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第18話 教会密偵、迷宮の封印石を盗みに来る

 仮面の密偵は、リリアを見ていた。


 正確には、フードの奥に隠された顔ではなく、彼女の内側にある聖力を見ているようだった。


 その視線が、ひどく不快だった。


 品定めする目。

 道具の価値を測る目。

 壊れていないか、使えるかどうかを確認する目。


 俺は、その目を知っている。


 クロフォード家で兄が俺を見ていた目。

 外れスキルだと笑われた時の神殿の視線。

 前世で、場に馴染めない俺を遠巻きに眺めていた人たちの目。


 だが、リリアに向けられるそれは、もっと嫌だった。


「その聖力……まさか、逃げた聖女か?」


 密偵の声は低い。


 だが、驚きよりも喜びが混じっていた。


 獲物を見つけた声だ。


 リリアの肩が、ほんのわずかに震えた。


 それでも彼女は後ろへ下がらない。


 白い光を手に灯し、真っ直ぐに立っている。


「私は、ギルド所属の治癒師リアです」


 静かな声だった。


 以前の彼女なら、きっと何も言えなかっただろう。


 教会という言葉だけで固まり、聖女という呼び名に縛られ、過去の痛みに飲まれていたかもしれない。


 でも今の彼女は違う。


 怖がっている。

 けれど、逃げていない。


 そのことが、俺には分かった。


 密偵は喉の奥で笑った。


「名を変えれば逃げられると思ったか。聖力は隠せん」


 その手に握られた短い杖の先で、黒い石が鈍く光る。


 リリアの白い光が、わずかに揺らいだ。


「っ……」


「リリア!」


 思わず本名を呼びかけてしまう。


 彼女は胸元を押さえ、少しだけ顔をしかめた。


 俺の視界に赤い表示が走る。


対聖女用呪具

効果:聖力循環妨害、聖属性支援低下、精神的不安誘導

弱点:制御核、柄の根元

推奨:即時破壊

注意:長時間接触で対象の聖力を逆流させる危険あり


 まただ。


 また、聖力を奪うための道具。


 リリアの力を、本人の意思とは関係なく乱すためのもの。


 胸の奥に、静かな怒りが湧いた。


 セリカさんが剣を構える。


「レン、指示を」


「呪具の核は杖の根元です。黒い石じゃなくて、持ち手の下。そこに制御があります」


「分かった」


 セリカさんの返事は短かった。


 余計なことを聞かない。

 俺の見えているものを、そのまま戦術に変えてくれる。


 頼もしい。


 密偵は四人。


 全員が黒い外套と白い仮面をつけている。

 一人は呪具持ち。

 二人は短剣。

 残り一人は細い鎖のような武器を持っていた。


密偵A:呪具担当

目的:リリアの聖力妨害

弱点:右手首


密偵B:短剣

行動予測:セリカの足元狙い

弱点:左脇腹


密偵C:短剣

行動予測:レンへの接近、感知役排除

弱点:視野狭窄


密偵D:拘束鎖

目的:リリア捕縛

弱点:鎖の魔力結節


 俺狙いもいる。


 嫌だ。


 ものすごく嫌だ。


 だが、表示が出ている以上、伝えなければならない。


「一人、俺を狙ってきます。もう一人はリリアを鎖で捕まえるつもりです!」


 ダリウスさんが即座に命令を飛ばす。


「ガルム、レンの前。シェラ、鎖持ちを狙え。オルフェは呪具の解析。セリカ、前を止めろ」


「了解!」


 大盾のガルムさんが俺の前に入る。


 分厚い盾が、石床に鈍い音を立てて構えられた。


 セリカさんはその横を抜け、すでに踏み込んでいる。


 密偵Bが短剣で低く斬り込む。


 足元狙い。


 俺が叫ぶ前に、セリカさんは跳んだ。


「見えてるわ!」


 赤い髪が揺れる。


 剣が弧を描き、密偵Bの短剣を弾く。


 金属音が迷宮に響いた。


 続けて密偵Cがこちらへ走る。


 狙いは俺。


 ガルムさんが盾で受け止める。


「新人に触りたきゃ、俺をどかしてからにしろ!」


 盾と短剣がぶつかり、火花が散った。


 シェラさんの矢が、鎖持ちの密偵Dの足元に突き刺さる。


 密偵Dは軽く飛び退くが、その間にリリアから距離が離れる。


 リリアは胸元を押さえたまま、息を整えていた。


「リア、大丈夫ですか!」


 人前なので呼び直す。


 リリアは少しだけ苦しそうにしながらも、頷いた。


「大丈夫です。……少し、流れを乱されただけ」


「無理はしないでください」


