第64話 噂は、名前より足が速い
自分の名前を書けなくなりかけた翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るい程度で、王都の街も完全には起きていない。
ギルドの廊下も静かだった。
机の上には、昨日書いた紙が置いてある。
レン・クロフォード。
少し歪んだ字。
でも、間違いなく俺の名前だった。
昨日は、それを書くのにずいぶん苦労した。
魂同調者。
その言葉に、自分の名前が上書きされかけた。
今思い出しても、背筋が冷える。
自分の名前が出てこないというのは、想像していたよりずっと怖い。
俺はペンを取り、別の紙にもう一度書いた。
レン・クロフォード。
今度は、手は震えなかった。
ほっと息を吐く。
レン・クロフォード
名称固定:安定
状態:軽度疲労、回復中
注意:能力使用後の本人名確認を継続してください
「はいはい。継続しますよ」
表示に向かって、思わず独り言を言う。
すると、扉の向こうから声がした。
「誰と話してるの?」
セリカさんだった。
返事をする前に、扉が開く。
今日はいつもより早い。
赤い髪を軽くまとめ、まだ少し眠そうな顔をしている。
だが、目だけはしっかり俺を見ていた。
「レン」
「はい」
「よし」
「朝の点呼ですか」
「そう。続けるんでしょ」
セリカさんは机の紙を見た。
そこに書かれた俺の名前を確認し、少しだけ表情を緩める。
「書けてる」
「はい。今日は大丈夫です」
「今日は、じゃなくて、これからも大丈夫にするの」
「はい」
すぐ後ろから、リリアも顔を出した。
「レン」
「はい」
「おはようございます」
「おはようございます、リリア」
リリアはほっとしたように笑った。
俺が名前を返すことも、確認の一部になっている。
少し照れくさい。
だが、ありがたい。
通信水晶が淡く光る。
『レン。起きておるか』
「起きています、ミュレア」
『うむ。声は問題なさそうじゃな』
「朝から健康確認ですか」
『名の確認じゃ。健康確認は白き娘の仕事であろう』
「役割分担ができていますね」
『妾は高貴なる魔王令嬢ゆえ、役割分担も完璧じゃ』
水晶の向こうで、ミュレアが胸を張っている姿が見えるようだった。
リリアが穏やかに言う。
「ミュレアさん、今日の甘味は一品です」
『まだ要求しておらぬ!』
「先に確認です」
『白き娘、先手を覚えたな……』
朝からいつもの調子だった。
それが、少し嬉しい。
昨日、自分の名前が揺らいだことを考えると、こうして名前を呼ばれるだけで、世界の輪郭が戻る気がした。
◇
王立学園へ着くと、正門前は少し騒がしかった。
いつもの名前確認は続いている。
ただ、今日はそれとは別に、学生たちの視線が妙にこちらへ集まっていた。
俺は嫌な予感を覚える。
「レン、顔」
セリカさんがすぐに言った。
「嫌な予感がします」
「私も」
リリアも少し不安そうに周囲を見た。
昨日、俺自身の名前が揺らいだことは、関係者以外には伏せられている。
魂同調者という言葉も、公には出していない。
それでも、学園には噂が生まれる。
名前を確認する相談窓口。
名前が薄れた学生を戻した。
王宮にも関係する特別対応があったらしい。
レンが見ると名前の異常が分かるらしい。
事実が少しずつ混ざり、ねじれ、勝手に走る。
噂は、名前より足が速い。
それを痛感したのは、昇降口へ向かう途中だった。
魔術科の一年生らしい女子生徒たちが、こちらを見て小声で話していた。
「ほら、あの人だよ」
「名前を戻す人」
「相談窓口の奇跡の人?」
「外れスキルだったのに、今じゃ名前守り様とか言われてるらしいよ」
名前守り様。
俺は足を止めた。
胸の奥が、ひやりとする。
視界に、薄い表示が走った。
レン・クロフォード
名称固定:微弱揺らぎ
外部呼称影響:発生
置換候補:「名前を戻す人」「名前守り様」「外れスキルの奇跡」
注意:噂による呼称固定に注意してください
まただ。
今度は、悪意ではない。
むしろ、好意や憧れが混じっている。
けれど、名前ではない。
俺はレン・クロフォードだ。
名前守り様ではない。
外れスキルの奇跡でもない。
セリカさんがすぐに俺の腕を掴んだ。
「レン」
「はい」
「返事」
「……はい」
「リリア」
セリカさんが視線を向ける。
リリアはすぐに頷いた。
