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第56話 黒表紙の本は、開かなくてもこちらを見る

相談窓口は、一時閉鎖された。


 ユリアナ生徒会長の判断は早かった。


 黒表紙の本が机の上に置かれた瞬間、彼女は受付の生徒に外の待機者へ説明するよう指示し、図書館棟の廊下を封鎖した。さらに学園長、ギルド長、王宮連絡官への伝令を出し、相談室内にいた全員へ「不用意に本へ触れないこと」と告げた。


 その声は冷静だった。


 冷静すぎて、逆に張り詰めていた。


「フィオナさん」


 ユリアナは、黒表紙の本を持ってきた司書見習いの少女へ向き直った。


「あなたは、この本を抱えてここまで来ましたね」


「は、はい」


「体調に異変は?」


「今のところは……少し、手が冷たいくらいです」


 フィオナ・レイは、自分の指先を見下ろした。


 丸眼鏡の奥の目が揺れている。


 当然だ。


 閉架書庫にあるはずのない黒い本を見つけて、相談窓口へ持ってきた。

 そしてその本が、第四の系統に関係しているかもしれないと言われた。


 怖くないはずがない。


 リリアがすぐに近づいた。


「手を見せてください」


「はい……」


 リリアはフィオナの手に触れ、白い聖力をほんの少しだけ流した。


 その光は穏やかだった。


 しかし、フィオナの指先に触れた瞬間、白い光が一瞬だけ鈍った。


 リリアの表情が変わる。


「冷えています。ただの冷えではありません。魔力を奪われたというより、感覚だけが薄くなっているような……」


 俺は思わず本を見た。


 触っていない。


 なのに、見た瞬間、胸の奥が少しざわつく。


黒表紙の本

関連:第四の系統

状態:未開封

影響:接触者の感覚鈍化

注意:名を呼ばずに扱ってください


 また表示された。


 名を呼ばずに。


 この一文が、どうしても気味が悪い。


 名前を呼ぶな。

 名を呼ばずに扱え。


 リリアの名前を守った俺たちにとって、それは嫌な命令だった。


「フィオナさん、今のところ大きな危険表示はありません。ただ、感覚が少し鈍っています」


 俺が言うと、フィオナは小さく息を呑んだ。


「私……何か、まずいものを持ってきてしまったんでしょうか」


「持ってきた判断は間違っていません」


 ユリアナが即座に言った。


「閉架書庫で一人で開かなかったこと。相談窓口へ持ち込んだこと。その二つは正しい判断です」


 フィオナの肩から、少しだけ力が抜けた。


「ありがとうございます……」


 セリカさんは本の近くに立ち、いつでも動けるようにしていた。


 剣は抜いていない。


 だが、右手は自然に柄の近くへある。


「レン、見える範囲でいい。あれは今、こっちに何かしてる?」


「強い干渉はありません。ただ、触れた人の感覚を鈍らせる影響があります。あと、名を呼ばずに扱え、と」


「本なのに名前があるってこと?」


「分かりません」


 ノエルが記録板を抱えながら、目を細めた。


「名前がある本、というより、“名前を呼ぶと繋がる対象”に関係した本かもしれない。封印対象の名、系統名、儀式名。どれかを呼ぶと、回路が開く可能性がある」


「開かない方がいいわね」


 セリカさんが即答した。


「うん。今は絶対に開かない方がいい」


 ノエルも今回は素直だった。


 そのことが、むしろ怖い。


 いつものノエルなら、目を輝かせて調べたいと言い出してもおかしくない。

 だが、今日の彼女は好奇心を抑え込んでいる。


 黒表紙の本が、彼女にすらそうさせる何かを持っているのだ。


 通信水晶から、ミュレアの声が低く響いた。


『レン。まだ触るなよ』


「触りません」


『見るのも短くせよ。そやつは、開かずともこちらを見ておる』


「本が、こちらを?」


『うむ。扉の気配と同じじゃ。閉じた目が、まぶたの裏からこちらを見ておる』


 表現が不気味すぎる。


 フィオナが震えた。


 リリアがそっと彼女の背中を支える。


「大丈夫です。今は一人ではありません」


 その言葉は、フィオナへ向けられたものだった。


