第3話 追放されたので、自由に生きることにした
三日以内に追放イベントが発生する可能性があります。
昨夜、スキルがそんなふざけた警告を出してから、俺はほとんど眠れなかった。
いや、眠ろうとはした。
ベッドに横になり、目を閉じ、羊でも数えるように前世のコンビニ弁当を思い浮かべてみた。
唐揚げ弁当。
ハンバーグ弁当。
幕の内弁当。
深夜に食べるカップ麺。
……だめだった。
妙に腹が減っただけだった。
結局、夜明け前に起き出した俺は、屋敷の中を静かに歩いていた。
誰かに見つかれば、何をしているのかと聞かれる。
けれど、幸いにも使用人たちはまだ本格的に動き出していない時間だった。
廊下の窓から薄い朝日が差し込んでいる。
屋敷はいつもより広く、冷たく感じた。
この家に、俺の居場所があったか。
そう聞かれると、正直、すぐには答えられない。
父には期待されていなかった。
兄には見下されていた。
母は優しかったが、その優しさはどこか遠慮がちだった。
でも、完全に嫌いな場所だったかといえば、それも違う。
庭の匂い。
厨房から漂うスープの香り。
アンナが淹れてくれる少し薄いお茶。
ハンクが整えた季節の花。
ボルドがこっそり焼きすぎたパンをくれたこと。
そういうものまで、全部嫌だったわけじゃない。
「……損な性格だな、本当に」
自分に呆れながら、俺は厨房へ向かった。
昨日の夜に決めた通り、追い出される前に、見えている破滅フラグだけはできる限り消しておくつもりだった。
厨房では、若い料理人のトマが薪を運んでいた。
彼の頭上には、昨日から気になっていた表示がある。
名前:トマ
状態:焦り
破滅フラグ:本日朝、薪を落として足を負傷
対処法:運搬量を減らす、床の油染みを除去
トマは両腕いっぱいに薪を抱えていた。
そして、その足元には薄い油染みがある。
「あ、レン様。おはようございます」
「おはよう。トマ、それ半分持つよ」
「えっ!? い、いけません! 貴族の方に薪運びなんて!」
「じゃあ、せめて二回に分けて」
「でも、朝食の準備が遅れてしまいますし……」
「足を怪我したら、もっと遅れる」
俺がそう言うと、トマは目を丸くした。
その隙に、俺は薪を半分取った。
「床、そこ滑るから拭いておいた方がいい」
「え? ……あ、本当だ」
トマは慌てて布を取りに行く。
数分後、表示が変わった。
破滅フラグ:回避
好感度:31 → 43
能力還元:筋力補正・微
微。
微妙にありがたい。
俺は薪を置きながら、少しだけ笑ってしまった。
「どうされました?」
「いや、ちょっと腕が強くなった気がして」
「薪運びでですか?」
「たぶん」
トマは困惑しながらも笑った。
それから食堂へ向かうと、今度は給仕係の少女の表示が赤く光っていた。
破滅フラグ:熱いスープをこぼし火傷
対処法:盆の交換、手袋使用
俺は古い盆を見て、少し歪んでいることに気づく。
「その盆、替えた方がいい」
「ですが、まだ使えます」
「傾いてる。スープが滑る」
「……本当ですね」
彼女は素直に盆を替えた。
破滅フラグ:回避
好感度:27 → 39
次に廊下では、掃除係の少年が踏み台に乗ろうとしていた。
破滅フラグ:転落
対処法:踏み台の脚部修理
「それ、脚がぐらついてる」
「えっ、あっ、本当だ。ありがとうございます、レン様」
庭では、若い庭師が剪定鋏を探していた。
破滅フラグ:錆びた刃で手を切る
対処法:道具の交換
「それは使わない方がいい。ハンクに新しいものを聞いて」
「はい!」
見える。
嫌になるくらい、見える。
屋敷のあちこちに、小さな破滅の芽がある。
怪我。
過労。
失敗。
人間関係のすれ違い。
どれも大事件ではない。
けれど、誰かにとっては痛みであり、不幸だ。
そして、その多くは少し手を伸ばせば避けられるものだった。
午前中だけで、俺はいくつもの破滅フラグを消した。
