第65話 本名だけが、その人の名前とは限らない
噂の足は速い。
だが、正式な説明も、思ったより足が速かった。
翌日の王立学園では、「名前守り様」という呼び方は明らかに減っていた。
完全になくなったわけではない。
廊下の端で小さく囁かれることはある。
俺を見る視線も、以前より少し増えたままだ。
けれど、昨日の中庭で説明したことで、少なくとも相談窓口の扱いは少し変わった。
レン一人に相談する場所ではない。
リリアがいて、セリカさんがいて、ノエルがいて、ユリアナがいて、教師やギルドや王宮の協力もある。
そういう認識が、少しずつ広がり始めたのだ。
ユリアナ生徒会長は、その変化を記録板にまとめていた。
「単独美称の使用頻度は低下。相談窓口への問い合わせは増加。ただし、レン様個人への接触もまだ残っています」
「やっぱり残りますか」
「はい。噂は一度広がると完全には消えません。継続対応が必要です」
生徒会室の机には、今日も書類がきっちり並んでいる。
ただ、以前のようにユリアナ一人で抱えているわけではない。
副会長や書記へ渡す束も、きちんと分けられていた。
それだけでも、少し安心する。
「ユリアナ先輩、仕事を分けていますね」
「はい」
「いい傾向です」
「……レン様に評価されると、少し複雑です」
ユリアナはそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。
セリカさんが横から言う。
「お互い様ね」
「そのようです」
ユリアナは否定しなかった。
成長している。
俺も人のことは言えないが。
リリアは相談窓口の新しい受付票を確認していた。
「今日から、呼ばれたい名前と、呼ばれたくない名前の欄が正式に入ったんですね」
「はい」
ユリアナが頷く。
「昨日までの事例を踏まえ、本人意思の確認欄を増やしました。正式名、通称、希望呼称、拒否呼称。四点です」
ノエルが少し感心したように言う。
「名前の運用表としてかなり完成度高い」
「研究用ではありません」
「分かってる。相談用」
「ならよろしいです」
通信水晶からミュレアの声が響く。
『妾の欄には、何と書けばよい?』
「正式名、ミュレア・ノクターン。希望呼称、ミュレア様またはミュレアさん。拒否呼称、魔王封印体」
ユリアナが即答した。
『完璧じゃな、生徒会長』
「ありがとうございます」
『ただし、甘味制限対象者という記録は拒否する』
リリアがすぐに言う。
「それは健康管理欄です」
『別欄にするでない!』
朝から通常運転だった。
俺は少し笑った。
名前を呼び合うことが日常になってきた。
それは良いことだ。
ただ、その日常に安心しすぎると、第四の系統はすぐ別の隙間を突いてくる。
それも、俺たちはすぐ知ることになった。
◇
午前の相談窓口に来たのは、魔道具科の一年生だった。
小柄な少年。
柔らかい茶色の髪に、少し大きめの丸眼鏡。
制服の袖から細い手首が覗いている。
受付票には、こう書かれていた。
正式名:ルシアン・アルバート
希望呼称:ルカ
拒否呼称:ルシアン、アルバート家の子
ユリアナが受付票を見た時、少しだけ眉を動かした。
「アルバート家……」
セリカさんが小声で聞く。
「知ってるの?」
「王都の魔道具商家です。規模は大きくありませんが、古い家です」
少年――ルカは、椅子に座ると、両手を膝の上で握った。
かなり緊張している。
リリアが優しく声をかけた。
「今日は、ルカさんとお呼びしても大丈夫ですか?」
少年の顔が少し明るくなった。
「はい。お願いします」
その表情だけで、彼にとってその呼び方が大事なのだと分かった。
「相談内容を、話せる範囲で教えてください」
ユリアナが言うと、ルカは小さく頷いた。
「僕、正式にはルシアンっていう名前なんです。でも、その名前で呼ばれると、家のことを思い出してしまって」
声が細い。
だが、言葉は止まらなかった。
「家では、ずっとルシアン様って呼ばれていました。将来は家の工房を継ぐんだから、失敗するなって。魔道具を作るのも、好きじゃないわけじゃありません。でも、家のために作れって言われると、手が動かなくなるんです」
ノエルが静かに聞いている。
いつものようにすぐ技術の話へ飛びつかない。
ルカは続けた。
「学園に来てから、友達がルカって呼んでくれました。そしたら、少し楽になって。自分で作りたいものを作っていい気がして」
