表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
39/110

第39話 名前を守った夜、リリアは初めて安心して眠る

 王宮からギルドへ戻る馬車の中で、リリアは眠っていた。


 最初は、ただ目を閉じているだけかと思った。


 けれど、揺れる馬車の中で彼女の肩が小さく上下し、指先から力が抜けていくのを見て、ようやく本当に眠っているのだと分かった。


 胸元には、ギルド所属治癒師の章。


 その小さな金属章を、リリアは眠ったまま握っていた。


 王宮礼拝堂で、マルクス・グレイは彼女の名を書き換えようとした。


 リリア・セレスティア。


 元聖女。

 偽物。

 逃亡者。

 異端。


 教会は、彼女をそう呼ぼうとした。


 けれど、最後に残ったのは彼女自身の名だった。


 リリア・セレスティア。


 そして、ギルドの治癒師リア。


 誰かに与えられた役割ではなく、彼女が自分で選んだ名前。


 リリアは、それを守った。


 俺たちも、それを守るために動いた。


 馬車の窓の外では、王都の夕暮れがゆっくり流れている。

 赤い光が石畳を照らし、行き交う人々の影を長く伸ばしていた。


 こんなにも大きな一日だったのに、街はいつも通り動いている。


 パン屋は店じまいの準備をし、子どもたちは路地を走り、荷馬車の御者が馬に水を飲ませている。


 誰かにとっては、普通の日。


 けれど、リリアにとっては、きっと一生忘れられない日になった。


 俺にとっても、たぶんそうだ。


「寝たわね」


 向かいに座るセリカさんが、小さな声で言った。


 いつもの鋭い声ではない。


 眠っているリリアを起こさないように、少しだけ柔らかい声だった。


「はい」


 俺も声を落とす。


「ようやく、という感じですね」


「ずっと張り詰めてたもの。あれだけのことがあって、今まで起きていた方がおかしいわ」


 セリカさんは腕を組み、けれど視線はリリアに向けていた。


 その目には、安堵があった。


 そして、まだ消えきらない怒りも。


「本当に、名前まで奪おうとするなんてね」


「……はい」


「聖女だの異端だの、勝手に呼んで、勝手に傷つけて、最後は本人の意思まで疑う。ああいうの、私は嫌い」


 セリカさんの指が、膝の上で軽く握られる。


「剣で斬れる相手なら、まだ分かりやすいのに」


「王宮礼拝堂で本当に剣を抜きましたよね」


「必要だったから」


「怒られませんかね」


「怒られるなら、あなたも一緒よ」


「俺もですか」


「当然。あなたが場所を言ったんだから」


「たしかに」


 小さな声でそんな会話をしていると、リリアが眠ったまま少し身じろぎした。


 俺とセリカさんは同時に黙る。


 リリアの唇が、かすかに動いた。


「……戻りたく……ない……」


 胸が詰まった。


 眠っていても、まだ夢の中で逃げているのかもしれない。


 教会の冷たい床。

 聖具の痛み。

 偽物と呼ばれた日。

 戻りなさい、と言ったマルクスの声。


 それらが、まだ彼女の奥に残っている。


 でも、次の言葉は違った。


「……でも……もう……大丈夫……」


 リリアの指が、ギルド章をぎゅっと握る。


「……私の……名前……」


 そこまで呟いて、彼女はまた静かな寝息に戻った。


 セリカさんは、しばらく黙っていた。


 それから、窓の外へ視線を向ける。


「今日くらい、ちゃんと守れたと思っていいんじゃない?」


 その言葉は、俺に向けられていた。


「俺一人じゃ無理でした」


「そういうところよ」


「え?」


 セリカさんは呆れたように俺を見る。


「そこで『そうですね』って言えばいいのに、すぐ『俺一人じゃ』って言う」


「事実なので」


「だから、一人で抱えるなって何度も言ってるでしょ」


 叱る声。


 でも、その奥は優しい。


「守ったのは、レン一人じゃない。私も、リアも、アリシア殿下も、ノエルも、ギルド長も、ミュレアも。みんなで守った。だから、あなたもその中に入っていいの」


 セリカさんは少しだけ言いづらそうに続けた。


「……あなたがいなかったら、たぶん無理だったのも本当なんだから」


 不意打ちだった。


 俺は何も言えなくなる。


 セリカさんは自分で言って照れたのか、すぐに顔を逸らした。


