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第67話 正しい記録だけでは、人は守れない

 翌朝、相談窓口の受付票から、希望呼称欄が消えていた。


 最初に気づいたのはユリアナ生徒会長だった。


 王立学園の図書館棟。

 相談室の机。

 まだ窓口開始前で、部屋には俺、リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナしかいない。


 ユリアナは昨日のうちに整理していた受付票の束を確認し、ぴたりと手を止めた。


「……おかしいです」


 その声が、いつもより低かった。


 俺たち全員が彼女を見る。


「どうしましたか」


 リリアが尋ねると、ユリアナは一枚の受付票を机に置いた。


 そこには、相談者名、課程、学年、正式名、相談分類、同意確認欄がある。


 けれど、昨日追加したはずの項目がない。


 希望呼称。

 拒否呼称。

 使用場面。

 本人意思確認。


 全部、消えている。


「昨日、確かに追加しました」


 ユリアナはゆっくり言った。


「原本にも、複写にも、予備票にも。すべて同じ形式にしたはずです」


 ノエルがすぐに近づき、直接触れないように透明板越しに受付票を見る。


「紙面の削除じゃない。最初からなかったことになってる感じ。墨跡もない」


 俺の胸に嫌な冷えが走る。


 表示が浮かぶ。


相談窓口受付票

状態:本人意思項目の欠落

関連:第四の系統

置換方向:正式記録優先

影響:希望呼称・拒否呼称・使用場面の無効化

注意:正しい記録だけに戻そうとしています


「第四の系統です。本人意思の項目が欠落しています。正式記録だけに戻そうとしているみたいです」


 部屋の空気が硬くなった。


 昨日のルカの件と同じだ。


 正式名は正しい。

 家の記録も正しい。

 学籍上の名前も正しい。


 けれど、正しい記録だけでは、本人が息をできるとは限らない。


 第四の系統は、そこを潰しに来た。


 ユリアナは、消えた受付票をしばらく見つめていた。


 そして、静かに息を吸った。


「なるほど」


 声が冷たい。


 怒っている。


 かなり怒っている。


「私が追加した欄を消しましたか」


 セリカさんが少し驚いた顔でユリアナを見る。


「ユリアナ、怒ってる?」


「怒っています」


 即答だった。


 珍しい。


 ユリアナは普段、感情を表に出さない。

 だが、今は違った。


「本人の意思を確認する欄を、不要だと判断したわけですね。正式名と所属だけがあれば足りる、と」


 リリアが悲しそうに受付票を見た。


「それでは、ルカさんのような方は守れません」


「はい」


 ユリアナは頷いた。


「正しい記録は必要です。しかし、それだけでは足りない。昨日、私たちはそれを確認しました」


 ノエルが受付票を観察しながら言う。


「第四の系統は、制度の弱いところじゃなくて、制度の“正しすぎるところ”を使ってる。正式名、家名、肩書き、登録情報。全部、間違いではない。でも、それだけにすると人が削れる」


「正しすぎるところ……」


 俺はその言葉を繰り返した。


 嫌なほどしっくりきた。


 第四の系統は、嘘だけを使うわけではない。


 むしろ、正しさを使う。


 正式な名前。

 正式な家名。

 正式な肩書き。

 正式な記録。


 それを盾にして、本人の声を消す。


 だから厄介なのだ。


 通信水晶が淡く光る。


『レン。何があった』


 ミュレアだった。


「相談票から、本人意思の欄が消えました」


『ふむ。いよいよ、そやつは正しさを振りかざし始めたか』


「正しさを」


『うむ。名を奪うには、嘘より正しさの方が強いこともある。そなたら人間は、正式だの慣例だのに弱いからな』


 悔しいが、その通りだった。


 正式なものに逆らうのは難しい。


 家の記録。

 王宮の祈祷名簿。

 学籍台帳。

 相談票。


 書いてあることが正しいほど、本人が苦しいと言いにくくなる。


 ユリアナは、そこで顔を上げた。


「ならば、正式な記録に本人意思を入れます」


「え?」


 俺が聞き返すと、ユリアナはきっぱり言った。


「消されるなら、消されない形で作り直します。本人意思を補足欄ではなく、正式項目にします」


 ノエルの目が光った。


「本人意思記録を、正式記録体系に組み込む?」


「はい」


 ユリアナは受付票をまとめ、すぐに新しい紙を取り出した。


「相談窓口だけでは弱い。学園の学籍補助記録として、“本人呼称意思確認票”を作ります。正式名を否定せず、希望呼称と拒否呼称、使用場面、本人署名を正式記録の一部にする」