「それで、希望呼称がルカなのですね」
ユリアナが確認すると、ルカは頷いた。
「はい。でも今朝、名札が勝手に正式名へ戻っていて」
彼は鞄から名札を出した。
そこには、ルシアン・アルバート、と刻まれている。
普通なら、何もおかしくない。
正式名として正しい。
だが、ルカの手は震えていた。
「昨日までは、許可をもらって“ルカ”って書いた名札を使っていました。でも今朝、寮の机に置いていた名札が、これに戻っていて。友達も、僕をルカって呼ぼうとして、言い直しそうになったんです」
正式名へ戻る。
一見すると、名前が正されたようにも見える。
だが、俺の胸には嫌な違和感があった。
本人が選んだ呼び名を、偽物として否定している。
俺の視界に表示が浮かぶ。
ルシアン・アルバート/ルカ
状態:不安、恐怖、自己選択の揺らぎ
名称干渉:中度
置換方向:希望呼称「ルカ」→正式名「ルシアン・アルバート」
関連:第四の系統
注意:正式名そのものは正しいが、本人意思を押し潰しています
「正式名そのものは正しい。でも、本人の意思を押し潰している、と出ています」
俺が言うと、ルカはびくっとした。
「やっぱり、僕がわがままなんでしょうか」
「違います」
リリアが即座に言った。
その声は、いつもより強かった。
「正式な名前があることと、その名前で呼ばれるのがつらいことは、別です」
ルカの目が揺れる。
リリアはゆっくり言った。
「あなたがルカと呼ばれて楽になるなら、その名前もあなたを守る大切な名前です」
「でも、家の名前を嫌がるなんて」
ユリアナが静かに続けた。
「家名や正式名を否定する必要はありません。ただし、学園生活において本人が安心して使える呼称を選ぶ権利はあります」
セリカさんも言う。
「嫌な記憶と結びついた名前を、無理にずっと使う必要はないわ」
ルカはうつむいたまま、肩を震わせた。
「僕、ルカって呼ばれると、少し息がしやすいんです」
その一言で、部屋の空気が変わった。
呼ばれると息がしやすい名前。
それは、もうただの愛称ではない。
彼が自分で選んだ場所なのだ。
◇
対処には、慎重さが必要だった。
これまでの事例では、欠けた名前を戻すことが多かった。
フィオナ。
クララ。
アリシア。
ミュレア。
レン。
だが今回は違う。
正式名を完全に消すわけではない。
ルシアン・アルバートという名前も、彼の名前だ。
ただし、今の彼にとって、日常の中で呼ばれたい名前はルカ。
つまり、二つの名前を敵対させず、役割を分ける必要がある。
ユリアナは記録板に整理した。
「正式記録名、ルシアン・アルバート。学園内希望呼称、ルカ。公的書類では正式名、日常会話および相談窓口ではルカ。拒否呼称、アルバート家の子」
「すごく実務的ですね」
俺が言うと、ユリアナは頷いた。
「実務に落とさなければ守れません」
ノエルが名札を見ながら言った。
「希望呼称が勝手に正式名へ戻るのは、第四の系統の別パターン。偽名を消すというより、選んだ名前を無効化してる」
「選んだ名前を無効化……」
リリアが小さく呟いた。
「それは、とても怖いですね」
ミュレアが通信越しに言った。
『第四の系統は、名を削るだけでは飽き足らず、名を一つに縛ろうとしておるのじゃな』
「一つに縛る?」
『うむ。人間には、場によって名がある。家の名、親しい者の名、己で選んだ名、昔の名。すべてを一つに押し込めれば、人は息苦しくなる』
ルカが通信水晶を見て、少し驚いた顔をした。
「今の声は……」
「ミュレアさんです」
リリアが説明する。
「相談窓口に協力してくださっている方です」
『高貴なる魔王令嬢じゃ』
ルカがさらに目を丸くする。
ユリアナが淡々と補足した。
「詳細は機密です。今は名前に関する助言者と考えてください」
「は、はい」
助言者。
ミュレアがそれで満足したのか、通信越しに少し得意そうな気配がした。
『ルカよ』
ミュレアが呼んだ。
ルカの肩が震える。
「はい」
『その名は、そなたが息をするための名なのじゃろう?』
「……はい」
『なら、守れ。正式名を捨てずともよい。だが、息のできる名を偽物扱いする必要はない』
ルカの目に涙が浮かんだ。
「はい……」
ミュレアの言葉は時々、妙に刺さる。
甘味の話をしている時との落差がすごい。
