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第68話 まだ決められない名前も、守らなきゃいけない

 本人呼称意思確認票の運用が始まって、王立学園は少しだけ忙しくなった。


 正式名。

 希望呼称。

 拒否呼称。

 使用場面。

 本人署名。

 第三者確認。


 たったこれだけの項目を増やしただけで、相談窓口の机の上には書類が山のように積まれた。


 いや、たったこれだけ、と言うのは間違いなのかもしれない。


 誰かをどう呼ぶか。


 どう呼ばれたいか。


 どう呼ばれたくないか。


 それは、思っていたよりずっと個人の奥に触れるものだった。


「本日の受付票、午前だけで二十六件です」


 ユリアナ生徒会長は、相談室の机で書類を分類しながら言った。


 声は落ち着いている。


 だが、書類の量は全然落ち着いていない。


「昨日より増えてませんか?」


 俺が尋ねると、ユリアナは頷いた。


「増えています。説明会後、希望者が一気に来ました」


「大丈夫ですか」


「人員を増やしました。生徒会だけでなく、各課程の担当教師にも一次確認を依頼しています」


「すごい。ちゃんと分担してる」


 セリカさんが感心したように言うと、ユリアナは少しだけ誇らしげに見えた。


「分担しないと倒れると、学習しましたので」


「よし」


「……その“よし”にも慣れてきました」


 だいぶ進歩している。


 リリアは受付票を一枚ずつ確認しながら、柔らかく微笑んでいた。


「希望呼称欄に、思ったより色々な名前がありますね」


「正式名を短くしたもの。幼い頃からの愛称。家族には呼ばれたくないけれど、友人には呼ばれたい名前。逆に、家族だけに許している名前」


 ユリアナが分類を読み上げる。


「中には、拒否呼称欄の方が長い方もいます」


 セリカさんが腕を組んだ。


「それだけ嫌な呼ばれ方を我慢してきたってことね」


「はい」


 リリアの声が少し沈む。


「呼び方だけ、と思ってしまう人も多いでしょうから」


 ノエルは記録板を持って、いつもより真面目な顔をしていた。


「第四の系統の反応は、本人意思確認票の導入後、全体的には下がってる。でも完全には消えてない」


「次はどこを狙うと思いますか」


 俺が聞くと、ノエルは少し考えた。


「たぶん、決めきれないところ」


「決めきれない?」


「うん。今の仕組みは、本人がどう呼ばれたいかを書ける。でも、そもそも自分がどう呼ばれたいか分からない人もいる」


 その言葉に、俺は少し黙った。


 確かに。


 名前を選べることは大事だ。


 だが、選べと言われること自体が重い場合もある。


 正式名が嫌なのか。

 愛称が嫌なのか。

 家名を使いたいのか。

 使いたくないのか。


 すぐに答えられる人ばかりではない。


 ユリアナも、ノエルの言葉に頷いた。


「空欄の扱いは、まだ暫定です。記入なしの場合、正式名使用を継続することにしています」


「それは危なくない?」


 セリカさんが言う。


 ユリアナは表情を引き締めた。


「私も、そこが気になっていました。ただ、全員に記入を強制することもできません」


 リリアが静かに言う。


「“まだ分からない”という欄が必要かもしれません」


 その言葉に、室内が少し静かになった。


 まだ分からない。


 それを正式に認める欄。


 考えてみれば、当たり前のようで、かなり大事なことだった。


 ミュレアの通信水晶が淡く光った。


『白き娘はよいことを言う』


「ミュレアさん」


『名を選ぶには、時が要る者もおる。急かして選ばせた名は、また別の鎖になるぞ』


 相変わらず、こういう時のミュレアは妙に深い。


 セリカさんが水晶に向かって言う。


「今日は甘味の話じゃないのね」


『今は名の話じゃ。甘味の話は後でよい』


「後ではするのね」


『当然じゃ』


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、その直後だった。


 相談室の扉が、控えめに叩かれた。


「失礼します」


 受付担当の生徒が顔を出す。


「ユリアナ様。確認票の件で、少し困っている生徒がいます」


 ユリアナはすぐに顔を上げた。