そのたび、使用人たちの俺を見る目が変わっていくのが分かった。
頭上の好感度も、少しずつ上がっていく。
だが同時に、別の数値も悪化していた。
カイル兄上の好感度だ。
朝食の席で、彼の頭上に浮かんでいた数字はこうだった。
好感度:−71
状態:強い敵意
隠し本音:使用人どもまでレンを見るのが許せない
まずい。
分かっていたことだが、まずい。
俺が何かをすればするほど、使用人たちは助かる。
そして兄は怒る。
まるで、落とし穴の上に敷かれた板を踏み抜かないように歩いているみたいだった。
昼過ぎ、父の執務室に呼ばれた時点で、俺は大体のことを察した。
◇
父の執務室は、屋敷の奥にある。
厚い扉。
壁一面の本棚。
大きな机。
重いカーテン。
子どもの頃、この部屋に入るのは少し怖かった。
今も、あまり好きではない。
部屋には父だけでなく、カイル兄上もいた。
それだけで、胃が痛くなる。
父は椅子に座り、机の上に数枚の書類を置いている。
カイル兄上はその横に立ち、腕を組んでいた。
兄の表情は、妙に落ち着いている。
怒鳴られるより、こういう顔の方が嫌だ。
「レン」
「はい」
「ここ数日、お前が屋敷の者たちに治癒や助言をしていると聞いた」
「はい」
「なぜだ」
「体調や事故の兆しが見えたので」
父の眉がわずかに動いた。
「見えた、か」
「はい」
「それはスキルの力か?」
俺は少し迷った。
全部を話すべきか。
それとも伏せるべきか。
しかし、すでに神殿で見せている。
屋敷でも何度も使っている。
今さら「気のせいです」は通らない。
「おそらく。好感度だけではなく、相手の状態や危険の兆しが見えます」
カイル兄上が笑った。
「便利な言い訳だな」
「兄上」
「状態や危険が見える? つまり、お前は屋敷の者たちを監視していたということか?」
「監視ではありません」
「では何だ? 使用人たちの体調や弱みを見て、恩を売っていたのか?」
言葉が喉で詰まった。
恩を売る。
そんなつもりはない。
でも、そう見えるのかもしれない。
俺が相手の困りごとを先回りして解決する。
感謝される。
好感度が上がる。
結果だけ見れば、そう言われても仕方ないのかもしれない。
父が低い声で言った。
「カイルから話があった」
嫌な予感が、背中を這い上がる。
「お前のスキルは、屋敷内の統制を乱す可能性がある、と」
「統制……ですか」
「使用人たちの心を覗き、弱みを掴み、好意を集める。もし悪用すれば、家中の者を意のままに動かすこともできる」
「そんなことはしません」
思わず即答した。
父は俺を見た。
カイル兄上は口元だけで笑う。
「しない、か。では証明できるのか?」
「それは……」
「できないだろう」
兄は一歩前に出た。
「父上。レンのスキルは危険です。戦闘向きではないなどと侮っておりましたが、これは家を内側から乱す力です」
「兄上、俺はただ」
「黙れ」
鋭い声だった。
「お前は昔からそうだ。何もできない顔をして、陰でこそこそ動く。使用人の同情を買い、父上の目を盗んで自分の評判を上げる。実にお前らしいやり方だ」
違う。
そう言いたかった。
でも、言葉が出ない。
前世でも、こういう時にうまく言い返せなかった。
相手の言葉が強いほど、自分の言葉は弱くなる。
口を開けば、余計に情けない声が出る気がする。
父が机の上の書類を一枚取った。
「レン。お前には、しばらく家を離れてもらう」
胸の奥が、すとんと落ちた。
スキルの警告通りだった。
追放イベント。
本当に来た。
「家を……離れる、ですか」
「表向きは、王都で見聞を広めるための修行という扱いにする」
父は淡々と言う。
「だが実質的には、クロフォード家から離れてもらう。生活費として、最低限の金は渡す。王都で冒険者になるなり、学ぶなり、好きにするといい」
好きにするといい。
それは優しさのように聞こえる。
だが、要するに「帰ってくるな」に近い。
カイル兄上の表示が浮かぶ。
