第17話 再突入した迷宮で、魔王令嬢がめちゃくちゃ話しかけてくる
翌朝の王都は、妙に静かだった。
いや、人通りはある。
パン屋の煙突からは白い煙が上がり、馬車は石畳を鳴らし、露店の準備をする声も聞こえる。
けれど、どこか落ち着かない。
昨夜、北門近くに小型魔物が出たという噂が、もう広まっているのだろう。
通りを歩く人々の会話の端々に「魔物」「迷宮」「ギルド」という言葉が混じっていた。
俺は宿の前で革胸当ての留め具を確認しながら、小さく息を吐いた。
「……できれば、今日は何事もなく終わってほしい」
「古代迷宮に再突入する朝に言う台詞じゃないわね」
隣でセリカさんが即座に言った。
今日の彼女は軽装鎧に赤い髪をきっちり結い、腰には剣。
昨日までよりも、少しだけ表情が引き締まっている。
実家で「魔法の使えない落ちこぼれ」と呼ばれていた彼女は、もういない。
完全に消えたわけではないだろう。
傷はそう簡単に消えない。
でも、少なくとも今のセリカさんは、自分の剣で前に立とうとしている。
「レン、こっち」
そう言って、リリアが俺の肩紐を直した。
外ではリアと名乗っている彼女も、今日はいつもより念入りにフードをかぶっている。
だが、服の内側にはギルド所属治癒師としての簡易章をつけていた。
教会の聖女ではなく、ギルドの治癒師。
その小さな章が、今の彼女には大事な意味を持っている。
「少し緩んでいました」
「ありがとうございます」
「迷宮では、こういう小さな緩みが危ないとセリカさんが言っていました」
「セリカさんの指導がリリアにも浸透している」
「良いことよ」
セリカさんが胸を張る。
「装備確認は命に関わるんだから」
「分かっています」
「本当に?」
「昨日から三回確認しました」
「なら四回目」
「厳しい」
言いながら、俺はもう一度革紐を確かめた。
正直、ありがたい。
俺はまだ冒険者として完全な素人だ。
危険が見えるからといって、荷物の背負い方や装備の締め方まで自然に身についているわけではない。
セリカさんの細かい注意も、リリアの静かな確認も、全部俺を生かすためのものだ。
……少し過保護な気もするが。
「今、過保護って思った?」
セリカさんがこちらを見る。
「思ってません」
「顔」
「少し思いました」
「正直でよろしい」
リリアがくすりと笑った。
「レンは、顔に出るのを諦めた方がいいかもしれません」
「諦めることが多すぎる」
「目立たない生活も、もう諦め気味でしょう?」
「まだ諦めきれていません」
俺がそう言うと、二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
ひどい。
でも、悪い気はしなかった。
◇
ギルド前には、すでに調査隊が集まっていた。
ギルド長ダリウスさん。
大盾のガルムさん。
斥候のニルさん。
弓使いのシェラさん。
魔法使いのオルフェさん。
そして、俺たち三人。
前回より人数は少し絞られている。
今回は密売痕跡の確認と、偽物の封印石の特定が目的だかららしい。
エマさんも受付から出てきて、俺たちに小さな包みを渡してくれた。
「保存食と、簡易治療布です。皆さん、どうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
俺が受け取ると、エマさんは少し心配そうに俺を見た。
「レンさん、無理はしないでくださいね」
「はい」
「本当にですよ」
「はい」
リリアとセリカさんが、なぜか同時に頷く。
「私たちが見ています」
「見張ってるわ」
「見張られる前提なんですね」
エマさんは少し笑った。
昨日、黒蛇金融商会の手下たちが拘束されてから、彼女の表情は少しだけ明るくなっている。
まだ完全に解決したわけではない。
でも、一人で震えていた時とは違う。
誰かに相談できるようになっただけで、人は少し息がしやすくなるのかもしれない。
ダリウスさんが声を上げた。
「出発する。今回の目的は封印石の偽装箇所の特定、密売痕跡の確認、魔力漏れの応急処置だ。奥の封印対象への接触は、必要最低限に留める」
全員が頷く。
俺も頷いた。
ただ、その瞬間、頭の奥で小さく笑う声がした。
『必要最低限とは、寂しいことを言うのう』
来た。
まだ迷宮に入っていないのに。
俺は足を止めかけた。
リリアがすぐに気づく。
「レン?」
「……もう聞こえました」
セリカさんの眉が跳ねる。
「誰が?」
「ミュレアです」
「早すぎるわよ」
俺もそう思う。
頭の奥の声は、退屈を持て余した猫のように笑った。
『聞こえておるぞ、赤き剣姫。そなたは相変わらず威勢がよいな』
セリカさんが剣の柄に手を置く。
「こっちの声も聞こえてるのね」
『近くに来たからのう。封印越しでも、少しは耳が利く』
「覗き聞きは趣味が悪いわ」
『退屈なのじゃ。許せ』
「許さない」
『厳しい娘よ』
ダリウスさんが低く言った。
「もう接触しているのか」
「はい。声だけですが」
「全員、精神干渉に警戒しろ。レン、必要があればすぐ言え」
「分かりました」
ミュレアの声が、今度は俺へ向いた。
『そう構えるでない、レン。妾はただ、そなたが来るのを楽しみにしていただけじゃ』
「楽しみにしないでください」
『つれないのう。運命の男よ』