「通してください」


     ◇


 入ってきたのは、貴族教養科の一年生だった。


 薄い金茶色の髪を肩で切りそろえた、落ち着いた雰囲気の少女。


 姿勢はきれいだが、表情はどこか頼りない。


 受付票には、こう書かれている。


 正式名:エレノーラ・ミストレア

 希望呼称:空欄

 拒否呼称:空欄

 使用場面:空欄


 ほとんど何も書かれていない。


 ただ、本人署名欄には、震えた文字で「エレノーラ・ミストレア」と書かれていた。


 ユリアナが穏やかに声をかける。


「エレノーラさん。今日は、どのような相談でしょうか」


 少女は少しだけ肩を震わせた。


「……その名前で呼ばれると、少し緊張します」


 ユリアナがすぐに言い直そうとしたが、少女自身が首を振った。


「でも、他にどう呼んでほしいかも、分からないんです」


 リリアが優しく椅子をすすめる。


「座ってください。急がなくて大丈夫です」


 少女は小さく頷き、椅子に座った。


 膝の上で両手を握っている。


「私は、家ではエレノーラと呼ばれます。正式な名前です。嫌いではありません。でも、呼ばれると背筋を伸ばさなきゃいけない気がして」


「背筋を」


「はい。ミストレア家の娘として、きちんとしなければいけないって」


 彼女は少し目を伏せた。


「友人からは、エルと呼ばれることもあります。でも、それも本当に自分に合っているのか分からなくて。嫌ではないけれど、しっくりくるかと言われると……」


 言葉が止まる。


 選べないのだ。


 正式名も、愛称も、嫌いではない。


 でも、これだと決められない。


 そういう曖昧さの中で、彼女は困っている。


 ノエルが小さく呟いた。


「さっき話してたケース」


 ユリアナは頷き、慎重に聞いた。


「確認票を書こうとして、苦しくなりましたか」


 少女は目を見開いた。


「はい……」


 リリアがそっと言う。


「どの名前を選んでも、他の名前を捨てるように感じましたか」


 少女の目に涙が浮かんだ。


「はい」


 その瞬間、俺の視界に表示が浮かぶ。


エレノーラ・ミストレア

状態:迷い、不安、選択圧への恐怖

名称干渉:軽度〜中度

影響箇所:希望呼称欄の空白

関連:第四の系統

注意:空欄が「本人意思なし」として固定されかけています


「空欄が、本人意思なしとして固定されかけています」


 俺が言うと、ユリアナの表情が変わった。


「やはり、空欄を放置するのは危険ですね」


 エレノーラは不安そうにこちらを見る。


「私、何も決められないから駄目なんでしょうか」


「違います」


 リリアが即答した。


「まだ決められないことも、ちゃんとした意思です」


 エレノーラの目が揺れる。


「でも、空欄で出したら、きっと正式名のままになりますよね」


「今まではそうでした」


 ユリアナが認める。


「ですが、それでは足りません。今回、運用を修正します」


「修正……?」


 ユリアナは新しい紙を取り出した。


 そして、空欄の横に手書きで一つ項目を加える。


 ――未定。後日確認希望。


「希望呼称を今すぐ決められない場合、この欄を選べるようにします」


 その言葉に、エレノーラが息を呑んだ。


「決めなくても、いいんですか」


「今すぐ決めなくてもいい、です」


 ユリアナは訂正するように言った。


「正式名を使うか、愛称を使うか、別の呼び方を選ぶか。それを考える時間が必要な人もいます。学園は、その時間を記録します」


 記録します。


 その言葉が、今回はとても強く聞こえた。


 まだ決めないことを、正式に残す。


 空欄ではなく、未定。


 本人意思なしではなく、考え中。


 それは、まったく違う。


 ミュレアが通信越しに言った。


『よい。空欄は穴になる。だが、“まだ選ばぬ”と書けば、それは意思になる』


「ミュレアさん、今日も名言ですね」


 俺が言うと、ミュレアは得意げに返す。


『当然じゃ。菓子二品分の価値がある』


「一品です」


 リリアが即答した。


『白き娘、少しは余韻を味わえ!』


 エレノーラが、泣きそうだった顔で少しだけ笑った。


 その小さな笑いに、俺たちも少し安心する。


     ◇


 対応はすぐに始まった。


