第70話 未来の肩書きで、今の名前を塗りつぶさないで
未定は、正式な意思である。
ユリアナ生徒会長がそう明文化してから、相談窓口の空気は少しだけ楽になった。
未定。
検討中。
試用中。
後日再確認希望。
そう書ける欄があるだけで、学生たちはずいぶん息をしやすくなるらしい。
もちろん、すべてが一気に解決したわけではない。
名前をどう呼ばれたいか。
どの場面でどの名前を使いたいか。
嫌な呼び方を拒否していいのか。
まだ決められないことを、どこまで周囲に伝えるのか。
迷いは残る。
けれど、迷っていることを記録できる。
それは大きかった。
「未定欄、想定以上に使われていますね」
相談室で受付票を確認しながら、俺は言った。
机の上には今日の相談票が積まれている。
以前より枚数は多いが、分類はかなり整理されてきた。
ユリアナはその束を三つに分けながら頷いた。
「はい。未定を選ぶ学生が多いこと自体は、悪い傾向ではありません。むしろ、今まで無理に決めたふりをしていた可能性があります」
「決めたふり」
「はい。名前に限らず、本人の意思が曖昧なまま、周囲の期待に合わせていた人が多いのでしょう」
ユリアナの声は静かだった。
だが、どこか実感がこもっている。
生徒会長。
公爵令嬢。
優等生。
彼女もまた、決めたふりをしてきた側なのかもしれない。
セリカさんが壁際で腕を組む。
「未定って書けるだけで、かなり違うわよね。決まってませんって言える場所があるのは」
リリアも頷いた。
「はい。言葉にできないものを、無理に名前にしなくてもいい。そう言ってもらえるだけで救われる方もいると思います」
ノエルは記録板を見ながら、淡々と言った。
「第四の系統反応も、未定欄を導入してから全体的に下がってる。空欄が減ったから、入り込む隙が少なくなったんだと思う」
「空欄は隙。未定は意思、でしたね」
俺が言うと、通信水晶からミュレアの得意げな声がした。
『妾の名言じゃな』
「はい。今日も引用されています」
『ならば引用料として菓子を二品――』
「一品です」
リリアが即答した。
『白き娘、そなたの反応速度は日に日に上がっておるな』
「体調管理ですから」
『その言葉、封印より強いのではないか?』
それは少し分かる。
ミュレアを抑える力としては、かなり強い。
そんなふうに少し笑えるくらい、午前中は穏やかだった。
だから油断したわけではない。
ただ、第四の系統はいつも、こちらが少し安心した頃に、別の角度から来る。
◇
昼前、貴族教養科の教師が相談窓口へ駆け込んできた。
中年の女性教師で、普段はかなり落ち着いた人らしい。
だが、その日は顔色が悪かった。
「ユリアナ様。進路希望調査票に異常が出ました」
「進路希望調査票?」
ユリアナの表情がすぐに引き締まる。
「はい。来月の進路面談に向けて配布したものです。希望進路、希望職、家との相談状況を書く欄があるのですが……一部の生徒の名前欄が、進路欄の内容に置き換わっています」
嫌な予感がした。
名前ではなく、未来の肩書き。
そう聞くだけで、胸の奥が冷える。
教師は封印布に包んだ書類の束を机に置いた。
ユリアナが慎重に一枚を確認する。
俺も表示を見る。
進路希望調査票
状態:本人名の未来肩書き置換
関連:第四の系統
置換内容:家の跡取り、王宮魔導師候補、聖女補佐候補、商家後継者など
注意:未来の役割で現在の本人名が塗りつぶされかけています
「未来の肩書きで、今の名前が置き換わっています」
俺が言うと、部屋の空気が重くなった。
セリカさんが低く言う。
「今度は未来か」
ノエルが記録板を握る。
「名前、現在だけじゃなくて未来の予定にも引っ張られるんだ」
リリアは少しつらそうに眉を寄せた。
「将来、何になるかを決められてしまうのですね」
ユリアナは書類を一枚ずつ確認しながら、すぐに判断した。
「進路希望調査は一時回収します。記入済みの生徒を確認し、名前欄に異常が出た者から順に相談対応へ」
