第40話 マルクス拘束、その日から教会が割れ始める
翌朝、王都の空は妙に明るかった。
昨日までの嵐のような出来事が嘘だったみたいに、窓の外では鳥が鳴いている。
ギルド前の通りでは、パン屋の荷車がいつも通りに走り、朝市へ向かう人たちが籠を抱えて歩いていた。
けれど、空気はいつも通りではなかった。
通りの人々は、ギルドの建物をちらちらと見る。
誰かが小声で何かを言うと、別の誰かがすぐに耳を寄せる。
昨日、王宮礼拝堂でマルクス・グレイが拘束された。
教会監察部の高官。
元聖女リリアを異端認定しようとし、俺を危険異能者として封じようとした男。
白灯商会、王立学園旧研究棟、聖女再現計画、そして王宮礼拝堂の聖印核悪用。
それらが一気につながった。
当然、王都中が静かでいられるはずがない。
俺はギルド二階の廊下で、窓の外を見下ろしていた。
「……また人が増えてますね」
ぼそっと呟くと、隣から声が返ってくる。
「そりゃ増えるわよ」
セリカさんだった。
昨日と同じ軽装鎧ではなく、今日は少しだけ普段着に近い服装だ。
それでも腰には剣がある。
たぶん、しばらくは手放さないつもりなのだろう。
「教会監察部の人間が王宮で捕まったのよ。普通は国がひっくり返るくらいの話だわ」
「ひっくり返らないでほしいです」
「もう半分くらい傾いてると思う」
「嫌な表現ですね」
セリカさんは窓の外を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「でも、今日が大事よ。昨日まではマルクス個人との戦いだった。今日からは教会全体の話になる」
「教会全体……」
口にすると、胃が重くなる。
マルクス一人を止めたら終わり。
そうであってほしかった。
だが、現実はそう簡単ではない。
教会は大きい。
救護院も、聖堂も、孤児院も、巡礼者の宿も、祈りの場も、民衆の生活の中に深く入り込んでいる。
全部が悪いわけではない。
でも、悪い部分が確かにあった。
なら、どこを切って、どこを残すのか。
それは剣や感知だけでどうにかなる話ではなかった。
「リリアは?」
セリカさんが聞いた。
「まだ眠っています。さっきエマさんが様子を見てくれましたけど、熱もないそうです」
「なら、よかった」
セリカさんは短く言って、少しだけ表情を緩めた。
昨日の夜、リリアは本当に深く眠っていた。
名前を守ったあと、ようやく身体が安心したのかもしれない。
あの寝顔を思い出すと、胸が少し温かくなる。
同時に、絶対にもうあんな儀式をさせてはいけないと思う。
その時、頭の奥でミュレアの声がした。
『白き娘はまだ眠っておるのか』
「はい」
『よいことじゃ。眠れる時に眠る。これも強さの一つじゃ』
「ミュレアがまともなことを言っている」
『妾は常にまともじゃ』
セリカさんが横から小さく言った。
「昨日、甘いものを忘れたら呪うって言ってなかった?」
『それもまともな要求じゃ』
「どこがよ」
『封印された魔王令嬢の精神安定に甘味は必要不可欠じゃ』
「急に制度っぽく言わないで」
セリカさんが呆れたように肩をすくめる。
俺は少し笑った。
こんな会話ができるくらいには、昨日の緊張から戻ってきている。
けれど、その緩みは長く続かなかった。
一階から、職員が駆け上がってきた。
「レンさん、セリカさん。ギルド長がお呼びです。教会から使者が来ました」
教会。
その一言で、空気が変わった。
セリカさんの目が鋭くなる。
「マルクスの件?」
「おそらく。ただ……監察部ではなく、救護院の司祭を名乗っています」
「救護院?」
俺は聞き返した。
職員は頷く。
「女性司祭です。クラリッサ・ファーレンと」
視界に表示が浮かぶ。
来訪者:クラリッサ・ファーレン
所属:王都中央救護院
状態:緊張、罪悪感、誠意
目的:リリアへの謝罪、教会内部情報の提供
備考:リリアを教会へ戻す意図はありません
意図はない。
少なくとも、今見える範囲では。
俺はセリカさんを見る。
「リリアを戻すつもりはないみたいです」
「本当に?」
「表示では。ただ、緊張と罪悪感がかなり強いです」
「……会うしかないわね」
セリカさんはそう言ったあと、少し迷ったようにリリアの部屋の方を見た。
「リアは起こす?」
「本人に関わる話なら、起きていれば聞くべきかもしれません。でも、まだ眠れているなら……」
「そうね」
俺たちは一度、リリアの部屋の前へ向かった。
扉の外で声をかける前に、中から小さな物音がした。
扉が開く。
リリアが立っていた。
白い髪は少し乱れていて、寝起きなのが分かる。
それでも、目ははっきりしていた。
