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第57話 名前のない夕食と、消えた分類札

 夕食は、ギルド併設の食堂で取ることになった。


 王立学園からギルドへ戻る頃には、空はすっかり茜色から藍色へ変わっていた。

 通りには夜市の灯りが増え、焼いた肉の匂いと、香草を煮込む匂いが混ざって流れてくる。


 黒表紙の本。

 閉じた目の印。

 扉の欠片。

 第四の系統。


 考えればいくらでも重くなる。


 けれど、セリカさんが言った。


 普通を強くする。


 だから、俺たちは夕食を食べる。


 何もなかったふりをするのではなく、何かがあったからこそ、温かいものを食べる。


「で、結局何を食べるの?」


 セリカさんが食堂の入口で聞いた。


「俺は、温かい煮込みで」


「無難ね」


「今日は無難がいいです」


「それは分かる」


 リリアは少し考えてから、魚と根菜のスープを選んだ。


「身体が温まりそうなので」


「リリアらしいですね」


「そうでしょうか」


 リリアは少しだけ笑った。


 ノエルはメニュー札を見ながら、真剣な顔をしている。


「糖分と塩分とたんぱく質のバランスを考えると……」


「研究じゃなくて夕食よ」


 セリカさんが言うと、ノエルは無表情で返した。


「夕食も身体管理」


「それ、ユリアナが言いそう」


「影響を受けたかもしれない」


 そのユリアナは、きっちり食堂の席数と混雑状況を確認していた。


「この時間帯は、ギルド職員と冒険者が重なりますね。奥の席を使えば、周囲への影響は少ないかと」


「夕食でも動線確認するんですね」


 俺が言うと、ユリアナは少しだけ目を逸らした。


「癖です」


「分かります」


「分からなくていいところです」


 そう言いながらも、以前より表情が柔らかい。


 過労型完璧主義の生徒会長は、少しずつ自分が休むことも覚え始めている。


 ……たぶん。


 通信水晶から、ミュレアの声がした。


『レン。妾の甘味は?』


「まず夕食です」


『妾は夕食より甘味がよい』


「リリア」


 俺が助けを求めると、リリアは即座に水晶へ向かって言った。


「ミュレアさん、今日は蜂蜜焼き菓子を一品です。夕食代わりにはなりません」


『白き娘、そなたはどこまでも手強いな』


「体調管理です」


『その言葉、強すぎる』


 ミュレアは不満そうだったが、完全に拒む様子はない。


 最近、彼女はリリアの「体調管理」にかなり弱い。


 魔王令嬢に勝てる治癒師。


 字面だけ見ると、とんでもない。


 俺たちは奥の席に座った。


 ギルドの食堂は学園の食堂よりずっと賑やかだ。


 冒険者たちの声。

 食器が触れ合う音。

 職員が注文を通す声。

 誰かが今日の依頼の愚痴を言い、別の誰かが笑う。


 普通の夜。


 少し騒がしくて、温かい普通。


 俺はその音に、少し安心した。


 その時だった。


 食堂の壁にかかったメニュー札の一つが、ふっと揺れた。


 風はない。


 けれど、木の札が小さく震えた。


 俺は反射的に視線を向ける。


 そこには、今日のおすすめ料理が書かれているはずだった。


 煮込み。

 焼き魚。

 香草パン。

 豆のスープ。


 その中の一つだけ、文字が抜け落ちていた。


 いや、消えたわけではない。


 墨の跡はある。


 けれど、読めない。


 文字が、名前として結ばれない。


 俺の視界に表示が浮かぶ。


食堂メニュー札

状態:一部名称欠落

影響:微弱

関連:第四の系統

注意:欠落した名称を無理に読まないでください


「……またか」


 思わず呟いた。


 セリカさんがすぐに反応する。


「何?」


「メニュー札の一つ、名前が欠けています。第四の系統の微弱反応」


 その瞬間、食卓の空気が変わった。


 ノエルが顔を上げる。


 ユリアナが手元の記録板に伸ばしかけた手を、途中で止めた。


 リリアは静かに周囲を見る。


「誰か、気づいていますか?」


 食堂の冒険者たちは普通に話している。


 職員も慌てていない。


 どうやら、今のところ俺たち以外は気づいていないらしい。


 ミュレアの声が通信水晶から低く響く。


『読もうとするな』


「はい」