状態:満足
隠し本音:これで屋敷から追い出せる
俺はそれを見て、妙に冷静になった。
ああ、やっぱりそうか。
この人は、俺が邪魔なのだ。
兄にとって、俺は弱くて見下せる弟でなければならなかった。
使用人たちに慕われたり、父に注目されたりしてはいけなかった。
俺が何者かになる前に、遠ざけたい。
そういうことなのだろう。
「父上は、それでよろしいのですか」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
父の表情は変わらない。
「お前の力は、まだ分からないことが多い。家中に影響を及ぼす前に、外で扱い方を学ぶべきだ」
「俺がここにいると、迷惑ですか」
父は少しだけ黙った。
その沈黙が、答えだった。
母がいれば、何か言ってくれただろうか。
いや、きっと困った顔で目を伏せただろう。
俺は小さく息を吐いた。
「分かりました」
カイル兄上の眉が動く。
たぶん、俺がもっと抵抗するとでも思っていたのだろう。
「受け入れるのか?」
「はい」
「随分あっさりしているな。悔しくないのか?」
悔しくないわけじゃない。
胸は痛い。
息も苦しい。
自分がまた居場所から押し出されるのだと思うと、手のひらが冷たくなる。
でも、前世の俺はずっと居場所がなかった。
それでも生きていた。
今世では、少なくとも力がある。
自分で歩ける足もある。
誰かを助けられるスキルもある。
「悔しくないと言えば嘘になります」
俺は兄を見た。
「でも、ここに残って誰かと争うくらいなら、外に出た方がいいと思います」
「負け惜しみだな」
「そうかもしれません」
俺は認めた。
負け惜しみでもいい。
自分を強く見せるために怒鳴るより、ずっと楽だった。
父が書類を机に置いた。
「出立は明朝だ」
「……早いですね」
「時間を置けば、使用人たちに余計な動揺が広がる」
なるほど。
俺が使用人たちに挨拶する時間も、あまり与えたくないらしい。
「分かりました」
俺は頭を下げた。
「これまで、お世話になりました」
父の顔がほんの少しだけ強張った。
カイル兄上はつまらなそうに鼻を鳴らした。
執務室を出ると、廊下がやけに長く感じた。
追放。
分かっていた。
スキルが警告していた。
それでも、実際に言われると、足元がふわふわする。
俺は自室へ戻り、荷物をまとめ始めた。
持っていけるものは少ない。
着替え。
少しの金。
ナイフ。
古い外套。
前世の記憶に頼って書き留めていたメモ帳。
それから、アンナにもらった焼き菓子の残り。
荷物を詰めていると、扉が叩かれた。
「レン様。アンナです」
「どうぞ」
扉が開く。
アンナは部屋に入るなり、机の上の荷物を見て、息を呑んだ。
「……本当なのですね」
「もう聞いたんだ」
「メイド長から。明朝、王都へ向かわれると」
「修行らしいよ」
俺は笑おうとした。
うまく笑えた自信はない。
アンナの頭上には表示が出ている。
状態:動揺
好感度:66
備考:レン様が理不尽に追い出されることに怒りを感じています
怒ってくれているのか。
それが少しだけ、胸に染みた。
「レン様は、それでよろしいのですか」
「よくはないけど、仕方ないかな」
「仕方ない、で済ませてよいことではありません」
アンナにしては珍しく、はっきりした声だった。
「レン様は、何も悪いことをしていません」
「でも、屋敷を乱したのは事実かもしれない」
「違います」
アンナは首を振った。
「乱れたのではありません。皆、気づいただけです。レン様が、私たちをちゃんと人として見てくださっていることに」
俺は言葉を失った。
前世でも今世でも、そんなことを面と向かって言われたことはなかった。
アンナは小さな袋を差し出した。
「こちらを」
「これは?」
「使用人たちからです」
中には、銀貨が数枚と、干し肉、固いパン、薬草、小さな裁縫道具、火打ち石が入っていた。