◇
本人筆記による名称固定を行うことになった。
ただし、今回は二段階だ。
一枚目の紙に、正式名を書く。
ルシアン・アルバート。
二枚目の木札に、希望呼称を書く。
ルカ。
それを本人が選び、用途を決める。
ルカはペンを持った。
まず、正式名。
ルシアン・アルバート。
書く手が少し震えている。
途中で息が詰まりかけたが、リリアが優しく声をかけた。
「急がなくて大丈夫です、ルカさん」
ルカは頷いた。
正式名を書き終えると、次に木札を手に取る。
小さな木札。
そこへ、彼はゆっくり書いた。
ルカ。
二文字。
だが、書き終えた瞬間、彼の肩から少し力が抜けた。
俺の表示が変わる。
本人筆記:成功
正式名:ルシアン・アルバート
希望呼称:ルカ
名称分離安定:進行中
推奨:信頼対象による希望呼称確認
「効いています。正式名と希望呼称を分けて安定させる必要があります。次は、信頼できる人に“ルカ”と呼んでもらうこと」
ユリアナが尋ねる。
「学園内に、信頼できる友人はいますか?」
ルカは少し考え、頷いた。
「同じ魔道具科の、ミーナさんです。僕を最初にルカって呼んでくれた子です」
ミーナ。
以前、魔道具調整適性を見つけた女子生徒だ。
彼女なら、たしかに呼んでくれそうだ。
ユリアナがすぐに生徒会役員へ指示を出した。
「ミーナ・アルレットさんを呼んでください。ただし、事情は本人同意後に」
少しして、ミーナが相談室に来た。
相変わらず少し緊張しやすそうだが、以前より表情は明るい。
「ルカ、大丈夫?」
部屋に入るなり、彼女はそう呼んだ。
その瞬間、ルカの目から涙がこぼれた。
「……うん」
返事ができた。
表示が一気に変わる。
希望呼称確認:強く有効
名称干渉:中度 → 軽度
状態:安堵
ミーナは驚いて立ち止まった。
「え、えっ? 私、何か変なこと言った?」
「いいえ」
リリアが微笑む。
「とても大事なことを言ってくれました」
ミーナはまだ分かっていない顔だった。
ルカは涙を拭きながら、小さく笑った。
「ありがとう、ミーナ。僕、やっぱりルカって呼ばれたい」
「うん。じゃあ、ルカでしょ」
ミーナは当然のように言った。
「魔道具科ではルカ。書類はルシアン。使い分ければいいじゃん」
軽い。
でも、それがよかった。
難しく考えすぎていたものを、彼女はあっさり言った。
使い分ければいい。
それだけのこと。
しかし、ルカにとっては救いだった。
ノエルが小さく頷く。
「ミーナさん、かなり本質を言った」
「え、私がですか?」
「うん。すごく」
ミーナは少し照れた。
◇
名札は、新しく作ることになった。
表面に、ルカ。
裏面に、正式名としてルシアン・アルバート。
本人が選んだ使い分けを、そのまま形にする。
ユリアナは少し考えた後、言った。
「学園規則上、名札表記は正式名が原則ですが、相談窓口対応および学園長許可があれば、希望呼称併記が可能です。今回を前例として整備します」
「また規則が増えますね」
「必要です」
ユリアナは即答した。
その横でノエルが呟く。
「名前の多層運用。正式名、日常名、希望呼称、拒否呼称。かなり体系化できる」
「研究化しないように」
「分かってる。でも、これは多くの学生に必要かも」
ノエルの言う通りだと思った。
正式名だけがその人を守るわけではない。
家名が必要な場もある。
愛称が必要な場もある。
自分で選んだ名前が必要な時もある。
一つに決めつけることが、むしろ人を苦しめることもある。
第四の系統は、そこを突いた。
なら、こちらは名前の使い分けを認める。
それが防御になる。
ミュレアが通信越しに満足そうに言った。
『よいではないか。ルカはルカであり、ルシアンでもある。どちらも奪わぬ。だが、呼ぶ時は本人の息がしやすい方を選ぶ』
「ミュレア、今日はかなり名言が多いですね」
『いつもじゃ』
「甘味の話をしていない時は」
『甘味の話も重要じゃ』
リリアがすぐに言う。
「今日は一品です」
『まだ要求しておらぬ!』
「先に確認です」
『白き娘、完全に先読みしてくる……』
相談室に少し笑いが戻った。
ルカも、涙の跡を残したまま笑っていた。
◇
午後、ユリアナは相談窓口の受付票に新しい項目を追加した。
正式名。
希望呼称。
拒否呼称。
使用場面。
使用場面、という欄が増えたのだ。
公的書類では正式名。
