第79話 負けた氷の天才、なぜか相談窓口で泣く
アイリス・ヴェルナーが相談窓口に来たのは、模擬戦の翌朝だった。
いつものように背筋はまっすぐ。
制服の乱れもない。
淡い青銀の髪は綺麗に整えられていて、紫の瞳も冷静に見える。
だが、扉の前に立つ彼女は、昨日までのアイリスとは少し違っていた。
氷みたいに張り詰めた空気がない。
その代わり、何かを抱えきれずに立っているような、危うい静けさがあった。
「おはようございます、アイリスさん」
リリアが声をかける。
アイリスは小さく頷いた。
「おはようございます、リリアさん」
俺も続ける。
「おはようございます、アイリス」
彼女の目が少しだけ揺れた。
昨日より、その揺れは小さい。
「おはようございます、レン・クロフォード」
相変わらずフルネームだった。
だが、そこに距離を取る冷たさはなかった。
むしろ、きちんと呼ぼうとしている感じがする。
ユリアナ先輩が受付票を確認した。
「本日は、本人才能意思確認票の再調整でよろしいですか?」
「はい」
アイリスは、短く答えた。
けれど、その声は少しだけ硬い。
セリカさんが腕を組んで、彼女を見た。
「負けたから悔しくて再戦要求、って顔じゃないわね」
「再戦要求も、いずれします」
「そこはするのね」
「負けたままは嫌なので」
アイリスらしい返答だった。
だが、その後が続かなかった。
彼女は相談室の椅子に座ると、膝の上で両手を握った。
その指先が、ほんの少し震えている。
ノエルが記録板を開きかけたが、ユリアナ先輩が視線で止める。
ノエルは少し迷ってから、記録板を閉じた。
今は、記録より先に聞く時間だ。
リリアが向かいに座った。
「昨日の模擬戦のことでしょうか」
「はい」
アイリスは頷く。
「昨日、私は負けました」
「はい」
「悔しかったです」
「はい」
「でも、それだけなら、ここには来ません」
彼女の声が、少しだけ揺れた。
「私は……昨日、自分の氷が分からなくなりました」
相談室の空気が静かになる。
アイリスは視線を落としたまま続けた。
「私はずっと、氷は止めるものだと思っていました。相手を近づけないためのもの。戦場を制圧するためのもの。自分に踏み込ませないためのもの」
彼女の指先に、小さな氷の粒が生まれる。
それは尖った結晶になりかけて、すぐに崩れた。
「でも昨日、サーヤが足を滑らせそうになった時、私は攻めるより先に、彼女の足元を支えました」
その場面は、俺も見ていた。
勝つためなら、あのまま俺たちを氷壁で止めればよかった。
だが、アイリスは味方を支える氷を出した。
その一瞬の迷いが、こちらの突破口になった。
だから勝負だけで見れば、あれは隙だった。
でも、才能として見れば違う。
あれは、守護氷結の兆しだった。
「私は……あの時、負けた原因を作りました」
アイリスは唇を噛んだ。
「なのに、嫌ではなかったんです」
リリアが静かに聞く。
「サーヤさんを支えたことが、ですか」
「はい」
アイリスの声が小さくなる。
「むしろ、少し安心しました。自分の氷が、人を転ばせるためではなく、転ばないようにするためにも使えたことに」
彼女の目元が赤くなっていた。
「それが、怖いんです」
「怖い?」
俺が聞くと、アイリスは頷いた。
「私は、自分の氷をそういうものだと思わないようにしてきました。守りたいなんて思ったら、弱くなる気がして。冷たくいれば、失敗しない。感情を出さなければ、揺れない。そう思ってきました」
冷血魔女。
氷人形。
そう呼ばれ続けた過去。
周囲にそう見られるうちに、彼女自身もその姿に合わせてきたのかもしれない。
冷たくなりたかったわけではない。
冷たいと言われるなら、その方が楽だっただけ。
アイリスは震える息を吐いた。
「私は、冷たくなりたかったわけじゃない」
その声は、氷ではなかった。
ただの少女の声だった。
「冷たいと言われたから、そう振る舞った方が楽だっただけです」
リリアの表情が、痛みを知っている人のものになる。
「分かります」
アイリスが顔を上げた。
リリアは胸元に手を添え、静かに言った。