「教会の方が来たのですね」
「聞こえましたか」
「はい」
リリアは胸元のギルド章に触れた。
「私も行きます」
「無理はしないでください」
「無理ではありません」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
「昨日、私の名前を守ってもらいました。今日は、私自身で向き合いたいです」
セリカさんが頷く。
「分かった。でも、少しでも嫌なら下がって」
「はい」
リリアは、フードをかぶらなかった。
そのまま、俺たちと一緒に一階へ降りた。
◇
ギルドの応接室にいた女性は、思っていたより若かった。
三十代前半くらいだろうか。
薄い茶色の髪を後ろでまとめ、白ではなく淡い灰色の司祭服を着ている。
派手な装飾はない。
教会の人間にしては、身につけている聖印も小さかった。
彼女は俺たちが入ると、すぐに立ち上がった。
その視線がリリアに向かう。
一瞬、息を呑んだようだった。
「リリア・セレスティア様……」
その呼び方に、リリアの肩が少し揺れた。
クラリッサはすぐに気づいたのだろう。
深く頭を下げた。
「失礼いたしました。今は、リア様とお呼びした方がよろしいでしょうか」
リリアは少しだけ驚いた顔をした。
それから、静かに答える。
「……はい。できれば」
「承知しました」
クラリッサはもう一度、深く頭を下げた。
「私はクラリッサ・ファーレン。王都中央救護院に所属する司祭です。本日は、監察部の者としてではなく、救護院の一司祭として参りました」
ダリウスさんが腕を組んでいる。
「教会関係者を簡単に信用できる状況ではない」
「承知しております」
クラリッサは顔を上げた。
その表情には、疲労があった。
きっと彼女も、昨日から眠れていないのだろう。
「マルクス監察官の拘束後、教会内部は大きく割れています」
「割れている?」
セリカさんが聞く。
「はい」
クラリッサは小さく息を吸った。
「大きく三つに」
彼女は指を一本立てた。
「一つは、監察部を中心とした強硬派。聖女、異能者、魔族、封印対象など、強い力を持つ者は教会が管理すべきだと考える者たちです。マルクス監察官に近い者も多い」
次に、二本目の指。
「二つ目は、上層部の保身派。彼らはマルクス監察官を切り捨て、教会の名誉を守ろうとしています。事件そのものを、監察部の一部暴走として収めようとしている」
そして、三本目。
「三つ目は、救護院や地方聖堂の穏健派です。私もそこに属します。私たちは……」
クラリッサの声が少しだけ詰まった。
「私たちは、今回の件を、教会の罪として受け止めるべきだと考えています」
応接室が静まり返った。
リリアは黙ってクラリッサを見ている。
クラリッサは、リリアに向き直った。
「リア様」
そして、深く頭を下げた。
「教会のすべてが、あなたを傷つけたわけではない……などとは言いません」
その言葉に、リリアの目がわずかに揺れた。
「けれど、あなたを傷つけた教会の罪から、目を逸らしたくありません」
クラリッサの手が震えている。
演技ではない。
俺の表示も、それを示していた。
クラリッサ・ファーレン
状態:罪悪感、誠意、改革意志
備考:リリアを教会へ戻すつもりはありません
備考:救護院の名を守るためではなく、傷ついた人を守るために来ています
俺はリリアに小声で伝える。
「表示では、リリアを戻すつもりはありません。本心から謝罪と情報提供に来ています」
リリアは小さく頷いた。
けれど、すぐに表情を緩めるわけではなかった。
当然だ。
教会の人間に傷つけられ、追い詰められ、昨日も名前を奪われかけた。
いくらこの人が誠実でも、すぐに信じろという方が無理だ。
リリアは静かに言った。
「クラリッサ様」
「はい」
「あなたの言葉が嘘ではないことは、レンが見てくれました」
クラリッサの視線が、少しだけ俺に向く。
俺は軽く頭を下げた。
リリアは続ける。
「でも、私はすぐには信じられません」
クラリッサは、少しも不快そうにしなかった。
むしろ、深く頷いた。
「当然です」
その返事は、早かった。
「信じてください、と言う資格も私にはありません。信じられるだけのことを、教会はあなたにしてこなかった」
リリアは指先を握る。
「私は、教会のすべてを憎みたいわけではありません。昔、優しくしてくれた人もいました。祈りの言葉に救われた日もありました」
彼女の声は、少しだけ揺れている。
「でも、怖いです。教会の服を見るだけで、身体が固まることがあります」
「はい」
「だから、距離を置きたいです。今は」
「はい」
