第63話 魂同調者ではなく、レン・クロフォード
翌朝、俺は自分の名前を書こうとして、手が止まった。
ギルドの客室。
窓からは朝の光が差し込んでいる。
机の上には、昨日の記録用紙。
フィオナ。
レオン。
クララ。
アリシア。
ミュレア。
第四の系統によって揺らぎかけた名前たち。
そして、それぞれが取り戻した名前。
俺はその続きに、自分の名前を書こうとしていた。
レン・クロフォード。
いつもなら、何も考えずに書ける。
なのに、ペン先が紙の上で止まった。
頭では分かっている。
俺はレン・クロフォードだ。
外れスキルでも、危険異能者でも、魂同調者でもない。
まずはレン。
そう何度も確認したはずだった。
なのに。
紙の上に、最初に浮かんだ文字は違った。
――魂同調者。
俺は反射的にペンを離した。
「……冗談だろ」
声がかすれた。
紙には何も書かれていない。
だが、書こうとした瞬間、指先が勝手に別の言葉へ向かいかけた。
魂同調者。
零号資料庫の石碑に刻まれていた言葉。
白、青、黒の均衡を繋ぐ第四の観測者。
好意、信頼、恐れ、絆。
心の向きを読み、力の流れを結ぶ者。
それは、俺の力を説明する言葉かもしれない。
でも、俺の名前ではない。
胸の奥が冷える。
視界に表示が浮かんだ。
レン・クロフォード
状態:動揺、自己認識揺らぎ
名前欠落影響:微弱〜中度
対象:本人名「レン・クロフォード」
置換呼称:「魂同調者」
原因:連続した名称固定補助による自己認識負荷
注意:自分の名前を後回しにし続けています
自分の名前を後回しにし続けている。
その一文が、胸に刺さった。
フィオナの名前を呼んだ。
レオンの名前を確認した。
クララの名前を取り戻した。
アリシア様の名前を呼んだ。
ミュレアの名前を刻むのを手伝った。
そのたびに、俺は自分のことを少しだけ後ろへ置いていた。
いつものことだ。
俺はそうしがちだと、みんなにも言われている。
けれど、それが今、第四の系統に利用されようとしている。
俺はペンを握り直した。
自分の名前を書くだけだ。
レン・クロフォード。
そう書けばいい。
簡単なはずなのに、手が震える。
最初の一文字が、どうしても紙に降りない。
その時、扉が叩かれた。
「レン?」
リリアの声だった。
胸の奥で、何かが少し戻る。
「はい」
返事はできた。
まだ届いている。
扉が開き、リリアが入ってくる。
彼女は俺の顔を見た瞬間、表情を変えた。
「レン、どうしましたか」
「名前が、書けませんでした」
言った瞬間、リリアの顔から血の気が引いた。
けれど彼女は取り乱さなかった。
すぐに俺の前へ来て、机の紙を見る。
何も書かれていない紙。
ペン先の震えた跡だけが、わずかに残っている。
「置換ですか」
「はい。魂同調者、と書きそうになりました」
リリアは小さく息を呑んだ。
それから、俺の手にそっと触れた。
「レン」
「はい」
「レン・クロフォード」
「……はい」
呼ばれるたびに、胸の奥の冷えが少し緩む。
でも、完全には戻らない。
表示はまだ消えない。
名前欠落影響:中度寄り
推奨:信頼対象による呼称確認
推奨:本人筆記
注意:本人が自分を役割として認識しすぎています
リリアは俺の目を見た。
「すぐに皆さんを呼びます」
「大ごとにしたくは」
「大ごとです」
言葉は優しいのに、きっぱりしていた。
「レンが自分の名前を書けないなら、大ごとです」
反論できなかった。
◇
ギルドの小会議室に、全員が集められた。
リリアが呼んだのだ。
セリカさんは寝癖もそのままに駆け込んできた。
ノエルは記録板を持っていたが、いつもの興奮はない。
ユリアナは身支度こそ整っていたものの、明らかに急いできた顔をしていた。
ミュレアは封印室から通信水晶越しに、第一声で怒った。
『レン。そなた、何をやっておる』
「俺もそう思っています」
『自分の名を後回しにするからじゃ』
いきなり核心を突かれた。
セリカさんが俺の前に立つ。
「状態は?」
「名前欠落影響、微弱から中度。対象は本人名。置換呼称は魂同調者。原因は、連続した名称固定補助による自己認識負荷。自分の名前を後回しにし続けている、と出ています」
言い終えると、室内が静かになった。
セリカさんは口を引き結んだ。