「対象者は多いですか?」
俺が聞くと、教師は青ざめた顔で頷いた。
「貴族教養科だけで、確認できたのは七名です。他課程にも同じ調査票が配られています」
七名。
まだ増える可能性がある。
ユリアナは即座に生徒会役員へ指示を出した。
「全課程の進路希望調査票を回収。理由は様式不備の確認とします。未回収分は記入を一時停止。すでに記入した生徒には、不安を与えないよう個別に案内してください」
速い。
迷いがない。
いや、迷いながらも動いているのだろう。
その動き方を、彼女は覚えたのだ。
ミュレアの声が通信水晶から響く。
『未来の名まで縛りに来たか。気に入らぬな』
「未来の名?」
『うむ。人は今の名だけでなく、未来に呼ばれたい名も持つ。逆に、未来に押しつけられる名もある』
家の跡取り。
王宮魔導師候補。
聖女補佐候補。
商家後継者。
どれも完全な悪口ではない。
むしろ、期待や評価が含まれている。
だが、それで今の名前を塗りつぶされたら。
それは、未来に縛られるということだ。
◇
最初に相談室へ来たのは、貴族教養科の男子生徒だった。
名前は、トーマ・フェルディナンド。
ただし、彼の進路希望調査票の名前欄には、こう書かれていた。
――フェルディナンド家次期当主。
本人名ではない。
家の未来の役割。
トーマは、相談室に入ってきた時から顔が強張っていた。
リリアが優しく声をかける。
「トーマさん、とお呼びしても大丈夫ですか?」
その瞬間、彼の目が少し潤んだ。
「はい……お願いします」
その反応だけで、今どれだけ名前で呼ばれることに飢えていたかが分かる。
ユリアナが穏やかに尋ねた。
「調査票の内容について、話せる範囲で教えてください」
トーマは膝の上で拳を握った。
「家からは、当然跡を継ぐものと思われています。僕も、それを完全に嫌だとは思っていません。でも……まだ、分からないんです」
「未定、ですね」
リリアが言うと、トーマは驚いた顔をした。
「未定で、いいんですか」
「はい」
トーマは少し息を震わせた。
「進路希望欄に未定と書こうとしたら、手が止まって。父の顔が浮かんで、次期当主って書かないといけない気がして……でも、名前欄まで変わっていて」
俺の表示が出る。
トーマ・フェルディナンド
状態:緊張、家への責任感、未来選択への恐怖
名称干渉:中度
現在名「トーマ」:弱体化
未来肩書き「フェルディナンド家次期当主」:過剰固定
注意:本人は家を否定したいわけではなく、考える時間を求めています
「家を否定したいわけではなく、考える時間が必要みたいです」
俺が言うと、トーマは強く頷いた。
「そうです。家が嫌いなわけじゃない。父も嫌いじゃない。でも、僕が本当に何をしたいのか、まだ分からなくて」
セリカさんが腕を組んだ。
「それを分からないって言うのは、普通のことよ」
「でも、貴族の家でそんなことを言うと」
「怒られる?」
「……はい」
ユリアナは静かに言った。
「家への責任と、進路を考える時間は両立します」
トーマが彼女を見る。
「本当に、両立するのでしょうか」
「簡単ではありません。ですが、少なくとも学園の進路希望調査票では、“未定・家族と相談中”という選択肢を正式に設けます」
「そんな欄が?」
「今から作ります」
力強い言葉だった。
今から作ります。
制度は最初から完璧ではない。
足りないなら作る。
ユリアナはそれを当然のようにやる。
ノエルが小さく言う。
「進路未定欄。本人意思記録と同じ構造にできる」
「はい」
ユリアナはすぐに新しい様式案を書き始めた。
正式名。
現在の呼称。
希望進路。
未定・検討中。
家族と相談中。
本人の希望。
家からの期待。
現時点で確定していないこと。
項目が増える。
だが、必要な項目だ。
「家からの期待と本人の希望を、同じ欄に混ぜない方がいいですね」
俺が言うと、ユリアナは頷いた。
「はい。混ぜると、強い方が弱い方を塗りつぶします」
まさに今回の問題だった。
家の期待が、本人の名前まで塗りつぶした。
