第86話 夢の中で、名前を呼ばれない
その夜、俺は一人で眠ることを許されなかった。
いや、語弊がある。
同じ部屋で誰かが寝るとか、そういう話ではない。
そこまでいくと、前世陰キャ非モテの精神が完全に焼き切れる。
そうではなく、睡眠時名称固定手順というものが急きょ作られた。
ユリアナ先輩が正式名称をつけた。
ノエルが補助魔道具を用意した。
リリアが香草茶を調合した。
セリカさんが俺の部屋の扉前に「巡回」と称してしばらく立つことになった。
アイリスは窓際に小さな氷の結界を置いた。
ミュレアは通信水晶越しに「妾の声を聞けるようにしておけ」と主張した。
アリシア様は王宮側から薄い結界を重ねてくれた。
……つまり、俺はとんでもなく厳重に寝かされることになった。
「寝るだけですよね?」
俺が机の前で言うと、ユリアナ先輩は真面目な顔で頷いた。
「はい。だからこそ重要です」
「寝るだけで作戦みたいになっています」
「実際、作戦です」
否定されなかった。
ユリアナ先輩は、確認票を机の上に置く。
「就寝前に本人名と才能名未定欄を確認します。起床後にも同様に確認。夢の内容を覚えていれば、本人の許可を得て記録します」
「夢まで記録されるんですか」
「拒否できます」
「そこは安心しました」
ノエルが小型の魔道具を枕元に置いた。
「これは夢干渉検知具。危険があると光る。音は鳴らない。睡眠の邪魔になるから」
「ありがとうございます」
「あと、勝手に夢を読む機能はない」
「先に言ってくれるの、助かります」
ノエルは真顔で頷いた。
「プライバシー大事」
その言葉に、ユリアナ先輩も頷いた。
「夢であっても、本人意思の尊重は必要です」
リリアは温かいカップを差し出してくれた。
「香草茶です。強い眠り薬ではありません。落ち着く程度です」
「ありがとうございます、リリア」
「はい」
リリアは少しだけ心配そうに俺を見る。
「怖くなったら、起きてください。夢の中でも、名前を確認してください」
「はい」
セリカさんは扉のところで腕を組んでいる。
「木剣、枕元」
「あります」
「確認票、胸元じゃなくて机。寝苦しくなるから」
「はい」
「何かあったら呼ぶ」
「夢の中でですか?」
「現実でも」
「はい」
セリカさんの言い方は短い。
でも、一つひとつが心配でできているのが分かる。
アイリスは窓際で、淡い氷の結晶を作っていた。
小さな盾のような形。
昨日より、また少し安定している。
「これは外部干渉があればひびが入ります。ただし、攻撃用ではありません」
「守護氷結ですか」
俺が言うと、アイリスは少しだけ目を逸らした。
「……試用中です」
「ありがとうございます、アイリス」
「守護氷結の練習です」
「はい」
照れ隠しが分かりやすくなってきた。
通信水晶からミュレアが声を出す。
『レン。眠る前に妾の名も呼べ』
「ミュレア」
『うむ。よい。これで夢の中でも妾の高貴なる存在感を忘れぬじゃろう』
「夢にまで出てくる気ですか」
『必要なら出る』
「それはそれで怖いです」
『失礼な』
アリシア様の通信も、短く入った。
『レン様。王宮結界は薄く重ねています。強くしすぎると眠りに干渉しますので、本当に異常が出た時だけ反応するようにしています』
「ありがとうございます、アリシア様」
『どうか、ご無理なさらず。夢の中でも、レン様はレン様です』
その言葉で、胸が少し温かくなった。
俺はカップを置き、全員を見た。
部屋に人が多すぎる。
前世の俺なら、この時点で気絶していたかもしれない。
でも今は、不思議と嫌ではなかった。
「皆さん、ありがとうございます」
リリアが微笑む。
「レンが無事に眠れるようにするだけです」
セリカさんが頷く。
「寝るのも大事な仕事」
ノエルが言う。
「睡眠不足はリンク精度を落とす」
ユリアナ先輩が続ける。
「体調管理も対第四系統対策です」
アイリスが少し硬い声で言った。
「守られることも、時には必要です」
ミュレアが笑う。
『そして起きたら菓子じゃ』
「一品です」
リリアが即答した。
『寝る前からなぜ妾の菓子が制限されるのじゃ!』
いつもの声に、みんなが少し笑った。
その笑いの中で、俺は自分の名前を確認した。
