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第62話 魔王令嬢ではなく、ミュレア・ノクターン

王宮礼拝堂から戻った時、ギルドの地下はいつもより静かだった。


 いや、静かなのは普段からだ。


 地下の封印区画は、もともと人の出入りが少ない。

 厚い石壁と封印扉に囲まれ、外の喧騒はほとんど届かない。


 けれど、その日の静けさは、いつもの静けさとは少し違っていた。


 空気が硬い。


 誰かが息を潜めているような、妙な緊張があった。


「嫌な感じですね」


 俺が呟くと、セリカさんがすぐ横で頷いた。


「同感」


 リリアも胸元に手を添えている。


「ミュレアさんの封印室の方から……少し、冷たい感じがします」


 アリシア王女の祈祷名簿を修復したばかりだ。


 王宮での件は、無事に終わった。


 公的には王女殿下。

 私的な確認ではアリシア様。


 肩書きと名前を両立させる。


 そういう形で、アリシア王女の名前は戻った。


 だからこそ、次に狙われるなら。


 俺たちは薄々、予感していた。


 ミュレア・ノクターン。


 魔王令嬢。

 封印対象。

 古代魔王封印系統の鍵。


 彼女ほど、名前と肩書きの境目が危うい存在はない。


 地下封印室の前には、オルフェさんがいた。


 いつも穏やかな顔をしている彼女が、今日ははっきり焦っている。


「レンさん、皆さん。来ていただけてよかったです」


「ミュレアに何か?」


 俺が尋ねると、オルフェさんは手元の記録板を差し出した。


「封印管理台帳に異常が出ました。直接の危険はまだありませんが……ミュレアさんの項目が」


 見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 台帳の一部。


 本来なら、そこにはこう書かれているはずだった。


 ミュレア・ノクターン。


 封印対象であり、ギルド保護観察下にある魔王令嬢。


 だが、今そこにある文字は違っていた。


 ――魔王封印体。


 名前がない。


 ミュレアでも、ノクターンでもない。


 魔王封印体。


 俺の視界に表示が浮かぶ。


ギルド封印管理台帳

状態:名称置換

対象:ミュレア・ノクターン

置換呼称:魔王封印体

関連:第四の系統

影響:封印対象としての固定強化、本人名の弱体化

注意:放置すると投影体の自律性が低下します


「放置すると、ミュレアの投影体の自律性が下がります」


 俺が言うと、リリアの顔色が変わった。


「自律性が……」


 セリカさんが低く言う。


「つまり、ミュレア本人じゃなくて、ただの封印された魔力として扱われるようになるってこと?」


「たぶん」


 嫌な言い方だが、その通りだと思う。


 第四の系統は、また肩書きへ置き換えてきた。


 それも、ただの肩書きではない。


 ミュレアを「人」ではなく「封印体」として固定しようとしている。


 最悪に近い。


 封印室の内側から、ミュレアの声がした。


『騒がしいぞ。妾はまだ消えておらぬ』


 いつもの声。


 だが、少しだけ遠い。


 俺たちはすぐに封印室へ入った。


     ◇


 ミュレアは、紫水晶の台座の上にいた。


 黒紫の髪。

 気位の高そうな瞳。

 制服風の魔力衣装。

 胸元には、仮学生証型制御具。


 見た目はいつも通りだった。


 しかし、輪郭がわずかに揺れている。


 以前の投影不安定とは違う。


 薄くなるというより、形を誰かに決められようとしているような揺らぎ。


 ミュレアは腕を組み、わざとらしく不機嫌そうな顔をした。


「まったく。王女の次は妾か。第四の系統とやらも、なかなか礼儀を知らぬ」


「ミュレア」


 俺が呼ぶと、彼女はすぐにこちらを見る。


「何じゃ、レン」


 返事はある。


 だが、少しだけ遅れた。


 ほんの一瞬。


 でも、俺には分かった。


ミュレア・ノクターン

状態:強がり、不安、苛立ち

名前欠落影響:軽度〜中度

対象:本人名「ミュレア・ノクターン」

置換呼称:「魔王封印体」

注意:本人は影響を隠そうとしています


「隠そうとしていますね」


 俺が言うと、ミュレアは片眉を上げた。


「何をじゃ?」


「不安です」


「妾が?」


「はい」


「ふん。妾を誰だと思っておる」


「ミュレア・ノクターンです」


 はっきり言った。


 ミュレアは一瞬黙った。


 それから、少しだけ目を逸らす。


「……そうじゃ。妾はミュレア・ノクターンじゃ」


 リリアが一歩前へ出た。


「ミュレアさん」


「何じゃ、白き娘」


「怖いですか」


「直球すぎる」


「はい」


 リリアは引かなかった。


 ミュレアは唇を尖らせる。


「怖くない、と言えば嘘になる」


 その言葉に、封印室の空気が少し変わった。


 ミュレアが、自分から怖いと認めた。


「妾は長く封じられていた。封印対象、魔王令嬢、危険物。そう呼ばれることには慣れておるつもりだった」


 彼女は自分の半透明の手を見下ろした。


「だが、“魔王封印体”とはな。ずいぶんと味気ない。菓子の欠片ほどの情緒もない」


 セリカさんが眉を寄せる。


「こんな時でも甘味基準なのね」


「重い話には甘味が必要じゃ」


「その主張はもう聞いた」


 いつものやり取り。


 でも、ミュレアの声には少しだけ震えが残っている。


「封印体、か」


 ミュレアは低く笑った。


「なるほど。そう記録されれば、妾が何を望むかなど関係なくなる。外へ出たいと言っても、菓子を食べたいと言っても、学園の空を見たいと言っても、封印体が反応しているだけ、と片づけられる」