 早い。


 発想も、動きも。


 リリアが少しだけ目を見開いた。


「それなら、希望呼称が補足ではなくなるのですね」


「はい。正式名と並ぶ、本人意思の記録です」


 セリカさんがにやりとした。


「いいじゃない。向こうが正しさで来るなら、こっちも正式にしてやるってことね」


「その通りです」


 ユリアナは迷わなかった。


 かなり強い。


 俺は少し感心しながらも、同時に不安になった。


「でも、それ、ユリアナ先輩の仕事がかなり増えませんか」


「増えます」


「休憩は」


「取ります」


「本当に?」


 ユリアナは俺を見た。


「レン様。これは私一人では行いません」


 少しだけ驚いた。


 彼女は続ける。


「生徒会、各課程担当教師、相談窓口、ギルド連携担当で分担します。私が全部書類を処理したら、また皆様に怒られますので」


 セリカさんが満足そうに頷いた。


「よし」


 リリアも微笑む。


「とてもいいと思います」


 ユリアナは少し照れたように視線を落とした。


「学習しました」


 成長している。


 俺だけではない。


 みんな少しずつ変わっている。


     ◇


 受付票の欠落は、すぐに学園長へ報告された。


 学園長室で緊急会議が開かれる。


 参加者は、俺たち相談窓口組に加えて、学園長、ミリア先生、魔道具科の教師、治癒術科の教師。


 アリシア王女は王宮から通信で参加。

 ミュレアもギルド地下から通信参加。


 学園長は受付票を確認し、静かに言った。


「第四の系統は、学園の記録体系そのものに干渉し始めたと見てよいでしょう」


「はい」


 ユリアナが頷く。


「ただし、今回は破壊ではありません。正式記録へ戻す方向の干渉です。ゆえに、通常の異常として発見しづらい」


 ノエルが補足する。


「間違いを正すふりをしてる。希望呼称欄を消しても、古い形式に戻っただけに見える。誰かが気づかなければ、通ってしまう」


 リリアが少し唇を結んだ。


「本人の声だけが、なかったことにされてしまいます」


 アリシア王女の声が通信水晶から響く。


『王宮でも同じ問題が起こり得ます。祈祷名簿、貴族名鑑、爵位記録。公的な記録ほど、本人意思の欄は少ない』


「王宮記録に本人意思欄を加えるのは、簡単ではありませんね」


 ユリアナが言うと、アリシア王女は頷いた。


『はい。ですが、少なくとも学園内の記録で先例を作れます。王宮へ提案する材料になります』


 ミュレアが笑う。


『人間どもは面倒じゃな。名を守るのに会議と書類が要るとは』


 セリカさんがすかさず返す。


「あなたの台帳修復にも書類が要ったでしょ」


『あれは妾の名が高貴すぎるゆえ、丁寧な記録が必要だったのじゃ』


「便利な言い訳ね」


『便利に使っておる』


 場の空気が少しだけ緩んだ。


 学園長は穏やかに微笑んだ後、ユリアナへ向き直る。


「ユリアナさん。本人呼称意思確認票の案を見せてください」


「はい」


 ユリアナはすでに草案を書いていた。


 仕事が早すぎる。


 そこには、正式名、希望呼称、拒否呼称、使用場面、本人署名、変更申請欄、第三者確認欄、相談窓口確認欄が並んでいた。


 ノエルが覗き込んで、少し感心したように言う。


「かなり強い。本人署名と第三者確認があるから、第四の系統が消しにくいかも」


「消された場合も、差分が分かるように複写記録を残します」


「多重記録?」


「はい。紙、記録水晶、生徒会控え、本人控えの四重です」


 ノエルが目を輝かせる。


「いい。とてもいい」


「ただし、閲覧権限は厳しくします」


「そこもいい」


 ノエルが素直に褒めた。


 ユリアナは少しだけ驚いた顔をした。


 リリアが微笑む。


「お二人とも、息が合ってきましたね」


 ユリアナとノエルが同時に黙った。


 少し面白かった。


     ◇


 新しい確認票を試す最初の相手は、ルカだった。


 本人の同意を得て、彼には先例として協力してもらうことになった。


 相談室へ来たルカは、少し緊張していたが、昨日より表情は落ち着いている。


 隣にはミーナもいた。


「また書くんですね」


 ルカが紙を見て言う。


 ユリアナは頷いた。


「はい。ただし、昨日の意思確認書より正式なものです。学園記録の一部として扱います」


「それ、家から怒られませんか」


 不安そうな声だった。


 ユリアナはすぐに答えた。