「名前も才能も、周りに言われ続けると、自分でもそうだと思ってしまいます。聖女と呼ばれ続けると、リリアであることが遠くなる。器と呼ばれると、自分の心まで器の中に閉じ込められるようになる」
「リリアさん……」
「アイリスさんも、冷血魔女ではありません」
リリアは、はっきりと言った。
「アイリスさんです」
その瞬間、アイリスの瞳から涙がこぼれた。
本人も驚いたように、指先で頬に触れる。
「……すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
「泣くつもりは」
「泣いても大丈夫です」
リリアの声は優しかった。
だからこそ、アイリスの涙は止まらなくなった。
彼女は声を殺して泣いた。
背筋はまだ伸びている。
姿勢は崩れない。
それでも、涙だけが静かに落ちていく。
セリカさんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を横へ逸らした。
ノエルも記録板を開かない。
ユリアナ先輩は、静かにハンカチを差し出した。
アイリスはそれを受け取り、小さな声で礼を言った。
◇
しばらくして、アイリスの呼吸が落ち着いた。
リリアが温かいお茶を出す。
ミュレアは通信水晶の向こうで、珍しく茶々を入れなかった。
空気を読む魔王令嬢。
できる時はできるらしい。
アイリスはお茶を一口飲んでから、俺を見た。
「レン・クロフォード」
「はい」
「昨日の続きを、見てもらえますか」
「才能確認ですか?」
「はい。ただし、勝手に覚醒させないでください」
「分かっています」
「それから……」
アイリスは少し言い淀んだ。
「私が嫌だと言ったら、止めてください」
「もちろんです」
俺は即答した。
そこだけは迷わない。
本人の許可なしには見ない。
嫌だと言ったら止める。
それが、アイリスと向き合う上での最低条件だ。
彼女は小さく頷いた。
「では、お願いします」
俺は深呼吸した。
好感度限界突破。
才能覚醒リンク。
ただし、今回は開くのではない。
まず見る。
本人の言葉と、本人の才能がどこで結び直されようとしているのか。
アイリスの周囲に、静かな冷気が生まれる。
昨日より鋭くない。
でも、弱くもない。
俺の視界に表示が浮かんだ。
アイリス・ヴェルナー
氷属性魔術適性:極めて高い
努力の蓄積:高
拒否呼称:冷血魔女、氷人形
本人意思:誰かを遠ざける氷ではなく、守る氷にしたい
才能名候補:守護氷結
状態:受容進行中、不安、悔しさ、希望
胸の奥が、少し温かくなった。
昨日は「守護氷結」が試用候補だった。
今日は、もう少し深く彼女の内側へ届いている。
俺はゆっくり言った。
「才能名候補は、守護氷結。昨日より、受け入れが進んでいます」
アイリスは目を伏せる。
「やはり、そうですか」
「嫌ですか?」
「……嫌ではありません」
彼女はそう言ってから、少しだけ苦笑した。
「大げさだとは思います」
「それは、俺も少し」
「そこは否定しないのですね」
「嘘はつきたくないので」
アイリスは、泣いた後の目で少しだけ笑った。
昨日より自然な笑いだった。
「でも、嫌ではありません。悔しいくらいに」
「悔しいんですか」
「はい。自分で気づく前に、あなたの表示に出たのが悔しいです」
「すみません」
「謝るところではありません」
セリカさんが横から言った。
「その悔しさがあるなら、たぶん大丈夫よ」
アイリスがセリカさんを見る。
「どういう意味ですか」
「レンの力で何でも決められたって思ってないってことでしょ。自分で掴みたいって思ってる。なら、それはあなたの才能よ」
アイリスは少し黙った。
そして、小さく頷いた。
「……そうですね」
リリアが確認票をそっと前に出した。
「書いてみますか?」
アイリスはペンを持つ。
本人才能意思確認票。
正式分類:氷属性魔術適性。
拒否呼称:冷血魔女、氷人形。
本人が受け入れられる才能名:氷魔術師、アイリスの氷。
試用才能名:守護氷結。
そして、新しい欄。
本人がどう使いたいか。
アイリスはしばらく考えた。
それから、昨日よりはっきりした筆跡で書いた。