「こんなに受け取れないよ」
「受け取ってください。皆で少しずつ出し合いました」
「でも」
「レン様」
アンナがまっすぐ俺を見る。
「私たちは、レン様に何かを返したいのです」
胸が詰まった。
俺は、この屋敷で役に立っていたのだろうか。
少なくとも、彼女たちにとっては。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
アンナは少しだけ微笑んだ。
「それから、ボルド料理長からです」
彼女は別の包みを取り出した。
開けると、焼き菓子と、香草で味付けした干し肉が入っていた。
「王都までの道中、食べてくださいとのことです」
「ボルドらしいな」
「ハンクからは、こちらを」
小さな木彫りの護符だった。
粗削りだが、丁寧に磨かれている。
裏には、小さな花の模様が彫られていた。
「旅の安全を祈っているそうです」
「……そっか」
喉の奥が熱くなった。
泣くのは違うと思った。
でも、少し危なかった。
俺は護符を握りしめる。
「皆に、ありがとうって伝えて」
「直接お伝えください」
「え?」
「明日の朝、裏門に」
アンナは少しだけ声を潜めた。
「メイド長が、見送りの時間を作ってくださいます」
「マルタさんが?」
「はい。表向きは荷物確認です」
あの厳格なメイド長が。
俺は思わず苦笑した。
「怒られない?」
「すでに怒られる覚悟はできているそうです」
「強いな、メイド長」
「はい。とても」
アンナは深々と頭を下げた。
「どうか、お気をつけて」
「アンナも。無理しないで」
「はい。レン様に言われましたから」
彼女はそう言って、少し照れたように笑った。
扉が閉まった後、俺はしばらく動けなかった。
追い出される。
それは確かに惨めなことだ。
でも、誰にも惜しまれずに出ていくわけじゃない。
前世の俺が会社を辞めた時、机の上にあったのは段ボール一箱だけだった。
誰かが泣くこともなかった。
送別会もなかった。
まあ、退職理由が事故死だから当たり前ではあるが。
それでも今、俺の手元には小さな袋がある。
誰かが少しずつ出し合ってくれた旅支度。
その重みは、銀貨の重みではなかった。
◇
翌朝。
空はまだ薄暗かった。
屋敷の表門ではなく、裏門に馬車が用意されている。
表向きには「王都修行」。
けれど、見送りは最小限。
父は来なかった。
母も来なかった。
カイル兄上はもちろんいない。
代わりに、裏門には使用人たちがいた。
アンナ。
ボルド。
ハンク。
マルタ。
トマ。
掃除係の少年。
給仕の少女。
皆、仕事の合間を縫って来たのだろう。
長くはいられないはずだ。
マルタが俺に頭を下げた。
「レン様。お荷物の確認は済んでおります」
「ありがとうございます」
「王都はこの辺りとは違います。人も多く、騒がしく、危険もございます」
「はい」
「困った時は、まず休みなさい。疲れた頭では、まともな判断はできません」
厳しい声だった。
でも、その言葉には温かさがあった。
「覚えておきます」
ボルドが干し肉の追加包みを押しつけてきた。
「道中で腹を空かせるなど、料理長として許せませんのでな」
「こんなに食べきれないよ」
「食べきれなければ、誰かに分けてやればよろしい。レン様はそういう方でしょう」
ハンクは静かに木の枝を一本差し出した。
ただの枝ではない。
よく見ると、しなやかで丈夫そうな杖だった。
「山道でお使いください」
「ありがとう」
「庭の木から削りました。よく手に馴染むはずです」
アンナは最後まで何か言いたそうにしていたが、結局、深く頭を下げた。
「レン様。どうか、ご無事で」
「うん。アンナも元気で」
「はい」
その時、使用人たちの頭上に浮かぶ好感度が一斉に見えた。
数字の大小はある。
でも、その多くが温かい色をしていた。
状態:感謝
状態:寂しさ
状態:祈り
状態:敬意
俺は目を伏せた。
全部見えてしまうのは、やっぱり少し困る。
