第66話 家の記録が、ルカをルシアンに戻そうとする
ルカの新しい名札は、思ったより評判になった。
表には、本人が望む呼び名。
裏には、正式名。
必要な時には裏を確認できる。
普段は、本人が息をしやすい名前で呼べる。
仕組みとしては単純だ。
けれど、その単純さがよかったらしい。
翌日の相談窓口には、似たような相談がいくつか来た。
「家ではエドワードって呼ばれるんですけど、友達にはエディって呼ばれたいです」
「幼い頃の愛称を、そろそろやめてほしくて」
「正式名が長くて、先生が毎回途中で略すんですけど、その略し方が嫌で」
名前の話を始めると、次々に出てくる。
今までみんな、どこかで我慢していたのだ。
呼ばれ方くらいで。
名前くらいで。
そう思って、笑って流していた。
だが、名前は「くらい」で片づけられるものではない。
呼ばれるたびに、少しずつ心に触れる。
心地よく触れることもあれば、傷をなぞることもある。
相談窓口は、その当たり前のことを確認する場所になりつつあった。
「想定以上に申請が増えています」
ユリアナ生徒会長は、相談室の机で新しい申請書の束を整理していた。
いつも通り姿勢はきれいだが、目が少し忙しい。
「希望呼称併記名札の申請だけで、午前中に十七件です」
「多いですね」
「多いです。ただ、必要な件数でもあります」
ユリアナは一枚ずつ確認しながら言った。
「全員に許可を出すのではなく、本人希望、使用場面、拒否呼称の有無を確認します。軽い愛称変更で済むものもあれば、家や過去の事情が関わるものもある」
「仕事、増えてませんか」
「増えています」
「休憩は?」
「取ります」
即答。
俺は少し安心した。
表示を見るまでもない。
いや、見た。
ユリアナ・フォン・グランベル
状態:集中、軽度疲労
備考:休憩予定を自分で記入済みです
「自分で休憩予定を書いていますね」
「はい」
「素晴らしいです」
「……褒められると、反応に困ります」
ユリアナは本当に少し困った顔をした。
セリカさんが横で笑う。
「慣れなさい」
「努力します」
リリアはルカの相談票を見返していた。
昨日、ルカは正式名と希望呼称を分け、自分の名札を取り戻した。
表はルカ。
裏はルシアン・アルバート。
正式名を捨てるのではなく、日常で息ができる名前を選ぶ。
その対応は、相談窓口にとって大きな前例になった。
ノエルは、珍しく静かに記録を見ていた。
「ルカさんの件、魔道具科でも話題になってる。希望呼称併記名札、作りたい人が増えるかも」
「ノエル様、量産する前に申請手順です」
ユリアナが即座に釘を刺す。
「分かってる。勝手に作らない」
「本当に?」
「本当に」
ノエルは少しだけ目を逸らした。
ユリアナはじっと見た。
「試作品は?」
「……一個だけ」
「提出してください」
「はい」
出てくるんだ。
セリカさんが呆れている。
リリアは小さく笑っていた。
この空気は穏やかだった。
だからこそ、扉が乱暴に叩かれた時、全員の表情が変わった。
◇
相談室へ入ってきたのは、魔道具科の教師だった。
いつもは落ち着いた中年の男性だが、今日は顔色が悪い。
「失礼します。ルカ……いえ、ルシアン・アルバートについて相談があります」
名前を言い直した瞬間、俺の胸に嫌な違和感が走った。
リリアも気づいたのか、顔を上げる。
ユリアナはすぐに記録板を手に取った。
「何がありましたか」
「先ほど、アルバート家から学園へ正式文書が届きました。本人の名札表記を正式名に戻すように、と」
「家から?」
俺が聞くと、教師は頷いた。
「はい。家名を軽んじる行為であり、商家の後継として不適切だと。さらに、学園記録上の通称使用許可を取り消すよう求めています」
セリカさんが眉を寄せた。
「本人の希望は?」
「本人は、かなり動揺しています。魔道具科の工房室で、ミーナが付き添っていますが……名札が」
