第61話 王女殿下ではなく、アリシアと呼ぶ日
名前確認の運用は、思った以上に学園へ広がっていた。
最初は、生徒会が始めた暫定対応だった。
名札、学生証、出席簿、本人が望む呼び方。
その四つを確認するだけ。
だが、やってみると、そこには想像以上のものが隠れていた。
家名で呼ばれ続け、自分の名が薄れかけたレオン。
嫌な呼び方を笑って受け流していたクララ。
聖女という肩書きに押し込められていたリリア。
封印対象という言葉に閉じ込められたミュレア。
そして、外れスキルだの危険異能者だの魂同調者だの、気づけば肩書きが増えすぎていた俺。
人は、名前で呼ばれない時間が続くと、少しずつ輪郭が薄くなる。
第四の系統は、そこを突いてくる。
だから俺たちは、名前を呼ぶ。
本人が望む呼び方を確かめる。
嫌な呼び名は、嫌だと言える場所を作る。
そんな地味な対策が、思ったより強いことも分かってきた。
ただし、その対策には一つ問題があった。
名前を確認する相手が、王族だった場合である。
◇
その日の午後、俺たちは学園長室へ呼ばれた。
参加者は、俺、リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナ生徒会長。
そして、アリシア王女。
ミュレアはギルド地下から通信水晶で参加している。
学園長室に入ると、アリシア王女はいつものように穏やかな笑みで迎えてくれた。
白と青の外套。
王家の徽章。
整った姿勢。
静かで、気品があり、隙がない。
まさに王女殿下。
そう思った瞬間、俺は少し引っかかった。
王女殿下。
アリシア王女。
殿下。
俺たちは、彼女をどれくらい「アリシア」と呼んできただろう。
ほとんどない。
身分を考えれば当然だ。
王族相手に名前で呼ぶなど、普通は失礼に当たる。
だが、第四の系統は、そういう「当然」の中にある歪みを突いてくる。
俺の視界に、かすかなノイズが走った。
まだ表示ではない。
ただの違和感。
でも、嫌な予感がした。
「レン様?」
アリシア王女がこちらを見た。
「何か見えましたか?」
「いえ、まだ何も。ただ……」
言い淀むと、セリカさんがすぐに横から見てきた。
「レン、顔」
「嫌な予感が少し」
ユリアナが記録板を手にする。
「具体的には?」
「殿下の呼ばれ方です」
部屋の空気が、少し止まった。
アリシア王女は目を瞬かせる。
「私の?」
「はい。王女殿下、アリシア王女、殿下。俺たちはそう呼んでいます。でも、アリシア様ご本人が、どう呼ばれたいかは確認したことがないと思って」
言ってから、自分でもかなり危うい話題だと思った。
王族の呼称は礼儀であり、政治であり、秩序だ。
本人がどう呼ばれたいかだけで決められるものではない。
ユリアナの表情も真剣になる。
「王族の敬称については、学園内でも規定があります。公的場面では殿下とお呼びするのが原則です」
「はい。それは分かっています」
「ですが……」
ユリアナはアリシア王女を見た。
「本人名が肩書きに圧迫される可能性は、今回の第四の系統対策上、無視できません」
アリシア王女はしばらく黙っていた。
怒ったわけではない。
困ったような、少し考えるような顔だった。
「私は、生まれた時から殿下でした」
やがて、静かにそう言った。
「王宮では、アリシアと呼ぶのは家族とごく限られた者だけです。学園では、ほとんどの方が殿下と呼びます。それを不満に思ったことは……ない、と思っていました」
ない、と思っていた。
その言い方が引っかかった。
リリアがそっと聞く。
「今は、少し違うのですか?」
アリシア王女は微笑もうとして、少しだけ失敗した。
「名前確認の話を聞いてから、考えるようになりました。私も、王女という役割で呼ばれることに慣れすぎているのではないかと」
ミュレアの声が通信水晶から響いた。
『人間の王女よ。そなたは王女である前に、アリシアなのであろう?』
王族に向かって、何という直球。
俺はひやっとした。
だが、アリシア王女は怒らなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「ミュレア様は、時々とてもまっすぐですね」
『魔王令嬢じゃからな』
「便利な言葉ですね」
『便利に使っておる』
