第87話 名前をつけないまま、向き合うということ
朝になっても、夢の中の声は耳に残っていた。
――レン・クロフォード。
ぎこちない声だった。
敵意があったのか。
興味があったのか。
それとも、ただ俺の言葉を真似ただけなのか。
分からない。
ただ、あの黒い扉の向こうの存在は、初めて俺の名前を呼んだ。
それだけは確かだった。
俺はギルド宿舎のベッドから起き上がり、机の上の確認票を見る。
本人名。
レン・クロフォード。
才能名。
未定。
仮称、好感度限界突破。
機能候補、才能覚醒リンク。
本人意思。
誰かを支配する力ではなく、本人の名前と才能と意思を支える力にしたい。
昨日と同じ文字が、ちゃんとそこにある。
黒い扉も、無名という文字も、好意支配という文字も浮かんでいない。
それだけで少し息ができた。
「レン」
扉の向こうからリリアの声がした。
「起きていますか?」
「はい」
扉を開けると、リリアが盆を持って立っていた。
香草茶と、軽い朝食。
それから、少し心配そうな顔。
「眠れましたか?」
「一応、眠れました。夢は……見ましたけど」
「もう一度、怖い夢でしたか?」
「怖かったです。でも、昨日よりは戻りやすかった気がします」
リリアは少しだけ目を細めた。
「戻りやすかった」
「名前を呼んでもらえたので」
「夢の中でも?」
「はい」
俺が頷くと、リリアはほっとしたような、けれどまだ心配が消えないような顔をした。
「では、朝の確認をしましょう」
「はい」
リリアはまっすぐ俺を見た。
「レン」
「はい。リリア」
「レン・クロフォード」
「はい」
「才能名は?」
「未定です」
「無名では?」
「ありません。未定です」
リリアの表情が少し緩む。
「大丈夫そうですね」
「毎朝これをやるんですか?」
「必要なら」
「完全に健康診断みたいですね」
「名前の健康診断です」
リリアは真面目にそう言った。
俺は少し笑った。
名前の健康診断。
この学園なら、本当に正式制度になりそうで怖い。
その時、廊下の向こうからセリカさんの声がした。
「レン、起きた?」
「はい」
セリカさんは軽く手を上げて近づいてきた。
今日も木剣を持っている。
朝から隙がない。
「顔色は?」
「昨日よりはましです」
「自分で判断しない」
「じゃあ、どうですか」
セリカさんは俺の顔を数秒見た。
「眠れてはいる。でも、まだ考えすぎてる顔」
「それは平常運転では」
「駄目な平常運転ね」
ひどい。
でも否定できない。
ノエルも奥から出てきた。
髪が少し跳ねている。
手には記録板。
「夢干渉検知具、反応は二回。強い接触一回、微弱反応一回」
「微弱反応?」
「再睡眠後、黒い扉は開いてない。でも近くにいた可能性」
「近くに……」
リリアの表情が強張る。
ノエルはすぐに言った。
「危険反応は低かった。観察に近い」
「観察……」
それはそれで気味が悪い。
ただ、昨日までの接触に比べれば、まだましなのかもしれない。
ユリアナ先輩も姿を現した。
朝から完璧に整っている。
この人は寝癖という概念を知っているのだろうか。
「レン様。学園長室で朝の確認会議があります。移動できますか?」
「はい。大丈夫です」
「大丈夫、だけでは不十分です。疲労、頭痛、名前の違和感、才能名未定欄の揺らぎは?」
「疲労は少し。頭痛はありません。名前の違和感もありません。才能名は未定のままです」
「よろしい」
完全に診察だった。
通信水晶が光る。
『レン、妾の名も確認せよ』
「ミュレア」
『うむ。朝からよい響きじゃ』
「そっちは体調どうですか?」
『妾は封印中ゆえ健康管理など不要――』
リリアがすかさず言った。
「甘味は一品です」
『まだ何も要求しておらぬ!』
「先に確認です」
『白き娘、日に日に隙がなくなっておるな』
朝から通常運転だ。
そのやり取りで、少しだけ部屋の空気が和らいだ。
◇
学園長室には、昨日と同じ顔ぶれが集まっていた。
学園長。
ユリアナ先輩。
リリア。
セリカさん。
ノエル。
アイリス。
通信水晶越しのミュレアとアリシア様。
アイリスは窓際に立っていた。
小さな氷の盾を手元で回しながら、考え込んでいる。
「おはようございます、アイリス」
「おはようございます、レン・クロフォード」