「正式名を変更するものではありません。学園内での呼称運用を記録するものです。家から意見があった場合は、学園として回答します」


 セリカさんが小さく言う。


「要するに、一人で家と戦えって話じゃないってこと」


 ルカの目が少し揺れる。


「一人で、じゃない」


 リリアが頷く。


「はい。ルカさんの名前を、ルカさんだけに背負わせないための記録です」


 ルカは少しだけ笑った。


「それなら、書けます」


 彼はペンを持った。


 正式名欄。


 ルシアン・アルバート。


 希望呼称欄。


 ルカ。


 拒否呼称欄。


 アルバート家の子。

 未熟な逃避。


 その二つを書いた時、少し手が震えた。


 だが、ミーナが隣で言った。


「ルカ」


「うん」


 それだけで、手が止まらなかった。


 使用場面。


 学園内の日常会話、魔道具科工房、友人間、相談窓口では「ルカ」。

 正式書類、家への連絡文書では「ルシアン・アルバート」。


 本人署名。


 ルシアン・アルバート

 希望呼称:ルカ


 書き終えた瞬間、紙の上に淡い光が走った。


 俺の視界に表示が出る。


本人呼称意思確認票

状態:成立

本人署名:有効

第三者確認:未完了

第四の系統干渉耐性:中


「成立しました。第三者確認が入ればもっと強くなります」


 ユリアナが頷き、確認者欄に署名した。


 さらに、リリアが相談窓口確認者として署名する。


 ミーナは友人確認者として、自分の名前を書いた。


 ミーナ・アルレット。


 彼女は書き終えると、少し誇らしげに言った。


「これで、ルカはルカってことですね」


「はい」


 リリアが微笑む。


「そして、ルシアン・アルバートでもあります」


 ルカは紙を見つめた。


「どっちも、僕」


「はい」


 表示が変わる。


第四の系統干渉耐性:中 → 高

希望呼称:安定

正式名:安定

本人意思記録:有効


「強くなりました」


 俺が言うと、ルカは小さく息を吐いた。


「よかった……」


 その声は、本当に楽になったようだった。


     ◇


 次に試したのは、クララだった。


 彼女は「成績二位の補欠」と呼ばれた傷を持っている。


 正式名に問題があるわけではない。


 だが、拒否呼称欄が重要だった。


 クララ・メイフィールド。

 希望呼称:クララ。

 拒否呼称:成績二位の補欠、補欠、二番目の子。

 使用場面:図書委員会、授業、友人間、相談窓口ではクララ。


 本人署名を終えた後、図書委員の先輩も第三者確認者として署名した。


 先輩は真剣な顔で言った。


「もう、その呼び方はしません」


 クララは少し泣きそうになりながら頷いた。


「はい」


 表示は安定。


 次はフィオナ。


 彼女は、閉架書庫での異常分類感知を持つ司書見習い。


 正式名:フィオナ・レイ。

 希望呼称:フィオナ。

 拒否呼称:レイさんのみで呼ばれること。異常物を持ってきた子。

 使用場面:図書館業務、相談窓口ではフィオナ。


 彼女は少し恥ずかしそうに言った。


「レイさんと呼ばれるのが全部嫌なわけではないんです。でも、あの時から、フィオナって呼ばれると安心するので」


 リリアが頷く。


「では、それを書きましょう」


 フィオナは丁寧に署名した。


 名前が安定する。


 俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 この確認票は、確かに効いている。


 名前を呼ぶだけではなく、本人の意思を正式に残す。


 それが、第四の系統への防御になっている。


     ◇


 午後には、希望者向けに確認票の説明会が開かれた。


 ユリアナが前に立ち、丁寧に説明する。


「これは、正式名を否定するものではありません。あだ名を強制するものでもありません。本人が、どの場面でどう呼ばれたいかを確認するための記録です」


 学生たちは真剣に聞いていた。


 昨日まで、名前や呼び方は曖昧なまま流されていた。


 だが、今は違う。


 自分の呼ばれ方を考えることが、学園全体の課題になりつつある。


 説明の後、何人かの学生が相談窓口に来た。


 その中には、レオンもいた。


 彼は少し不機嫌そうな顔で、しかしきちんと順番を待っていた。


「レオン様も申請ですか?」


 ユリアナが尋ねると、レオンは小さく咳払いした。


「念のためだ。家名で呼ばれること自体は構わない。だが、先日のような揺らぎは不快だった」


「では、正式名と日常呼称の確認を」