この二人は、相変わらず妙に相性がいい。
アリシア王女は胸元の徽章に指を添えた。
「王女殿下と呼ばれることは、嫌ではありません。それは私の責任ですから。でも……」
少し間が空いた。
「たまに、自分の名前が遠く感じることはあります」
その瞬間。
俺の視界に表示が出た。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア
名前欠落影響:微弱
対象:ファーストネーム「アリシア」
原因:王女殿下・殿下という肩書き呼称への偏り
注意:公的敬称を否定せず、私的呼称で名称固定してください
「出ました」
俺が言うと、部屋の空気が引き締まった。
ユリアナがすぐに記録する。
「対象は?」
「アリシア様のファーストネーム。影響は微弱です。原因は、王女殿下や殿下という肩書き呼称への偏り。ただし、公的敬称を否定するのではなく、私的呼称で名称固定するのが推奨されています」
「私的呼称……」
アリシア王女が呟く。
セリカさんが腕を組む。
「つまり、式典や授業中は殿下。でも、ここみたいな関係者だけの場では、名前で呼ぶ時間を作るってこと?」
「たぶん、それが一番安全です」
ユリアナも頷いた。
「礼儀と名称固定を両立できます。公的場面では王女殿下。私的協議、関係者間の確認時には、本人の許可を得てアリシア様とお呼びする」
さすがユリアナ。
制度にするのが早い。
アリシア王女は、少しだけ頬を染めた。
「私が、自分で許可するのですね」
「はい」
ユリアナは丁寧に答える。
「本人の意思が重要です」
本人の意思。
その言葉に、アリシア王女は小さく頷いた。
そして、俺たちを見た。
「では……この場では、アリシアと呼んでください」
言った後、彼女は明らかに照れていた。
王女殿下ではなく、アリシア。
それは、思った以上に重く、そして柔らかい言葉だった。
リリアが最初に微笑んだ。
「アリシア様」
アリシア王女の表情が、少し緩む。
「はい」
セリカさんも続けた。
「アリシア様」
「はい、セリカ様」
ノエルが少し考え込んでから言う。
「アリシアさん、は駄目?」
ユリアナが即座に反応する。
「王族への敬称としては不適切です」
「やっぱり?」
「私的場面でも、最低限の敬称は必要です」
アリシア王女がくすりと笑った。
「ノエル様なら、研究中にうっかり呼びそうですね」
「気をつける」
ミュレアが通信越しに言った。
『アリシア』
誰よりも遠慮がなかった。
ユリアナが一瞬固まる。
アリシア王女は、驚いた顔をした後、ふっと笑った。
「はい、ミュレア様」
『うむ。悪くない響きじゃ』
「ありがとうございます」
そして、俺の番が来た。
全員の視線がなぜかこちらへ集まる。
「ええと……アリシア様」
呼んだ瞬間、アリシア王女の瞳が少し揺れた。
「はい、レン様」
胸の奥に、青白い光がやわらかく灯るような感覚があった。
表示が変わる。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア
名前欠落影響:低下
名称固定:有効
王家結界リンク:安定
「下がりました。名称固定、有効です。王家結界リンクも安定」
アリシア王女は、少し安心したように息を吐いた。
「名前で呼ばれることが、こんなに違うとは思いませんでした」
リリアが静かに言う。
「分かります」
その一言は、誰よりも実感がこもっていた。
◇
問題は、そこで終わらなかった。
アリシア王女の名前確認を終えた直後、王宮連絡官が学園長室に駆け込んできた。
息を切らしている。
王女の前で慌てるなど、普通ならかなり失礼だろう。
それでも止まらなかったということは、相当なことが起きたのだ。
「殿下、失礼いたします!」
その呼びかけに、アリシア王女の表情がすっと王族のものへ戻った。
「何がありましたか」
「王宮礼拝堂の祈祷名簿に異常が発生しました。王家祈祷対象者一覧のうち、殿下のお名前だけが……」
連絡官はそこで言葉を詰まらせた。
俺は嫌な予感がした。
「どうなっていますか」
アリシア王女が静かに尋ねる。
連絡官は青ざめた顔で言った。
「“王女殿下”とだけ記され、御名が薄れております」
部屋の空気が凍った。
王宮礼拝堂。
そこは以前、マルクスが危険な儀式を行おうとした場所でもある。