「レン・クロフォード」
ちゃんと聞こえる。
才能名は、未定。
でも、無名ではない。
俺はそう言い聞かせて、ベッドに入った。
◇
夢だと、すぐに分かった。
目の前に、扉があったからだ。
黒い扉。
学園長室で確認票に現れたものより、ずっと大きい。
扉は何もない白い空間に立っていた。
床も壁も天井も分からない。
ただ、俺の足元にだけ薄い影がある。
俺は自分の手を見た。
輪郭が少しぼやけている。
夢の中だからなのか、それとも干渉を受けているのか。
「レン・クロフォード」
自分で名前を呼ぶ。
声は出た。
よかった。
胸元を探すと、確認票はない。
木剣もない。
でも、名前はある。
それだけで少し立てる。
黒い扉の隙間から、声がした。
――おまえ。
やはり、名前を呼ばない。
俺は扉を見た。
「レン・クロフォードだ」
昨日と同じように訂正する。
扉の向こうの気配が、少し揺れた。
――名は、不要。
「俺には必要だ」
――傷になる。
「傷になる名前もある」
俺は認めた。
「でも、全部じゃない」
黒い扉が少し開いた。
中は真っ暗ではなかった。
むしろ、灰色の光が満ちている。
そこに、何かがいる。
人の形に近い。
でも、顔がない。
輪郭だけがあり、名前を書く欄だけが空白になっているような存在。
性別も年齢も分からない。
声も、一人のものではない。
何人もの声が重なっているようだった。
――名があるから、呼ばれる。
――呼ばれるから、使われる。
――使われるから、役割になる。
――役割になるから、逃げられない。
その声に、俺はすぐ返せなかった。
言っていることの痛みは分かる。
聖女。
冷血魔女。
外れスキル。
戦闘要員。
便利な覚醒装置。
好意支配。
名前は、ときどき人を押し潰す。
「だからって、全部奪うのは違う」
――奪わない。
「昨日、才能名を薄めただろ」
――重荷を下ろした。
「違う。本人が使い方を見失っていた」
――使わなければ、傷つかない。
俺は唇を噛んだ。
その理屈は、逃げ道としては甘い。
使わなければ失敗しない。
名乗らなければ呼ばれない。
好かれなければ支配されない。
期待されなければ裏切らない。
前世の俺は、その考え方に近い場所にいた。
目立たないように。
呼ばれないように。
期待されないように。
傷つかないように。
だから、分かってしまう。
分かってしまうからこそ、危ない。
「俺も、そう思ったことがある」
扉の向こうの存在が静かになった。
――おまえも。
「レン・クロフォードだ」
俺は訂正してから続けた。
「前の世界では、誰にも呼ばれない方が楽だと思ったことがある。期待されない方がいいと思ったこともある。好かれるなんて、自分には関係ないと思ってた」
声が少し震えた。
でも、夢の中だからこそ言えたのかもしれない。
「でも、名前を呼ばれないのは、楽なだけじゃなかった。寂しかった」
扉の奥の気配が、かすかに揺れる。
――寂しい。
「そうだ」
――それも、名のせい。
「違う」
俺は首を振った。
「名前のせいだけじゃない。名前をどう使うかの問題だ」
――使う者は、傷つける。
「傷つける者もいる。でも、支える者もいる」
俺の周囲に、淡い光が浮かんだ。
リリアの声が聞こえた気がする。
レン。
セリカさんの声。
レン。
ノエル。
レン。
ユリアナ先輩。
レン様。
ミュレア。
レン。
アリシア様。
レン様。
アイリス。
レン・クロフォード。
夢の中なのに、名前が届く。
枕元の魔道具や結界の影響なのか、それとも俺の記憶なのかは分からない。
でも、確かに聞こえた。
俺の輪郭が少しはっきりする。
黒い扉の存在が、初めて少し後ずさったように見えた。
――なぜ、戻る。
「呼ばれたから」
――名は鎖。
「灯にもなる」
――灯は、消える。
「消えたら、また呼ぶ」
俺は一歩前へ出た。
扉の向こうの存在は、顔のないままこちらを見ている。
見ている、と感じるだけだ。
「おまえは、名前を持っていないのか」
――不要。
「捨てたのか」
――不要。
「奪われたのか」
扉の奥が、大きく揺れた。
夢の空間に、ざざっと黒い線が走る。
怒りか。
恐怖か。
分からない。
ただ、今の問いは触れてはいけない場所に触れたのだと分かった。