「レン。大丈夫です。今の呼び方は、レンの全部ではありません」
「はい」
ミュレアの通信水晶が小さく震える。
『聞こえたぞ。妙な呼び名が増えておるな』
「増えてますね」
『妾としては“レン・クロフォード”の方が呼びやすい。妙な称号は長い』
「理由が実用的ですね」
『名は呼びやすさも大事じゃ』
少し笑えた。
だが、表示はまだ消えない。
噂による呼称固定。
これは新しい形だった。
人の名前が、悪口や肩書きだけでなく、称賛によっても薄くなる。
功労者。
奇跡の人。
名前守り様。
良い言葉でも、俺自身から遠ざけることがある。
ユリアナが正門側から歩いてきた。
すでに状況を察したのか、表情が険しい。
「レン様。今の反応は?」
「噂の呼び名で、俺の名前が微弱に揺れました。外部呼称影響です」
ユリアナはすぐに記録板を開いた。
「置換候補は?」
「名前を戻す人、名前守り様、外れスキルの奇跡」
ユリアナの眉がわずかに動く。
「称賛型の置換ですね」
「やっぱり、そうなりますか」
「はい。悪意ある呼称だけではなく、過剰な美称も本人名を圧迫する可能性があります」
ノエルが少し遅れて合流した。
髪が少し跳ねている。
「噂、もう広がってる。掲示板にも落書きじゃないけど、誰かが“名前守り様に相談すれば安心”みたいなメモを貼ってた」
「貼っていた?」
ユリアナの声が冷える。
「回収済み。触ってない。布越し」
「よろしい」
ノエルが少しだけ得意げに頷いた。
成長している。
だが、問題はそこではない。
称賛型の置換。
それが広がれば、俺はまた自分の名前から離れてしまう。
リリアが静かに言った。
「止めましょう」
その声は柔らかいが、強かった。
「レンの名前を守るために」
◇
急きょ、生徒会室で対策会議が開かれた。
参加者は、俺、リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナ。
通信でミュレア。
アリシア王女にも連絡が飛び、王宮から短時間だけ参加することになった。
ユリアナは黒板に、今日の事例を書いた。
ただし、呼称そのものは略号にした。
称賛型置換呼称。
外部噂由来。
本人名圧迫。
悪意なし。
拡散速度速。
「厄介ですね」
俺が言うと、ユリアナは頷いた。
「悪意があれば止めやすい。しかし今回は、学生たちの不安と期待が混ざっています。強く禁止すると、かえって噂が増える可能性があります」
ノエルが記録板を見ながら言う。
「名前を戻してくれるすごい人、という物語になってる。分かりやすいから広がる」
「俺一人で戻しているわけではないんですが」
「そこも問題です」
ユリアナが言った。
「相談窓口の成果が、レン様一人の功績として語られている。これは事実と異なりますし、あなたへの負荷も増やします」
その通りだった。
フィオナの名前を呼んだのはリリアだ。
レオンの呼称選択を制度化したのはユリアナだ。
クララを支えたのは、リリア、セリカさん、生徒会の全員だ。
アリシア様の名前を戻したのは、王宮側や皆の呼称があったからだ。
ミュレアの名を刻んだのも、ノエル、オルフェさん、リリア、アリシア様、ユリアナ、セリカさん、全員の力があった。
なのに、噂は単純化する。
レンが戻した。
名前守り様。
違う。
そうじゃない。
俺がそう思った時、ミュレアが通信越しに言った。
『レン。噂に怒っておるな』
「少し」
『よい。怒れ』
「いいんですか」
『うむ。名を間違えられるのは腹立たしいことじゃ。しかも、仲間の働きまでそなた一人のものにされておる』
その言葉で、胸の奥にあった苛立ちがはっきりした。
俺の名前が揺れるのも怖い。
だが、それ以上に嫌だったのは、みんなの名前が消えることだった。
リリアの言葉。
セリカさんの支え。
ノエルの解析。
ユリアナの制度。
ミュレアの知識。
アリシア様の結界。
それらが全部、「レンの奇跡」にされる。
それは違う。
俺は顔を上げた。
「ユリアナ先輩」
「はい」
「学園内に、相談窓口の正式説明を出せますか」
「出せます。内容は?」
「俺一人の力ではなく、相談窓口全体の取り組みだと。名前確認は、本人の意思と周囲の呼び方を大切にするものだと。相談する相手は俺ではなく、窓口だと」
ユリアナは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷く。