でも、この時だけは、見えてよかったと思った。
俺は馬車に乗る前に、振り返って頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
使用人たちがざわめいた。
貴族が使用人に頭を下げるなど、普通はしない。
でも、俺にはこれくらいしかできなかった。
「皆さんのおかげで、この家で生きてこられました」
言葉にすると、少しだけ本当になる気がした。
「王都で、何とかやってみます」
ボルドが鼻をすすった。
「まったく。最後まで調子が狂いますな」
ハンクは黙って頭を下げた。
アンナは目元を押さえていた。
マルタが厳しい顔のまま言う。
「レン様。胸を張ってお行きなさい」
「はい」
馬車が動き出す。
屋敷が遠ざかる。
裏門に立つ使用人たちの姿が、小さくなっていく。
その中で、アンナが最後まで手を振っていた。
俺は窓からそれを見て、静かに息を吐いた。
追放された。
でも、完全に空っぽではない。
手元には荷物がある。
胸には、小さな温かさがある。
それだけで、前世の俺よりはずっとマシだ。
◇
王都までは、馬車で数日かかる。
途中の宿場町までは商人の馬車に乗せてもらい、そこからは徒歩と乗合馬車を使う予定だった。
クロフォード家から出された金は、本当に最低限だった。
贅沢はできない。
だが、使用人たちの支援があるおかげで、すぐに困ることはなさそうだ。
街道は思ったより穏やかだった。
春の終わり。
風は少し暖かく、草原には小さな花が咲いている。
遠くには森。
その先に山。
馬車の車輪が石を踏むたび、荷台が揺れる。
同乗している商人のおじさんは、気さくな人だった。
「坊ちゃん、王都は初めてかい?」
「はい」
「なら気をつけな。王都は金も仕事もあるが、悪い奴も多い。人の良さそうな顔してると、すぐ騙されるぞ」
「よく言われます」
「自覚があるならまだいい」
商人は笑った。
頭上の表示は穏やかだった。
好感度:18
状態:親切
備考:若い旅人を少し心配している
悪い人ではないらしい。
俺は少し安心した。
ただ、街道を進むにつれて、森が近くなってきた頃。
急に表示が出た。
警告:周辺に魔物反応
推奨:警戒
俺は身体を起こした。
「どうした?」
商人が尋ねる。
「……この辺り、魔物が出ますか?」
「森が近いからな。たまにゴブリンやウルフが出る。だが、昼間の街道沿いなら滅多にない」
滅多にない。
そういう時ほど、嫌な予感は当たる。
数分後、馬が不安げに鳴いた。
前方の茂みが揺れる。
商人が顔色を変えた。
「まずいな」
飛び出してきたのは、灰色の狼のような魔物だった。
数は三匹。
前世の犬とは比べものにならない大きさだ。
牙は長く、目は赤い。
魔物:グレイウルフ
危険度:低〜中
弱点:鼻先、前脚関節
行動予測:馬を狙う
俺の視界に情報が浮かぶ。
心臓は跳ねた。
怖い。
当然だ。
前世で喧嘩すらまともにしたことがない男が、いきなり魔物と向き合って怖くないはずがない。
だが、逃げれば馬車が襲われる。
商人も馬も危ない。
俺はハンクからもらった杖を握った。
「坊ちゃん、下がってろ!」
商人が護身用の短剣を抜く。
その手は震えていた。
状態:恐怖
破滅フラグ:馬が暴れ、荷台転倒
対処法:魔物を馬から引き離す
俺は息を吸った。
足が震える。
でも、見えている。
弱点も、行動も。
「こっちだ!」
俺は荷台から飛び降り、石を拾って一匹の鼻先に投げつけた。
当たった。
グレイウルフが唸ってこちらを見る。
「うわ、こっち見た」
自分でやっておいて情けない声が出た。
魔物が跳びかかってくる。
行動予測:直線突進
回避方向:右
表示通りに右へ転がる。
牙が空を切った。
俺は杖で前脚の関節を叩く。
乾いた音がして、ウルフの体勢が崩れた。
いける。
いや、怖いけど、いける。
治癒魔力。
作業効率補正。