――問うな。
初めて、はっきりした拒絶が返ってきた。
俺はすぐに両手を少し上げた。
「分かった。今は聞かない」
――なぜ。
「嫌だと言ったから」
扉の向こうの存在が止まる。
――嫌。
「そうだ。嫌なら、今は聞かない。俺は勝手に名前をつけない」
夢の中の空気が変わった。
それまで押し寄せていた圧が、少し弱まる。
俺は続けた。
「でも、俺の名前も勝手に奪わせない」
――名は傷。
「それでも、俺は自分で持つ」
――才は鎖。
「才能名は未定だ。でも、無名とは違う」
――好意は支配。
「支配じゃない好意もある」
その瞬間、黒い扉の向こうに別の景色が広がった。
白い世界。
そこには、名前のない人影がたくさんいた。
誰も呼ばない。
誰も呼ばれない。
誰も責められない。
誰も期待されない。
静かだった。
とても静かだった。
傷つける言葉もない。
嫌な肩書きもない。
冷たいあだ名もない。
たしかに、楽かもしれない。
けれど。
誰も、誰かを振り返らなかった。
名前がないから、呼び止められない。
才能名がないから、助けてと言えない。
好意がないから、手を伸ばす理由も薄い。
静かすぎる世界。
傷つかない代わりに、誰とも繋がらない世界。
俺は、その光景を見て胸が痛くなった。
「これは……自由なのか?」
扉の存在は答えない。
「傷つかないかもしれない。でも、誰かが倒れても、名前を呼べない」
――倒れなければよい。
「倒れることはある」
――弱いから。
「弱いから、呼ぶんだ」
俺は言った。
「リリアが俺を呼んだ。セリカさんが呼んだ。ノエルが、ユリアナ先輩が、ミュレアが、アリシア様が、アイリスが。俺が薄れそうになった時、名前を呼んで戻してくれた」
夢の中で、白い世界の人影が少しだけ揺れる。
「名前は傷になる。でも、誰かを戻すこともある」
扉の存在が沈黙した。
その沈黙は、昨日より長かった。
俺は深追いしない。
ミュレアにも言われた。
今日は、知るために来たのではない。
生きて戻るために眠ったのだ。
「今日はここまでにする」
――逃げる。
「違う。戻る」
――どこへ。
「俺の名前を呼んでくれる人たちのところへ」
――また傷つく。
「たぶん」
俺は苦笑した。
「それでも、戻る」
黒い扉が少しずつ閉じ始めた。
最後に、向こうの存在が言った。
――レン・クロフォード。
初めて。
初めて、俺の名前を呼んだ。
その声は、とてもぎこちなかった。
まるで、長い間使っていなかった言葉を口にするように。
俺は息を呑んだ。
「……はい」
返事をした瞬間、夢が崩れた。
◇
目を覚ますと、天井が見えた。
ギルド宿舎の自室。
朝ではない。
まだ夜だ。
枕元の夢干渉検知具が、淡く光っている。
窓際のアイリスの氷結界には、細いひびが入っていた。
通信水晶が明滅している。
俺はゆっくり起き上がった。
喉が渇いている。
「レン」
扉の外から、セリカさんの声がした。
「起きた?」
「はい」
扉が開く。
セリカさんが入ってきた。巡回と言っていたが、本当に近くにいたらしい。
すぐにリリアも駆け込んでくる。
「レン、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。夢を見ました」
ノエルも寝間着の上に上着を羽織って現れた。
手には記録板。
ユリアナ先輩も少し遅れて来た。
どうしてこの時間に全員こんなに早いのか。
いや、たぶん待機していたのだ。
アイリスも廊下から顔を出した。
「氷結界にひびが入りました」
「すみません」
「謝ることではありません。役に立ったならいいです」
通信水晶からミュレアの声が響く。
『レン、生きておるな』
「はい」
『名前は?』
「レン・クロフォード」
『よし』
アリシア様の通信も入る。
『王宮結界にも反応がありました。接触がありましたね』
「はい」
リリアがベッドの横に座る。
「話せますか? 無理なら、後でも」
「話せます」
俺は夢の内容を、できるだけそのまま話した。
黒い扉。
名前を呼ばない存在。
無名の世界。
誰も傷つかないが、誰も呼び合わない場所。
名前は傷だという主張。
俺が、名前は灯にもなると答えたこと。
そして最後に。