「有効だと思います」
ノエルも言った。
「単独英雄化を避ける。役割の分散。名称固定にも効くはず」
リリアが微笑む。
「レン自身の名前も守れますし、皆の名前も守れます」
セリカさんが腕を組む。
「ただし、レンが話す必要があるんじゃない?」
「俺が?」
「噂の中心があなたなら、あなたが言うのが早い」
逃げたい。
非常に逃げたい。
学園内で説明なんて、胃が痛い。
だが、今回は逃げるわけにはいかなかった。
噂が俺を別の名前で固めようとしているなら、俺自身が名乗る必要がある。
アリシア王女の通信が入った。
『レン様。短い挨拶で十分だと思います』
「アリシア様」
『自分は何者か。誰と一緒に取り組んでいるのか。それを伝えるだけで、噂の形は変わります』
「噂の形」
『はい。人は空白を物語で埋めます。なら、正しい形の物語を渡すのです』
王族らしい言葉だった。
そして、分かりやすかった。
ユリアナがすぐに書面案を作り始める。
「昼休み前に、相談窓口からの短い説明会を開きましょう。場所は中庭。強制参加ではなく、希望者のみ。ただし、生徒会から周知します」
「そんなに早く?」
「噂は早いです。対処も早くする必要があります」
ユリアナは迷わなかった。
俺は深呼吸する。
「分かりました。やります」
セリカさんが俺の肩を軽く叩いた。
「よし」
リリアも頷く。
「一緒にいます」
ノエルも。
「記録する。短く」
ユリアナがすぐに言う。
「長い記録は禁止です」
「分かってる」
ミュレアが通信越しに楽しそうに笑った。
『レン。しっかり名乗れ』
「はい」
『妾の名も忘れるでないぞ』
「そこですか」
『大事じゃ』
大事だ。
たぶん、本当に。
◇
昼休み前の中庭には、予想以上の学生が集まった。
魔術科、治癒術科、剣術課程、貴族教養科、研究科。
噂を聞いた学生たちが、少し離れた場所からこちらを見ている。
俺の胃はかなり痛い。
だが、隣にはリリアがいた。
反対側にはセリカさん。
少し後ろにノエルとユリアナ。
通信水晶にはミュレア。
アリシア王女は公的に姿を見せると話が大きくなりすぎるため、今回は通信で見守るだけだ。
ユリアナが前へ出た。
「皆さん。生徒会および相談窓口から、名前確認運用について簡単な説明を行います」
声がよく通る。
ざわめきが静まった。
「現在、相談窓口では、名札、学生証、出席簿、本人が望む呼び方の確認を行っています。これは旧研究棟事件後の不安対応の一環であり、また、誰かが望まない呼び方をされ続けないための取り組みでもあります」
ユリアナはそこで一度区切った。
「最近、一部で特定個人への過度な美称や噂が広がっています。しかし、相談窓口は一人の力で成り立っているものではありません」
視線が俺へ集まる。
心臓が跳ねた。
ユリアナがこちらを見る。
合図だ。
俺は前へ出た。
静かな中庭。
学生たちの視線。
前世の俺なら、ここで固まっていただろう。
いや、今も固まりそうだ。
でも、名前を守るためなら。
自分の名前も、みんなの名前も。
俺は息を吸った。
「レン・クロフォードです」
まず、名前を言った。
胸の奥で、何かが安定する。
「最近、相談窓口について色々な噂が出ていると聞きました。名前を戻す人とか、名前守り様とか……そう呼ばれているらしいですが、俺はそういう名前ではありません」
ざわめきが少し起こる。
でも、俺は続けた。
「俺は、レン・クロフォードです」
二度目。
今度は、少しはっきり言えた。
「それから、相談窓口は俺一人でやっているものではありません。聖具や治癒術の不安を聞いているのは、リリアです」
リリアが少し驚いた顔をする。
俺は彼女を見た。
「リリアは、怖いと言っていいと伝えてくれます」
リリアの頬が少し赤くなる。
「剣術や距離の相談で、はっきり線を引くことを教えてくれるのは、セリカさんです」
セリカさんが少し照れたように目を逸らす。
「魔道具や適性の違いを見つけるのは、ノエルです」
ノエルは静かに頷いた。
「相談窓口の仕組みを作り、混乱しないよう支えているのは、ユリアナ先輩です」
ユリアナは、少しだけ目を伏せた。
「他にも、学園の先生方、ギルドの人たち、王宮の協力があります。だから、もし相談したいことがあるなら、俺個人ではなく、相談窓口へ来てください」
俺は学生たちを見た。