リリアは胸元に手を当てている。
ノエルは記録板を持つ手を下ろした。
「……レンが、自分を機能として扱い始めてる」
「機能?」
俺が聞くと、ノエルはいつもよりゆっくり説明した。
「フィオナさんの名前を戻す人。レオンの揺らぎを見る人。クララさんを確認する人。アリシア様の名簿を直す人。ミュレアさんの署名を補助する人。そういう“役割”を優先し続けた結果、レン自身の名前より“魂同調者”という機能名が前に出てきてる」
言われて、胸が痛くなった。
たぶん、そうだ。
俺は、自分が何者かを考えるより先に、何ができるかを考えていた。
誰を助けられるか。
何を見られるか。
どこに危険があるか。
それは悪いことではない。
でも、それだけになったら。
俺自身が、道具になる。
ユリアナが静かに言った。
「これは、非常に危険です。第四の系統が最も狙いたいのは、レン様かもしれません」
「俺を?」
「はい。魂同調者としてのあなたを固定できれば、他者の名前を繋ぐ力そのものを、第四の系統が利用できる可能性があります」
嫌な話だった。
自分の名前が欠けるだけではない。
俺が俺ではなく、魂同調者という機能として固定されたら。
誰かを繋ぐ力が、誰かを消す力に使われるかもしれない。
リリアが首を横に振った。
「させません」
声は静かだった。
でも、強かった。
「レンは、道具ではありません」
セリカさんも言う。
「魂同調者とかいう肩書きが何だろうと、あなたはレンでしょ」
「はい」
「返事が弱い」
「……はい」
「まだ弱い」
セリカさんは俺の両肩を掴んだ。
「レン・クロフォード」
「はい」
「あなたは誰?」
胸が詰まった。
答えるだけだ。
俺はレン・クロフォード。
それだけなのに、喉が動かない。
代わりに、頭の奥で別の言葉が浮かぶ。
魂同調者。
俺は奥歯を噛んだ。
違う。
それは役割だ。
名前じゃない。
言え。
言わなきゃ駄目だ。
「……レン」
かすれた声が出た。
セリカさんは離さない。
「続けて」
「レン・クロフォード、です」
言えた。
途端に、胸の奥の冷えが少しだけ薄れた。
だが、まだ足りない。
名前欠落影響:中度 → 軽度寄り
本人発声:有効
推奨:本人筆記
ユリアナがすぐに紙とペンを差し出した。
「本人筆記を行います。急がずに」
紙が机に置かれる。
俺はペンを持った。
指先がまだ震えている。
リリアが隣に座る。
「レン」
「はい」
「一文字ずつで大丈夫です」
セリカさんが反対側に立つ。
「変な文字を書きそうになったら止める」
「頼もしいです」
ノエルは少し離れて、記録板を閉じた。
閉じた。
そのことに俺は気づいた。
「ノエル、記録は?」
「今はしない」
「いいんですか」
「今のレンは記録対象じゃなくて、友人だから」
友人。
その言葉に、胸の奥がまた少し戻った。
ユリアナも記録板を伏せている。
「必要最低限の結果だけ、後で記録します。今は名称固定が優先です」
ミュレアの声が水晶から響く。
『レン。妾が自分の名を刻んだ時、そなたは呼んでくれたな』
「はい」
『今度は妾が呼んでやる。レン・クロフォード。書け』
命令口調なのに、不思議と温かかった。
俺は紙を見る。
白い紙。
何も書かれていない。
そこに、自分の名前を書く。
ペン先を置く。
レ。
震える。
だが、書けた。
ン。
少し線が曲がった。
クロフォード。
途中で一度、魂同調者という文字が頭に浮かんだ。
セリカさんがすぐに言う。
「レン」
リリアも。
「レン」
ノエルも。
「レン」
ユリアナも。
「レン様」
ミュレアも。
『レン』
声が重なる。
俺は息を吐き、最後まで書いた。
レン・クロフォード。
自分の名前。
紙の上に、少し歪んだ文字で確かに残った。
本人筆記:成功
名称固定:回復
置換呼称「魂同調者」:後退
感情過負荷:中
推奨:休息、信頼対象との通常交流
俺はペンを置いた。
手が震えている。
でも、書けた。
リリアがそっと息を吐いた。
「よかった……」
セリカさんも肩の力を抜く。
「本当に、心臓に悪いわ」
「すみません」
「謝るところじゃない。でも、次からもっと早く言う」
「はい」
ユリアナが静かに言った。
「本件は、名称固定成功。ただし、レン様自身への影響は継続観察が必要です」