彼女は一度こちらを見てから、少しだけ視線を落とした。
「昨夜、氷結界にひびが入りました。夢の中で接触があったのですね」
「はい。助かりました」
「役に立ったならよかったです」
「守護氷結、安定していますね」
俺が言うと、アイリスは少しだけ頬を赤くした。
「……まだ試用中です」
でも、否定はしない。
昨日より前進している。
学園長が全員を見渡し、静かに言った。
「では、昨夜の夢干渉について共有しましょう」
ノエルが記録板を机に置く。
「夢干渉内容。黒い扉。名前を呼ばない存在。無名の世界の提示。レンが名前は灯にもなると反論。相手が初めて“レン・クロフォード”と呼称」
改めて聞くと、ずいぶん重い。
リリアが俺を見る。
「その時、怖くありませんでしたか」
「怖かったです。でも、呼ばれた瞬間は……少し驚いた方が大きかったです」
セリカさんが腕を組む。
「名前を呼ばれたからって、安心はできないわよね」
「はい」
アイリスが頷く。
「嫌な名前で呼ばれることもあります。名前を呼ぶこと自体が、必ず善意とは限りません」
その言葉には実感がある。
冷血魔女。
氷人形。
彼女は名前で傷つけられてきた。
ユリアナ先輩が記録を確認する。
「しかし、今回相手は“おまえ”ではなく“レン・クロフォード”と呼んだ。これは、相手がこちらの主張を一部受け取った可能性があります」
ノエルが短く言う。
「あるいは、呼称による干渉を試した可能性」
「両方考えるべきですね」
アリシア様の声が通信水晶から響く。
『王宮結界の記録では、その瞬間に攻撃的な魔力上昇はありませんでした。むしろ、波形は揺らぎに近いものでした』
「揺らぎ?」
『はい。迷い、あるいは反応の変化のように見えます』
ミュレアが低く笑う。
『ふむ。名を呼ぶことを拒んでいたものが、ぎこちなく名を口にした。ならば、それは攻撃よりも試行に近いかもしれぬ』
「試しに呼んだ、ということですか」
『そうじゃ。長く使わなかった言葉を、試しに口にしたのかもしれぬ』
俺は夢の最後の声を思い出した。
――レン・クロフォード。
たしかに、慣れていない声だった。
誰かを呼ぶことを忘れていた存在が、初めて呼んだような。
学園長が問いかける。
「では、相手をどう記録するかが問題です」
部屋が少し静かになった。
そこは昨日も一度話した。
黒い扉の向こうの声。
長い。
でも、勝手に名前をつけるのは危険だ。
セリカさんが言う。
「記録するなら仮称は必要。でも、名前を押しつけるのは違う」
「はい」
リリアも頷く。
「本人が名前を拒んでいるなら、こちらが勝手に呼ぶのは、今まで私たちが避けてきたことと同じになってしまいます」
アイリスが静かに続ける。
「ただ、“おまえ”のように名前を呼ばないまま対象化するのも、危険です」
それも正しい。
名前をつけないことが、相手を尊重するとは限らない。
名前を呼ばないことで、逆に相手をもののように扱うこともある。
難しい。
名前をつけるのも、つけないのも、どちらも間違える可能性がある。
ノエルが手を上げる。
「提案。正式名ではなく、関係記述で記録」
「関係記述?」
「相手の本質を決めない。現時点で分かっている接触形態だけを書く」
ノエルは記録板に書いた。
接触記録対象:黒い扉を介して接触した、名前を避ける声。
長い。
とても長い。
でも、正確だ。
ユリアナ先輩が少し考えて頷いた。
「採用できます。略称は内部運用上“扉の声”とします。ただし、正式名ではなく接触形態の仮記録と明記します」
「扉の声……」
俺は口に出してみた。
相手に名前をつけたというより、今の接触の形を呼んでいる感じがする。
これなら、押しつけにくいかもしれない。
ミュレアが言う。
『よい落としどころじゃな。名を拒むものへ、名ではなく現象を置く。面倒じゃが、今はそれでよい』
セリカさんが小さく笑う。
「ミュレアが褒めた」
『妾は妥当な案を褒める度量を持っておる』
「甘味は?」
『二品』
「一品です」
リリアの返答が速い。
『なぜじゃ! 妾は今、協力したではないか!』
「体調管理です」
『協力と菓子が結びつかぬ世界など……』
ミュレアが大げさに嘆く。
学園長室なのに、少し笑いが起きた。