「それと、名前について。誰かをあだ名や肩書きで呼ぶことが、全部悪いわけではありません。でも、本人が嫌がっている呼び方を続けるのは違うと思います。褒め言葉でも、本人の名前を消してしまうことがあります」
言葉を選ぶ。
ゆっくり。
自分にも言い聞かせるように。
「だから、まず名前を確認してください。どう呼ばれたいか。どう呼ばれたくないか。それを聞くことは、たぶん思っているより大事です」
中庭は静かだった。
「俺も、名前で呼ばれたいです。レン、と」
言った瞬間、胸の奥にあった揺らぎが少し消えた。
名称固定:強化
外部呼称影響:低下
深層信頼リンク:安定
よかった。
言えた。
ユリアナが一歩前へ出る。
「以上です。相談窓口は、明日以降も通常通り開きます。噂ではなく、正式な案内を確認してください」
説明会は、それで終わった。
◇
学生たちは少しずつ散っていった。
完全に噂が消えたわけではないだろう。
でも、空気は少し変わった。
何人かの学生が、俺たちに軽く頭を下げていく。
その中に、フィオナがいた。
「レンさん」
「はい」
「ちゃんと、レンさんって呼びます」
「ありがとうございます、フィオナさん」
フィオナは少し笑って去っていった。
次にカイルが来た。
「レンさん。リリアさんにも、あとでお礼を言います」
「はい。きっと喜びます」
クララも来た。
「レンさん。私、今日、図書委員の先輩にクララって呼んでもらえました」
「よかったです、クララさん」
レオンは少し離れた場所から見ていた。
やがて、ゆっくり近づいてくる。
「レン」
「はい」
「妙な演説だった」
「そこから入りますか」
「だが、悪くはなかった」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。……名前で呼べというなら、呼ぶだけだ」
そう言って、レオンは去っていった。
セリカさんが隣で笑う。
「素直じゃないわね」
「でも、呼んでくれました」
「そうね」
リリアが近づいてきた。
少し目が潤んでいる。
「レン。私のことも、話してくれてありがとうございます」
「勝手にすみません」
「いいえ。嬉しかったです」
その一言で、俺は少し照れた。
ノエルも来る。
「私の説明、短かった」
「長くすると研究発表になるので」
「正しい判断」
ユリアナも、記録板を閉じながら言った。
「効果はありました。噂の単独集中がやや低下しています」
「よかったです」
「ただし、今後も呼称管理は必要です」
「はい」
ミュレアの通信水晶が光る。
『レン』
「はい」
『妾の名が出なかったぞ』
「あの場で魔王令嬢の名前を出すと騒ぎになります」
『不満じゃ』
「でも、相談窓口に協力している人たちには含めています」
『ならよい。あとで菓子を要求する』
「結局そこなんですね」
『名誉の問題じゃ』
たぶん違う。
でも、ミュレアらしい。
◇
夕方、生徒会室で簡単な振り返りをした。
外部呼称影響は低下。
ただし、噂による置換は今後も発生しうる。
対策は、正式案内の継続、本人名の確認、相談窓口のチーム性の周知。
ユリアナは最後に、俺を見た。
「レン様。今日はご自分で名乗れましたね」
「はい」
「良い対応でした」
真正面から褒められた。
少し驚く。
「ありがとうございます」
セリカさんがにやにやしている。
「よかったわね、レン」
「はい」
リリアも微笑む。
「レンはレンです」
「はい」
ノエルが短く言う。
「レン・クロフォード。安定」
「診断みたいですね」
「でも大事」
ミュレアも通信越しに言った。
『レン。そなたはレンじゃ。妙な称号に食われるでないぞ』
「はい」
俺は机の上の紙に、自分の名前を書いた。
レン・クロフォード。
今日は、自然に書けた。
それだけで、胸が軽くなる。
噂は、これからも勝手に走るだろう。
良い噂も、悪い噂も。
誰かを褒める言葉でさえ、時に本人の名前を薄くする。
でも、そのたびに名乗ればいい。
俺はレン・クロフォードです、と。
そして、俺一人ではないと伝えればいい。
リリア。
セリカ。
ノエル。
ユリアナ。
ミュレア。
アリシア。
みんなの名前を、ちゃんと呼べばいい。
それが、第四の系統への地味で確かな抵抗になる。
俺は紙の上の名前を見た。
少し歪んでいない。
昨日より、ずっと自然な字だった。