「俺も毎朝確認ですね」
「毎朝だけでは足りません」
「え」
「今後、能力使用後には必ず本人名確認を行います」
追加規則ができた。
だが、今回は文句を言えない。
ノエルが頷く。
「能力を使った後に、レンがレンとして戻れているか確認する。必要」
ミュレアも言う。
『当然じゃ。そなたは他人の名ばかり守って、自分を後回しにしすぎる』
「ミュレアに言われると刺さりますね」
『刺しておるからな』
「ひどい」
『必要な痛みじゃ』
反論できなかった。
◇
少し落ち着いた後、俺は休憩室のソファに座らされた。
座らされた、という表現が正しい。
セリカさんに腕を取られ、リリアに背中を押され、ユリアナに「休息は義務です」と言われた。
完全に包囲されている。
ノエルは蜂蜜入りの温かい飲み物を持ってきた。
「糖分」
「ありがとうございます」
「ミュレアさん用の菓子じゃないから大丈夫」
通信水晶の向こうでミュレアが反応した。
『聞き捨てならぬ。妾の菓子は?』
「今日はレンが優先です」
リリアが言う。
『むう。ならば仕方あるまい』
あっさり引いた。
俺は少し驚いた。
「ミュレア、いいんですか?」
『そなたが魂同調者などに固定されたら、妾の外出計画も甘味計画も崩れるからな』
「理由がミュレアらしい」
『それに』
少しだけ間が空いた。
『レンがレンでなくなるのは、気分が悪い』
その声は、思ったより素直だった。
俺は言葉に詰まる。
「ありがとうございます」
『礼より回復せよ』
「はい」
リリアが温かい布を持ってきて、俺の手に巻いた。
「冷えています」
「さっきまで震えていましたから」
「怖かったですか」
リリアの問いは、いつも直球だ。
俺は少し考えて、頷いた。
「怖かったです。自分の名前が出てこないのは、かなり」
「はい」
「自分が何かの役割に上書きされる感じがして……嫌でした」
リリアは静かに聞いていた。
「私も、少し分かります」
「聖女の時ですか」
「はい。リリアではなく、聖女。リアではなく、器。そう呼ばれ続けた時、自分の名前が遠くなりました」
彼女の声は落ち着いている。
でも、その経験の重さは消えない。
「だから、レンにはそうなってほしくありません」
「はい」
セリカさんが隣に座る。
「私も、赤髪の剣士って書かれた時、気分悪かった」
「セリカさんでも?」
「当たり前でしょ。剣を褒められるのは嫌じゃない。でも、それだけにされるのは嫌」
彼女は自分の手を見る。
「剣士だけど、それだけじゃない。セリカって呼ばれた方が、ちゃんと戻れる」
ノエルもぽつりと言った。
「私も、研究科女子だけだと嫌かも」
「ノエルは研究大好きなのに?」
「好き。でも、研究欲だけでできてるわけじゃない。……たぶん」
「たぶんなんですね」
「自信はない」
少し笑いが生まれた。
ユリアナも、静かに言った。
「私も、公爵令嬢生徒会長だけでは困ります」
その言葉に、みんなが彼女を見る。
ユリアナは少しだけ頬を赤くした。
「……何ですか」
「いえ」
俺は首を振る。
「ユリアナ先輩が自分でそう言えるの、いいですね」
「皆様の影響です」
彼女は少しだけ不本意そうに、でも穏やかに言った。
それが少し嬉しかった。
◇
午後、俺の名前欠落未遂は、関係者だけで共有された。
学園全体には伏せる。
理由は簡単だ。
魂同調者という言葉を広めるわけにはいかない。
それ自体が、俺への置換呼称として作用する可能性がある。
ユリアナは新しい規定を追加した。
一、レン・クロフォードの能力使用後は、本人名確認を行う。
二、魂同調者という呼称は、研究記録内でも必要最小限に留める。
三、本人の前でその呼称を反復しない。
四、能力ではなく本人を優先する。
最後の一文を見て、俺は少しだけ黙った。
「能力ではなく本人を優先する」
声に出すと、ユリアナは頷いた。
「必要です」
「ここまで書かれると、なんだか」
「あなたは必要な規則がないと、自分を後回しにします」
強い。
反論できない。
セリカさんが満足そうに言う。
「いい規則ね」
リリアも頷く。
「はい。とても大事です」
ノエルも真面目に言った。
「研究上も、対象が壊れたら意味がない」
セリカさんがノエルを見る。
「言い方」