 ユリアナは本人呼称意思確認票の改訂案をその場で作った。


 正式名。

 希望呼称。

 拒否呼称。

 使用場面。

 未定・後日確認希望。

 暫定呼称。

 確認予定日。

 本人署名。


「暫定呼称?」


 セリカさんが聞くと、ユリアナは説明した。


「本人がまだ決められない場合、当面どう呼ばれるのが一番負担が少ないかを確認します。正式名でも、家名でも、愛称でも、何でも構いません。あくまで暫定です」


 ノエルが頷く。


「仮置きの名前。固定しすぎないための固定」


「そういう言い方になりますね」


 エレノーラは紙を見て、少し戸惑っている。


「私、どう書けば」


 リリアが隣に座った。


「まず、今すぐ決めなくてもいい、と書きましょう」


「はい」


 エレノーラは、未定・後日確認希望の欄に小さく印をつけた。


 その瞬間、俺の表示が少し変わる。


空欄固定:低下

本人意思「未定」:有効


「効いています。空欄として固定される力が下がりました」


 エレノーラの肩から、少し力が抜けた。


「本当に……?」


「はい」


 次は暫定呼称。


 彼女は少し迷った。


「正式な場では、エレノーラで大丈夫です。でも、相談窓口では……エルでもいいかもしれません」


「“いいかもしれない”でも大丈夫です」


 リリアが言う。


「決定ではなく、試してみる名前として書きましょう」


 ユリアナがすぐに項目名を変えた。


 暫定呼称。

 試用呼称。


「試用呼称、エル」


 エレノーラはゆっくり書いた。


 エル。


 それを書いた後、彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「変じゃないでしょうか」


 セリカさんが即答した。


「変じゃない」


 ノエルも頷く。


「短くて呼びやすい」


 ミュレアが通信越しに言う。


『悪くない。だが、そなたが違うと思えば変えればよい』


「変えても、いいんですか」


『名は牢ではない。そなたが息をしやすい形を探せ』


 エレノーラは少し黙った。


 そして、小さく頷いた。


「はい」


 リリアが優しく呼ぶ。


「エルさん」


 少女の肩が、少しだけ震える。


 でも、嫌な震えではなかった。


「……はい」


 返事があった。


 俺の表示が変わる。


試用呼称「エル」:有効

名称干渉:軽度へ低下

状態:不安、安堵、探索中

注意:固定しすぎず、後日再確認してください


「安定しました。ただ、固定しすぎないように後日再確認が必要です」


 ユリアナはすぐに確認予定日欄を設けた。


「三日後に再確認。必要なら変更可」


「変更しても、迷惑ではありませんか」


 エルが不安そうに聞く。


 ユリアナは首を横に振った。


「迷惑ではありません。変更可能であることを、正式に記録します」


 その言葉に、エルは今度こそほっとしたように息を吐いた。


     ◇


 エルの件は、すぐに新しい前例になった。


 選んだ名前を守る。


 それはもちろん大事だ。


 だが、まだ選べない状態も守る必要がある。


 希望呼称欄を空欄にすると、第四の系統はそれを「本人意思なし」として利用する。


 なら、空欄を空欄のままにしない。


 未定。

 検討中。

 試用中。

 後日再確認。


 そう書く。


 決められないことも、意思として残す。


 ユリアナは改訂版の確認票を正式化するため、学園長へ報告に向かった。


 戻ってきた時には、すでに許可を得ていた。


「早いですね」


 俺が言うと、ユリアナは少しだけ疲れたように、でも満足そうに頷いた。


「学園長も、必要性を理解してくださいました。今日から未定欄を追加します」


「また書類が増えますね」


「増えます」


「休憩は?」


「十五分後に取ります」


「具体的でよし」


 セリカさんが頷く。


 ユリアナは少しだけ笑った。


「その“よし”も記録しておきたいくらいです」


「そこは記録しなくていいわ」


 少し和んだところで、ノエルが言った。


「今回の件、第四の系統が空欄を狙ったのが重要。空欄は無ではなく、未処理の状態。そこに外部の意味が入り込む」


「外部の意味」


「うん。本人がまだ言葉にできてないところへ、“意思なし”とか“正式名でいい”とか、勝手な意味を入れてくる」