王家祈祷対象者一覧。
そこからアリシアという名だけが薄れている。
つまり、第四の系統の干渉は学園だけではない。
王宮にも届いている。
アリシア王女の顔から、血の気が引いた。
だが、彼女は取り乱さなかった。
「祈祷名簿は封鎖しましたか」
「はい。礼拝堂長が封印布で覆い、王宮結界師が待機しております」
「開示範囲は?」
「最小限に留めています」
「分かりました」
アリシア王女は冷静だった。
冷静すぎた。
俺の視界に表示が出る。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア
状態:動揺、恐怖、王族としての自制
名前欠落影響:再上昇の兆候
注意:公的記録上の名称欠落が本人へ影響し始めています
「アリシア様」
俺は思わず呼んだ。
彼女がこちらを見る。
「はい」
「影響がまた上がりかけています。公的記録上の名前欠落が、本人へ影響し始めているみたいです」
アリシア王女の指が、わずかに震えた。
リリアがすぐに近づく。
「アリシア様」
「……はい」
「ここにいます。アリシア様は、ここにいます」
リリアの声は柔らかいが、強かった。
セリカさんも続ける。
「アリシア様。今は、一人で王女として立たなくていいです」
アリシア王女の瞳が揺れる。
「ですが、王宮で」
「王宮の件は対応します」
ユリアナがきっぱり言った。
「まず、この場で名称固定を強めます。王宮へ向かうのは、その後です。動揺したまま移動すれば、第四の系統に隙を与えます」
この場で王女にそう言えるユリアナは、やはりすごい。
アリシア王女も、それを受け入れた。
「……分かりました」
ミュレアが通信越しに低く言った。
『アリシア。己の名を言え』
命令に近い声だった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
アリシア王女は、ゆっくり息を吸った。
「アリシア・ルミナス・ヴァレンティア」
声が少し震える。
けれど、言えた。
リリアが続ける。
「アリシア様」
「はい」
セリカさんも。
「アリシア様」
「はい」
ノエルも。
「アリシア様」
「はい」
ユリアナも、深く礼をしながら。
「アリシア様」
「はい」
俺も。
「アリシア様」
彼女は俺を見る。
少しだけ、王女ではない顔で。
「はい、レン様」
通信水晶から、最後にミュレアが言った。
『アリシア』
アリシア王女は、小さく笑った。
「はい、ミュレア様」
表示が変わる。
名称固定:強化
名前欠落影響:上昇停止
王家結界リンク:安定化
推奨:王宮礼拝堂記録の修復
「止まりました。次は王宮礼拝堂の記録修復が必要です」
アリシア王女は頷く。
「行きましょう」
声はまだ少し震えていた。
でも、さっきよりずっと強かった。
◇
王宮礼拝堂へ向かう馬車の中は、静かだった。
同行するのは、アリシア王女、俺、リリア、セリカさん、ユリアナ、ノエル。
ミュレアは封印室から通信と制御具を通じて限定参加。
ギルド長ダリウスさんとオルフェさんは、別馬車で封印具を運んでいる。
アリシア王女は窓の外を見ていた。
王都の街並みが流れていく。
普段なら、民が王女の馬車に気づくと頭を下げる。
その光景も、今日は少し違って見えた。
王女殿下。
殿下。
王家の青き結界。
その呼び方の下に、アリシアという一人の少女がいる。
俺たちは、それを忘れかけていたのかもしれない。
「レン様」
アリシア王女が静かに言った。
「はい」
「私、少し怖いです」
その言葉に、リリアがそっと顔を上げた。
セリカさんもアリシア王女を見る。
王女が、怖いと言った。
それは、かなり大きなことだった。
「王宮の祈祷名簿は、幼い頃から当たり前にあるものでした。私の健康、王家の繁栄、民の安寧を祈る場所。そこから名前が薄れるということが、こんなに怖いとは思いませんでした」
「当然だと思います」
俺は言った。
「名前を失いかけるのは、怖いです」
アリシア王女は小さく頷いた。
「でも、先ほど名前を呼んでいただいて……少し戻れました」
リリアが微笑む。
「よかったです、アリシア様」
アリシア王女は、また少しだけ目を潤ませた。
「はい」
ユリアナが静かに言う。