「……友人が壊れたら嫌だし、意味がない」
「よし」
ノエルは少し照れたように視線を逸らした。
ミュレアが通信越しに笑う。
『レン。そなた、皆に規則で守られる男になったな』
「情けない気もします」
『違う。名を守るには、周りの声が要る。そなたはそれを散々見てきたであろう』
「はい」
『なら、自分にも適用せよ』
その通りだった。
他人には言える。
名前を呼ぶことは強い。
本人が名前を書くことは大事。
肩書きだけで扱ってはいけない。
なら、それを自分にも向けなければいけない。
俺は机の上に置かれた紙を見た。
レン・クロフォード。
少し歪んだ自分の字。
でも、確かに俺の名前だった。
◇
夕方、リリアが提案した。
「今日は、名前確認を兼ねて、短いお茶会をしませんか」
「お茶会?」
俺が聞き返すと、リリアは少し照れたように頷いた。
「はい。重い確認だけではなく、普通に名前を呼び合う時間も必要だと思って」
セリカさんが即座に賛成した。
「いいんじゃない。レンも今日は休ませたいし」
ノエルも頷く。
「通常交流。推奨行動」
「スキルみたいな言い方ですね」
「でも合ってる」
ユリアナも少し考え、頷いた。
「本日の記録整理は最低限に留めます。お茶会への参加は、休息扱いとします」
「休息扱い」
この人らしい。
ミュレアが通信水晶の向こうで言う。
『茶会なら菓子が必要じゃ』
「一品です」
リリアが即答した。
『白き娘! 今日はレンの名が揺らいだのだぞ。祝って二品ではないのか』
「レンの回復が優先です。一品を皆で分けます」
『さらに減った!』
ミュレアの悲鳴に、少し笑ってしまった。
笑えた。
それがありがたい。
お茶会はギルドの小さな休憩室で行われた。
大げさなものではない。
温かい茶。
小さな焼き菓子。
リリアが用意した蜂蜜入りの果実湯。
ノエルが持ち込んだ妙に硬い保存菓子。
ユリアナが「これは栄養補助食品に近いですね」と評価したもの。
通信水晶越しのミュレアは、文句を言いながらも参加している。
アリシア王女も、王宮から少しだけ通信で顔を出してくれた。
『レン様、ご無事でよかったです』
「ありがとうございます、アリシア様」
『今日は、私もお名前を呼ばせてください。レン様』
「はい」
胸の奥が少し温かくなる。
リリアが微笑んだ。
「レン」
「はい」
セリカさんも。
「レン」
「はい」
ノエルも。
「レン」
「はい」
ユリアナも。
「レン様」
「はい」
ミュレアも。
『レン』
「はい」
アリシア王女も、もう一度。
『レン様』
「はい」
何度も呼ばれる。
少し照れくさい。
でも、今はその照れくささがありがたかった。
俺も、一人ずつ名前を呼んだ。
「リリア」
「はい」
「セリカさん」
「はい」
「ノエル」
「はい」
「ユリアナ先輩」
「はい」
「ミュレア」
『うむ』
「アリシア様」
『はい』
名前が行き交う。
ただそれだけ。
でも、俺の中で何かがしっかり結び直されていく。
名称固定:安定
置換呼称「魂同調者」:後退
深層信頼リンク:安定
感情過負荷:低下
推奨:この交流を継続してください
俺は小さく息を吐いた。
「戻りました」
リリアの目が潤む。
「よかった」
セリカさんは少しだけ乱暴に俺の肩を叩いた。
「心配させすぎ」
「すみません」
「だから謝るところじゃない」
ノエルは小さく笑う。
「レンはレン。記録した」
ユリアナがすかさず言う。
「その記録は許可します」
「やった」
ミュレアが通信越しに得意げに言う。
『妾も記録しておこう。レンはレン。甘味は一品では足りぬ』
「後半はいりません」
『重要事項じゃ』
アリシア王女が上品に笑った。
重い一日だった。
自分の名前が書けないなんて、思ってもいなかった。
怖かった。
正直、かなり怖かった。
でも、戻れた。
呼んでくれる人たちがいたから。
自分で書けたから。
俺は魂同調者かもしれない。
でも、それは俺の全部ではない。
俺は、レン・クロフォード。
前世で陰キャで非モテだった記憶を持ち、異世界に転生して、外れスキル扱いされて、それでも誰かの名前を守ろうとしている。
面倒なことばかりだ。
でも、名前を呼ばれるたびに、少しだけ思える。
ここにいていいのだと。
俺は、俺として。