「無理ではありません」


 彼女は手のひらの白い光を強めた。


「もう、ああいう道具に怯えているだけではいたくない」


 その言葉と同時に、聖力がふわりと広がる。


 白い光が、俺たちの足元を包んだ。


リリア支援:聖光領域

効果:精神干渉軽減、呪具効果弱化

注意:呪具の妨害下では消耗増加


 リリアは耐えている。


 呪具に妨害されながら、それでも支援を続けている。


 なら、俺も止まっていられない。


 密偵Aが呪具を掲げる。


 黒い石が脈打つように光った。


「聖女を壊すな。まだ使い道がある」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が冷たくなった。


 使い道。


 またそれか。


 リリアを物のように言う。


 エマさんを契約で縛ろうとした黒蛇金融商会と同じだ。

 ミュレアを封印石ごと利用しようとしている連中とも同じだ。


 人を、力を、都合のいい道具として扱う。


 俺は杖を握り直した。


「セリカさん!」


「何!」


「呪具持ちの右手首。そこを崩せば、制御が乱れます!」


「了解!」


 セリカさんは密偵Bの攻撃を受け流し、そのまま身体を反転させた。


 剣が低く走る。


 密偵Aは後ろへ下がろうとするが、遅い。


 セリカさんの剣の腹が、呪具を持つ右手首を叩いた。


「ぐっ!」


 密偵Aの手から、短い杖が落ちかける。


 だが完全には離れない。


 黒い石がさらに光った。


 リリアの聖力が、一瞬大きく乱れる。


「リリア!」


「平気……!」


 平気ではない。


 表示が赤くなる。


リリア・セレスティア

状態:聖力逆流兆候

破滅フラグ:呪具干渉による一時的聖力失調

対処法:呪具制御核の破壊、好感度リンクによる循環補助


 好感度リンク。


 またそれだ。


 使い方は、完全には分からない。


 けれど、以前リリアの呪具残滓を取り除いた時の感覚に近いはずだ。


 俺はリリアへ駆け寄ろうとした。


 その瞬間、密偵Cがガルムさんの盾を回り込んでくる。


密偵C

行動:レン排除

攻撃:右下から短剣

回避:後退困難

推奨:杖で手首を打ち、ガルムの盾側へ押し戻す


 怖い。


 刃物がこっちに向かってくる。


 でも、見えている。


 俺は一歩だけ引き、杖を振った。


 短剣を持つ手首に当たる。


 骨を打つ感触。


 密偵Cの動きが鈍る。


 その隙に、ガルムさんの盾が横から叩きつけられた。


「どけ!」


 密偵Cが吹き飛ばされ、石床を転がる。


「ありがとうございます!」


「礼は後だ!」


 その通りだった。


 俺はリリアのそばへ走った。


「触れてもいいですか!」


「はい!」


 彼女は即答した。


 俺は彼女の手を取る。


 冷たい。


 聖力は白く輝いているのに、指先が冷えていた。


 俺は自分の魔力を流し込む。


 前に呪具残滓を取り除いた時のように、彼女の中を流れる白い光を探る。


 黒い針のような妨害が、外から刺さっている。


 呪具の効果だ。


「この流れを押し返します!」


「分かりました」


「無理ならすぐ言ってください」


「レンも、無理はしないで」


「はい」


 俺たちは短く言葉を交わした。


 その瞬間、視界に表示が出る。


好感度リンク:起動

対象:リリア・セレスティア

目的:聖力循環補助、呪具干渉の逆流防止

成功率:高

注意:対象との信頼関係により安定


 信頼関係。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 俺はリリアの手を握る力を少しだけ強める。


 彼女も握り返した。


 白い光が、俺の魔力と混じる。


 黒い針が、少しずつ押し返されていく。


 密偵Aが苛立った声を上げた。


「何をしている! 聖女の力が乱れん!」


 ミュレアの声が、奥から楽しそうに響いた。


『ふふ。分からぬか。そなたらが道具で縛ろうとした力を、その男は縁で繋いでおるのじゃ』


「黙れ、封印魔族が!」


『黙らぬ。退屈でのう』


 この状況で煽るな。


 いや、少し助かっているのかもしれない。

 密偵たちの注意が一瞬ミュレアの声に向いた。


 その隙をセリカさんは逃さなかった。


「レン!」


「柄の根元です!」


「分かってる!」