「今の、あんまり見ないで」


「見てません」


「見てた」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 どこが正解なのか分からない。


 けれど、少しだけ笑えた。


 緊張が、ようやく薄れていく。


 リリアは眠っている。

 セリカさんは隣でいつものように怒ってくれる。

 王宮礼拝堂での息苦しい光景が、少しずつ遠ざかっていく。


 その時、頭の奥にミュレアの声が響いた。


『白き娘は眠ったか』


「はい。ぐっすりです」


『そうか』


 ミュレアの声は、いつものように偉そうではなかった。


 静かだった。


『なら、よい』


「心配していたんですか?」


『妾が?』


「はい」


『……少しだけじゃ』


 少しだけ。


 彼女は何でもそう言う。


 でも、その少しだけに本音があることを、俺はもう知っている。


『あの娘は、名を守った。封印されし妾が言うのも妙だが、名とは重いものじゃ。奪われれば、魂まで薄くなる』


「ミュレアも、そうだったんですか」


 少し間が空いた。


『妾は魔王令嬢と呼ばれた。封印対象とも呼ばれた。危険存在ともな。どれも間違いではない。だが、それだけで呼ばれると、己が己でなくなる』


 ミュレア・ノクターン。


 彼女もまた、そう名乗った。


 封印の中で、誰にも呼ばれなかった長い時間があったのだろう。


『だから、レン』


「はい」


『白き娘の名を呼んでやれ。本人が忘れそうな時ほどな』


「分かりました」


『それと、妾の甘いものも忘れるでない』


「急に戻りましたね」


『これも妾の名誉に関わる』


「どういう理屈ですか」


『魔王令嬢が甘味を求める。それだけで世界は少し平和になる』


「大きく出ましたね」


 セリカさんが、こちらを見た。


「ミュレア?」


「はい。リリアの名前を呼んでやれと言っていました。あと甘いものを忘れるなと」


「前半はいいのに、後半で台無しね」


『聞こえておるぞ、赤き剣姫』


「聞こえるように言ったわ」


 セリカさんは小さく息を吐く。


 けれど、ほんの少し笑っていた。


     ◇


 ギルドへ戻った時には、夜の帳が王都を覆い始めていた。


 馬車が止まっても、リリアは目を覚まさなかった。


 よほど疲れていたのだろう。


 セリカさんが先に降り、俺がリリアを起こそうと手を伸ばす。


 けれど、触れる直前に迷った。


 起こすのが、少しもったいなかった。


 ようやく安心して眠っているのに。


「どうする?」


 セリカさんが聞く。


「起こすの、かわいそうですね」


「そうね」


「でも、このままには」


「運ぶしかないわね」


「運ぶ」


 俺はリリアを見る。


 華奢な肩。

 白い髪。

 眠ったままギルド章を握る手。


 俺が運ぶのは、いろいろな意味で危ない。


 主に精神的に。


 あと、普通に落としたら大変だ。


「俺が持ちます」


「大丈夫?」


「たぶん」


「たぶんは信用できない」


 セリカさんは即座に言った。


 結局、俺がリリアの肩側を支え、セリカさんが足元側を支える形になった。


 完全に病人搬送である。


 リリアは途中で少しだけ目を開けたが、状況を理解する前にまた眠った。


「……レン……?」


「はい。ギルドに着きましたよ」


「……帰って……きた……?」


「はい」


「……よかった……」


 それだけ言って、また目を閉じる。


 セリカさんが小声で言う。


「安心してるわね」


「そうですね」


「絶対落とさないでよ」


「落としません」


「足元気をつけて」


「はい」


「階段で滑らない」


「はい」


「壁にぶつけない」


「そんなに信用ないですか」


「ないわけじゃないけど、今のあなたも相当疲れてるでしょ」


 それはそうだった。


 好感度リンクを使い、聖印核の儀式を止め、王宮から東門、東門から王宮礼拝堂へ走った。


 身体よりも、頭の奥が重い。


 でも、リリアを落とすわけにはいかない。


 俺たちは慎重に階段を上がり、ギルド二階の客室へ向かった。


 途中、エマさんが廊下に出てきた。


「あ……リアさん、眠って」


「はい。馬車の中で」


 エマさんの表情が、ほっと緩む。