 リリアが静かに言う。


「怖いですね。まだ言葉にできないだけなのに」


「はい」


 俺は頷いた。


 俺自身も、前世では言葉にできないことばかりだった。


 嫌だと言えない。

 どう呼ばれたいか分からない。

 自分がどうしたいかも分からない。


 そういう曖昧な部分に、周囲の都合が入り込む。


 お前はこういう人間だ。

 この呼び方でいいだろう。

 これが正しい。


 第四の系統は、そういう隙間を魔法的に使っているだけなのかもしれない。


 人間社会がもともと持っていた危うさを、拡大している。


 そう考えると、余計に厄介だった。


     ◇


 午後には、未定欄を使う相談者が何人か現れた。


 幼い頃の愛称を嫌だと思っているが、代わりの呼び名がまだ決められない生徒。


 家名で呼ばれるのは嫌だが、名前で呼ばれるのも照れくさい生徒。


 正式名に嫌な記憶はないが、友人間の呼び方を少し変えたい生徒。


 みんな、すぐには決められない。


 でも、未定と書けることで、少し楽になっていた。


 相談室の空気も変わった。


 以前なら、空欄は記入漏れだった。


 今は、考える時間として扱われる。


 それだけで、学生たちの表情が違った。


 エルは帰り際、リリアに小さく頭を下げた。


「エルって呼ばれて、少し不思議でした。でも、嫌ではありませんでした」


「よかったです」


「三日後までに、考えてみます。エルがいいのか、エレノーラがいいのか、それとも別の呼び方がいいのか」


「はい。急がなくて大丈夫です」


 エルは少しだけ笑った。


「急がなくていいって言われると、少し考えられそうです」


 その言葉は、今日一番の成果だったかもしれない。


 俺の表示にも、穏やかなものが出ていた。


エレノーラ・ミストレア/試用呼称:エル

状態:不安、安堵、探索中

名称干渉:低下

備考:自分で選ぶ時間を得ました


 自分で選ぶ時間。


 それもまた、守るべきものなのだ。


     ◇


 夕方、相談窓口を閉じた後、俺たちは中庭で短い休憩を取った。


 今日もかなり疲れた。


 名前を決める。

 名前を使い分ける。

 名前をまだ決めない。


 次々に新しい問題が出てくる。


 第四の系統は厄介だ。


 でも、厄介だからこそ、こちらも少しずつ丁寧になっている。


 セリカさんがパンを半分俺に渡した。


「食べなさい。今日はまた考えすぎ顔」


「ありがとうございます」


 リリアも果実茶を差し出す。


「レンも、未定にしていいことがあったら、未定と書いていいんですよ」


「俺ですか」


「はい。何でもすぐ決めなくていいです」


 その言葉に、少し笑ってしまった。


「リリアに言われると、効きますね」


「そうですか?」


「はい」


 ノエルがぼそっと言う。


「レンの欄、未定だらけになりそう」


「失礼な」


「でも、悪くない。未定は未定として保護」


 ユリアナが頷く。


「今後、本人意思確認票には“未定”を正式選択肢として入れます。未記入とは区別します」


 ミュレアが通信越しに言った。


『よい。空欄は隙。未定は意思。覚えておくがよい』


「今日のまとめですね」


『うむ。菓子二品分じゃ』


「一品です」


 リリアが即答した。


『白き娘、今日も強い……』


 みんなが笑う。


 夕方の空は柔らかい色をしていた。


 エルは今ごろ、寮で自分の名前について考えているのだろうか。


 急がずに。


 誰かに決められるのではなく。


 自分で、少しずつ。


 名前を守るとは、決めた名前を固定することだけではない。


 まだ決められない時間を守ることでもある。


 今日、俺たちはそれを学んだ。


 俺は自分の確認票に、あとで一つ欄を足そうと思った。


 未定。


 俺自身、まだ分からないことがたくさんある。


 魂同調者として何をするのか。

 第四の系統とどう向き合うのか。

 この先、どんな名前で呼ばれていくのか。


 すぐに全部は決められない。


 でも、それでいい。


 未定は、空白ではない。


 まだ自分で選ぼうとしている途中なのだ。

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