 俺は何も言えなかった。


 その通りだったからだ。


 人ではなく、現象として扱う。


 名前ではなく、管理対象として扱う。


 第四の系統は、それをやっている。


 だが、怖いのは、そういう扱いが完全な嘘ではないことだった。


 ミュレアは実際に封印されている。

 強大な魔力を持つ。

 危険な存在であることも間違いない。


 でも、それだけではない。


 俺たちは、それを知っている。


 リリアが静かに言った。


「ミュレアさんは、ミュレアさんです」


「白き娘……」


「封印されていても、魔王令嬢でも、甘いものが好きでも」


「最後のは必要か?」


「必要です」


 リリアは真面目だった。


「それもミュレアさんですから」


 ミュレアは目を丸くした。


 そして、少しだけ困ったように笑った。


「そなたは、本当に真面目に変なことを言う」


「変でしょうか」


「変じゃ。だが、悪くない」


 悪くない。


 ミュレア式の高評価だ。


     ◇


 対応は、すぐに始まった。


 ユリアナはギルド封印管理台帳を確認しながら、素早く方針を組み立てた。


「これまでの事例と同じなら、対抗策は三つです。本人名の確認、本人による名称固定、信頼対象による呼称」


「問題は、ミュレアさんが実体の手で書けないことですね」


 オルフェさんが言う。


 ミュレアは投影体だ。


 魔力衣装や仮学生証はあるが、紙に文字を書くような完全な物理干渉はまだ難しい。


 ノエルが目を輝かせる。


「仮学生証型制御具に、本人魔力による署名刻印を入れればいい」


「署名刻印?」


 俺が聞くと、ノエルは早口になりかけ、ユリアナに見られて速度を落とした。


「ミュレアさん自身の魔力で、自分の名前を仮学生証に刻む。物理的な筆記じゃないけど、本人による名称固定として機能する可能性が高い」


 オルフェさんも頷く。


「可能です。ただし、魔力出力を抑えながら行う必要があります。レンさんのリンク補助と、リアさんの安定補助があると安全でしょう」


「妾が自分の名を刻むのか」


 ミュレアは仮学生証を見下ろした。


 黒紫の縁取りが入った銀色のカード。


 学園へ行くための制御具。


 外へ出るための、条件であり保証であり、少しだけ鎖でもあるもの。


 そこに自分の名を刻む。


 それは、彼女にとってかなり大きなことなのだろう。


「よかろう」


 ミュレアは顔を上げた。


「妾の名を、妾が刻んでやる」


 セリカさんが言う。


「調子に乗って出力上げないこと」


「赤き剣姫、そなたは妾を何だと思っておる」


「調子に乗る魔王令嬢」


「正しい」


「認めるのね」


 少しだけ空気が緩む。


 リリアが微笑んだ。


「では、安全に行いましょう。ミュレアさん」


「うむ。白き娘、頼むぞ」


「はい」


 俺は仮学生証の前に立った。


 ミュレアとのリンクに意識を向ける。


 以前より強い。


 けれど、今日は少し揺れている。


 魔王令嬢としての誇り。

 封印対象としての苛立ち。

 名前を奪われる不安。

 そして、自分で名を刻むことへの期待。


 感情が流れ込んでくる。


感情過負荷:低〜中

推奨:短時間補助


「短時間でいきます」


「分かりました」


 リリアが白い聖力をそっと添える。


 アリシア王女も、王宮から通信水晶越しに青い結界印を送ってくれている。


『ミュレア様。こちらも補助します』


「アリシア。そなたの青は相変わらず落ち着くな」


『ありがとうございます』


 王女と魔王令嬢のやり取り。


 これも、もう見慣れてきた。


 ノエルが制御具の刻印面を展開する。


 銀色のカードの上に、淡い空白が浮かび上がった。