誰かを遠ざけるためだけではなく、守るために使いたい。
味方が倒れそうな時、支えられる氷にしたい。
自分を閉じ込める氷ではなく、誰かの前に立てる氷にしたい。
最後の一文を書いた時、彼女の指先から小さな氷の盾が浮かんだ。
半透明で、白く、薄い。
だが、確かに盾の形をしている。
本人才能意思確認:成立
守護氷結:試用安定
冷血魔女:後退
氷人形:後退
第四の系統反応:微弱低下
「安定しました」
俺が言うと、アイリスは長く息を吐いた。
「……よかった」
その一言は、とても小さかった。
けれど、相談室にいた全員へ届いた。
◇
その時、通信水晶からミュレアが声を出した。
『アイリス』
アイリスは少し驚いて水晶を見る。
「はい」
『よい氷じゃ』
「……ありがとうございます」
『ただし、まだ名に振り回されるな。守護氷結とやらも、そなたを縛る鎖になれば意味がない』
ミュレアの声は、いつもより落ち着いていた。
『才の名は旗じゃ。掲げることはできる。だが、旗に首を吊るでない』
相談室が静かになる。
また名言が出た。
アイリスは、その言葉を真剣に受け止めていた。
「覚えておきます」
『うむ。覚えるがよい』
「ミュレアさん、今のはとても良い言葉でした」
リリアが言う。
『であろう。ならば菓子二品――』
「一品です」
『余韻! 白き娘、余韻を味わえ!』
「体調管理です」
いつものやり取りが戻った。
アイリスは、ぽかんとした顔でそれを見ていた。
「いつも、こうなのですか?」
「だいたいこうです」
俺が答えると、セリカさんも頷いた。
「すぐ慣れるわ」
「慣れる予定は……」
アイリスは言いかけて、少し考えた。
「……未定です」
ノエルが即座に言った。
「良い未定」
「評価されるのですね」
「未定は正式な意思」
アイリスは少しだけ笑った。
◇
確認票の記録が終わった後、アイリスは俺の方を向いた。
「レン・クロフォード」
「はい」
「私は、あなたに負けました」
「はい」
「でも、あなた一人に負けたとは思っていません」
その言葉に、俺は少し驚いた。
アイリスは続ける。
「リリアさんの光、セリカさんの剣、ノエルさんの魔道具、ユリアナさんの指示。全てが噛み合っていました。あなたの力は、その全てを繋いでいた」
「はい」
「だから、私はあなたの力を少し認めます」
「少し」
「少しです」
そこはアイリスらしい。
「完全に認めるには、まだ足りません。実技杯本戦でも見せてください」
「もちろんです」
「それから」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「あなたともう一度組めば、この氷のことがもっと分かるかもしれないと思いました」
空気が、ぴたりと止まった。
リリアが静かに目を瞬かせる。
セリカさんの眉が少し動く。
ノエルの記録板がわずかに上がる。
ユリアナ先輩は、何か言いかけて飲み込む。
通信水晶の向こうでミュレアが楽しそうに笑った。
『また増えたな』
「何がですか」
俺が反射的に聞くと、セリカさんが低い声で言った。
「聞かない方がいいって前にも言ったでしょ」
「はい」
リリアはにこりと笑った。
「アイリスさんは、レンと組みたいのですか?」
声は優しい。
とても優しい。
でも、少しだけ圧がある。
アイリスは真面目に頷いた。
「はい。才能確認の観点では、組んでみたいです」
ノエルがすぐに言う。
「才能覚醒リンク対象候補」
リリアとセリカさんが同時に無言になった。
俺は額に手を当てる。
「ノエル、その言い方は誤解を招きます」
「でも事実」
「事実でも言い方が」
ユリアナ先輩が咳払いした。
「実技杯のチーム登録上、アイリスさんは第四混成班のリーダーです。現時点で第五混成班へ加入することはできません」
「分かっています」
アイリスは落ち着いていた。
「だから、今は対戦相手で構いません。いずれ機会があれば、合同訓練をお願いしたいという意味です」
「なるほど」
リリアが少しだけ表情を緩める。
セリカさんも腕を組んだまま息を吐いた。
ミュレアだけが不満そうだった。