クラリッサは、ただ受け止めた。
「その距離を、こちらが勝手に縮めようとはいたしません」
その言葉に、リリアの緊張が少しだけ解けた。
ほんの少しだけ。
でも、確かに。
セリカさんもそれを見て、腕組みを解いた。
「話は分かったわ。それで、情報提供というのは?」
クラリッサの表情が、再び硬くなる。
「マルクス監察官についてです」
ダリウスさんが目を細めた。
「背後か」
「はい」
クラリッサは持参した封筒を机に置いた。
「マルクス様は、監察部内では強い権限を持っていました。ですが、聖女再現計画の思想そのものは、彼一人から出たものではありません」
オルフェさんが封筒を受け取り、封印を確認する。
「開けても?」
「もちろんです」
中には、教会内の会議記録の写しが入っていた。
正式なものではない。
おそらく、クラリッサが個人的に書き写したものだろう。
「聖力の制度化……」
オルフェさんが低く読む。
「聖女個人に依存しない治癒体系の構築。聖力適性者の分類と補助具による安定化。封印石由来素材の利用可能性……」
ノエルがいれば、また顔をしかめただろう。
俺も聞いているだけで嫌な気分になる。
クラリッサは言った。
「最初の理念だけを聞けば、悪いものではありませんでした」
「理念だけなら、ですね」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「はい。地方では、聖女がいないために救えない命もあります。治癒術をより多くの者が扱えるようにする。その理想に惹かれた者もいました」
リリアが目を伏せる。
「弱い聖力を補助すること自体は、悪いことではないと思います」
「はい」
クラリッサはリリアを見た。
「けれど、そこに管理と選別が入りました。誰が使えるか。誰を育てるか。誰を試すか。誰を隠すか」
彼女の声に、苦さが滲む。
「救うための仕組みが、いつの間にか人を材料にする仕組みに変わった」
セリカさんが低く言った。
「よくある話ね。嫌になるくらい」
クラリッサは否定しなかった。
ダリウスさんが机を軽く指で叩く。
「その思想を進めた中心人物は誰だ」
クラリッサは一瞬、目を閉じた。
言うのが怖いのだろう。
それでも、彼女は口を開いた。
「白銀枢機卿エルヴァン・クロード」
応接室の空気が、はっきり変わった。
その名前は、俺でも聞いたことがあった。
王都の救護院や孤児院に多額の支援をしている慈善家。
教会上層部の中でも穏やかな人物として知られ、民衆からの信頼も厚い。
まさか、という空気が部屋に満ちる。
クラリッサは続けた。
「表向き、白銀枢機卿はマルクス様の強硬策とは距離を置いています。むしろ救護院支援者として、穏健な顔をしている」
「だが、聖女再現計画の思想源流はその男にある、と」
ダリウスさんが言う。
「可能性が高いです」
クラリッサは悔しそうに唇を噛んだ。
「確定証拠はありません。ですが、聖力の制度化という言葉は、白銀枢機卿の説教録に何度も出てきます。そしてマルクス様は、枢機卿の私的勉強会に出入りしていました」
俺の視界に表示が浮かぶ。
白銀枢機卿エルヴァン・クロード
状態:未接触
関連:聖女再現計画思想源流
注意:表向きの慈善家として強い世論支持あり
危険:直接対決は時期尚早
危険。
しかも、直接対決はまだ早い。
俺はそれを伝えた。
ダリウスさんは重く頷く。
「やはりな。マルクスで終わりにしたがる連中が出るはずだ。だが、そこで止めればまた同じことが起きる」
クラリッサは顔を上げた。
「だから、私は来ました」
彼女の声は震えているが、芯があった。
「教会の内部からも、変えなければならないと思っています。リア様のためだけではありません。救護院に来る子どもたち、聖力が弱いと悩む若い治癒師、地方で祈り続ける司祭たちのためにも」
リリアは、クラリッサを見つめていた。
その表情は複雑だった。
教会という言葉に傷つきながら、それでも誰かを救いたいという願いまで否定したくはない。
そんな顔だった。
「クラリッサ様」
「はい」
「私は、まだ教会に戻るつもりはありません」
「はい」
「でも……教会の中で、誰かを本当に助けたいと思っている人まで、全部憎みたいとは思いません」
クラリッサの目が揺れる。
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
リリアは少しだけ困ったように笑った。
「私は、距離を置いて見ます。逃げるのではなく、今は少し離れた場所から」
その言葉に、クラリッサは深く頭を下げた。
「それで十分です」
◇
