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第69話 決められないことを、責めないために

未定欄が正式に追加されてから、相談窓口の空気は少し変わった。


 それまで、名前の相談に来る学生たちは、どこか答えを持ってこなければならないような顔をしていた。


 正式名で呼ばれたいのか。

 愛称で呼ばれたいのか。

 家名を使いたいのか。

 使いたくないのか。

 嫌な呼び方は何なのか。


 自分の気持ちをきちんと説明できなければ、相談してはいけないと思っていたのかもしれない。


 けれど、「未定」と書けるようになってからは違った。


「まだ分からないんですけど、相談してもいいですか」


「今の呼ばれ方が嫌なのか、それとも自分が気にしすぎなのか、決められなくて」


「とりあえず保留にしたいです」


 そう言える学生が増えた。


 未定。


 たった二文字なのに、ずいぶん人を楽にするらしい。


 俺は相談室の窓辺で、その受付票の束を見ながら小さく息を吐いた。


「未定って、思ったより大事なんですね」


 隣で資料を整理していたリリアが頷いた。


「はい。決められない時に、決められないと言えるだけで、少し息ができます」


「リリアもそうでしたか」


「そうですね。私は、聖女なのか、リリアなのか、リアなのか……自分でも分からない時期がありましたから」


 リリアは少しだけ遠い目をした。


 けれど、今の彼女はその記憶に飲まれてはいない。


「でも、今すぐ決めなくてもいいと言われていたら、もう少し早く息ができたかもしれません」


「……そうですね」


 その言葉は重かった。


 決められない時間を許されなかった人がいる。


 だからこそ、今の相談窓口は、その時間を守ろうとしている。


 セリカさんは壁際で腕を組み、受付票をちらっと見た。


「未定って書いてあるのを見ると、なんか安心するわね」


「セリカさんも?」


「ええ。何でも即決しなきゃいけないわけじゃないって分かるから」


 意外な気もしたが、すぐに納得した。


 セリカさんはいつも即断即決に見える。

 でも、それは迷わないからではなく、迷う時間を人に見せないだけなのかもしれない。


 ノエルは机の上で、改訂版の確認票をじっと見ていた。


「未定を正式項目にするの、記録としてはかなり面白い」


 ユリアナがすぐに言う。


「研究対象として面白がりすぎないように」


「分かってる。でも、制度として重要。空欄と未定を分けるだけで、第四の系統の反応がかなり下がってる」


「それは確かですね」


 ユリアナは記録板に視線を落とした。


 今日もきっちり整った制服姿だが、以前ほど肩に力が入っていない。


 自分だけで全部処理しようとせず、書記や教師にも仕事を渡している。


 それだけで、彼女自身の名前も少し守られているように見えた。


 生徒会長、ではなく。


 ユリアナ。


 そう呼べる時間が増えている。


 通信水晶からミュレアの声がした。


『未定とは、なかなかよい言葉じゃな』


「ミュレアも使いますか?」


 俺が聞くと、彼女は即答した。


『妾の甘味が一品で足りるかは未定じゃ』


「それは毎日一品です」


 リリアが即座に返す。


『白き娘! 未定を認める流れではなかったのか!』


「体調管理は未定ではありません」


『強い……』


 封印室の向こうで、ミュレアが本気で悔しがっている気配がした。


 このやり取りも、もう完全に日常である。


 だが、日常が落ち着いて見え始めた時ほど、第四の系統は別の隙間を探してくる。


     ◇


 その日の昼前、エル――正式名エレノーラ・ミストレアが相談窓口へやって来た。


 前回、彼女は希望呼称をすぐには決められず、「未定・後日確認希望」と記録した。


 試用呼称はエル。


 三日後に再確認する予定だった。


 だが、今日はまだ二日目だ。


 予定より早い。


 入ってきたエルの顔色は悪かった。


 薄い金茶色の髪はいつも通りきれいに整えられているが、目元に疲れが見える。


 彼女は椅子に座ると、受付票を両手で握りしめた。


「すみません。再確認日は明日なのに」


「大丈夫です」


 リリアが優しく答える。


「来たい時に来てください。エルさん」


 エルは名前を呼ばれて、少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、すぐにまた表情を曇らせる。


「昨日から、周りに言われるんです。まだ決めていないのかって」


 ユリアナの表情が変わった。


「誰にですか」


「同じ貴族教養科の子たちです。悪気があるわけではないと思います。ただ、みんな確認票を書き終えているので、私だけ未定のままなのが目立つみたいで」


 エルは手元の紙を見る。


「早く決めた方がいいよって。いつまでも迷っていると、正式名のままでいいって扱いになるよって。……それで、今朝、私の確認票の未定欄が」


 彼女は紙を差し出した。


 ユリアナが受け取り、封印布越しに確認する。


 未定・後日確認希望。


 そう書かれていたはずの欄が、薄くなっていた。


 代わりに、別の文字が浮かびかけている。


 決断不足。


 俺の胸が冷える。


 表示が出た。


本人呼称意思確認票

対象:エレノーラ・ミストレア/試用呼称エル

状態:未定欄の置換

置換候補:「決断不足」

関連:第四の系統

原因:周囲の決定圧、本人の焦り

注意:「未定」が否定的評価へ変質しかけています


「未定欄が、“決断不足”に置き換わりかけています」


 俺が言うと、エルの顔が白くなった。


「やっぱり、私が決められないから……」


「違います」


 リリアが、昨日より強い声で言った。


「まだ決められないことと、決断不足は違います」


 エルの目が揺れる。


 セリカさんも腕を組みながら言った。


「周りが勝手に急かしてるだけでしょ。あなたが悪いわけじゃない」


「でも、みんな決めているのに」


「みんなと同じ速さで決める必要はないわ」


 セリカさんの声は、短いが鋭い。


 エルは唇を噛んだ。


「エルって呼ばれるのは、嫌ではありません。でも、エレノーラを捨てるみたいで怖い。だけど、エレノーラのままだと、家の娘としてちゃんとしなきゃいけない気がして苦しい。どちらも違う気がして……」