筋力補正・微。
戦闘予測・微。
いくつもの小さな力が、俺の身体を支えている。
俺は二匹目の動きを読み、杖で鼻先を打った。
三匹目が馬へ向かう。
「させるか!」
俺は走った。
間に合わないかと思った瞬間、自然感知が足場の良い場所を教えてくれた。
草の薄い部分を踏み、身体を前へ押し出す。
杖の先が、ウルフの脇腹を突いた。
魔物は悲鳴を上げ、森の奥へ逃げていく。
残りの二匹も、こちらを警戒しながら後退し、やがて茂みに消えた。
静かになった。
俺はその場に座り込んだ。
「……こわ」
思わず本音が漏れた。
商人がぽかんと俺を見ている。
「坊ちゃん……あんた、何者だ?」
「追放された元貴族の三男です」
「いや、そういう意味じゃねえ」
商人は苦笑した後、深々と頭を下げた。
「助かった。あんたがいなきゃ、荷も馬も俺も危なかった」
「無事でよかったです」
表示が変わる。
破滅フラグ:回避
好感度:18 → 47
能力還元:商人勘・微
また微。
でも、ありがたい。
商人勘とは何だろう。
騙されにくくなるのだろうか。
王都で役立ちそうではある。
馬車はそのまま近くの宿場町へ向かった。
商人は礼として、予定より多めに食料を分けてくれた。
「王都まで行くなら、途中の森は気をつけな。最近、教会の馬車が襲われたって噂もある」
「教会の馬車?」
「ああ。偉い聖職者が乗ってたとか、罪人を運んでたとか、話はいろいろだがな」
教会。
その言葉が、妙に引っかかった。
◇
宿場町で商人と別れた俺は、翌朝、王都へ続く森沿いの道を歩いていた。
乗合馬車は昼過ぎまで来ないらしい。
待ってもよかったが、天気も良く、道も分かりやすかったので、少し歩くことにした。
ハンクの杖は使いやすかった。
旅慣れていない俺でも、あるだけでずいぶん楽になる。
森の空気は濃い。
前世の公園とは全然違う。
木々の匂い、湿った土、遠くで鳴く鳥の声。
自然感知のおかげか、危険な場所と安全な場所が何となく分かる。
だが、森の奥から妙な気配がした時、俺は足を止めた。
警告:人間反応
状態:衰弱
破滅フラグ:本日深夜、追手により殺害
人間反応。
衰弱。
殺害。
俺は息を呑んだ。
道から少し外れた茂みの奥。
そこに、誰かが倒れている。
近づくべきか。
危険かもしれない。
罠かもしれない。
前世の俺なら、絶対に警察を呼んで終わりだ。
しかし、この世界にそんな便利なものはない。
そして俺には、表示が見えてしまっている。
俺は杖を握り直し、茂みをかき分けた。
そこにいたのは、少女だった。
白銀の髪が、草の上に広がっている。
白い衣は泥と血で汚れ、肩で浅く息をしていた。
顔立ちは驚くほど整っている。
ただし、その顔色は紙のように白い。
俺が近づくと、彼女の頭上に文字が浮かんだ。
名前:リリア・セレスティア
身分:元聖女
好感度:−20
状態:聖力枯渇、飢餓、極度の人間不信
破滅フラグ:本日深夜、教会騎士に発見され殺害
対処法:水分補給、食事、聖力循環の修復
備考:教会より追放、処分対象
元聖女。
教会より追放。
処分対象。
俺はしばらく、言葉を失った。
目の前の少女が、うっすらと目を開く。
青い瞳が、俺を映した。
警戒と恐怖が、その奥にある。
「……誰」
かすれた声だった。
「通りすがりです」
俺はできるだけ静かに答えた。
怖がらせないように、少し距離を取ってしゃがむ。
「水、飲めますか?」
少女――リリアは、俺を睨むように見た。
「……あなたも、教会の人?」
「違います」
「嘘」
「本当に違います。今朝まで貴族の家を追い出されて、王都に向かってる途中です」
リリアの眉がわずかに動いた。
「追い出された……?」
「はい。外れスキル持ちなので」
自分で言って、少しだけ笑った。
リリアは笑わなかった。
ただ、俺をじっと見ていた。
俺は荷物から水袋を取り出し、地面に置いた。
「近づくのが嫌なら、ここに置きます。飲めそうなら飲んでください」