 ユリアナは淡々と進める。


 正式名:レオン・バルツァー。

 希望呼称:公的場面ではレオン・バルツァーまたはバルツァー。親しい者はレオン様、許可した者はレオン。

 拒否呼称:家名のみを過度に連呼すること。金髪小僧。


 最後の欄を見て、俺は思わずミュレアの通信水晶を見た。


『何じゃ』


「金髪小僧、拒否呼称に入っています」


『心が狭いぞ、レオン』


 レオンの眉が跳ねる。


「聞こえているぞ、魔王令嬢」


『ならば名で呼んだ方がよいか? レオン』


 レオンは一瞬黙った。


 それから、顔をそむける。


「……それなら許可する」


 許可するんだ。


 ミュレアは満足そうだった。


『よし。レオンじゃな』


「気安いな」


『妾は高貴だからな』


「理由になっていない」


 少し笑いが起きた。


 レオンも、完全には嫌そうではなかった。


 彼もまた、家名と本人名の使い分けを少しずつ覚えている。


     ◇


 夕方、確認票の初日運用が終わった。


 申請件数は四十件を超えた。


 想定以上だった。


 ユリアナは記録板を閉じると、深く息を吐いた。


「多いですね」


「多いです」


 俺が頷くと、彼女は少しだけ笑った。


「でも、必要な多さです」


「はい」


 名前や呼ばれ方に悩んでいた学生が、それだけいたということだ。


 第四の系統が来なければ、見えなかったかもしれない。


 そう考えると複雑だ。


 危険なものが現れたから、傷に気づけた。


 それは感謝する話ではない。


 でも、見つけた以上は、放っておけない。


 ノエルが確認票の束を見て言う。


「本人意思記録、かなり強い。第四の系統反応、全体的に下がってる」


「本当ですか」


「うん。名前を固定するというより、名前の使い方を本人が選ぶことで安定してる」


 リリアが微笑む。


「選べることが、大事なのですね」


 セリカさんも頷く。


「押しつけられた呼び方じゃなくて、自分で決める。単純だけど強いわ」


 ミュレアが通信越しに言った。


『名は鎖にも翼にもなる。誰かが勝手に縛れば鎖。己で選べば翼じゃ』


 全員が少し黙った。


 いい言葉だった。


 珍しく、素直に。


「ミュレア、今のは本当にいいですね」


『であろう。菓子二品に値する』


「一品です」


 リリアが即答する。


『白き娘! 余韻を壊すでない!』


「体調管理です」


 いつものやり取りに、場が和む。


 ミュレアの名言料は、今日も一品に抑えられた。


     ◇


 その日の夜、ギルドへ戻った後、俺は自分の名前を書いた。


 レン・クロフォード。


 自然に書けた。


 その下に、少し考えてから追記する。


 正式名:レン・クロフォード。

 希望呼称:レン。

 拒否呼称:外れスキル、危険異能者、魂同調者のみで呼ばれること。

 使用場面:日常ではレン。記録上はレン・クロフォード。能力分類として魂同調系統を使う場合も、本人名を併記する。


 書き終えると、胸の奥が静かに落ち着いた。


本人呼称意思確認:自己記録

名称固定:安定

第四の系統反応:低下

推奨:信頼対象による確認


 すぐに扉が叩かれた。


 セリカさんだった。


「レン」


「はい」


「書けた?」


「はい」


 紙を見せると、セリカさんは少しだけ表情を緩めた。


「よし」


 リリアもやって来た。


「レン」


「はい」


「確認します。レンはレンです」


「はい」


 通信水晶が光る。


『レン』


「はい、ミュレア」


『妾も確認してやる。そなたはレンじゃ。外れでも危険異能者でも、魂同調者だけでもない』


「ありがとうございます」


『礼は菓子でよい』


「一品ですね」


『なぜ先に言う!』


 笑ってしまった。


 その笑いで、また少し名前が強くなる気がした。


 正しい記録だけでは、人は守れない。


 でも、正しい記録に本人の声を入れれば、守れるものがある。


 今日、俺たちはそれを学んだ。


 第四の系統は、きっとまた別の正しさを使ってくる。


 でもこちらも、少しずつ強くなっている。


 名前を呼ぶ。

 名前を書く。

 名前を残す。

 そして、どう呼ばれたいかを本人に聞く。


 その地味な手順は、もうただの対策ではない。


 この学園で、人を人として扱うための新しい約束になり始めていた。

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