「よかったです。本当に」


 その声には、いくつもの感情が混じっていた。


 心配。

 安堵。

 そして、自分も救われた側としての痛み。


「部屋、準備できています。毛布も温めておきました」


「ありがとうございます」


「いえ。今日くらい、ゆっくり眠っていただきたいので」


 エマさんはそっと扉を開けてくれた。


 俺とセリカさんはリリアを寝台へ運び、ゆっくり寝かせる。


 リリアの手からギルド章を外そうとしたが、指がまだ握っていた。


 無理に外すのはやめた。


 エマさんが毛布をかける。


 リリアは少しだけ身を丸め、安心したように息を吐いた。


「……名前……」


 また、小さな寝言。


 俺は思わず答えた。


「リリア」


 彼女の眉間の皺が、少しだけ緩んだ。


「……はい……」


 寝言なのに返事をした。


 俺は胸が詰まって、何も言えなくなる。


 セリカさんも黙っていた。


 エマさんは、目元を指で押さえた。


「……よかった」


 本当に、その一言だった。


     ◇


 リリアを寝かせた後、俺たちは一階の会議室へ集まった。


 疲れている。


 全員疲れている。


 でも、事後処理は待ってくれない。


 会議室には、ダリウスさん、オルフェさん、エマさん、セリカさん、俺がいた。


 少し遅れて、王宮からの使者が持ってきた正式文書も届いた。


 マルクス・グレイの拘束。

 王宮礼拝堂聖印核の一時封鎖。

 教会監察部の王都内権限停止。

 白灯商会関連資産の凍結。

 王立学園旧研究棟事件の調査拡大。


 紙に書かれると、今日起きたことの大きさが改めて分かる。


 セリカさんが椅子にもたれ、長く息を吐いた。


「本当に、終わったの?」


 ダリウスさんは首を横に振った。


「マルクスは止めた。だが、終わりではない」


「でしょうね」


 セリカさんも分かっていたようだった。


 ダリウスさんは机の上に地図を広げる。


「教会監察部の王都支部は、今夜から王宮監査が入る。だが、教会そのものは巨大だ。マルクス一人がすべてを動かしたとは考えにくい」


「背後がいると?」


「ああ」


 俺は、前にクラリッサの名前が出る予定をまだ知らない段階だが、プロット上は次以降。今回は匂わせ程度にする。


 オルフェさんが資料をめくる。


「聖女再現計画の理論は、マルクス監察官だけで組める規模ではありません。封印石、聖属性魔道具、王家結界術、魔族封印術。複数分野の知識が必要です」


「ラゼル教授と白灯商会だけでも足りない?」


「足りません。特に教会内の古い聖術記録へアクセスできる者が関与している可能性が高いです」


 会議室の空気がまた重くなる。


 マルクスを倒せば終わり。


 そんな簡単な話ではない。


「レン」


 ダリウスさんが俺を見る。


「今、何か見えるか」


 俺は目を閉じた。


 マルクスの表示を探る。


 拘束された彼は、もう直接動けない。

 だが、その背後に、まだ薄い線が伸びているように見えた。


マルクス・グレイ

状態:拘束、沈黙

関連:教会上層部一部

注意:監察部強硬派はマルクス切り捨てに動きます

未解決要素:聖女再現計画の思想源流


「マルクスは沈黙しています。監察部強硬派は、彼を切り捨てる方向に動きます。聖女再現計画の思想源流は、まだ未解決です」


「思想源流、か」


 ダリウスさんは低く呟いた。


「つまり、計画名を変えてまたやる奴が出るかもしれん」


「可能性はあります」


 セリカさんが顔をしかめる。


「嫌な話ね」


「嫌な話だが、分かっているなら追える」


 ダリウスさんはそう言って、文書を畳んだ。


「今日はここまでだ。全員休め。明日からは、教会内部の動き、ミュレアの処遇、学園への復帰、その三つを進める」


「三つもありますか」


 俺が思わず言うと、ダリウスさんは容赦なく頷いた。


「ある」


「少しは減りませんか」


「減らん」


「ですよね」


 エマさんが、少しだけ笑った。


「でも、今日は本当に休んでください。レンさんも、セリカさんも」


「エマさんもですよ」


 俺が言うと、彼女は少し驚いた顔をした。


「私ですか?」


「資料整理、ほとんど寝ずにやってくれたんですよね」


「それは……必要でしたから」


「でも休まないと倒れます」