「ここに、ミュレアさん自身の魔力で名前を刻んで」


「分かっておる」


「文字はゆっくり。魔力圧を一定に。装飾はあとで」


「なぜ装飾を禁じる」


「最初は安全優先」


「むう」


 やはり装飾する気だった。


 セリカさんが呆れた顔をする。


「名前を刻む時くらい普通にしなさい」


「妾の名は普通ではない」


「今は普通でいいの」


「赤き剣姫まで白き娘のようなことを言う」


 文句を言いつつ、ミュレアは仮学生証へ手をかざした。


 黒紫の魔力が、細い筆のように伸びる。


 最初の一文字。


 ミ。


 ゆっくり、慎重に刻まれる。


 続いて、ュ。


 レ。


 ア。


 ミュレア。


 その四文字が刻まれた瞬間、封印室の空気が少しだけ温かくなった。


 次に、ノクターン。


 彼女は途中で一度息を詰まらせた。


 魔力がぶれかける。


「ミュレア」


 俺が呼ぶ。


「分かっておる」


 リリアも呼んだ。


「ミュレアさん」


「うむ」


 セリカさんも。


「ミュレア」


「赤き剣姫に呼ばれると、負けた気がするな」


「今それ言う?」


 ノエルも。


「ミュレアさん、魔力圧少し下げて」


「注文が細かい」


 ユリアナも、少し緊張しながら言った。


「ミュレア様。記録上も、あなたはミュレア・ノクターン様です」


 アリシア王女も通信越しに。


『ミュレア様』


「……まったく」


 ミュレアは小さく笑った。


「これだけ呼ばれれば、忘れようがない」


 最後の文字が刻まれる。


 ミュレア・ノクターン。


 黒紫の文字が、仮学生証の内側で静かに光った。


本人魔力署名:成功

名称固定:強化

ギルド封印管理台帳の置換影響:低下

投影体自律性:安定


「成功です。名前が固定されました。投影体も安定」


 俺が言うと、リリアがほっと息を吐いた。


 セリカさんも肩の力を抜く。


 ノエルは記録したそうにうずうずしているが、ユリアナの視線で大人しくしている。


 ミュレアは仮学生証を見つめていた。


 いつもの偉そうな顔ではない。


 少しだけ、泣きそうにも見えた。


「ミュレア」


 俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。


「何じゃ、レン」


「ここにいますね」


 ミュレアは一瞬、言葉を失った。


 そして、ふっと笑った。


「当然じゃ。妾はここにおる。封印体などではない」


「はい」


「ミュレア・ノクターンじゃ」


 その声は、はっきりしていた。


     ◇


 次は、ギルド封印管理台帳の修復だった。


 ただし、今度は本体に直接触れない。


 まず、台帳を封印布越しに開き、問題箇所だけを確認する。


 そこにはまだ、魔王封印体という置換呼称が残っていた。


 見ているだけで気分が悪い。


 セリカさんがすぐに言う。


「読み上げない」


「はい」


 ユリアナも記録に番号だけを書く。


「該当箇所、置換呼称確認。復元処理に移行」


 オルフェさんが修復用の筆を用意した。


「台帳への記入は、管理者の私が行います。ただし、本人名の固定補助として、ミュレアさん自身の署名魔力を転写します」


「つまり、ミュレアの仮学生証から台帳へ名前を戻す?」


 俺が聞くと、オルフェさんは頷いた。


「はい」


 ミュレアは腕を組んだ。


「よい。妾の名を、しっかり戻せ」


「もちろんです」


 オルフェさんは慎重に筆を走らせた。


 ミュレア・ノクターン。


 一文字ずつ。


 そのたびに、置換呼称が薄れていく。


 最後に、封印対象という項目が修正された。


 ギルド保護観察対象。


