第60話 肩書きだけで呼ばれると、人は少しずつ薄くなる
名前確認の運用が始まってから、王立学園の空気は少し変わった。
最初は、みんな戸惑っていた。
朝から生徒会役員に名札と学生証を確認されるのだから、当然だ。
だが二日も経つと、学生たちは意外と慣れ始めた。
「今日は正式名でお願いします」
「いつもの愛称で大丈夫です」
「あ、そのあだ名は嫌なので、こっちで」
「家名じゃなくて、名前の方で呼んでもらえますか」
そういう声が、少しずつ出るようになった。
ユリアナ生徒会長は、それを一つずつ記録している。
記録板の文字は細かく、分類は正確で、見ているだけで少し胃が痛くなるほど整っていた。
「ユリアナ先輩、本当に仕事が早いですね」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「必要なことですので」
「でも、ちゃんと休んでますか」
「休んでいます」
「本当に?」
「本当に」
即答だった。
表示を確認すると、確かに過労表示は出ていない。
ユリアナ・フォン・グランベル
状態:集中、軽度疲労
備考:休息管理は改善傾向です
「改善傾向です」
俺が言うと、ユリアナは小さく息を吐いた。
「また見ましたね」
「はい」
「……まあ、今回は許します」
「許された」
セリカさんが横で笑った。
「完全にお互い様になってきたわね」
「そうですね」
リリアも少し嬉しそうに頷いた。
名前確認は、第四の系統への対策だった。
だが、それだけではなかった。
相談窓口に来る学生たちの多くが、名前や呼ばれ方に何かしらの悩みを持っていたのだ。
姉と比べられるから家名で呼ばれたくない子。
家を背負うために、あえて家名で呼ばれたい子。
嫌なあだ名を笑って受け流していた子。
正式名が長すぎて、いつも雑に略されていた子。
幼い頃の呼び名を、もうやめてほしいと言えなかった子。
名前は、ただの文字ではなかった。
呼ばれ方は、周囲との距離そのものだった。
そのことに、俺たちは今さら気づかされていた。
◇
昼前。
生徒会掲示板の前で、少し騒ぎが起きた。
最初に気づいたのは、ノエルだった。
彼女は廊下を歩きながら、急に足を止めた。
「変」
「何がですか」
俺が聞くと、ノエルは掲示板を指さした。
そこには、学園内の委員会名簿や、課程別連絡事項が貼られている。
普通の掲示板だ。
いや、普通ではなかった。
委員会名簿の一部に、名前ではなく肩書きだけが書かれていた。
生徒会書記補佐。
治癒術科白髪の子。
剣術課程赤髪の剣士。
外れスキルの功労者。
魔道具好きの研究科女子。
公爵令嬢生徒会長。
俺はぞっとした。
名前がない。
そこにあるのは、役割や特徴だけだった。
「……これは」
リリアが息を呑む。
セリカさんの表情が一気に険しくなった。
「私のこと、赤髪の剣士って書いてあるわね」
「俺は外れスキルの功労者です」
「最悪ね」
「はい。最悪です」
ユリアナが掲示板へ近づき、すぐに周囲へ指示した。
「掲示板周辺から距離を取ってください。生徒会役員は通行整理を。ノエル様、直接触れないでください」
「触らない。見てる」
「見るのも短時間で」
「分かってる」
ノエルが素直に従う時点で、かなり不穏だった。
俺の視界に表示が浮かぶ。
生徒会掲示板
状態:名称置換
影響:軽度〜中度
関連:第四の系統
内容:固有名の一部が肩書き・特徴へ置換されています
注意:置換後の呼称を繰り返さないでください
「名前が肩書きに置き換わっています。第四の系統反応。置換後の呼称を繰り返すのは禁止です」
ユリアナは即座に頷いた。
「掲示物を封印します。全員、書かれた呼称を読み上げないように」
その声は冷静だったが、指先に力が入っていた。
無理もない。
彼女自身も「公爵令嬢生徒会長」と書かれている。
ユリアナ・フォン・グランベルではなく。
公爵令嬢生徒会長。
それは、彼女がずっと背負ってきたものでもある。
だが、彼女そのものではない。