日常では愛称。
親しい友人には別の呼び方。
家名は避けたい。
古い呼び名は使わないでほしい。
そういった細かい希望を書けるようになった。
「ここまでやると、かなり丁寧ですね」
俺が言うと、ユリアナは少し疲れた顔で、しかしはっきり言った。
「丁寧にしないと、名前は守れません」
その言葉は、今日の結論だった。
名前を守るには、ただ呼ぶだけでは足りない場合がある。
どう呼ぶか。
誰が呼ぶか。
どの場面で呼ぶか。
本人がどう感じるか。
丁寧に聞かなければ分からない。
セリカさんが腕を組む。
「剣より難しいわね」
「そうなんですか」
「剣は斬るか斬らないかがはっきりしてるもの。でも名前は、同じ言葉でも相手によって意味が変わる」
リリアが頷く。
「だから、聞くことが大事なのですね」
ノエルも言う。
「名前は固定値じゃなくて、関係性の中で変わる変数」
ユリアナがすぐに見た。
「その表現は相談者には使わないでください」
「分かってる」
俺は笑った。
みんな、それぞれの言葉で名前のことを考えている。
それ自体が、第四の系統への対抗になっている気がした。
◇
放課後、ルカとミーナはもう一度相談室に来た。
完成した新しい名札を受け取るためだ。
表には、ルカ。
裏には、ルシアン・アルバート。
小さな魔道具科の印も入っている。
ノエルとミーナが一緒に調整したらしい。
「これ、裏面を軽く押すと正式名が光るんです」
ミーナが得意げに言う。
「書類確認の時に便利かなって」
ルカはその名札を大事そうに持った。
「ありがとう」
「いいって。ルカが作りたいもの、また一緒に作ろうよ」
「うん」
ルカの表情は、朝よりずっと明るかった。
俺の表示にも、安定が出ている。
ルカ/ルシアン・アルバート
名称分離安定:成功
希望呼称:安定
第四の系統反応:低下
「安定しました」
俺が言うと、リリアがほっと微笑んだ。
ユリアナも記録板に書き込む。
「希望呼称併記名札、有効。今後、申請制で導入を検討します」
ノエルが小さく言う。
「これ、かなり広がるかも」
「必要なら広げます」
ユリアナは即答した。
やはり仕事が早い。
ただし、今日はちゃんと休憩も取ってほしい。
俺がそう思った瞬間、ユリアナがこちらを見た。
「休憩は取ります」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っています」
最近、俺も読まれるようになってきた。
◇
夕方、俺たちは中庭で少しだけ休んだ。
ミュレアの仮学生証にも、昨日刻まれた名前が淡く光っている。
通信水晶越しにそれを見たミュレアは、今日のルカの件を聞いて満足そうだった。
『よいな。表にルカ、裏にルシアン。なかなか洒落ておる』
「ミュレアも表にミュレア、裏に魔王令嬢とか入れますか?」
『魔王令嬢は裏ではない。堂々と表じゃ』
「そうでした」
セリカさんが呆れる。
「本当にぶれないわね」
『ぶれぬ名は強いのじゃ』
リリアが微笑む。
「でも、ミュレアさんも封印体と呼ばれるのは嫌ですよね」
『当然じゃ。肩書きにも格がある』
「格の問題なんですね」
『そうじゃ』
ミュレアらしい。
でも、たぶん彼女なりに本気なのだろう。
俺は中庭を見渡した。
学生たちが、それぞれの名札をつけて歩いている。
正式名の子。
愛称の子。
家名を選んだ子。
今日から希望呼称を相談しようとしている子。
名前は一つではない。
でも、どれも本人のものだ。
第四の系統は、そこを一つに縛ろうとした。
正式名だけが正しい。
肩書きだけが正しい。
役割だけが正しい。
そうやって、人を狭い場所へ押し込めようとする。
だが、人はもっと面倒だ。
そして、その面倒さこそが、たぶん人らしさなのだ。
「レン」
セリカさんが呼んだ。
「はい」
「何考えてる?」
「名前って面倒だな、と」
「そうね」
リリアが続ける。
「でも、大切ですね」
「はい」
ノエルが言う。
「面倒なものほど、ちゃんと扱わないと壊れる」
ユリアナが頷く。
「だから制度にします」
ミュレアが笑う。
『だから菓子も丁寧に扱うべきじゃ』
「そこへ戻りますか」
『当然じゃ』
みんなが笑った。
今日も重い一日だった。
けれど、最後に笑えた。
ルカはルカであり、ルシアンでもある。
その両方を守れた。
なら、今日はそれで十分だと思えた。