「……毒かもしれない」
「そう思うなら、無理に飲まなくていいです」
俺は一歩下がった。
リリアはしばらく水袋を見ていた。
やがて、震える手を伸ばす。
水を口に含んだ瞬間、彼女の喉が小さく動いた。
よほど喉が渇いていたのだろう。
俺はボルドの干し肉とパンも出した。
「食べ物もあります」
「……どうして」
「え?」
「どうして、助けるの」
その問いに、俺は少し困った。
どうして。
理由は分からない。
スキルで破滅フラグが見えたから。
倒れている人を放っておけないから。
前世で何もできなかった自分が嫌だったから。
いろいろある。
でも、口から出たのはもっと単純な言葉だった。
「目の前で死にそうな人がいたら、普通は助けたいと思うから」
リリアの表情が揺れた。
頭上の表示が、ほんの少しだけ変わる。
好感度:−20 → −12
状態:警戒継続
備考:理解できない善意に戸惑っています
理解できない善意。
それが彼女の今までを物語っている気がした。
リリアは少しずつパンを食べた。
手は震えている。
けれど、食べる速度は早い。
「ゆっくりでいいです。喉に詰まります」
「……命令しないで」
「あ、ごめん」
反射的に謝ると、リリアはまた困惑した顔をした。
「謝るの?」
「今のは俺が余計なことを言ったので」
「変な人」
「よく言われます」
「……本当に?」
「最近は特に」
リリアは小さく目を伏せた。
少しだけ、空気が柔らかくなった気がした。
だが、安心するには早かった。
森の奥から、金属の鳴る音が聞こえた。
馬の足音。
鎧の擦れる音。
複数人。
リリアの顔が一瞬で青ざめる。
「来た……」
表示が赤く点滅する。
警告:教会騎士接近
目的:リリア・セレスティアの回収、または処分
推奨:即時離脱
教会騎士。
俺は息を吸った。
逃げるべきだ。
今すぐ。
でも、リリアは立てない。
聖力枯渇と飢餓で、まともに歩ける状態ではない。
「立てますか?」
「……無理」
「じゃあ、俺が背負います」
「触らないで」
「分かりました」
即答すると、リリアは驚いた顔をした。
「でも、このままだと捕まります」
「……」
「嫌なら触りません。でも、逃げる方法を考えないと」
リリアは唇を噛んだ。
その瞳に、恐怖が浮かんでいる。
やがて、小さな声で言った。
「……背負って」
「分かりました」
俺はできるだけ慎重に彼女を背負った。
軽い。
あまりにも軽かった。
こんな状態になるまで、誰も助けなかったのか。
胸の奥に、静かな怒りが生まれた。
森の中へ足を踏み出す。
自然感知が安全な道を教えてくれる。
戦闘予測が、後方から迫る気配を拾う。
作業効率補正が、荷物とリリアの重さをどう分散すれば楽かを教えてくれる。
小さな還元能力たちが、今は確かに俺を支えていた。
背中のリリアが、かすかに呟く。
「あなた……本当に、何者なの」
「追放されたばかりの、元貴族の三男です」
「それだけ?」
「今のところは」
リリアは少し黙った。
それから、耳元で小さく言った。
「……変な人」
「さっきも言われました」
「二回目」
「記録更新ですね」
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
だが、背後から男の声が響く。
「いたぞ! 聖女リリアだ!」
追手が来た。
俺は足を止めない。
視界の端に、新たな表示が浮かぶ。
リリア・セレスティア
好感度:−12 → −3
状態:混乱
備考:見捨てられないことに戸惑っています
マイナスが、少しだけ減った。
それで十分だった。
俺は森の奥へ走った。
追放されたその日に、追放された聖女を拾う。
どう考えても厄介事だ。
でも、見えてしまった以上、放っておけない。
俺は息を切らしながら、心の中でつぶやいた。
ああ、本当に。
俺の人生、普通からどんどん遠ざかっている。