リリアは小さく呟いた。
「私も……名前ではなく、特徴で」
白髪の子。
それは、リリアの姿を指している。
でも、リリアではない。
俺は胸の奥が嫌な感じでざわつくのを感じた。
外れスキルの功労者。
功労者という言葉が混じっているぶん、悪意だけではないのが余計に嫌だった。
褒め言葉や評価も、名前を消すことがある。
その事実が突きつけられているようだった。
セリカさんが俺の横に立った。
「レン」
「はい」
「私はセリカ」
「はい。セリカさんです」
「あなたはレン」
「はい」
リリアも続けた。
「私はリリアです」
「はい。リリアです」
ノエルが記録板を閉じて言った。
「私はノエル。研究科女子ではなく、ノエル・アシュフォード」
ユリアナは少しだけ息を吸った。
「私は、ユリアナ・フォン・グランベルです」
その声が、掲示板の前で静かに響いた。
すると、掲示板の文字がわずかに揺れた。
置換された呼称の輪郭が、少し薄くなる。
名称固定効果:発生
第四の系統反応:微弱低下
「効果あります。名前を呼ぶと、反応が下がっています」
俺が言うと、ユリアナはすぐに判断した。
「では、本人確認を行います。ただし、大声で騒がず、一人ずつ。自分の名前を確認できる者は、静かに名乗ってください」
生徒会役員が掲示板周囲の学生を誘導する。
不安そうに見ていた学生たちが、少しずつ自分の名前を口にする。
「ミーナ・アルレットです」
「カイル・メルンです」
「マリベル・ロウです」
「エリナ・ファスです」
名前が戻っていく。
掲示板の文字が、少しずつ薄れていく。
だが、一ヶ所だけ、反応が強く残った。
委員会名簿の端。
そこには、こう書かれていた。
――成績二位の補欠。
誰のことか、一瞬分からなかった。
だが、その下にあったはずの名前が完全に消えている。
肩書きだけが残っていた。
ユリアナが眉を寄せる。
「この位置は……図書委員補佐の欄です。該当者は、たしか」
その時、背後から小さな声がした。
「……私です」
振り返ると、そこに女子生徒が立っていた。
細い銀茶色の髪を三つ編みにした、眼鏡の少女。
制服はきちんと着ているが、袖を握る手が震えている。
リリアが優しく声をかけた。
「お名前を教えていただけますか」
少女は口を開いた。
だが、声が出ない。
唇が震える。
何かを言おうとしているのに、名前だけが喉に引っかかっている。
俺の視界に表示が走った。
対象生徒
名前欠落影響:中度
本人認識:不安定
置換呼称:「成績二位の補欠」
注意:本人が名前を言えなくなりかけています
中度。
フィオナやレオンより重い。
「本人が名前を言えなくなりかけています」
俺が言うと、空気が固まった。
ユリアナがすぐに問いかける。
「出席簿確認。図書委員補佐、この位置の生徒は?」
近くの生徒会役員が慌てて名簿を確認する。
「……クララ・メイフィールドさんです」
クララ。
その名前を聞いた瞬間、少女の肩が大きく震えた。
リリアがすぐに近づく。
「クララさん」
少女の目から、涙がこぼれた。
「……はい」
返事があった。
まだ届く。
セリカさんが掲示板の方を見ないようにしながら言う。
「クララ。座れる?」
「はい……」
ノエルが小声で言った。
「置換呼称がきつい。成績二位の補欠。名前じゃなくて、誰かと比べた評価になってる」
ユリアナの表情が険しくなった。
「クララさん。あなたは、この呼ばれ方をされたことがありますか」
クララは俯いた。
しばらく黙っていたが、小さく頷いた。
「あります」
声が震えている。
「私は、ずっと学年二位で。一位の子がすごく優秀で、私はいつも……二番目で。図書委員も、本当はその子が選ばれるはずだったんです。でも辞退したから、私が補佐に入って」
彼女は袖を握りしめた。
「それで、冗談で言われました。二位の補欠って。みんな笑っていたから、私も笑った方がいいと思って」
笑った方がいい。
嫌でも、傷ついても、冗談に合わせる。