『つまらぬ。もっと修羅場になるかと思ったのに』
「ミュレアさん?」
リリアの声が柔らかくなる。
『冗談じゃ』
「本当に?」
『本当じゃ。たぶん』
「たぶんは未定ですね」
『未定は正式な意思じゃ』
ミュレアが逃げた。
最近、未定の使い方が便利すぎる。
◇
放課後、実技杯本戦に向けた掲示が出た。
予選上位班による本戦出場枠。
そこには当然、第五混成班と第四混成班の名前が並んでいた。
第五混成班。
レン・クロフォード。
リリア。
セリカ。
ノエル。
ユリアナ・フォン・グランベル。
第四混成班。
アイリス・ヴェルナー。
ガレス。
ミリア。
サーヤ。
ロイド。
掲示板の前は、また学生で賑わっていた。
「第五混成班と第四混成班、両方本戦か」
「昨日の模擬戦すごかったもんな」
「アイリスさんの氷、最後の方ちょっと変わってなかった?」
「守る氷ってやつ?」
「第五混成班と再戦あるかな」
噂はすでに走り始めている。
けれど、昨日までと少し違う。
冷血魔女、という言葉は聞こえなかった。
少なくとも、今この場では。
代わりに、誰かが言った。
「アイリスさんの氷、綺麗だったよな」
アイリスは掲示板の少し横にいた。
その言葉が聞こえたのか、わずかに肩を揺らした。
俺は彼女の横へ行った。
「アイリス」
「……レン・クロフォード」
「今の、聞こえましたか」
「はい」
「嫌でしたか」
アイリスは少し考えた。
「嫌ではありませんでした」
「よかったです」
「ただ、慣れません」
「慣れるかどうかは未定ですね」
「はい。未定です」
そう言って、彼女は掲示板を見る。
「本戦では、あなたたちだけを見ている余裕はなさそうですね」
「他の班も強いですから」
「ええ。ですが、私はあなたたちに負けたままでは終わりません」
「俺たちも負けるつもりはありません」
アイリスの目が、少し楽しそうに細まった。
「では、本戦で」
「はい」
短い会話。
でも、昨日までよりずっと自然だった。
◇
夜、ギルドの客室で俺は自分の確認票を見直していた。
才能名。
未定。
仮称、好感度限界突破。
候補、才能覚醒リンク。
拒否したい名前、人を惚れさせるだけの力、危険な洗脳能力。
本人意思。
誰かを支配する力ではなく、本人の才能と意思を支える力にしたい。
その欄を見て、アイリスの涙を思い出す。
冷血魔女と呼ばれた氷の天才。
でも、本当は冷たくなりたかったわけではない少女。
彼女の氷は、守る形を持ち始めた。
それは俺が与えたものではない。
彼女が持っていたものだ。
俺は、ただそれを少し見た。
少し名前を呼んだ。
少しだけ、彼女が自分の氷を見直す手伝いをした。
それでいいのだと思う。
たぶん。
通信水晶が光った。
『レン』
「はい、ミュレア」
『今日の氷の娘、悪くなかったな』
「はい」
『あれは伸びるぞ』
「強敵になりますね」
『それだけではない』
「え?」
『そなたの周りが、また賑やかになるということじゃ』
「どういう意味ですか」
『分からぬなら、そのままでよい』
ミュレアは含み笑いをした。
非常に不穏だった。
すぐにリリアから別の通信が入る。
『レン、もう休んでいますか?』
「今から休みます」
『本当に?』
「本当に」
セリカさんからも、短い伝言が届く。
『夜更かし禁止』
ノエルからは、
『明日、才能名データ確認。休んでから』
ユリアナ先輩からは、
『本戦前の体調管理も作戦の一部です』
みんな、俺の扱いに慣れすぎている。
いや、心配してくれているのだ。
ありがたい。
俺は確認票を閉じた。
外れスキル扱いだった好感度限界突破は、いつの間にか誰かの才能名まで支える力になっていた。
そして、周りには俺の名前を呼んでくれる人が増えている。
リリア。
セリカ。
ノエル。
ユリアナ。
ミュレア。
アリシア。
そして、アイリス。
前世で陰キャ非モテだった俺には、信じられないくらい賑やかな名前の並びだ。
嬉しい。
怖い。
照れくさい。
でも、悪くない。
俺はランプを消す前に、自分の名前を小さく呟いた。
「レン・クロフォード」
今日もちゃんと返事ができる。
それなら、明日も進める。