 でも、俺にも響いた。


 黒表紙の本。


 第四の系統。


 閉じた目。


 名を呼ぶな。


 何もかも不気味だが、今は一人ではない。


     ◇


 学園長エルドリッジ先生と、ギルド長ダリウスさん、オルフェさんが到着したのは、それからほどなくしてだった。


 相談室へ入ってきた三人は、机の上の本を見てすぐに表情を硬くした。


 オルフェさんが低く言う。


「これは……かなり古いですね。ただ、紙と革の劣化がほとんどない」


 学園長も本から距離を取ったまま観察する。


「閉架書庫にあったのですか」


 フィオナが緊張しながら頷いた。


「はい。ですが、昨日まではありませんでした。少なくとも、私が整理した時には棚は空でした」


「棚の分類札は?」


「零号資料庫関連、という古い札がありました。ただ、閉架書庫の記録上は、空棚扱いです」


 ユリアナがすぐに補足した。


「図書館の貸出記録、閉架入退室記録、魔力保管記録を確認しましたが、現時点でこの本の登録は見つかっていません」


「つまり、現れた本か」


 ダリウスさんが苦々しく言った。


「嫌な響きですね」


 俺が呟くと、セリカさんが頷いた。


「嫌なものほど、そういう現れ方するのよ」


「経験則ですか」


「最近の」


 否定できなかった。


 オルフェさんは慎重に封印布を取り出した。


 銀灰色の布。

 魔力遮断用らしい。


「まず、この本を封印箱へ移します。直接触れず、布越しに」


 俺の視界に表示が浮かぶ。


推奨:封印布による隔離

注意:本を閉じた状態のまま維持

禁止:題名の付与、仮称の連呼、内容推測による名付け


「待ってください」


 俺が言うと、全員の視線が集まった。


「題名をつけるのも駄目みたいです。仮称の連呼や、内容推測による名付けも禁止」


 ノエルが眉を寄せる。


「名前を与えること自体が危険ってこと?」


「そう出ています」


 ユリアナが記録板に書きかけて、手を止めた。


「では、記録上はどう扱えば?」


「“対象物”とか?」


 俺が言うと、ノエルが考え込む。


「識別番号だけならどう? 対象物A、だと名前に近いけど、番号なら個性を与えにくい」


 ユリアナが頷いた。


「閉架異常物件・第一号。以後、識別番号のみで扱います」


「それは大丈夫そうです」


 表示に危険反応は出ない。


 よかった。


 名を呼ぶな。

 なら、名前を与えない。


 ユリアナはすぐに記録の文言を直した。


 このあたりの慎重さは、本当に頼りになる。


 オルフェさんが封印布を広げる。


 セリカさんが周囲の安全を確認。


 リリアがフィオナを少し離れた椅子へ座らせる。


 俺は表示を見続ける。


 ノエルは手を出したそうにしているが、ユリアナの視線で踏みとどまっている。


 封印布が、黒表紙の本に触れた。


 その瞬間、部屋の温度が一段下がった気がした。


 閉じた目のような縦線が、ほんの一瞬だけ淡く光る。


 見てはいけない。


 そう思った時には、もう表示が出ていた。


閉架異常物件・第一号

状態:封印布接触

反応:微弱

観測対象:レン・クロフォード

注意:視線を合わせないでください


「視線を合わせないでください!」


 俺が叫ぶと、全員が目を逸らした。


 遅れて、自分も視線を外す。


 視線を合わせる。


 本に目はない。


 だが、表紙の縦線は、閉じた目のようだった。


 もしそれが開いたら。


 考えたくない。


 オルフェさんは視線を落としたまま、手探りに近い慎重さで本を包んだ。


 封印布が本全体を覆う。


 冷たい空気が薄れていく。


「封印箱へ」


 ダリウスさんが言う。


 ユリアナが用意させた小型封印箱が机の横に置かれる。


 銀と黒鉄でできた、重そうな箱だ。


 オルフェさんが封印布ごと本を箱へ収める。


 蓋が閉じられる。


 がちり、と低い音がした。


 部屋の空気が、ようやく少し戻った。


 俺は息を吐いた。


 知らないうちに、呼吸を止めていたらしい。


 セリカさんがすぐ横へ来る。


「大丈夫?」


「はい。たぶん」


「たぶんは禁止」