 本人名:ミュレア・ノクターン。


 状態:古代封印下。

 意思確認:可能。

 外出試験:条件付き実施中。


 俺はその文面を見て、少し安心した。


 封印されている事実は消さない。


 危険も消さない。


 でも、本人の意思確認を明記する。


 それは大きな違いだった。


ギルド封印管理台帳

名称修復:成功

第四の系統反応:低下

備考:本人意思確認項目が防御効果を持ちます


「本人意思確認の項目が、防御効果を持っています」


 俺が言うと、ユリアナがすぐに書き留めた。


「重要です。名前だけでなく、本人の意思が記録されていることが対抗策になる」


 ノエルも頷く。


「第四の系統は、人を役割や記号に置換する。だから、意思の記録が効くんだ」


 リリアが静かに言う。


「私はどうしたいのか。そう記録されることが大事なのですね」


 アリシア王女も通信越しに言った。


『王宮記録にも、本人意思確認の項目を追加すべきですね』


 ユリアナが深く頷く。


「学園の相談窓口にも入れます。呼ばれたい名前、嫌な呼び方、本人の希望。三点確認を正式項目に」


 制度がまた進化している。


 だが、今回は必要だ。


 ミュレアは自分の名前が戻った台帳を見て、少しだけ満足そうだった。


「ふむ。悪くない」


「悪くない、いただきました」


 俺が言うと、ミュレアは少しだけ目を細める。


「調子に乗るでない」


「ミュレアほどでは」


「妾は常に乗っておる」


「認めるんですね」


 いつもの調子に戻ってきた。


 よかった。


     ◇


 ひとまず危機が去った後、ギルド地下の休憩室で短い休憩を取ることになった。


 リリアが温かい茶を配り、セリカさんが俺を座らせる。


「レン、座る」


「大丈夫です」


「感情過負荷は?」


「低〜中でした。今は落ちています」


「なら座る」


「はい」


 逆らえなかった。


 ユリアナも椅子に座り、記録板を閉じた。


 偉い。


 ちゃんと休憩している。


 俺が見ていると、彼女が先に言った。


「休憩しています」


「まだ何も言ってません」


「言われる前に言いました」


 成長している。


 ノエルは茶を飲みながら、仮学生証のデータを見たそうにしている。


 ユリアナが無言で見る。


 ノエルは目を逸らした。


「休憩中」


「よろしい」


 この二人も安定している。


 通信水晶から、アリシア王女の声がした。


『ミュレア様、体調はいかがですか』


「悪くない。むしろ、少しすっきりしておる」


『よかったです』


「アリシア。そなたも昨日、名を戻したばかりであろう。無理はするな」


『はい。ありがとうございます』


 王女と魔王令嬢が互いを気遣っている。


 冷静に見ると、かなりすごい光景だ。


 ミュレアは俺へ視線を向けた。


「レン」


「はい」


「妾は今日、少しだけ理解した」


「何をですか」


「名前とは、外から呼ばれるものでもあるが、自分で刻むものでもある」


 ミュレアは仮学生証を指でつついた。


「妾は、妾の名を刻んだ。誰かが封印体と呼ぼうが、管理対象と記そうが、妾はミュレア・ノクターンじゃ」


 その声は、少し誇らしげだった。


 リリアが微笑む。


「はい。ミュレアさん」


 セリカさんも頷く。


「ミュレア」


 ノエルも。


「ミュレアさん」


 ユリアナも丁寧に。


「ミュレア様」


 アリシア王女も通信越しに。


『ミュレア様』


 俺も呼んだ。


「ミュレア」


 彼女は、全員の声を受け止めるように目を閉じた。


 そして、満足そうに言った。


「うむ。妾はミュレアじゃ」


 表示が出る。


ミュレア・ノクターン

名称固定:安定