なら、分ける。
書類の中で、ちゃんと別々に置く。
それだけで守れるものがある。
◇
トーマは、新しい仮様式に記入した。
正式名:トーマ・フェルディナンド。
現在の呼称:トーマ。
家からの期待:フェルディナンド家を継ぐこと。
本人の希望:まだ未定。領地経営に興味はあるが、王都行政も学びたい。
現時点で確定していないこと:将来の職務、継承時期、自分の意思。
最後に、本人署名。
トーマ・フェルディナンド。
彼は書き終えた後、少し不思議そうに紙を見つめた。
「家の期待を書いても、僕の未定が消えない……」
リリアが微笑む。
「別々に書きましたから」
「別々に……」
「どちらもあるんです。家の期待も、トーマさんの未定も」
トーマは目を伏せた。
「僕の未定も、あっていいんですね」
「はい」
俺の表示が変わる。
未来肩書き置換:低下
現在名「トーマ」:回復
進路未定記録:有効
第四の系統反応:低下
「戻りました。トーマさんの名前も、進路未定も安定しています」
トーマは深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
セリカさんが言った。
「進路を決めるのは大事。でも、今のあなたまで未来の肩書きにしなくていい」
その言葉に、トーマは小さく頷いた。
「はい。僕は、まだトーマでいたいです」
その声は、さっきよりずっとはっきりしていた。
◇
次に来たのは、治癒術科の女子生徒だった。
名はメリア・サーフィス。
進路希望調査票の名前欄は、「聖女補佐候補」へ置き換わっていた。
リリアの表情が、少しだけ強張る。
聖女。
その言葉は、彼女にとってまだ軽くない。
メリアは席に座るなり、涙をこぼした。
「私は、聖女補佐になりたいって言ったわけじゃないんです。ただ、治癒術が得意だから、先生に向いていると言われて。それが嫌だったわけじゃないんです。でも、名前欄にそう書かれているのを見たら、怖くなって」
リリアは静かに聞いていた。
そして、優しく言う。
「メリアさん」
「はい……」
「治癒術が得意なことと、聖女補佐候補として扱われることは、同じではありません」
メリアの涙が止まらない。
「私、治癒術は好きです。でも、聖女とか、候補とか、そういう言葉で見られると、自分が失敗したらいけないものになる気がして」
「分かります」
リリアの声は、少し震えていた。
でも、逃げなかった。
「とても、分かります」
メリアが顔を上げる。
リリアは自分の胸に手を当てた。
「得意な力があると、周りは役割の名前をつけます。聖女、候補、補佐、器。でも、その名前が先に立つと、自分が消えてしまうことがあります」
「リアさん……」
「あなたは、メリアさんです。治癒術が得意でも、まだ将来を決めていなくても、メリアさんです」
表示が変わる。
メリア・サーフィス
名称干渉:低下傾向
信頼呼称:有効
注意:将来役割と現在名の分離が必要
リリアの言葉は効いている。
やはり、聖女に関する呼称では、彼女の実感が強い。
ユリアナは新しい進路様式を使い、メリアにも記入してもらった。
本人の希望。
治癒術を学びたい。
将来は人を助ける仕事をしたい。
ただし、聖女補佐候補と呼ばれるのはまだ怖い。
進路は未定。
家や教師からの期待。
治癒術科成績上位のため、教会系職務を勧められている。
この二つを分ける。
すると、名前欄にメリア・サーフィスが戻った。
リリアは、それを見てほっと息を吐いた。
「よかったです、メリアさん」
「ありがとうございます……リアさん」
メリアがリリアの名を呼んだ。
リリアは少しだけ目を潤ませて、微笑んだ。
◇
その後も、似た事例が続いた。
王宮魔導師候補。
商家後継者。
騎士団推薦枠。
領地管理見習い。
教会派遣予定者。
どれも、進路として間違いではないかもしれない。
だが、名前欄を塗りつぶしていいものではない。
未来の肩書きは、未来の可能性だ。
今の本人名ではない。