「……少し気持ち悪いです。でも、感情過負荷はありません」


 リリアが俺の手に触れた。


 白い聖力が流れる。


 温かい。


「冷えています。少し休んでください」


「はい」


 素直に頷いた。


 今日は反抗する気力がない。


     ◇


 フィオナへの検査は、リリアと治癒術科教師によって行われた。


 結果として、大きな異常はなかった。


 ただし、手の感覚鈍化と軽い疲労が残っているため、今日一日は寮で休むことになった。


 フィオナは申し訳なさそうに何度も頭を下げた。


「本当に、すみません。私が持ってきたせいで、相談窓口まで止めてしまって」


 ユリアナが静かに言った。


「あなたの判断で、被害は最小限に抑えられました。謝る必要はありません」


「でも……」


「フィオナさん」


 リリアが優しく声をかける。


「怖いと思った時、一人で開かずに持ってきてくれた。それは、とても大切な判断です」


 フィオナの目に、少し涙が浮かんだ。


「私、図書館の仕事が好きなんです。でも、閉架書庫はいつも少し怖くて……今日も、怖いと思った自分が情けなくて」


「怖いことに気づけるのは、守る力でもあります」


 リリアの言葉に、フィオナは小さく頷いた。


 その瞬間、俺は少しだけフィオナを見た。


フィオナ・レイ

状態:恐怖、安堵、責任感

適性:記録保全、異常分類感知

備考:危険な資料を直感的に避ける感覚があります


 異常分類感知。


 面白い適性だ。


 だが、今それを言うか迷った。


 リリアがこちらを見る。


 言ってもいい、という目だった。


「フィオナさん」


「はい」


「あなたには、危険な資料を避ける感覚があるみたいです。怖がりというより、記録を守る人として大事な感覚だと思います」


 フィオナは驚いた顔をした。


「私に、そんなものが?」


「はい。少なくとも、今日の判断はその感覚が働いたのかもしれません」


 ノエルが興味深そうに言った。


「司書見習いとしてかなり有望だね。危険資料を危険と感じられるのは重要」


 ユリアナがすぐに付け加える。


「ただし、危険資料への単独接触は今後禁止です。感覚があることと、一人で対応していいことは別です」


「はい」


 フィオナは素直に頷いた。


 彼女は少しだけ背筋を伸ばした。


 怖さが消えたわけではない。


 でも、自分の怖さを恥じるだけではなくなったように見えた。


 相談窓口の意味は、こういうところにもあるのかもしれない。


 事件の入口になってしまったが、彼女自身の相談としても、ここで受け止められた。


     ◇


 封印箱は、ひとまず学園長室ではなく、王立学園の一時封印庫へ移されることになった。


 ただし、単独管理は危険だ。


 学園、ギルド、王宮の三者封印をかける。


 さらに、記録名は識別番号のみ。


 内容は開かない。

 仮称をつけない。

 表紙の印を描き写さない。

 不用意に連想しない。


 最後の「連想しない」は、かなり難しい。


 考えるなと言われるほど考えてしまうのが人間だ。


 俺はまさにそれだった。


 閉じた目の縦線。


 黒い扉。


 見るな。

 名を呼ぶな。


 それを考えないようにしようとするほど、頭に浮かんでくる。


 セリカさんが横から言った。


「レン、また考えてる」


「考えるなと言われると、考えてしまいます」


「分かるけど、今は別のこと考えなさい」


「別のこと」


「今日の夕食とか」


「急に日常ですね」


「日常に戻すの。第四の系統の反応は、普通の中に紛れてくるんでしょ。なら、こっちも普通を強くする」


 普通を強くする。


 妙にいい言葉だった。


 リリアも頷く。


「今日、フィオナさんを休ませることができました。カイルさんの訓練方針も決まりました。マリベルさんの件も、生徒会が対応してくれます」


「はい」


「怖いものはあります。でも、今日できたこともあります」


 リリアの言葉は、セリカさんの言葉と似ている。


 今無事なものを見る。


 今日できたことを見る。


 第四の系統に引っ張られすぎない。