「王宮到着後は、まず名簿の封印状態を確認します。次に、アリシア様ご本人の筆記による名称固定。王家結界印と本人名の再接続。必要なら、レン様の感知補助を限定使用します」
「手順が早いですね」
俺が言うと、ユリアナは少しだけ視線を落とした。
「こうして整理していないと、私も不安になります」
珍しく、彼女が自分の不安を口にした。
ノエルが小さく頷く。
「手順は、不安を置く棚みたいなものだから」
「いい表現ですね」
リリアが言う。
ノエルは少しだけ照れたように目を逸らした。
「たまたま」
ミュレアの声が通信水晶から響く。
『では、妾は棚の上の甘味を要求する』
「今その流れですか」
『重い空気には甘味が必要じゃ』
セリカさんが呆れながら笑う。
「あなた、本当にぶれないわね」
『ぶれぬことも名を守ることじゃ』
「急にもっともらしくする」
少し笑いが生まれた。
アリシア王女も、ほんの少し笑った。
その笑みを見て、俺は少し安心した。
◇
王宮礼拝堂は、以前来た時より静かだった。
高い天井。
白い石の柱。
青い王家の紋章。
祈りの香が薄く漂う空気。
だが、奥の記録台だけは異様だった。
封印布で覆われ、王宮結界師たちが周囲を囲んでいる。
礼拝堂長は青ざめた顔でアリシア王女へ頭を下げた。
「殿下、申し訳ございません」
アリシア王女は一瞬だけ目を閉じた。
それから、静かに言った。
「今は、アリシアと呼んでください」
礼拝堂長が驚く。
「は……?」
「この場の関係者のみです。私の名を固定する必要があります。アリシアと」
礼拝堂長は戸惑った。
当然だ。
王女本人から名前で呼べと言われている。
だが、ユリアナがすぐに補足した。
「公的敬称を否定するものではありません。第四の系統による名称欠落への対処です。記録上、本人希望による私的名称固定として扱います」
「なるほど……」
礼拝堂長は完全には理解していなさそうだったが、状況の重大さは分かったようだった。
彼は深く頭を下げ、慎重に言った。
「アリシア様」
アリシア王女の肩が、少しだけ緩む。
「はい」
それだけで、礼拝堂の空気が少し変わった。
封印布が外される。
王家祈祷名簿が現れた。
厚い青表紙の台帳。
そこに並ぶ王族の名。
国王。
王妃。
王子。
王女。
その中で、アリシア王女の欄だけが不自然だった。
そこには、確かに「王女殿下」と記されている。
だが、アリシア・ルミナス・ヴァレンティアの名が薄い。
墨が消えたわけではない。
名前として、目に入ってこない。
俺の視界に表示が浮かぶ。
王宮祈祷名簿
状態:公的記録上の名称欠落
対象:アリシア・ルミナス・ヴァレンティア
置換呼称:王女殿下
関連:第四の系統
推奨:本人筆記、王家結界印、信頼呼称
「本人筆記、王家結界印、信頼呼称が必要です」
俺が言うと、アリシア王女は頷いた。
「分かりました」
彼女は筆を取った。
だが、その手が少し震えている。
リリアがそっと横に立つ。
「アリシア様」
「はい」
「ゆっくりで大丈夫です」
アリシア王女は微笑んだ。
「ありがとうございます、リリア様」
名前で呼び返した。
リリアの表情も少し柔らかくなる。
アリシア王女は、薄れた自分の名の上に、ゆっくりと筆を重ねた。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア。
一文字ずつ。
王女としてではなく。
自分の手で、自分の名を書く。
書き終えた瞬間、王家の青白い結界印が淡く光った。
台帳の上に、小さな青い冠の紋章が浮かぶ。
だが、まだ完全ではない。
名称固定:進行中
信頼呼称が必要です
「名前を呼んでください」
俺が言うと、リリアがすぐに声をかけた。
「アリシア様」
「はい」
セリカさんも。
「アリシア様」
「はい」
ノエルも。
「アリシア様」
「はい」
ユリアナが少し背筋を伸ばす。
「アリシア様」
「はい、ユリアナ様」
俺も呼んだ。
「アリシア様」
彼女はこちらを見る。
「はい、レン様」
通信水晶から、ミュレアが最後に言う。
『アリシア』
アリシア王女は、少しだけ笑った。
「はい、ミュレア様」
その瞬間、台帳の文字がはっきりと戻った。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア。