「向こうが、俺の名前を呼びました」
全員の表情が変わった。
ノエルが記録板を握る。
「初めて?」
「はい。初めてです」
ユリアナ先輩が静かに言う。
「大きな変化です。名前を呼ぶことを避けていた存在が、レン様の名前を呼んだ」
アイリスが少し眉を寄せる。
「それは、敵意が弱まったということですか?」
ミュレアが低く言った。
『まだ分からぬ。名を呼ぶことは、繋がることでもあるが、狙うことでもある』
空気が少し重くなる。
そうだ。
名前を呼ぶことは、必ずしも善意ではない。
嫌な名前で呼ぶことも、支配するために呼ぶこともある。
でも、あの時の声は。
「……ぎこちなかったです」
俺は言った。
「狙うというより、初めて口にしたみたいな感じでした」
リリアがそっと頷く。
「なら、少しだけ届いたのかもしれません」
「届いた……」
「名前は傷だけではない、ということが」
セリカさんが腕を組む。
「でも油断はしない」
「はい」
ノエルが記録する。
「相手名称は未確認。仮称は?」
全員が一瞬黙った。
名前をつけるかどうか。
そこは慎重にならなければならない。
俺は考えてから言った。
「今は、黒い扉の向こうの声、でいいと思います」
「長い」
ノエルが言う。
「でも勝手に名前をつけたくありません」
「分かった。仮記録名、黒い扉の向こうの声」
ユリアナ先輩も頷いた。
「正式名ではなく、記録上の仮称ですね」
「はい」
ミュレアが少し楽しそうに言う。
『よい。名を持たぬものに、こちらが勝手に名を押しつけぬ。実に面倒で、実にレンらしい』
「褒めていますか?」
『褒めておる。今回は七割ほど』
「増えましたね」
『よい夢土産じゃ』
リリアが俺の手を見た。
「震えています」
「少し」
「怖かったですね」
「はい」
「でも、戻ってきました」
「名前を呼ばれたので」
リリアは少しだけ笑った。
「では、もう一度確認しましょう」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
「レン」
「はい。リリア」
セリカさん。
「レン」
「はい。セリカさん」
ノエル。
「レン」
「はい。ノエル」
ユリアナ先輩。
「レン様」
「はい。ユリアナ先輩」
アイリス。
「レン・クロフォード」
「はい。アイリス」
ミュレア。
『レン』
「はい。ミュレア」
アリシア様。
『レン様』
「はい。アリシア様」
名前が戻る。
俺は、もう一度息を吐いた。
怖かった。
でも、夢の中で少しだけ分かった。
黒い扉の向こうの声は、名前を憎んでいるだけではない。
名前で傷ついた何かだ。
そして、たぶん。
名前を呼ぶことを、完全には忘れていない。
◇
夜はまだ深かった。
ユリアナ先輩は、記録を簡潔にまとめた後で言った。
「詳細分析は朝に回します。今は再睡眠が必要です」
「また寝るんですか」
「はい」
即答だった。
「怖いのは分かります。ですが、睡眠を削ると明日以降の判断力が落ちます」
セリカさんが頷く。
「今度は近くにいる」
リリアも言う。
「香草茶を入れ直します」
アイリスが窓際の氷結界を修復する。
「ひびは直しておきます。今度は少し感度を上げます」
ノエルが夢干渉検知具を確認する。
「記録済み。次の接触があれば分かる」
ミュレアが通信越しに言った。
『レン。次にあの声が来たら、言ってやれ』
「何をですか」
『名前は嫌なら未定でもよい。だが、勝手に奪うな、とな』
俺は頷いた。
「はい」
布団に戻る前に、俺は小さく呟いた。
「黒い扉の向こうの声」
正式名ではない。
ただの仮称。
相手を呼ぶためではなく、記録するための言葉。
それでも、少しだけ向こうとの距離が測れる気がした。
俺は再び横になった。
怖さはまだある。
でも、さっきより少しだけ眠れそうだった。
目を閉じる前に、自分の名前を確認する。
「レン・クロフォード」
ちゃんと聞こえた。
そして、夢の最後に聞こえたぎこちない声も、まだ耳に残っていた。
――レン・クロフォード。
あれが罠なのか、対話の始まりなのかは分からない。
でも、次に会った時も俺は訂正する。
おまえ、ではない。
無名でもない。
俺は、レン・クロフォードだ。