『その欠けた名を埋めようとすると、扉に触れるぞ』


 言い方が怖い。


 俺はメニュー札から視線を外した。


 セリカさんも、見ないようにしながら言う。


「名前が消えるってこと?」


「消えるというより、読めない。名前として認識できない感じです」


 ノエルが声を落とす。


「黒表紙の本の時と同じ。“名を呼ぶな”の逆方向だね。呼ぶなと言われたものが、今度は名前を欠落させてる」


 ユリアナは周囲へ視線を走らせた。


「現時点で混乱はありません。局所的な反応と見ます。レン様、その札に危険度は?」


「低いです。ただし、無理に読まないこと」


「分かりました」


 ユリアナは立ち上がり、食堂の職員を呼んだ。


 ただし、第四の系統などとは言わない。


「すみません。あちらのメニュー札、墨が滲んでいるようです。念のため外していただけますか」


 自然だった。


 あまりにも自然で、俺は少し感心した。


 食堂職員は「あ、本当ですか?」と言いながら近づき、札を外す。


 その職員が文字を読もうとした瞬間、ユリアナがすっと前へ出た。


「こちらで確認します。触れずに布で包んでください。墨移りがあるかもしれません」


「あ、はい。分かりました」


 職員は疑いもせず、布で札を包んだ。


 ユリアナは礼を言い、札を直接見ないようにしながらテーブルの端へ置かせた。


 処理が早い。


 しかも、食堂の空気を乱していない。


 これが生徒会長か。


「ユリアナ先輩、すごいですね」


「大ごとにしないことも管理の一つです」


 彼女は平然と言った。


 だが、手元の指が少しだけ硬い。


 怖くないわけではないのだろう。


 リリアがそっと言った。


「ありがとうございます」


 ユリアナは小さく頷いた。


「今は、食堂全体を不安にさせない方がよいと判断しました」


「正しいと思います」


 俺も頷く。


 普通を守る。


 こういうことなのだろう。


     ◇


 料理は普通に運ばれてきた。


 温かい煮込み。

 魚と根菜のスープ。

 香草パン。

 ノエルが選んだ、豆と肉の厚切り煮込み。


 テーブルの上には湯気が立つ。


 だが、俺たちは少しの間、誰も手をつけなかった。


 メニュー札は布に包まれたまま、テーブルから少し離した椅子の上に置かれている。


 危険度は低い。


 でも、食事のすぐ横に第四の系統関連の異常物があるというのは、かなり落ち着かない。


「別室へ移しますか」


 俺が言うと、ユリアナは首を横に振った。


「ギルド長へ連絡済みです。封印担当者が来るまで、私が管理します」


「夕食中なのに」


「夕食中でも、管理対象は管理対象です」


「食べられますか?」


 リリアが心配そうに聞くと、ユリアナは一瞬だけ固まった。


「食べます」


 その返答が、妙に強かった。


 セリカさんが少し笑う。


「いいわね。食べるって言い切った」


「食事を抜くと判断力が落ちると、皆様に何度も言われましたので」


「ちゃんと覚えてる」


「はい」


 ユリアナは真面目な顔でスープを口にした。


 それを見て、俺たちもようやく食べ始めた。


 煮込みは温かかった。


 根菜が柔らかく、肉はよく煮込まれていて、香草の匂いが疲れた頭にじんわり染みる。


 黒い本。

 閉じた目。

 名前の欠けた札。


 不穏なものはある。


 でも、煮込みは美味しい。


 その事実に、少し救われた。


「普通を強くするって、こういうことなんですね」


 俺が言うと、セリカさんが頷いた。


「そう。怖いものの横でも、ちゃんと温かいものを食べる」


「かなり難易度が高いです」


「慣れなさい」


「慣れたくはないです」


「でも、必要になるでしょ」


 否定できなかった。


 リリアはスープを飲みながら、少しだけ目を伏せていた。


「名前が欠ける、というのは……嫌ですね」


「リリア」


「名前を呼ばれないことも、奪われることも、どちらも怖いです」


 彼女の声は静かだった。


 リリア・セレスティア。


 かつて教会に名を奪われかけた少女。


 その彼女にとって、「名前が欠ける」という現象は、俺たち以上に重く響くのだろう。


 ミュレアも通信越しに言った。


『名は魂の取っ手じゃ』


「魂の取っ手?」