 そこで声が途切れた。


 リリアがそっと言う。


「それを、今考えている途中なのですね」


 エルは涙をこぼした。


「はい」


「なら、未定で大丈夫です」


 リリアははっきり言った。


「未定は、逃げではありません。考えている途中です」


 その言葉に、確認票の文字がわずかに揺れた。


 決断不足、という薄い文字が少しだけ後退する。


 だが、完全には消えない。


 ノエルが眉をひそめた。


「周囲からの決定圧が残ってる。本人だけの問題じゃない」


 ユリアナはすぐに記録板を開いた。


「未定欄への干渉は、周囲の言動でも強まる。なら、制度だけでは足りません。周知が必要です」


「未定を急かすな、ということですか」


 俺が聞くと、ユリアナは頷いた。


「はい。ただし、命令調では反発を招きます。未定は正式な選択肢であり、記入済みと同等に扱うと説明します」


 ミュレアの通信水晶が光る。


『よい。未定を空白ではなく、城壁にせよ』


「城壁?」


『うむ。まだ決めぬ、という意思を囲う壁じゃ。外から勝手な名を投げ込ませぬためのな』


 エルは水晶を見つめ、少し驚いたようにしてから、ゆっくり頷いた。


「城壁……」


 ミュレアは得意げだった。


『妾の言葉は本日も価値がある』


「菓子は一品です」


 リリアが言う。


『まだ何も言っておらぬ!』


 少しだけ笑いが起きた。


 エルも、涙を拭きながら小さく笑った。


     ◇


 対処は二段階になった。


 まず、エル本人の確認票を修復する。


 次に、周囲へ「未定」の扱いを改めて伝える。


 ユリアナは新しい確認票を用意し、未定欄の横に手書きで追記した。


 ――未定は、本人が考える時間を守る正式な選択です。


「これを入れます」


 ユリアナは言った。


「全ての確認票にですか」


「はい。未定欄を選んだ人が、記入漏れや決断不足と見なされないように」


 ノエルが頷く。


「説明文が防御文になるかも」


「防御文」


「うん。第四の系統は意味の隙間に入ってくる。なら、未定の意味をこちらで定義する」


 ユリアナはすぐに書き留めた。


「未定の意味を定義する。重要ですね」


 エルはそのやり取りを、少し不思議そうに見ていた。


「私のために、そこまでしていただいていいんでしょうか」


 リリアが首を横に振る。


「エルさんだけではありません。きっと、他にも必要な人がいます」


「でも、私が決められないせいで」


「違うわ」


 セリカさんが言った。


「あなたが困ったから、制度の足りないところが見つかった。それだけ」


 エルが瞬きする。


「足りないところが、見つかった」


「そう。あなたが悪いんじゃない。仕組みがまだ足りなかったの」


 その言葉は、エルだけでなくユリアナにも響いたようだった。


 ユリアナは少しだけ目を伏せる。


「はい。これは仕組みの不足です。修正します」


 自分の制度に不備があったと認めるのは、簡単ではない。


 でも、今のユリアナはそれを言える。


 強い人だと思った。


 エルは新しい確認票を前にし、ペンを持った。


 正式名。


 エレノーラ・ミストレア。


 試用呼称。


 エル。


 未定欄。


 本人が考える時間を守る正式な選択。


 その横に、彼女は小さく印をつけた。


 さらに、ユリアナが提案した新しい欄。


 ――今は急かされたくない。


 そこに、エルは少し迷ってから、しっかり印をつけた。


 俺の表示が変わる。


未定欄:修復

「決断不足」置換:後退