 セリカさんが踏み込む。


 密偵Bが止めようとするが、シェラさんの矢がその足元を射抜く。


 密偵Bが体勢を崩す。


 セリカさんの剣が、呪具の柄の根元を正確に叩いた。


 ぱきん、と乾いた音。


 黒い石の光が揺らぎ、杖の根元に入っていた小さな金属環が砕けた。


対聖女用呪具:制御核破壊

効果:停止

リリア聖力循環:安定化


 リリアの手が、少し温かくなる。


「止まった……」


「よかった」


 俺は息を吐いた。


 だが、戦闘はまだ終わっていない。


 呪具を壊された密偵Aは、明らかに動揺していた。


「馬鹿な……対聖女用の封印具だぞ……!」


 対聖女用。


 その言葉に、リリアの目が細くなる。


「やはり、そういうものを作っていたのですね」


 密偵Aが口を閉ざす。


 遅い。


 もう言った。


 ダリウスさんが低く命じる。


「捕らえろ。生かして情報を吐かせる」


 ガルムさんが盾で密偵Cを押さえつけ、ニルさんが素早く縄をかける。


 シェラさんは逃げようとした密偵Dの足元へ矢を撃ち、動きを止めた。


 セリカさんは密偵Aの喉元に剣を突きつける。


「動かないで」


 その声は冷たかった。


 密偵Aは歯を食いしばる。


「貴様ら、自分たちが何を邪魔したのか分かっているのか」


「人を道具にする計画でしょう」


 セリカさんが言う。


「なら邪魔して正解ね」


 密偵Aは低く笑った。


「封印を解けば、魔王令嬢は教会のものになるはずだった。聖女の力も、魔王の血も、正しく管理されるべきものだ」


 部屋の空気が凍った。


 リリアの手が、俺の手の中でわずかに震えた。


 怒りだ。


 恐怖ではない。


 リリアは一歩前へ出る。


「正しく管理、ですか」


 密偵Aは仮面の奥で彼女を見る。


「力ある者が、己の意思で力を使うことは危険だ。教会が導く必要がある」


「導く?」


「聖女も、魔族も、民も。正しい秩序の中で管理されなければならない」


 リリアは静かに息を吸った。


 そして、はっきりと言った。


「私は、もうあなたたちに管理されません」


 密偵Aの目が細くなる。


「やはり逃亡聖女か」


「私はリアです」


 リリアは怯まなかった。


「ギルド所属の治癒師リア。私の力を誰に使うかは、私が決めます」


 その言葉が、迷宮の部屋に響いた。


 ミュレアの声が、珍しく茶化さずに言った。


『よい啖呵じゃ、白き娘』


「ありがとうございます。でも、今は静かにしてください」


『む。手厳しい』


 少しだけ空気が緩みかけたが、密偵Aはまだ諦めていなかった。


「逃げられると思うな。教会は必ずお前を取り戻す。聖女の力も、封印の魔族も、異端の感知者も――」


 異端の感知者。


 俺のことだ。


 密偵Aの視線が俺に向く。


「貴様もだ、レン。教会は貴様を見逃さない。その力は危険だ」


 胸の奥が冷えた。


 危険。


 それは自分でも思っている。

 俺のスキルは、好感度を見るだけではない。

 破滅フラグを変え、才能を開き、封印に触れられる。


 扱い方を間違えれば、本当に危険なのかもしれない。


 だが、セリカさんが一歩前へ出た。


「危険かどうかを、あなたたちが決めるの?」


「何?」


「レンは少なくとも、人を縛るために力を使っていない。あなたたちとは違うわ」


 リリアも言った。


「レンは、私の力を返してくれました」


 俺は思わず二人を見る。


 二人とも、真っ直ぐだった。


 密偵Aは吐き捨てるように言う。


「愚かな。情に流されているだけだ」


「かもしれません」


 俺は口を開いた。


 自分でも少し驚いた。


 怖い。


 密偵の言葉は、俺の中の不安を正確に刺していた。


 でも、黙っていたくなかった。


「俺は、自分の力が何なのかまだ全部分かっていません。危ないかもしれないとも思っています」


 密偵Aが黙る。


「でも、少なくとも、人を道具にするためには使いたくない」


 言葉にすると、少しだけ腹が決まった。


「誰かが勝手に奪った力を返せるなら返したい。壊されそうな人がいるなら止めたい。俺にできるのは、そのくらいです」


「偽善者が」


「そうかもしれません」


 この言葉にも、少し慣れてきた。


 偽善でもいい。


 何もしないよりは、ずっといい。


 ダリウスさんが短く言った。