「名札が?」
嫌な予感が強くなる。
教師は封印布に包んだ小さな木札を差し出した。
ルカの名札だった。
表に書かれていたはずの「ルカ」が、薄くなっている。
裏の「ルシアン・アルバート」だけが、強く、黒く浮かび上がっていた。
まるで、表の名を押し潰すように。
表示が浮かぶ。
希望呼称併記名札
対象:ルカ/ルシアン・アルバート
状態:希望呼称の弱体化、正式名の過剰強調
関連:第四の系統
原因:家の正式文書による呼称圧力
注意:本人意思が外部記録に押し戻されています
「第四の系統反応です。家からの正式文書が、本人の希望呼称を押し戻しています」
室内が重くなる。
ユリアナの表情が険しくなった。
「文書は?」
教師はもう一通、封筒を出した。
「こちらです。開封済みですが、直接触れない方がいいかもしれません」
ノエルが低い声で言う。
「文書そのものが媒体になってる可能性がある」
「封印布越しに確認します」
ユリアナは慎重に封筒を受け取った。
封印布を使い、文面を覗く。
そこには、整った字でこう書かれていた。
ルシアン・アルバートは、アルバート家の正式な後継候補であり、家名と本名を軽んじる呼称の使用は認められない。
学園においても、正式名を用いること。
通称「ルカ」なる呼称は、本人の未熟な感情に基づく一時的な逃避であり、家として許可しない。
その文を見た瞬間、俺は少し腹が立った。
未熟な感情。
一時的な逃避。
ルカが息をしやすいと言った名前を、そんなふうに切り捨てている。
リリアの顔も曇った。
「逃避ではありません」
静かな声だった。
けれど、はっきり怒っていた。
「ルカさんは、自分が息をするための呼び方を選んだんです」
セリカさんも腕を組む。
「家の都合はあるかもしれない。でも、本人の声を聞かずに上から戻せっていうのは違うわ」
ミュレアの通信水晶が強く光った。
『実に腹立たしい文じゃな』
「ミュレア」
『名を縛る言葉は、鎖になる。家の名を盾にして、本人の息を塞ぐか。気に入らぬ』
その声は、珍しく低かった。
ユリアナは文書を読み終えると、すぐに言った。
「まずルカさん本人の状態確認が必要です。次に、正式文書への回答。学園として、本人希望呼称を一方的に取り消すことはできないと伝えます」
「そんなこと言って大丈夫なんですか」
俺が聞くと、ユリアナはきっぱり答えた。
「学園内の呼称運用は、学園自治の範囲です。家の正式記録を変えるわけではありません。日常呼称と名札表記に関する運用なら、本人希望を考慮できます」
頼もしい。
かなり頼もしい。
ノエルが立ち上がった。
「工房室へ行こう。名札の状態を見る」
「行きましょう」
リリアもすぐに準備した。
俺も立ち上がる。
セリカさんが横に来た。
「レン」
「はい」
「怒るのはいいけど、飲まれない」
「……はい」
ばれている。
俺は少し怒っていた。
ルカの名前が、家の記録と正式文書で押し潰されようとしていることに。
でも、怒りだけで動くと、第四の系統に隙を与える。
それも分かっている。
◇
魔道具科の工房室に行くと、ルカは作業机の前で座っていた。
ミーナが隣にいる。
いつも明るいミーナも、今日は不安そうだった。
ルカの前には、何枚かの設計図が広げられている。
だが、どれも途中で止まっていた。
線が震え、部品名が途中から正式名の署名のような文字へ変わっている。
ルカは俺たちに気づくと、顔を上げた。
目が赤い。
「レンさん……リリアさん……」
その声に、少しほっとした。
まだ俺たちを認識している。
だが、表示はよくなかった。
ルカ/ルシアン・アルバート
状態:強い不安、息苦しさ、自己選択の揺らぎ
名称干渉:中度上昇
希望呼称「ルカ」:弱体化
正式名「ルシアン・アルバート」:過剰固定
注意:本人が「ルカ」と名乗ることに罪悪感を覚え始めています