『うむ。誰かを呼ぶ時、人はその名を掴む。名があれば、相手に届く。だが、名が欠ければ掴めぬ。逆に、呼んではならぬ名を掴めば、掴んだ側が引きずられる』


 食卓が静かになる。


 ノエルが記録したそうにしている。


 ユリアナも同じ顔をしている。


 ミュレアは得意そうに続けた。


『妾の言葉は価値があるぞ』


「分かりました。記録します。ただし食後に」


 ユリアナが言うと、ミュレアは少し驚いたようだった。


『食後?』


「今は食事中です」


『生徒会長、そなたも強くなっておるな』


「皆様の影響です」


 ユリアナが普通にそう言ったので、俺は少し驚いた。


 以前の彼女なら、そんなことは言わなかった気がする。


 ノエルが小さく笑う。


「いい傾向」


「ノエル様も、食後に記録です」


「はい」


 ちゃんと返事をした。


 これもいい傾向だ。


     ◇


 食後、布に包まれたメニュー札は、ギルドの封印担当者によって小型封印箱へ入れられた。


 黒表紙の本ほど危険ではない。


 だが、第四の系統との関連がある以上、識別番号をつけて管理することになった。


 名称はつけない。


 分類名も、必要以上に意味を持たせない。


 ユリアナは記録にこう書いた。


 閉架異常物件・第二号。


 発見場所:ギルド食堂。

 状態:名称欠落。

 影響範囲:限定的。

 注意事項:欠落名称の読み上げ禁止。


 俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「第一号が本で、第二号が札。増えてますね」


「増えています」


 ユリアナは冷静に認めた。


「だからこそ、番号管理と報告手順を整える必要があります」


「こういう時、ユリアナ先輩がいてくれると助かります」


 俺が言うと、彼女は少しだけ視線を逸らした。


「役割ですので」


「それでも、助かっています」


「……ありがとうございます」


 声が少し小さかった。


 セリカさんが、俺の横でにやりとする。


「レン、自然に褒めるわね」


「今のは普通に感謝を」


「それが自然だって言ってるの」


 リリアも微笑んでいる。


 ユリアナは咳払いした。


「話を戻します。第二号が食堂に出た以上、第四の系統関連の異常は零号資料庫周辺に限られないと考えるべきです」


 ノエルが頷く。


「本は閉架書庫。札は食堂。共通点は“記録”と“名前”。本は内容を持つ記録。札は料理名を示す記録」


「つまり、名前を記したものに出る?」


 俺が聞くと、ノエルは少し考える。


「可能性はある。ただ、全部の名前に出るわけじゃない。たぶん、欠けやすい名前、揺らぎやすい分類、呼ばれ方が不安定なものに反応するのかも」


 リリアが胸元に手を置く。


「呼ばれ方が不安定なもの……」


 元聖女。

 リア。

 リリア・セレスティア。


 彼女自身が、複数の名の間で揺れた存在だった。


 ミュレアも同じだ。


 魔王令嬢。

 封印対象。

 ミュレア・ノクターン。


 俺も。


 外れスキル。

 危険異能者。

 魂同調者。

 レン・クロフォード。


 名前と役割。


 第四の系統は、そこを突いているのかもしれない。


 ダリウスさんが、遅れて食堂へやって来た。


 報告を受け、封印箱を確認すると、低く唸った。


「面倒だな」


「はい」


 全員が素直に頷いた。


 ギルド長は腕を組む。


「だが、今回は被害なし。処理も早い。悪くない」


「成功判定ですか?」


 俺が聞くと、ダリウスさんは頷いた。


「成功だ。異常が出たら全部失敗、という考え方はやめろ。見つけて、広げず、処理した。それなら勝ちだ」


 その言葉は、思ったより響いた。


 異常が出たら失敗ではない。


 見つけて、広げず、処理したら勝ち。


 ユリアナも深く頷いていた。


「今後の基準にします」


「そうしろ」


 ダリウスさんは短く言った。


     ◇


 夜、俺はギルドの屋上に出た。


 少しだけ風に当たりたかった。


 王都の夜景が広がっている。


 食堂の灯り。

 通りの街灯。

 遠くの王宮。

 そして、さらに遠くに王立学園の塔が見える。


 あの学園の地下に零号資料庫がある。


 そのさらに奥に、黒い扉があるかもしれない。