そうしているうちに、自分の名前より先に、嫌な呼ばれ方が染み込んでしまったのだろう。
第四の系統は、そこを突いた。
嫌なところを、正確に。
リリアの目が悲しそうに揺れた。
「クララさん。嫌だったのですね」
クララは涙をこぼした。
「嫌でした。でも、そんなことで傷つくのは、私が小さい人間だからだと思って」
「違います」
リリアははっきり言った。
「嫌な呼ばれ方をされて傷つくのは、当然です」
クララが顔を上げる。
リリアは続けた。
「あなたは、補欠ではありません。二位という順位だけでもありません。クララ・メイフィールドさんです」
その名前が、静かに響いた。
クララの涙がさらにこぼれる。
俺の表示が変わる。
クララ・メイフィールド
名前欠落影響:中度 → 軽度
信頼呼称:有効
注意:本人による名称再確認が必要
「影響が下がりました。次は、本人が自分の名前を言う必要があります」
ユリアナがすぐに頷く。
「クララさん。急がなくて大丈夫です。あなた自身の名前を、言える範囲で言ってください」
クララは何度か息を吸った。
唇が震える。
そして、かすれた声で言った。
「クララ……」
そこまでで詰まる。
セリカさんが静かに言う。
「大丈夫。もう一度」
ノエルも、今日は記録板を下げたまま言った。
「急がなくていい」
リリアが微笑む。
「クララさん」
クララは涙を拭った。
「クララ・メイフィールド、です」
その瞬間、掲示板の「成績二位の補欠」という文字が、音もなく崩れた。
代わりに、薄く名前が戻る。
クララ・メイフィールド。
完全ではない。
だが、読める。
名称固定成功
第四の系統反応:低下
対象:安定傾向
俺は息を吐いた。
無事だった。
少なくとも、今は。
◇
掲示板は、封印布で覆われた後、掲示物ごと回収された。
閉架異常物件・第四号。
名称置換掲示物。
今回はかなり大きな事例だった。
人の名前を、特徴や肩書きや傷ついた呼び方へ置き換える。
第四の系統は、日常の中にある悪意や無自覚な言葉を利用している。
そのことが、はっきりした。
クララはリリアとユリアナに付き添われ、相談室へ移動した。
俺たちも後から合流した。
彼女は少し落ち着いていたが、まだ肩は震えている。
「私、ずっと平気なふりをしていました」
クララは小さく言った。
「二位でもすごいじゃないって言われるのも、補欠でも選ばれたならいいじゃないって言われるのも、嫌じゃないふりをしていました。でも、本当は……名前で呼んでほしかった」
その言葉に、リリアが頷く。
「はい」
「クララって呼ばれたかった」
「はい。クララさん」
リリアが呼ぶと、クララはまた泣いた。
でも、それはさっきより少し穏やかな涙だった。
ユリアナは記録板を閉じた。
「この件は、いじめや悪意の有無とは別に、呼称による苦痛として扱います。関係者への聞き取りは行いますが、クララさんの同意なく詳細を広めることはありません」
「ありがとうございます」
クララは頭を下げた。
セリカさんが少し強い声で言った。
「冗談のつもりでも、本人が嫌ならやめる。それだけよ」
「はい」
クララは頷いた。
俺は彼女を見る。
名前は戻りつつある。
ただ、心の傷は一瞬では戻らない。
それでも、今日、彼女は自分の名前を言えた。
それは大きい。
◇
昼休みの中庭で、俺たちは少しだけ休憩した。
さすがに朝から重かった。
ノエルは珍しく、焼き菓子を手にしたまま何も書いていない。
「記録しないんですか?」
俺が聞くと、ノエルは少し考えてから言った。
「あとで書く。今書くと、クララさんの涙を分類しそうだから」
「それは……」
「よくないでしょ」
「はい」
ノエルも変わってきている。
研究者としての好奇心は強い。
でも、人を記録だけにしないように踏みとどまっている。
ユリアナは静かに果実茶を飲んでいた。
「名前確認を広げて正解でした」
「はい」
俺は頷いた。
「でも、広げたからこそ出たとも言えます」
「それでも、出てよかったのです」
ユリアナは言った。
