第55話 相談窓口二日目、普通の悩みほど根が深い
相談窓口の二日目は、初日よりも静かに始まった。
昨日のような物々しい緊張はない。
図書館棟の一室に机が並び、生徒会の受付があり、治癒術科と魔道具科の教師が控えている。
リリアは聖具不安相談の席に座り、ノエルは魔道具適性相談の机で記録板を開く。
俺は中央の席。
能力使用は原則禁止。
必要時のみ、本人同意、教師同席、第三者確認。
ユリアナ生徒会長が作った規則は、きっちり運用されていた。
セリカさんは、今日も俺の斜め後ろに立っている。
「セリカさん、今日は座っていてもいいのでは」
「あなたが勝手に動かないなら座るわ」
「信頼がない」
「信頼してるから見張ってるの」
「すごい理屈ですね」
「正しい理屈よ」
反論できないのが悔しい。
リリアはくすりと笑いながら、相談票を確認している。
「今日も聖具不安相談が多いですね」
ユリアナが頷いた。
「旧研究棟事件の後ですから。初日に窓口が安全だと分かったことで、昨日は迷っていた学生が来やすくなったのでしょう」
「それは、いいことですよね」
「はい。ただし、対応者の負担管理も必要です」
ユリアナはそう言って、俺だけでなくリリアとノエルにも視線を向けた。
「本日は、午前二枠、午後二枠まで。それ以上は翌日に回します」
「徹底してますね」
「徹底しないと崩れます」
ユリアナの声は淡々としているが、以前より少しだけ角が取れている。
彼女自身も、今日は顔色が悪くない。
表示もそれを示していた。
ユリアナ・フォン・グランベル
状態:集中、軽度疲労
備考:昨夜は予定通り休息を取りました
よし。
俺が少し安心していると、ユリアナがこちらを見た。
「レン様」
「はい」
「また確認しましたね」
「しました」
「……本日は休息を取りましたので、ご心配なく」
「それならよかったです」
セリカさんが小声で言う。
「完全にお互い監視ね」
「否定できません」
そんなやり取りをしていると、受付に最初の相談者が来た。
治癒術科の男子生徒だった。
少し背が低く、眼鏡をかけている。
表情は暗い。
受付票には、名前が書かれていた。
カイル・メルン。
相談分類は、聖具不安ではなく「治癒術適性不安」。
リリアが穏やかに席へ招いた。
「カイルさん。今日は、どうされましたか」
カイルはしばらく膝の上で手を握っていた。
それから、小さく言った。
「僕、治癒術科にいるのに、人を治すのが怖いんです」
部屋の空気が、少しだけ静かになった。
リリアは急かさなかった。
「怖い、というのは?」
「失敗したらどうしようって思います。前に実習で、友人の擦り傷を治す練習をしたんです。でも、聖力を流したら相手が痛がって……先生は、少し出力が強かっただけだと言いました。でも、それから怖くなって」
カイルは唇を噛んだ。
「治癒術って、人を助けるためのものなのに。僕が触ると痛くするかもしれないと思うと、手が震えます」
俺は思わず反応しそうになった。
だが、セリカさんが横から小さく咳払いする。
動くな、という合図だ。
俺は黙った。
まずはリリアの領域だ。
リリアは、静かにカイルを見ていた。
「怖くなるのは、自然なことだと思います」
「でも、治癒師が怖がっていたら」
「怖がらない治癒師より、怖さを知っている治癒師の方が、相手を丁寧に見られることもあります」
カイルが顔を上げた。
リリアは自分の手を見つめる。
「私も、治癒術が怖かったことがあります」
「リアさんが?」
「はい。自分の力が、誰かのためではなく、誰かの都合で使われるのではないかと怖かった。自分の聖力が、本当に人を助けるものなのか分からなくなったこともあります」
リリアの声は穏やかだった。
だが、重みがあった。
「だから、まず怖いと言えたことは、とても大事です」
カイルの目が少し潤む。
「でも、僕は……治癒術が下手で」
「見てもいいですか? 無理には見ません」
リリアが尋ねる。
カイルは迷った後、頷いた。
「お願いします」
治癒術科の教師が同席確認を行い、ユリアナが記録に同意済みと書く。
リリアがカイルの手のひらに、自分の聖力をほんの少しだけ重ねた。
俺は見ない。
見ないつもりだった。
だが、リリアがこちらを見た。
「レン。必要なら、少しだけ見てもらえますか。私の見立てと照らしたいです」
「本人がよければ」
カイルは緊張した顔で俺を見た。
「……お願いします」
表示が浮かぶ。
カイル・メルン
治癒術適性:繊細
聖力出力:低〜中
問題:初期出力の跳ね上がり