ユリアナは進路希望調査票の回収を正式に決定し、改訂版の作成に入った。
「進路希望欄には、本人希望、家族・教師からの期待、未定、相談中を分けて記入します。名前欄には正式名と現在の呼称を併記。未来肩書きが名前欄に入らないようにします」
ノエルが頷く。
「未来肩書きと現在名の分離。今日の重要項目」
「はい」
リリアも静かに言う。
「未来に何になるかを考えることは大切です。でも、今の名前を消してはいけないんですね」
セリカさんが短く言う。
「未来のために今を潰したら意味ないもの」
その言葉が、妙に胸に残った。
未来のために今を潰す。
そんなことは、きっとこの世界でも、前世でもよくある。
将来のため。
家のため。
期待に応えるため。
そう言われて、今の自分の名前が薄くなる。
第四の系統は、それを魔法的に起こしているだけだ。
元々ある危うさを、大きくしている。
ミュレアが通信越しに言った。
『未来の名は、まだ遠くに置いておけ。近づけすぎると、今の名を食う』
「今日のまとめですね」
『うむ。今日も菓子二品分じゃ』
「一品です」
リリアが即答。
『くっ、未来の二品も未定にしておけ!』
「体調管理は確定です」
『白き娘、未来まで強い……』
少しだけ笑いが起きる。
重い一日でも、笑える余地がある。
それは、だいぶ大事だった。
◇
放課後、トーマとメリアはもう一度相談窓口へ来た。
二人とも、改訂版の進路希望調査票を持っている。
トーマは少し照れくさそうに言った。
「父にすぐ見せる勇気はまだありません。でも、これなら話せるかもしれません。家を継ぎたくないわけではない。でも、王都行政も学びたいって」
メリアも頷いた。
「私は、治癒術を学びたいけれど、聖女補佐候補と呼ばれるのはまだ怖いって、ちゃんと書けました」
リリアが微笑む。
「とても大事なことです」
「はい」
二人は、それぞれ自分の名前を書いた。
トーマ・フェルディナンド。
メリア・サーフィス。
未来の肩書きではなく。
今の名前として。
表示は安定していた。
俺は少しほっとする。
「よかった」
セリカさんが横から小声で言う。
「あなたも書く?」
「俺もですか」
「未来の肩書きに引っ張られやすそうだから」
言われて、少し考える。
魂同調者。
第四の系統を繋ぐ者。
名前を守る人。
相談窓口の中心。
未来の役割はいくらでも押し寄せてくる。
俺は紙に書いた。
現在名:レン・クロフォード。
未来の役割:未定。
今できること:相談窓口で、できる範囲の手伝いをする。
今決めないこと:自分が何者になるか。
書き終えると、胸の奥が軽くなる。
未来肩書き影響:低下
現在名:安定
未定項目:有効
セリカさんが覗き込んで、少し笑った。
「いいじゃない」
「未定だらけですけど」
「それでいいのよ。今は」
リリアも言う。
「レンはレンです。未来の肩書きは、これから考えればいいです」
ノエルが頷く。
「未定は空白じゃない」
ユリアナも静かに続ける。
「正式な意思です」
ミュレアが締める。
『そして菓子二品は未来の可能性じゃ』
「一品です」
やはり、最後はそこだった。
◇
夕暮れの中庭に、改訂版の進路希望調査票が積まれていた。
生徒会と教師たちが、明日配布するために準備を進めている。
未来を考える紙。
けれど、未来の肩書きで今の名前を塗りつぶさないための紙。
それは、以前より少し分厚くなった。
項目も増えた。
書く側も、確認する側も大変だ。
でも、たぶん必要な面倒さだ。
正しさだけでは、人は守れない。
未定を認めるだけでも、まだ足りない。
未来の期待と今の名前を分けることも必要だった。
名前を守る戦いは、どんどん地味になっていく。
けれど、地味になるほど、日常に近づいている。
そして日常に近いものほど、きちんと守らなければならない。
俺は夕焼けを見上げた。
未来は、まだ未定でいい。
今は、名前を呼べる。
レン、と呼ばれて、返事ができる。
それだけで、今日は十分だと思えた。