「隠れたまま深くなるより、早く見つけた方がいい。ギルド長の言葉を借りれば、見つけて、広げず、処理できたなら勝ちです」
「成功判定ですね」
「はい」
少しだけ笑った。
セリカさんが俺にパンを渡す。
「食べなさい」
「食べています」
「考え始めると手が止まる」
「ばれてますね」
「ばれてる」
リリアも隣で言う。
「レンも、名前で呼ばれたい時は言ってくださいね」
「俺ですか?」
「はい。外れでも、魂同調者でもなく、レンと呼んでほしい時は」
胸の奥が少し温かくなった。
「今も、そう呼ばれていますよ」
「では、これからも」
「はい」
通信水晶からミュレアが入ってくる。
『レン、妾も呼んでやろう』
「さっきも呼ばれました」
『何度でも呼べばよい。名は呼ばれて強くなる』
「ミュレアらしくないくらい真面目ですね」
『妾は常に真面目じゃ』
セリカさんが小声で言う。
「甘味の時もね」
『赤き剣姫、聞こえておるぞ』
「聞こえるように言ったのよ」
いつものやり取り。
重い一日の中に、少し笑いが戻る。
それがありがたかった。
◇
放課後。
クララがもう一度相談室に来た。
今度は一人ではなく、図書委員の先輩と一緒だった。
先輩は気まずそうな顔で頭を下げた。
「クララさん。ごめんなさい。私、冗談のつもりで言ってた。二位の補欠って。そんなに嫌だったなんて、ちゃんと考えてなかった」
クララは少し震えた。
でも、逃げなかった。
「嫌でした」
はっきり言った。
「私は、クララって呼んでほしかったです」
先輩は唇を噛み、もう一度頭を下げた。
「ごめんなさい、クララさん」
クララの目が潤む。
けれど、今度は名前を呼ばれた涙だった。
「はい」
それだけのやり取りだった。
でも、その場にいた全員が、それを大事な一歩だと感じていた。
俺の視界に表示が浮かぶ。
クララ・メイフィールド
名前欠落影響:ほぼ解消
状態:緊張、安堵
備考:本人が嫌だった呼称を拒否できました
俺は小さく息を吐いた。
第四の系統が利用した傷が、少し塞がった。
完全ではない。
でも、少し。
この少しを積み重ねるしかないのだろう。
◇
夕方、名前確認の記録をまとめ終えたユリアナが言った。
「今日の件で、対策方針がはっきりしました」
「方針?」
「第四の系統は、名前そのものを奪うだけでなく、本人を肩書きや評価に置換する形でも干渉する。対抗策は、本人が望む名前を確認し、その名前で呼ぶこと。さらに、嫌な呼称を拒否できる場を作ることです」
ノエルが頷く。
「かなり人間関係寄りの対策だね。魔法障壁だけでは防げない」
リリアが静かに言う。
「でも、相談窓口ならできます」
セリカさんも頷く。
「嫌な呼び方をやめろって言うのも、立派な防御ね」
俺はその言葉を聞きながら、朝の掲示板を思い出した。
外れスキルの功労者。
赤髪の剣士。
白髪の子。
公爵令嬢生徒会長。
成績二位の補欠。
どれも、完全な嘘ではない。
でも、名前ではない。
人を一つの特徴や評価に押し込める呼び方は、時に名前を薄くする。
第四の系統は、そこを狙う。
なら、こちらは名前を呼ぶ。
本人が選び直した名前を、何度でも。
ミュレアが通信越しに、少し満足そうに言った。
『少しずつ見えてきたな、レン』
「はい」
『名を守る戦いじゃ。派手さはないが、厄介で、そして重要じゃ』
「ミュレアが言うと説得力がありますね」
『もっと褒めよ』
「そこはいつも通りですね」
みんなが少し笑った。
その笑いの中で、俺は自分の名前を心の中で確認した。
レン・クロフォード。
外れスキルでも、危険異能者でも、魂同調者でもなく。
まずは、レン。
そう思った瞬間、視界に小さな表示が浮かぶ。
名称固定
レン・クロフォード:安定
深層信頼リンク:安定
第四の系統反応:低下
俺は少しだけ笑った。
名前を守ることは、思ったより強い。
そして、思ったより難しい。
でも、今日のクララのように、自分の名前を言える人が一人でも増えるなら。
この面倒な戦いにも、意味があるのだと思えた。