備考:恐怖により出力を抑えようとして、逆に一瞬だけ強く流れています
推奨:呼吸同期訓練、段階出力法
「適性がないわけではありません。むしろ繊細です。ただ、怖くて抑えようとする瞬間に、最初だけ聖力が跳ねています」
カイルは目を見開いた。
「抑えようとしているのに?」
「はい。たぶん、力を出さないようにと意識しすぎて、入口で詰まってから一気に出ています」
リリアが頷く。
「私の見立ても同じです。出力そのものが強すぎるのではなく、最初の流れが少し乱れています」
「じゃあ、僕でも治せますか」
「練習すれば」
リリアははっきり言った。
「でも、無理に人を治す練習から始めなくていいです。まずは水に聖力を流す練習をしましょう。呼吸と合わせて、少しずつ」
カイルの表情が、ゆっくり緩んだ。
「人に触らなくても、練習していいんですか」
「はい。怖さを無視しなくていいんです」
その瞬間、カイルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
俺は何もしていないわけではない。
少し見た。
だが、今回彼を救ったのはリリアの言葉だった。
怖くていい。
無理に人へ触れなくていい。
その一言が、カイルの肩から何かを下ろした。
リリアは、確実に治癒師になっている。
教会に与えられた聖女ではなく、自分の言葉で人を救う治癒師に。
◇
午前の二件目は、少し変わっていた。
相談者は剣術課程の女子生徒。
名はマリベル・ロウ。
背が高く、短く切った栗色の髪。
腰には訓練用の剣を下げている。
ただ、相談分類は剣術ではなく「対人距離不安」。
ユリアナが少しだけ表情を引き締めた。
「この相談は、生徒会対応も含みます」
マリベルは椅子に座るなり、苦笑した。
「すみません。剣術の相談じゃないんです」
セリカさんが前へ出る。
「別にいいわ。話せる範囲で」
「最近、後輩の女子に剣を教えているんです。でも、その子が私に懐きすぎているというか……私が少し他の子と話すと、不機嫌になるんです」
俺は嫌な予感がした。
好感度絡みか。
ユリアナも同じことを思ったのか、俺に視線を向ける。
「レン様、現時点では能力使用なしで」
「はい」
マリベルは続けた。
「最初は可愛い後輩だと思っていました。でも最近、稽古後に必ず一緒に帰ろうとしたり、私の予定を細かく聞いたり、他の子と組むと泣きそうな顔をしたりして……私も突き放したいわけじゃないんです。でも、少し息苦しくて」
相談室の空気が変わった。
これは、単純な恋愛相談ではない。
誰かの好意が、重くなり始めている話だ。
俺の力と、少し近い。
好意。
信頼。
依存。
境界。
ユリアナが静かに言った。
「その後輩から、脅しや強制は?」
「ありません。ただ、私が断るとすごく落ち込むので、断りにくくて」
セリカさんが腕を組む。
「あなたが悪いわけじゃないわ」
「でも、私が優しくしすぎたのかなって」
「優しくしたことと、全部受け入れることは違う」
セリカさんの声は、いつもより少し柔らかかった。
「剣を教えるなら、稽古の時間は稽古の時間。帰る時は帰る。距離を決めるのは悪いことじゃない」
マリベルは俯く。
「嫌われたらどうしようって思ってしまって」
リリアがそっと言う。
「嫌われないために我慢し続けると、いつか相手のことも嫌いになってしまうかもしれません」
その言葉に、マリベルの肩が揺れた。
ユリアナが記録しながら言う。
「生徒会としては、まず稽古時間と私的時間の境界を明確にすることを推奨します。必要なら、剣術課程の教師を通して指導体制を複数人に分けます」
「複数人に……」
「一対一の関係が重くなりすぎている場合、関係を壊すのではなく、支える人数を増やす方法があります」
ユリアナの言葉は実務的だ。
でも、優しい。
マリベルは少し息を吐いた。
「それなら、言えるかもしれません」
俺は黙っていた。
黙っていたが、胸の奥に引っかかるものがあった。
好感度が高いほど強くなる。
信頼が力になる。
でも、信頼は使い方を間違えれば鎖になる。
マリベルの相談は、その小さな形だった。
魔法も古代儀式も関係ない。
ただの先輩と後輩の距離。
でも、こういう普通の悩みほど、根が深い。
ユリアナが最後に尋ねた。
「レン様、何か補足はありますか。能力使用ではなく、一般的な意見として」
急に振られた。
「俺ですか」
「はい」
少し考える。
「……相手の好意を大切にすることと、相手の望みを全部叶えることは違うと思います」
自分に言っているようでもあった。