こういう笑いがあるうちは、まだ大丈夫だと思える。
◇
会議が終わる頃、学園長室に一人の書記官が駆け込んできた。
生徒会の補佐をしている学生だ。
息を切らし、手には数枚の相談票を持っている。
「ユリアナ会長、相談窓口に妙な票が届いています」
ユリアナ先輩の表情が引き締まる。
「妙な票?」
「はい。誰が出したのか分からないのですが、受付箱に入っていて……名前欄が空白なんです」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
名前欄が空白。
ただの記入漏れかもしれない。
でも、この状況でそれを軽く見ることはできない。
ユリアナ先輩が受け取り、机の上に広げる。
相談票は三枚あった。
本人名欄。
空白。
相談内容。
一枚目。
――呼ばれたくありません。
二枚目。
――でも、見つけてほしいです。
三枚目。
――名前がないと、相談できませんか。
リリアが小さく息を呑んだ。
セリカさんの目が鋭くなる。
ノエルが記録板を持ち直した。
アイリスは眉を寄せる。
「これは、誰かの相談票ですか?」
ユリアナ先輩は票の端を確認する。
「筆跡は一定ではありません。魔力痕も薄い。誰か一人のものとは断定できません」
俺は表示を見ようとして、すぐにリリアに見られた。
「レン」
「……最小限だけ」
「負荷が上がったら止めます」
「はい」
俺は許可を得るように、ユリアナ先輩を見る。
彼女が頷いた。
「確認してください。ただし短時間で」
俺は相談票へ意識を向けた。
無記名相談票
状態:不安定
関連:第四の系統
ただし、攻撃反応は低
内容:名前を拒否しつつ、発見を求める矛盾した相談
注意:記入者は単独ではない可能性があります
「攻撃反応は低いです。第四の系統関連ではありますが……相談に近い」
「相談」
リリアが繰り返す。
「名前を拒否しつつ、見つけてほしい。名前がないと相談できないのか……」
アイリスは相談票をじっと見つめた。
「矛盾していますね。でも、分からなくはありません」
「アイリス?」
「呼ばれたくない名前なら、書きたくない。けれど、誰にも見つけてもらえないのも苦しい。そういうことではないでしょうか」
その言葉に、部屋が静かになった。
冷血魔女と呼ばれた彼女だから言えることだった。
名前で傷ついた人は、名前を書きたくない。
でも、名前を書かなければ相談できないのだとしたら。
その人は、どこへ行けばいいのか。
リリアが静かに言った。
「今までの相談票は、本人名を書く前提でした」
ユリアナ先輩が表情を硬くする。
「はい。本人確認と記録保護のためです」
「でも、名前を書くこと自体が怖い人もいるかもしれません」
「……その通りです」
ユリアナ先輩は少しだけ目を伏せた。
「制度の不足です」
セリカさんがすぐに言った。
「責めるところじゃない。今見つかった」
「はい」
ユリアナ先輩は顔を上げる。
「修正します」
ノエルが記録板に書く。
「匿名相談欄?」
「匿名だと、完全に記録できなくなります。第三者の悪用もあり得ます」
ユリアナ先輩がすぐに検討する。
さすがだ。
ただ優しくするだけでは制度は回らない。
守るためには、不正利用も考える必要がある。
アリシア様の声が通信水晶から響く。
『王宮にも、匿名嘆願の制度があります。ただし、完全匿名ではなく、封印管理者だけが確認できる保護名を使います』
「保護名……」
リリアが呟く。
ユリアナ先輩の目が動いた。
「相談窓口でも応用できます。本人名を公開欄に書けない場合、一時保護名を使用する。本人確認は担当者のみが行い、相談票上は保護名で扱う」
ノエルが書く。
「保護名制度」
セリカさんが首を傾げる。
「でも、名前を拒否している人にまた名前をつけるの?」
「そこが問題です」
俺は相談票を見つめた。
――名前がないと、相談できませんか。
これは、扉の声からの問いでもあるのかもしれない。
名前がない者を、俺たちはどう扱うのか。
名前を拒む者を、窓口は受け止められるのか。
俺はゆっくり言った。
「保護名は、呼ぶための名前じゃなくて、守るための仮置きにできませんか」
「仮置き?」
「たとえば、“相談者A”ではなく……本人が選べる記号や言葉。花でも、星でも、色でもいい。嫌なら未定でもいい。誰かが勝手に呼ぶためじゃなく、記録を守るための印」