深層信頼リンク:安定

第四の系統反応:低下

状態:安堵、誇り、照れ隠し


 照れ隠し。


 これは言わない。


 絶対に言わない。


 だが、ミュレアが目を開け、こちらを睨んだ。


「レン。何を見た」


「名称固定が安定しました」


「それだけか?」


「それだけです」


「怪しい」


 セリカさんが笑いをこらえている。


 リリアも微笑んでいる。


 ばれている気がする。


 でも言わない。


     ◇


 その後、ミュレアは当然のように甘味を要求した。


「妾は名を守った。これは祝うべきことじゃ」


 本人はかなり真剣だった。


 リリアも少し考え込む。


「たしかに、大きな出来事でした」


「であろう?」


「ですが、一品です」


「なぜじゃ!」


「体調管理です」


「今日くらい二品でもよかろう!」


 ミュレアが本気で抗議する。


 セリカさんが呆れながら言う。


「名前が戻った直後に甘味で騒げるなら、だいぶ元気ね」


「元気だから二品食える」


「理屈になってない」


 アリシア王女が通信越しに控えめに笑う。


『では、一品を少し特別なものにしてはいかがでしょう』


 リリアが少し考え、頷いた。


「それなら」


 ミュレアの目が輝く。


「王女、そなたは話が分かる!」


『量は一品です』


「そこは譲らぬのか!」


 結局、特別な蜂蜜菓子を一品、ということで決着した。


 ミュレアは不満そうだったが、完全に不満ではなさそうだった。


 むしろ、楽しみにしている。


 名前を取り戻した魔王令嬢が、蜂蜜菓子一品を巡って真剣に交渉している。


 たぶん、これはとても大事な日常だ。


     ◇


 夜、俺は自室で短い記録を書いた。


 第四の系統は、名前を欠落させるだけではない。


 肩書きへ置き換える。

 役割へ固定する。

 本人の意思を消して、管理しやすい記号にする。


 それに対して有効だったもの。


 本人が自分の名前を刻むこと。

 信頼する相手が名前を呼ぶこと。

 記録に本人意思を残すこと。


 フィオナ。

 レオン。

 クララ。

 アリシア。

 ミュレア。


 それぞれの名前が、今日までに守られた。


 まだ完全ではない。


 第四の系統が何なのかも分からない。


 黒い扉は閉じたまま。


 閉じた目は、どこかからこちらを見ている。


 それでも、今日ミュレアは自分の名を刻んだ。


 封印体ではなく。


 魔王令嬢という肩書きだけでもなく。


 ミュレア・ノクターンとして。


 それは、小さくない勝利だった。


 通信水晶が淡く光る。


『レン』


「はい」


『菓子は美味かった』


「よかったです」


『一品では足りぬがな』


「そこは明日も一品です」


『つれない男じゃ』


 いつもの声。


 ちゃんとミュレアの声だった。


『……レン』


「はい」


『今日は、礼を言う』


 珍しい。


 俺は少し驚いた。


「どういたしまして」


『妾はまだ、封印の中におる。だが、封印体ではない』


「はい」


『そこを間違えるでないぞ』


「間違えません」


『ならよい』


 通信が薄れていく。


 最後に、ミュレアは小さく言った。


『おやすみ、レン』


「おやすみ、ミュレア」


 水晶の光が消える。


 静かな部屋に、少しだけ温かい余韻が残った。


 名前を呼ぶ。


 名前を刻む。


 名前を守る。


 たぶん、この戦いはまだ続く。


 でも今夜は、ミュレアがミュレアのままで眠れる。


 それだけで、今日は十分だと思えた。

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