「ルカって名乗ることに、罪悪感が出ています」
俺が言うと、ルカの目から涙がこぼれた。
「だって……家から言われたんです。逃げるなって。ルシアンとして生きろって。ルカなんて、友達に甘えて作った偽物の名前だって」
ミーナが怒ったように机を叩きかけ、途中で止めた。
「偽物じゃないよ!」
声が震えている。
「私が呼んだ時、ルカは笑ったじゃん。工房で、自分の作りたいものを作れるって言ったじゃん。それが偽物なわけないじゃん!」
ルカはうつむく。
「でも、家の記録ではルシアンなんだ。僕は、アルバート家の子で」
リリアが静かに膝をつき、ルカと目線を合わせた。
「ルカさん」
呼ぶ。
ルカの肩が震える。
「はい……」
「ルシアン・アルバートであることを、今すぐ捨てなくてもいいんです」
リリアは優しく、けれどはっきり言った。
「でも、ルカという名前が偽物だと決めつける必要もありません」
「でも……」
「名前は、一つしか持ってはいけないものではありません」
その言葉は、昨日の結論でもあった。
「家で必要な名前。書類に必要な名前。友達と一緒に息をするための名前。どれも、あなたのものです」
ルカは唇を噛む。
「僕は……ルカって呼ばれると、作れるんです」
「何を?」
ノエルが静かに聞いた。
ルカは机の上の設計図を見る。
「人を少し楽にする道具を。家の売れ筋じゃなくて、使う人の手に合わせた小さな道具を」
ノエルの目が少し変わった。
研究者としてではなく、魔道具を作る者としての目だった。
「それは、かなり大事」
「大事……ですか」
「うん。標準品じゃなくて、使う人に合わせる道具。ルカだから作れるものかもしれない」
ルカの目が揺れる。
ミーナが頷く。
「そうだよ。ルカの調整、すごく優しいんだよ。部品に無理させないし、使う人の癖もちゃんと見るし」
ユリアナが文書を持って静かに言った。
「家の正式名は、あなたの出自を示します。ですが、学園で何を作るか、誰とどう呼び合うかは、あなた自身の選択も関わる」
セリカさんも腕を組んだ。
「親や家が何を言っても、自分が苦しくなる呼び方を全部飲み込む必要はないわ」
ルカは泣きながら言った。
「僕、ルカでいたいです。でも、ルシアンを捨てたいわけじゃない。家が怖いだけで、全部嫌いなわけじゃないんです」
「それでいいんです」
俺は言った。
「どちらか一つに決めなくていい。ルカも、ルシアンも、あなたの名前です」
表示が少し揺れる。
本人意思:回復傾向
推奨:本人による用途宣言
推奨:正式文書への対抗記録
「本人が、名前の使い方を宣言する必要があります。それと、家の正式文書に対抗する記録」
ユリアナが即座に反応した。
「対抗記録……学園側の正式回答ですね。本人の意思を添付します」
「本人が書くんですね」
「はい」
ルカは涙を拭いた。
「僕が、書きます」
◇
工房室の机に、二枚の紙が置かれた。
一枚目は、学園からアルバート家への正式回答案。
学園内における希望呼称「ルカ」の使用は、本人の精神的安定および学習環境の確保を目的とするものであり、正式名「ルシアン・アルバート」を否定するものではない。
公的書類では正式名を使用し、学園内日常呼称および名札表面において希望呼称を併記する。
ユリアナらしい、隙のない文面だった。
二枚目は、ルカ本人の意思確認書。
彼は少し震える手で、そこに書き始めた。
僕の正式名は、ルシアン・アルバートです。
でも、学園ではルカと呼ばれたいです。
ルカと呼ばれると、自分で作りたいものを考えられます。
ルシアンであることを捨てたいわけではありません。
ただ、ルカという名前も、僕にとって大切です。
最後に、署名欄があった。
ルカは少し迷った。
そして、こう書いた。
ルシアン・アルバート
学園内希望呼称:ルカ
書き終えた瞬間、名札の表の「ルカ」が淡く光った。