「たぶん、境界がある方が、長く続く関係もあります」
マリベルは、少し驚いた顔をした。
それから、小さく頷いた。
「ありがとうございます。少し、楽になりました」
彼女が出ていった後、セリカさんが俺を見た。
「今の、あなた自身にも言い聞かせてた?」
「少し」
「ならよし」
最近、セリカさんの「よし」が増えている。
悪くない。
◇
昼休憩の時間、ミュレアから通信が入った。
『レン。妾は思うのじゃが』
「はい」
『相談窓口というものは、なかなか面白いな』
「聞いていたんですか」
『一部だけじゃ。白き娘が許した範囲でな』
リリアは少しだけ誇らしげに頷く。
「個人情報に触れない範囲です」
『うむ。だが、人間どもの悩みというのは、思ったより魔物じみておる』
「どういう意味ですか」
『形がないのに、放置すると育つ。名をつけねば見えず、名を間違えると余計に暴れる』
妙に的確だった。
ユリアナが記録板に手を伸ばしかける。
ノエルも同じ動きをした。
二人は目が合い、少し気まずそうに手を止めた。
「今の表現、記録したい」
ノエルが言う。
「私もです」
ユリアナが認める。
ミュレアは通信越しに得意げだった。
『記録するがよい。妾の言葉は価値がある』
「調子に乗らない」
セリカさんが言う。
『赤き剣姫は相変わらず厳しい』
「甘やかすとすぐ増長するもの」
『否定できぬ』
「できないんですね」
俺が言うと、ミュレアは堂々と返した。
『魔王令嬢じゃからな』
便利すぎる。
その時、相談室の扉が控えめに叩かれた。
休憩中の札は出してある。
ユリアナが眉を寄せた。
「休憩中ですが」
受付の生徒が顔を出した。
「すみません。緊急ではないと思うのですが……どうしても今日中に話したいという方が」
「相談分類は?」
「分かりません。ただ、零号資料庫の件に関係があるかもしれない、と」
部屋の空気が変わった。
第四の系統。
黒い扉。
零号資料庫。
その名前が出るだけで、もう普通ではいられない。
ユリアナはすぐに判断した。
「休憩中ですが、確認だけ行います。レン様、能力使用は許可が出るまで控えてください」
「はい」
セリカさんが俺の横に立つ。
リリアも表情を引き締めた。
ノエルは記録板を手にしたが、ユリアナに見られて少しだけ下げた。
扉が開く。
入ってきたのは、図書館棟の司書見習いらしい少女だった。
丸眼鏡をかけ、両手で古い本を抱えている。
名前は受付票に、フィオナ・レイとあった。
彼女は緊張した顔で言った。
「あの……昨日、零号資料庫という言葉を耳にしてしまって」
ユリアナの目が鋭くなる。
「どこで?」
「図書館の閉架書庫です。古い分類札を整理していたら、同じ名前の書架札がありました。でも、それはずっと空の棚だと聞いていて……」
フィオナは抱えていた本を机の上に置いた。
「その棚に、今朝、この本が戻っていました」
古い黒表紙の本だった。
表紙には題名がない。
ただ、中央に細い縦線が刻まれている。
閉じた目のような線。
俺の背筋が冷えた。
昨夜の夢の黒い扉と同じだった。
表示が、勝手に浮かぶ。
黒表紙の本
関連:第四の系統
状態:未開封
注意:名を呼ばずに扱ってください
名を呼ばずに。
まただ。
俺は息を呑んだ。
ミュレアの通信が、低く震える。
『レン。触るな』
セリカさんが即座に言った。
「誰も触らない」
ユリアナもすぐに立ち上がる。
「この本は封印対象とします。フィオナさん、あなたは中を見ましたか?」
フィオナは首を横に振った。
「いいえ。開こうとしたのですが、なぜか怖くなって……持ってくるだけにしました」
「正しい判断です」
ユリアナの声は落ち着いていた。
だが、緊張がある。
ノエルは顔を強張らせながらも、目を逸らさない。
「閉じた目の印……第四の系統の関連物だね」
リリアが小さく言う。
「名前を呼んではいけないもの……」
アリシア王女はここにいない。
だが、この件はすぐ王宮にも伝える必要がある。
俺は黒表紙の本を見つめた。
触っていないのに、胸の奥で何かがざわつく。
つなぐな。
見るな。
名を呼ぶな。
それなのに、本はここに来た。
まるで、こちらへ見つけてほしいように。
ユリアナが静かに言った。
「本日の相談窓口は、ここで一時閉鎖します」
誰も反対しなかった。
普通に過ごすはずの日は、やはり普通では終わらなかった。
机の上の黒い本。
閉じた目の印。
第四の系統は、零号資料庫の奥で眠っているだけではなかった。
こちらの普通の中へ、静かに紛れ込み始めていた。