 俺がそう言うと、セリカさんが横から言った。


「あなたが言う?」


「俺も休みます」


「絶対?」


「絶対」


「ならよし」


 なぜか全員から見張られている。


 信用を積み直す道は遠い。


     ◇


 会議室を出ると、廊下は静かだった。


 ギルドはまだ営業しているが、二階の客室周辺は人払いされている。


 リリアの部屋の前を通ると、中から小さな寝息が聞こえた。


 俺は立ち止まる。


 扉は閉まっている。


 けれど、彼女がちゃんと眠っていることが分かるだけで安心した。


 セリカさんも隣で足を止めた。


「見張りは交代制でついてるわ」


「はい」


「今夜は、何も考えずに寝なさい」


「そうしたいです」


「したいじゃなくて、する」


「はい」


 セリカさんは少しだけ間を置き、声を落とした。


「……今日、怖かった?」


 意外な質問だった。


 俺はすぐに答えられなかった。


 王宮審問。

 東門。

 王宮礼拝堂。

 マルクスの言葉。

 危険異能者。

 お前の力は、いつか周りを傷つける。


 怖くなかったはずがない。


「怖かったです」


 俺は正直に答えた。


「今も少し怖いです。自分の力が、本当にいつか誰かを傷つけるんじゃないかって」


 セリカさんは、俺の方を見ないまま言った。


「じゃあ、怖がってなさい」


「え?」


「怖いって分かってるなら、たぶん大丈夫。怖くなくなって、自分は絶対間違えないと思い始めたら、その時は私が本気で止める」


「剣で?」


「必要なら」


「やっぱり」


 セリカさんはようやくこちらを見て、少し笑った。


「でも、今日のあなたは間違えてなかった」


 短い言葉だった。


 それだけで十分だった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 彼女はそのまま自分の部屋の方へ歩き出した。


 途中で振り返る。


「寝るのよ」


「はい」


「返事だけじゃなくて」


「寝ます」


「よろしい」


 セリカさんが去っていく。


 俺はしばらく廊下に立っていた。


 すると、頭の奥にミュレアの声が響いた。


『相変わらず世話を焼かれておるな』


「ありがたいことです」


『否定せぬのか』


「今日は、否定する気力もありません」


『よい傾向じゃ』


「そうですか?」


『うむ。支えられることを覚えぬ者は、いずれ折れる。妾は、それを何度も見た』


 ミュレアの声は、少し遠かった。


 封印の中で長く生きた彼女は、俺よりずっと多くのものを見ているのだろう。


「ミュレア」


『何じゃ』


「あなたの処遇も、明日から話し合いになるそうです」


 少し沈黙があった。


『そうか』


 その一言は、軽くなかった。


「不安ですか」


『不安、か。妾をどう扱うか、人間どもが決める。封印されて以来、ずっとそうじゃった。今さらではある』


「でも、今は違います」


『何が違う』


「少なくとも、あなたを道具として扱わないように動く人たちがいます。リリアも、セリカさんも、ギルド長も、アリシア王女も」


『そなたは?』


「俺もです」


 すぐに答えた。


 ミュレアは、しばらく黙っていた。


 やがて、少しだけ笑う。


『ならば、期待してやらぬこともない』


「素直じゃないですね」


『魔王令嬢じゃからな』


「万能ですね、その言い訳」


『当然じゃ』


 いつもの調子に戻った。


 少し安心した。


『それとレン』


「はい」


『明日こそ甘いものじゃ』


「……覚えてます」


『忘れたら呪う』


「封印中の魔王令嬢が言うと冗談に聞こえません」


『半分本気じゃ』


「半分」


 俺は苦笑しながら、自分の部屋へ向かった。


 長い一日が終わる。


 けれど、物語はまだ終わらない。


 マルクスは拘束された。

 リリアの名は守られた。

 でも、教会は割れ始める。

 ミュレアの処遇も決まっていない。

 王立学園にも戻らなければならない。


 問題はまだ山ほどある。


 それでも、今夜だけは。


 リリアが安心して眠っている。


 それだけで、少しだけ勝った気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