裏の正式名も、強すぎる黒ではなく、落ち着いた文字へ戻る。
本人用途宣言:成功
対抗記録:有効
希望呼称「ルカ」:回復
正式名「ルシアン・アルバート」:過剰固定解除
第四の系統反応:低下
「戻りました。ルカも、ルシアンも、安定しています」
ルカは泣きそうな顔で名札を握った。
ミーナが横から、いつもの明るさで言う。
「じゃあ、今日の調整、続きやろうよ。ルカ」
ルカは涙を拭いて、頷いた。
「うん。ありがとう、ミーナ」
その返事は、朝よりずっと自然だった。
◇
相談室へ戻る途中、ユリアナは正式回答を確認していた。
歩きながらでも文面を整えている。
セリカさんが眉を寄せる。
「ユリアナ、歩きながら仕事しない」
「……はい」
止まった。
素直だ。
俺が少し笑うと、ユリアナに見られた。
「何ですか」
「いえ、ちゃんと止まったので」
「休息管理の一環です」
完全に学習している。
リリアは少し安心したように息を吐いた。
「ルカさん、よかったですね」
「はい」
「正式名も希望呼称も、どちらも守る。今日の件は大事な前例になります」
ユリアナが言う。
「家や公的記録が関わる場合、学園の中だけでは解決しきれません。しかし、本人の意思を記録として残すことはできます」
ノエルが頷いた。
「第四の系統は、強い記録を使って名前を押し戻す。なら、こちらも本人意思を正式な記録にする」
「記録で対抗する」
俺が言うと、ノエルは頷いた。
「うん。名前を呼ぶだけじゃなくて、残すことも大事」
ミュレアが通信越しに言った。
『呼ぶ、書く、残す。名を守る三本柱じゃな』
「ミュレア、今日はまとめ役ですね」
『妾の言葉は価値があるからな』
「あとで菓子を要求しそうです」
『当然じゃ。名言料じゃ』
リリアが即座に言う。
「一品です」
『まだ何も言っておらぬ!』
みんなが笑った。
重い事件の後に笑えるのは、やはり救いだ。
◇
その日の夕方、ルカの件は「正式名と希望呼称の両立事例」として整理された。
閉架異常物件としては、アルバート家の文書と変質した名札が第六号扱い。
ただし、文書そのものは家からの正式書類でもあるため、封印保管しつつ写しを作り、学園側の回答とセットで管理することになった。
ユリアナは新しい欄を増やした。
本人意思確認記録。
使用場面。
外部記録との衝突有無。
対抗記録の有無。
「また書類が増えましたね」
「増えました」
「休憩は?」
「取ります」
「よし」
俺が言うと、ユリアナは少しだけ笑った。
「今の“よし”は、セリカ様の影響ですか」
「たぶん」
セリカさんが満足そうに頷く。
「広まってるわね」
「そこ、誇るところですか?」
「もちろん」
リリアも笑っている。
ノエルは小さく言った。
「レン、今日は自分の名前は?」
「あ」
忘れかけていた。
危ない。
俺は紙に書く。
レン・クロフォード。
今日は自然に書けた。
名称固定:安定
「安定しています」
リリアがほっとしたように微笑む。
「よかったです、レン」
「はい」
ミュレアも通信越しに言う。
『レン。そなたもルカと同じじゃ。役割名や正式な肩書きに押されぬようにせよ』
「はい」
『それと、妾の菓子は一品では足りぬ』
「そこも安定していますね」
『うむ。妾の欲望も安定じゃ』
安定していいのだろうか。
でも、ミュレアがミュレアらしくいる証拠でもある。
俺は少し笑った。
正式名だけが、その人の名前とは限らない。
希望呼称だけが、その人のすべてでもない。
人は、いくつかの呼ばれ方の中で生きている。
そのどれが必要かは、本人が選んでいい。
第四の系統は、そこを一つに縛ろうとする。
なら、俺たちは選べる余地を守る。
名前を呼ぶ。
名前を書く。
名前を記録する。
そして、どう呼ばれたいかを本人に聞く。
地味だが、強い。
今日もまた、それを少しだけ証明できた。