 ユリアナも書類を閉じながら言った。


「本日の相談窓口は、一時閉鎖となりましたが、失敗ではありません。異常物件への対応も含め、窓口が機能したと判断します」


 その言い方が、いかにもユリアナらしかった。


 俺は少し笑った。


「成功判定ですか」


「はい。少なくとも、閉架書庫で単独開封されるより遥かに良い結果です」


「それは確かに」


 ノエルが封印箱を見送りながら、名残惜しそうに言う。


「開けたいけど、開けない方がいい。こういうの、研究者としてはつらい」


「開けないでください」


「分かってる。開けたらたぶん、研究どころじゃなくなる」


 ノエルがそこまで言うのだから、本当に危険なのだろう。


 通信水晶から、ミュレアの声が響いた。


『レン』


「はい」


『そやつを開く時は、必ず妾を呼べ』


「開く予定はありません」


『今はな。だが、いずれ必要になる。あれは扉の欠片じゃ。扉そのものではない』


「扉の欠片……」


『うむ。閉じた目のような印があったのであろう? あれは見張りじゃ。扉の番人ではない。扉がこちらを見失わぬための目じゃ』


 背筋が冷えた。


「つまり、あの本がある限り、扉はこちらを見ている?」


『おそらくな』


 セリカさんが低く言う。


「最悪ね」


『同感じゃ、赤き剣姫』


 ミュレアとセリカさんの意見が一致した。


 それほど嫌な話ということだ。


 ユリアナがすぐに記録へ追加する。


「識別番号第一号。性質、観測標。保管中も監視継続。関係者への夢・幻聴・感覚異常の確認を毎朝実施」


「毎朝ですか」


「必要です」


 ユリアナはきっぱり言った。


「第四の系統が日常へ紛れ始めた以上、異常を早く拾う仕組みが必要です」


 日常へ紛れ始めた。


 まさにその通りだった。


 零号資料庫の奥にあると思っていたものが、閉架書庫に本を出現させた。


 相談窓口の普通の一日に、するりと入り込んできた。


 なら、こちらも日常の中で見張るしかない。


     ◇


 その日の夕方、相談窓口は予定より早く閉じられた。


 学生たちには、設備点検のためと説明された。


 完全な嘘ではない。


 魔力的にも精神的にも、点検が必要な日だった。


 俺たちはギルドへ戻る途中、王立学園の中庭を通った。


 昨日ミュレアが五分だけ空を見た場所だ。


 夕焼けに染まる石畳を見ていると、あの時のミュレアの表情を思い出す。


 強い感動。

 緊張。

 喜び。


 第四の系統の微弱反応があっても、あの五分間が無意味だったとは思えない。


 危険がある。

 でも、外を見たい気持ちもある。


 閉じ込めるだけでは駄目だ。


 開きすぎても危険だ。


 何度も同じところへ戻ってくる。


 面倒だ。


 でも、面倒だからこそ慎重にやるしかない。


 セリカさんが、ふと立ち止まった。


「レン」


「はい」


「夕食、何がいい?」


 また急に日常へ戻された。


「本当に夕食の話ですか」


「そうよ。普通を強くするんでしょ」


 セリカさんは少しだけ笑った。


 リリアも隣で言う。


「温かいものがいいですね。今日は少し冷えましたから」


 ノエルがぼそっと言う。


「甘いものも少し」


 ユリアナが即座に反応する。


「夕食前の甘味は控えめに」


「生徒会長、そこも管理する?」


「健康管理です」


 通信水晶からミュレアの声がする。


『妾にも甘味を』


「ミュレアさんは一品です」


 リリアの返事は今日も揺るがない。


『白き娘、そこだけは本当に揺るがぬな』


「はい」


 俺は少し笑った。


 黒い本。

 閉じた目。

 扉の欠片。


 不穏なものは増えた。


 でも、今この瞬間、俺たちは夕食の話をしている。


 それは逃避ではない。


 たぶん、抵抗だ。


 第四の系統が普通の中へ紛れてくるなら、俺たちは普通を手放さない。


 怖いものを怖いと言いながら、温かいものを食べる。


 それもまた、戦い方の一つなのかもしれない。

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