リリアが頷いた。
「本人が選ぶのですね」
「はい。まだ本名を書けない人のために」
アイリスが続ける。
「呼ばれたくない名前を書かずに、相談できる場所」
セリカさんが腕を組む。
「いいんじゃない。悪用対策は必要だけど」
ユリアナ先輩はすでに書類を作り始めていた。
「本人名記入が困難な場合の一時保護記録。公開相談票には保護印を使用。担当者のみ封印記録で本人確認。本人が望まない場合、初回相談では本人確認を後日に延期可能。ただし危険性が高い相談は別対応」
「すごい速度で制度になりますね」
「必要です」
ノエルが小さく言う。
「未定欄の次は、保護印」
ミュレアが通信越しに笑った。
『名を持たぬものに対抗するため、名ではない印を作るか。面白い』
「面白いですか」
『うむ。名を強制しない。しかし、存在を見失わない。よい中間じゃ』
学園長も頷いた。
「すぐに試験運用しましょう。まずは相談窓口内で」
その時、三枚の無記名相談票が淡く光った。
文字が一つ増える。
――それなら、行ってもいいですか。
リリアが息を呑む。
「今……」
俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
この相談票は、ただの紙ではない。
どこかと繋がっている。
扉の声か。
それとも、名を拒む誰かたちか。
ユリアナ先輩が慎重に言った。
「返答を書くべきでしょうか」
部屋が静まる。
返事をすれば、接触が進む。
返事をしなければ、相談を拒むことになる。
俺は少し考えた。
そして、リリアたちを見る。
「一人で決めることじゃないですね」
セリカさんが頷く。
「そうね」
リリアが言う。
「でも、私は返事をしたいです」
ノエル。
「記録上も、対話機会」
ユリアナ先輩。
「危険はありますが、無視はできません。条件付きで返答します」
アイリス。
「名前を書けない相談者を、門前払いにはしたくありません」
ミュレア。
『罠かもしれぬ。だが、罠を恐れて扉を閉めれば、こちらの言葉も嘘になる』
アリシア様。
『王宮結界を重ねます。返答するなら、今です』
学園長が頷いた。
「では、返答を」
ユリアナ先輩が新しい紙を出す。
しかし、俺は無記名相談票の余白を見た。
「ここに書きます」
リリアが心配そうに俺を見る。
「レン、無理は」
「能力は使いません。ただ、言葉を書くだけです」
俺はペンを持った。
少し手が震えている。
でも、書けた。
――名前を書けなくても、相談できます。
――呼ばれたくない名前は書かなくて構いません。
――必要なら、あなた自身が選ぶ仮の印で記録します。
――未定でも構いません。
――ただし、こちらもあなたをものとして扱いたくありません。
――話せる範囲で、あなたがどう扱われたいか教えてください。
書き終えると、相談票が静かに光った。
黒い扉は出ない。
攻撃もない。
ただ、文字が少しずつ薄くなっていく。
最後に、一行だけ残った。
――未定で、行きます。
その文字を見た時、リリアが小さく息を吐いた。
「未定……」
セリカさんが頷く。
「名前じゃなくて、今の状態ね」
ノエルが記録する。
「保護印:未定。初回相談予定、発生可能性」
ユリアナ先輩は真剣な顔で言った。
「相談窓口を整えます。今後、本当に“未定”が来るかもしれません」
「未定が来るって、すごい文章ですね」
俺が言うと、ミュレアが笑った。
『よいではないか。名を持たぬものが、未定として門を叩く。実に面倒で、実にこの物語らしい』
「物語って言わないでください」
『雰囲気じゃ』
学園長室に、少しだけ笑いが戻った。
でも、誰も油断していなかった。
黒い扉の向こうの声は、まだ危険だ。
無名の思想は、まだ消えていない。
けれど今日、別の扉も開いた。
名前を書けない者が、相談できる扉。
未定のまま、入ってこられる場所。
俺は無記名相談票を見つめた。
次に来るのが罠なのか、助けを求める声なのかは分からない。
でも、今の俺たちはたぶん、こう答えるしかない。
名前を持っていても。
名前を決められなくても。
名前を書けなくても。
相談していい。
そのための窓口なのだから。