青い光が礼拝堂に広がる。
名称固定成功
王家祈祷名簿:修復
第四の系統反応:低下
王家結界リンク:安定
「戻りました」
俺が言うと、礼拝堂にいた者たちが一斉に息を吐いた。
アリシア王女も、筆を置き、胸元に手を当てた。
「……戻れました」
その声は、とても小さかった。
でも、確かにアリシア本人の声だった。
◇
王宮礼拝堂での対応後、アリシア王女はしばらく礼拝堂の椅子に座っていた。
王族としての報告は、王宮連絡官とユリアナが整理している。
ノエルは記録したい気持ちを抑えつつ、必要最低限だけをまとめていた。
リリアとセリカさんはアリシア王女のそばにいる。
俺も少し離れて立っていた。
アリシア王女は、ぽつりと言った。
「私は、王女殿下です」
「はい」
俺が答える。
「それは、捨てたいものではありません。民を守る責任も、王家の結界も、私にとって大切なものです」
「はい」
「でも、私はアリシアでもあるのですね」
その言葉に、リリアが微笑んだ。
「はい。アリシア様」
アリシア王女は、少し照れたように笑った。
「慣れるまで、少し時間がかかりそうです」
セリカさんが言う。
「私たちも、場面を間違えないようにしないとね」
「そうですね。公的には殿下、私的確認ではアリシア様」
俺が言うと、アリシア王女は少し笑った。
「ユリアナ様のような整理ですね」
「影響されてますね」
そのユリアナが、少し離れたところでこちらを見ていた。
俺と目が合うと、彼女は真面目な顔で言った。
「整理は大事です」
「はい」
ミュレアが通信水晶越しに言う。
『肩書きは鎧。名は中身。どちらも要る。だが、鎧だけでは歩けぬ』
アリシア王女は、その言葉を静かに受け止めた。
「覚えておきます、ミュレア様」
『うむ。妾の言葉は価値がある』
「はい」
「そこで素直に肯定すると、ミュレアが調子に乗ります」
俺が言うと、ミュレアが即座に返した。
『もう乗っておる』
「早い」
礼拝堂に小さな笑いが生まれた。
重い出来事の後でも、こうして笑える。
やはり、それは大事だと思った。
◇
帰りの馬車で、俺は窓の外を見ながら考えていた。
第四の系統は、少しずつ対象を広げている。
フィオナの名札。
メニュー札。
クララの掲示板。
レオンの家名偏重。
そして、アリシア王女の祈祷名簿。
名前の欠落。
肩書きへの置換。
公的記録の歪み。
これは、ただの怪異ではない。
人が人をどう呼び、どう記録し、どう扱うか。
そこに入り込むものだ。
怖い。
派手な魔物より、ずっと怖い。
でも、対抗策も見えてきた。
本人が自分の名を書く。
信頼する相手が名前を呼ぶ。
肩書きと名前を両立させる。
嫌な呼び方を拒否できる場を作る。
地味だ。
本当に地味だ。
でも、その地味さが強い。
アリシア王女が、馬車の中で静かに言った。
「レン様」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「俺だけではありません」
「はい。皆様に」
彼女は少しだけ迷ってから、続けた。
「でも、最初に気づいてくださったのはレン様です」
「たまたまです」
「たまたまでも、救われました」
そう言われると、少し照れる。
セリカさんが横でにやっとする。
「レン、褒められてるわよ」
「分かっています」
リリアも微笑んでいる。
ノエルは小声で言った。
「王女殿下ではなくアリシア様。重要なケース」
ユリアナがすぐに訂正する。
「記録上は、王族呼称と本人名の両立事例です」
「それ」
ノエルは頷いた。
ミュレアが通信越しに言う。
『難しく言わずともよい。アリシアはアリシアであり、王女でもある。それだけじゃ』
アリシア王女は、柔らかく笑った。
「はい。私は、アリシアです。そして、王女でもあります」
その声は、行きの馬車より少しだけ強かった。
俺の視界に表示が浮かぶ。
アリシア・ルミナス・ヴァレンティア
名称固定:安定
王家結界リンク:安定
状態:疲労、安堵、わずかな照れ
わずかな照れ。
そこは言わないでおく。
言えばたぶん、王女殿下でも困る。
俺は窓の外を見た。
王宮から学園へ戻る道。
夕方の光。
重い一日だった。
でも、また一つ守れた。
王女殿下ではなく、アリシア。
その名前を。