 そして今、第四の系統は日常の中へ、小さな異常として入り込んできている。


 黒表紙の本。

 名前の欠けたメニュー札。


 どちらも、いきなり世界を壊すものではない。


 ただ、名前を揺らす。


 記録をずらす。


 見る者を見返す。


 じわじわ来る。


 派手な敵より、ずっと嫌だ。


「また考えてる」


 背後から声。


 セリカさんだった。


「今日は早いですね」


「あなたが屋上に行く顔をしてたから」


「そんな顔がありますか」


「ある」


 セリカさんは隣に立った。


 夜風で赤い髪が揺れる。


「メニュー札のこと?」


「はい。名前が欠けるというのが、思ったより気持ち悪くて」


「そうね」


「もし人の名前が欠けたら、どうなるんでしょう」


 言ってから、少し後悔した。


 セリカさんは黙った。


 だが、逃げずに答えた。


「嫌な想像だけど、考えておく必要はあるわね」


「はい」


「でも、今は欠けてない」


 セリカさんは俺を見る。


「リリアはリリア。ミュレアはミュレア。私はセリカ。あなたはレン」


 短い言葉。


 でも、強かった。


「欠けてないものまで、先に失くしたみたいに扱わない」


「……はい」


「不安を先取りしすぎると、今あるものが薄くなるわよ」


 それは、セリカさんらしい言葉だった。


 まっすぐで、少し痛くて、でも温かい。


 俺は夜景を見る。


「セリカさん」


「何?」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 彼女は少しだけ笑った。


 その時、通信水晶が淡く光った。


 ミュレアからだった。


『レン。今、屋上におるな』


「なぜ分かるんですか」


『妾とのリンクを甘く見るな』


「便利なようで怖い」


『安心せよ。細かくは見えぬ。ただ、そなたがまた夜風に当たりながら面倒な顔をしておる気配がしただけじゃ』


「十分細かいです」


 セリカさんが水晶に向かって言う。


「ミュレア、何かあった?」


『いや。念のため言っておく。今夜は扉の夢を追うな。名の欠けた札を見た後じゃ。引っ張られやすい』


「分かりました」


『本当に分かっておるか?』


「寝ます」


『よろしい』


 魔王令嬢に就寝確認されるとは思わなかった。


 セリカさんが笑いをこらえている。


『それと、明日の甘味は二品――』


「一品です」


 いつの間にか屋上入口にリリアが立っていた。


 早い。


 ミュレアが通信越しに呻く。


『白き娘、どこから現れた』


「レンが屋上に行ったと聞いたので」


「リリアまで」


「心配でしたから」


 リリアはそう言って、俺に薄手の上着を差し出した。


「冷えます」


「ありがとうございます」


 受け取ると、胸の奥が少し温かくなった。


 名前が欠ける不安。


 扉の向こうから見られる気配。


 そういうものは、まだ消えない。


 でも、今ここで俺を呼ぶ声がある。


 レン、と。


 その声がある限り、俺はまだ自分を見失わずにいられる気がした。


     ◇


 その夜、俺は夢を見なかった。


 少なくとも、黒い扉は出てこなかった。


 朝起きた時、表示は静かだった。


レン・クロフォード

状態:軽度疲労、睡眠回復中

感情過負荷:なし

注意:通常交流を継続してください


「通常交流って、難しいな……」


 俺は呟いた。


 だが、昨日より少し気分は軽かった。


 第四の系統は日常に紛れてくる。


 なら、こちらも日常を手放さない。


 名前が欠けるなら、呼び合う。


 記録が揺らぐなら、丁寧に残す。


 見られているなら、こちらも目を逸らしすぎず、でも飲まれない距離を取る。


 たぶん、今はそれしかできない。


 扉を開けると、廊下にセリカさんがいた。


「おはよう、レン」


 リリアもいた。


「おはようございます、レン」


 少し遅れて、通信水晶からミュレアの声。


『起きたか、レン』


 名前を呼ばれる。


 ただそれだけで、昨日の欠けた札よりずっと強いものを感じた。


「おはようございます」


 俺は、ちゃんと返事をした。


 俺はレンだ。


 今は、それでいい。

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