本人意思「今は急かされたくない」:有効

名称干渉:低下


「効いています。急かされたくない、という意思が有効です」


 エルは、また涙をこぼした。


「そんなこと、書いていいんですね」


「書いていいんです」


 リリアが答えた。


「言えない時は、書いてください」


 エルは頷いた。


     ◇


 昼休み前、ユリアナは短い周知文を出した。


 生徒会掲示板と各課程の連絡板に掲示するためのものだ。


 未定欄は記入漏れではありません。

 本人が考える時間を守る正式な選択です。

 未定を選んだ人に、早く決めるよう急かすことは控えてください。

 呼ばれ方は、本人の意思と時間を尊重して確認します。


 短い。


 だが、強い。


 リリアはその文面を見て、ほっと息を吐いた。


「とてもいいと思います」


「ありがとうございます」


 ユリアナは少しだけ疲れた顔で、しかしはっきり頷いた。


「ただ、掲示だけでは足りないかもしれません。貴族教養科には、私から直接説明します」


「ユリアナ先輩が?」


「はい。今回の件は貴族教養科で起きました。家名や正式名に関わる意識が強い課程ですから、丁寧な説明が必要です」


 セリカさんが眉を寄せる。


「無理しすぎない?」


「十分で終えます」


「本当に?」


「本当に」


 セリカさんがじっと見る。


 ユリアナは少しだけ視線を逸らした。


「……十五分以内にします」


「よし」


 十五分になった。


 でも、制限を自分で言えるなら前進だ。


 説明は、貴族教養科の小講堂で行われた。


 ユリアナは前に立ち、いつものように落ち着いた声で話した。


「名前や呼称をすぐに決められないことは、失礼でも怠慢でもありません。家名を重んじることと、本人が考える時間を持つことは両立します」


 貴族教養科の学生たちは、真剣に聞いていた。


 中には、少し気まずそうな顔をしている者もいる。


 エルに「早く決めた方がいい」と言った学生かもしれない。


「未定を選んだ方に対して、早く決めるよう促す必要はありません。必要なのは、本人が確認できるまで待つことです」


 言葉は静かだった。


 だが、よく通った。


「正式な場では正式名を用います。しかし、学園は学びの場でもあります。自分がどう呼ばれたいかを学ぶ時間も、尊重されるべきです」


 十五分。


 正確には十二分ほどで、ユリアナは説明を終えた。


 セリカさんが満足そうに頷く。


「時間守った」


「はい」


 ユリアナは少し息を吐いた。


「伝わったかどうかは、これからですね」


「少なくとも、かなり伝わったと思います」


 俺が言うと、ユリアナは少しだけ表情を緩めた。


「なら、よかったです」


     ◇


 放課後、エルはもう一度相談窓口に来た。


 今度は一人ではなかった。


 同じ貴族教養科の女子生徒が二人、一緒にいた。


 朝、彼女に「早く決めた方がいい」と言った子たちらしい。


 二人とも気まずそうだった。


「エレノーラ……じゃなくて、エル、でいいのかな」


 その問いに、エルは少し考えた。


 そして、言った。


「今は、エルで試してみたいです。でも、まだ未定です」


 はっきり言えた。


 その声に、俺の表示が反応する。


エル/エレノーラ・ミストレア

本人意思発声:有効

未定欄:安定


 女子生徒の一人が、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめん。早く決めた方がいいって、急かしてた」