「連れていけ」


 密偵たちは拘束され、ギルド職員によって部屋の隅へまとめられた。


 ダリウスさんは魔法封じの縄を使わせ、彼らの装備をすべて外させる。


 対聖女用呪具の残骸も回収された。


 オルフェさんが顔をしかめながら確認する。


「これは……構造がひどい。聖力を乱すだけではなく、逆流させて対象を弱らせる仕組みです」


 リリアが静かに目を伏せる。


「私につけられていたものと、同じ系統ですか」


「おそらく」


 オルフェさんは慎重に言った。


「ただ、これは携帯用の簡易型です。あなたに使われたものは、もっと長期的に吸収するためのものだったのでしょう」


 リリアは頷いた。


「そうですか」


 それだけだった。


 けれど、その横顔は強かった。


 泣いていない。

 震えてもいない。


 怒りを飲み込み、前を向いている。


 俺は、その姿を見ていた。


 ミュレアの声が、ふいに柔らかく響く。


『白き娘よ。そなた、人間にしては面白い』


「褒められているのでしょうか」


『褒めておる。妾は、縛られた者が己の名を取り戻す瞬間が嫌いではない』


 リリアは少しだけ目を細めた。


「あなたも、縛られているからですか」


 ミュレアは一瞬黙った。


 その沈黙が、妙に重かった。


『……さてな』


 彼女はいつもの調子に戻すように笑った。


『妾は高貴なる魔王令嬢。縛られておっても、退屈しておるだけじゃ』


「本当に?」


 リリアが問い返す。


 ミュレアは答えなかった。


 代わりに、俺の方へ声が向く。


『レン。そなた、また面倒なものを拾ったのう』


「拾ってません」


『白き聖女、赤き剣姫、受付嬢、そして今度は教会密偵の恨み。実に賑やかじゃ』


「恨みはいりません」


『妾もおるぞ』


「それが一番問題かもしれません」


『ひどい男じゃ』


 ひどいのはどちらだろう。


 俺は心の中でため息をついた。


     ◇


 教会密偵の拘束後、調査隊は円形部屋の確認を続けた。


 偽物の封印石二基は回収済み。

 だが、表示によれば残存偽装箇所はまだ不明。


 オルフェさんとニルさんが周囲を調べ、ダリウスさんは密偵から押収した道具を確認している。


 その中に、小さな金属板があった。


 表面には、教会の聖印に似た模様。

 ただし正式なものとは少し違う。


 俺のスキルが反応する。


密偵用認証札

所属:教会上層部直属ではなく、外部協力部隊

指令元:白灯商会経由

任務:封印石回収、証拠隠滅、リリア・セレスティア発見時の捕縛


「これ、白灯商会経由の指令みたいです」


 俺が言うと、ダリウスさんが金属板を受け取る。


「やはり白灯商会か」


「任務には、封印石回収、証拠隠滅、それから……リリア発見時の捕縛と出ています」


 リリアの表情は変わらなかった。


 でも、セリカさんの顔が明らかに険しくなる。


「最初から狙っていたわけね」


「迷宮で会ったら、という条件つきみたいです」


「どちらにしろ同じよ」


 セリカさんは剣の柄を握った。


「次に来たら、もっと容赦しない」


 ダリウスさんは頷いた。


「この証拠は大きい。白灯商会と教会上層部の関係を探る材料になる」


「でも、相手も動きますよね」


 俺が言うと、ダリウスさんは鋭い目でこちらを見た。


「その通りだ。だから今日の調査はここで切り上げる」


「戻るんですか?」


「偽装封印石を二基回収し、密偵を捕らえ、証拠を得た。これ以上奥へ進めば、相手の二の矢に引っかかる可能性がある」


 正しい判断だ。


 ミュレアの封印をどうするかという問題は残る。

 だが、今は無理に進むべきではない。


 そう思った瞬間、ミュレアの声が聞こえた。


『もう帰るのか』


「はい」


 俺は即答した。


『少しは名残惜しそうにせぬか』


「危険なので」


『正直すぎて可愛げがないのう』


「さっきは愛らしいとか言ってませんでした?」


『気分じゃ』


「便利ですね」


『妾は魔王令嬢じゃからな』


 便利な肩書きだ。


 だが、ミュレアの声はすぐに少し低くなった。


『レン。今日の石を抜いたことで、封印の歪みは少し直った。だが、根はまだ残っておる』


「根?」


『この迷宮の封印を書き換えようとした者がおる。妾を封じるためではなく、妾を利用するためにな』


 部屋が静まる。


 ダリウスさんが聞いた。


