来るのだろう。
怖い。
でも、逃げたくはない。
俺は胸元の学生証に触れた。
レン・クロフォード。
才能名は未定。
けれど、今やるべきことは分かっている。
名前をつけないままでも、向き合う。
呼ばれたくない人を、無理に呼ばない。
でも、見失わない。
それが、今日の相談窓口の仕事だった。