 もう一人も続ける。


「未定って、書き忘れみたいに思ってた。でも違うんだね」


 エルは少しだけ目を潤ませた。


「うん。私も、まだうまく説明できないけど……考えている途中だから」


「分かった。じゃあ、エルって呼ぶ。でも、変えたくなったら言って」


 その言葉に、エルの表情がふっと緩んだ。


「ありがとう」


 リリアが微笑む。


 セリカさんも小さく頷く。


 ユリアナは記録板を閉じた。


「本人意思確認、安定ですね」


「はい」


 俺も頷いた。


 決められないことを責めない。


 それだけで、誰かが自分の名前を探し続けられる。


 今日、それが分かった。


     ◇


 夕方の中庭で、俺たちは短い休憩を取った。


 空は薄い橙色に染まっている。


 風が少し冷たい。


 リリアが温かい果実茶を手渡してくれた。


「ありがとうございます、リリア」


「どういたしまして、レン」


 名前を呼び合う。


 それだけで、今も少し安心する。


 セリカさんが横でパンをかじりながら言った。


「未定って、便利ね」


「セリカさんにも未定がありますか」


「あるわよ。たくさん」


「意外です」


「私だって何でも即決してるわけじゃないもの」


 セリカさんは少しだけ空を見る。


「ただ、決めたふりが得意なだけ」


 その言葉に、俺は少し黙った。


 セリカさんにも、まだ決めていないものがある。


 当たり前だ。


 誰にだってある。


 ノエルが隣で呟く。


「私も未定、ある」


「何ですか?」


「研究と友人、どっちを優先するか」


 ユリアナが即座に言う。


「両立してください」


「難しい」


「それも未定欄に入れましょう」


 ノエルは少し考え、真面目に頷いた。


「入れる」


 ミュレアの通信水晶が光る。


『妾の未定は、明日の甘味が一品か二品かじゃ』


「一品です」


 リリアが言う。


『未定を認めよ!』


「体調管理は確定です」


『強すぎる……』


 みんなが笑った。


 俺も笑った。


 その笑いの中で、ふと自分のことを考える。


 俺にも未定がある。


 この力をどう使うのか。

 第四の系統とどう向き合うのか。

 この先、誰とどう生きるのか。

 自分がこの世界で何になりたいのか。


 まだ決められない。


 でも、それでいい。


 未定は、逃げではない。


 考えている途中だ。


 俺は心の中で、自分の確認票にまた一つ書き足した。


 未定:この先の生き方。


 すると、視界に小さな表示が浮かんだ。


未定項目:有効

名称固定:安定

第四の系統反応:低下

備考:決められないことを認めたことで、自己認識が安定しました


 俺は少し笑った。


「レン?」


 リリアがこちらを見る。


「いえ。未定も、ちゃんと効くみたいです」


 セリカさんが頷く。


「じゃあ、今後も未定を責めないことね」


「はい」


 ユリアナも静かに言った。


「制度にも入れます。未定は、正式な意思です」


 ノエルが付け加える。


「空白じゃない」


 ミュレアが締めるように言った。


『未定は、まだ名を探しておる途中の灯じゃ。吹き消すな』


 今日は菓子二品分くらいの名言だった。


 だが、リリアの目が光っているので、言わないでおいた。


 夕方の中庭に、俺たちの笑い声が少しだけ残った。


 第四の系統は、また別の形で来るだろう。


 でも、こちらもまた一つ覚えた。


 名前を決めること。

 名前を使い分けること。

 名前をまだ決めないこと。


 その全部を、守っていい。

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