「誰だ」


『名は知らぬ。だが、聖印を持つ者と、白き商人ども。人間はいつも、都合よく名を変える』


「白灯商会か」


『おそらくな』


 ミュレアは続ける。


『そして、そやつらはまた来る。封印石を盗むためではない。今度は、妾の封印そのものを動かすために』


「あなたを解放するためですか?」


 俺が聞くと、ミュレアは小さく笑った。


『解放ではない。所有じゃ』


 その一言に、リリアが息を呑んだ。


 セリカさんが奥歯を噛む。


 所有。


 またその言葉だ。


 リリアも、エマさんも、ミュレアも。

 力を持つ者や弱った者を、誰かが所有しようとしている。


 俺は拳を握った。


『妾は外に出たい。だが、鎖を外されて別の首輪をつけられるつもりはない』


 ミュレアの声には、初めて明確な怒りがあった。


 からかうような調子ではない。


 封印されてなお失われない、王族の誇りのようなもの。


 俺は少しだけ、彼女の印象が変わるのを感じた。


 危険な魔王令嬢。

 人をからかう小悪魔。

 俺を運命の男と呼ぶ迷惑な相手。


 それだけではないのかもしれない。


 リリアが静かに言った。


「ミュレアさん」


『何じゃ、白き娘』


「私はまだ、あなたを信用していません」


『正直じゃのう』


「でも、誰かに所有されたいわけではないという言葉は、分かる気がします」


 ミュレアはしばらく黙った。


『……そうか』


 短い返事だった。


 けれど、そこには少しだけ本音があったように聞こえた。


 セリカさんも言う。


「あなたが危険なら、私は剣を向ける。でも、誰かがあなたを道具にするために封印を弄るなら、それも許す気はないわ」


『赤き剣姫。そなたは分かりやすくてよい』


「褒めても斬る時は斬るわ」


『それでよい』


 なんだか、三人の間に妙な理解が生まれかけている。


 俺は複雑な気持ちになった。


 いや、いいことなのかもしれない。


 ミュレアを無条件に信じるのは危険だ。

 でも、ただの敵と決めつけるにも、まだ早い。


 ダリウスさんが撤退を命じる。


「帰還する。密偵と証拠を無事に持ち帰るぞ」


 全員が動き出す。


 密偵たちは縄で拘束され、ガルムさんとニルさんが見張る。

 偽装封印石は専用の封印箱に入れられた。


 俺は最後に円形部屋を振り返った。


 ミュレアの姿は見えない。


 だが、声だけが小さく届く。


『レン』


「何ですか」


『そなた、今日も妾を置いていくのか』


「封印解除が目的ではありませんから」


『つれないのう』


「危険度MAXと出ている相手を、簡単に連れ出せません」


『正論じゃ。嫌いではない』


 それから、少しだけ声が柔らかくなる。


『だが、また来るのだろう?』


 俺はすぐに答えられなかった。


 来るべきではない。

 危険だ。

 教会も商会も絡んでいる。

 ミュレア自身も、何を考えているか分からない。


 でも。


 封印を利用しようとする者がいる。

 ミュレア自身も、所有されたくないと言った。


 そして俺は、きっと見なかったことにはできない。


「必要があれば」


 俺はそう答えた。


『ふふ。そなたらしい逃げ方じゃな』


「逃げ方って言わないでください」


『よい。待っておるぞ、運命の男よ』


「それもやめてください」


 ミュレアの笑い声が遠ざかる。


 俺たちは迷宮を後にした。


 背後に残る封印扉の奥で、魔王令嬢が何を思っているのかは分からない。


 けれど、一つだけ分かったことがある。


 この問題は、もう古代迷宮だけでは終わらない。


 教会。

 白灯商会。

 封印石。

 リリアの過去。

 ミュレアの封印。


 全部が繋がり始めている。


 そして、俺はその中心に引きずり込まれつつある。


 迷宮の出口へ向かいながら、俺は小さく呟いた。


「静かに暮らしたいだけなんだけどな……」


 リリアが隣で言った。


「もう少し先になりそうですね」


 セリカさんも言った。


「かなり先ね」


「二人とも、否定してくれないんですね」


 二人は、少しだけ笑った。


 その笑顔があったから、俺はまだ歩けた。


 たとえ次に待つのが、もっと大きな厄介事だったとしても。

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