クラリッサが帰ったあと、応接室にはしばらく沈黙が残った。
情報は重かった。
マルクス拘束で終わりではない。
背後には、白銀枢機卿エルヴァン・クロードというさらに大きな影がある。
しかも、その人物は表向き慈善家であり、民衆からの信頼も厚い。
攻撃しづらい。
下手に動けば、こちらが教会の善行そのものを否定する悪者にされる可能性もある。
ダリウスさんが言った。
「しばらくは証拠集めだ。クラリッサには危険が及ぶ可能性がある。ギルド側でも監視をつける」
「クラリッサさん、大丈夫でしょうか」
リリアが心配そうに言う。
「危険を覚悟して来た顔だった」
ダリウスさんは答えた。
「だが、覚悟があることと守らなくていいことは別だ。こちらで動く」
セリカさんが頷く。
「教会の中にも味方ができたのね」
「味方候補だ」
ダリウスさんは訂正した。
「信じすぎるな。だが、疑うだけでも進まん」
「難しいですね」
俺が言うと、ダリウスさんは短く頷いた。
「難しい。だから雑に決めるな」
それは、俺の力にも通じる言葉だった。
見えたから正しい。
信じたいから味方。
怪しいから敵。
そんな単純な話ではない。
クラリッサは本心から謝罪していた。
でも、教会に属している。
教会はリリアを傷つけた。
でも、教会の中にも誰かを救いたい人がいる。
難しい。
でも、見なかったことにはできない。
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「少し、安心しました」
「安心?」
俺が聞くと、彼女は頷く。
「教会という言葉を聞くと、全部が怖く見えていました。でも、クラリッサ様のような人もいるのだと知れたので」
「信じられそうですか?」
「すぐには無理です」
リリアは正直に言った。
「でも、怖いだけではなくなりました」
それは、大きな変化だった。
セリカさんも少しだけ表情を緩める。
「なら、今日はそれで十分ね」
「はい」
その時、頭の奥でミュレアが言った。
『教会が割れたか』
「聞いていました?」
『当然じゃ。妾にも関わる話じゃからな』
「白銀枢機卿という名前が出ました」
『白銀か。いかにも白く塗った闇が好きそうな名じゃ』
「偏見がすごい」
『長く生きると、名乗りで少し分かるものじゃ』
本当かどうか分からない。
だが、ミュレアの声は少し警戒していた。
『レン。妾の封印にも気を配れ。教会上層が動くなら、妾を再び鎖にかけようとする可能性がある』
「分かっています」
『分かっておるならよい。あと甘いもの』
「そっちは忘れてください」
『忘れぬ』
いつものやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、その直後だった。
オルフェさんが持っていた小さな水晶が、ぴしりと音を立てた。
ミュレアの封印状態を監視している水晶だ。
淡く紫の光が揺れている。
オルフェさんの顔が変わった。
「ギルド長」
「何だ」
「ミュレアの封印術式に、外部干渉の痕跡があります」
部屋の空気が凍る。
俺の視界に赤い表示が浮かんだ。
ミュレア・ノクターン封印術式
状態:外部干渉検知
方式:遠隔聖印認証
目的:封印権限の再取得
推定発信元:教会上層部関連施設
来た。
思ったより早く。
「外部から、ミュレアの封印権限を奪おうとしています」
俺が言うと、ミュレアの声が低く響いた。
『やはり来たか』
「ミュレア」
『妾を道具として使えぬと分かれば、次は封印ごと奪う。実に分かりやすい連中じゃ』
リリアが立ち上がった。
「ミュレアさんを、また連れていこうとしているのですか」
「おそらく」
セリカさんも剣の柄に手を置く。
「なら、また止めるだけね」
ダリウスさんが即座に指示を出した。
「地下封印室の準備を早める。迷宮区画に置いたままでは危険だ。ギルド管理下へ移す」
オルフェさんが頷く。
「すぐに移送術式を組みます」
ミュレアが、頭の奥で不満そうに言った。
『やっと迷宮から出られると思ったら、今度は地下か』
「安全のためです」
『妾はモグラではないぞ』
「知っています」
『ならば地上の客室を用意せよ。柔らかい寝台と甘いもの付きで』
「それはまだ無理です」
『つれない監視者じゃ』
軽口に戻している。
でも、分かる。
ミュレアも不安なのだ。
自分の封印が、また誰かに奪われようとしている。
マルクスは拘束された。
リリアの名も守った。
でも、敵はまだ終わっていない。
白銀枢機卿エルヴァン・クロード。
教会上層部。
そして、ミュレア封印権限への干渉。
次の問題は、もう目の前に来ていた。