「その呼び方をやめてください」
『では、何と呼べばよい? 妾の未来の伴侶か?』
「もっと駄目です」
リリアの視線が静かに刺さった。
セリカさんの視線も刺さった。
俺は何も悪くない。
本当に何も悪くない。
ミュレアはそれを楽しんでいるらしく、くすくす笑っている。
『白き娘と赤き剣姫が怖い顔をしておるぞ。そなた、なかなか罪な男じゃな』
「俺のせいにしないでください」
リリアが静かに言った。
「ミュレアさん」
『ほう。白き娘が妾に声をかけるか』
「レンを困らせるのは、ほどほどにしてください」
『ほどほどならよいのか?』
「……よくはありません」
『ふふ。可愛いのう』
リリアの肩がわずかに震えた。
怒りではなく、妙な恥ずかしさのようなものだろうか。
セリカさんが前に出る。
「ミュレア。私たちは調査に行くの。邪魔をするなら、封印越しでも斬る方法を考えるわよ」
『その剣で妾を斬れるようになれば、大したものじゃ。楽しみにしておるぞ』
「本当に調子が狂う相手ね」
セリカさんが舌打ちする。
俺はこの会話だけで、すでに少し疲れていた。
まだ出発前である。
今日、本当に大丈夫だろうか。
◇
古代迷宮の入口へ着く頃には、ミュレアの声は一度消えていた。
だが、消えたというより、こちらを見ている気配だけ残している感じだった。
迷宮入口の石柱は、昨日よりも黒ずんで見えた。
蔦の一部が枯れている。
地面には、小さな魔物の足跡がいくつも残っていた。
俺の視界に表示が浮かぶ。
古代迷宮入口
魔力漏れ:前日比上昇
小型魔物誘引:継続
偽装封印石反応:中層方面
注意:精神干渉微弱
「偽物の封印石反応は中層方面です」
俺が言うと、ダリウスさんが頷いた。
「前回より奥か」
「はい。ただ、深部ではありません」
「なら予定通りだ。中層手前まで進む」
調査隊は陣形を整え、迷宮に入った。
前回と同じ階段。
青白い鉱石の光。
冷たい空気。
昨日より、壁の光が少し不安定に揺れている気がした。
リアが小声で言う。
「聖力がざらつく感じがします」
「ざらつく?」
「綺麗な水に、細かい砂が混じっているみたいな感覚です」
詩的だが、分かりやすい。
オルフェさんが興味深そうに頷いた。
「聖属性の感覚では、そう捉えられるのですね。魔力計測では、微細なノイズが増えています」
セリカさんが周囲を警戒しながら言う。
「つまり、昨日より悪化している?」
「そう見てよいかと」
やはり、放置できない。
上層通路では、昨日より魔物反応が多かった。
ストーンインプ二体。
ナイトグリム一体。
さらに、壁に張りつくような影の魔物。
魔物:シャドウリーチ
危険度:中
特性:影から足首を絡め取る
弱点:光、火、聖属性
「影に注意してください。足元から絡みます」
「分かった」
セリカさんが前へ出る。
リアが白い光を足元に広げる。
すると、床に潜んでいた黒い影が、じりっと後退した。
「そこ!」
セリカさんの剣が走る。
影が裂けるように消える。
シェラさんの矢がナイトグリムを撃ち落とし、ガルムさんがストーンインプの突進を盾で受け止める。
俺は表示を見ながら、弱点を伝える。
「左のストーンインプ、胸の核が少し右寄りです!」
「了解!」
セリカさんが剣を振る。
核が砕ける。
以前より、俺たちの連携は確実に良くなっていた。
リリアの支援は、俺だけに偏らなくなっている。
セリカさんの前衛も、俺の警告に自然に反応する。
俺も、無理に前へ出ないよう気をつけていた。
……たぶん。
「レン、半歩下がって」
リリアに言われる。
「はい」
「今、前に出ようとしていました」
「出ていません」
「出ようとしていました」
「……はい」
やっぱりばれる。
セリカさんが魔物を斬りながら言った。
「案内役は生き残ることが仕事よ」
「分かっています」
「ならよし」
短い会話。
でも、それだけで足元が少し安定する。
俺は一人で戦っているわけではない。
そう思えることが、以前よりずっと増えていた。
◇
中層へ続く管理通路に入ると、空気が一段重くなった。
壁の紋様が紫に光っている。
床には、何かを引きずったような跡があった。
ニルさんがしゃがみ込む。
「これは採掘跡じゃないな。何かを運んだ跡だ」
俺の表示も反応する。
痕跡:封印石片運搬
時期:二週間以内
関連:白灯商会
注意:証拠残留あり
「二週間以内に、封印石片を運び出した跡みたいです」
ダリウスさんの顔が険しくなる。
「最近だな」
「はい。白灯商会関連と出ています」
オルフェさんが壁の一部を調べる。
「ここ、封印石の基部が削られています。外から見ればただの壁ですが、内部の魔力結節が一部抜かれている」
「それで封印が弱まった?」
「おそらく」
ミュレアの声が、ふいに響いた。
『そうじゃ。そこの石を抜いた愚か者どもがおった。こそこそと壁を削り、欠片を盗み、封印の流れを歪めた』
ダリウスさんが目を細める。
「見ていたのか」
『封印されておるからといって、眠っているわけではない。退屈ゆえ、耳も目も働かせておる』
「犯人の顔は?」
『全員、白い覆いをしておった。だが、一人は聖印を持っていたぞ』
リリアの肩が強張る。
聖印。
教会関係者の可能性が高い。
ミュレアは続ける。
『白き娘よ。そなたが憎む者と、同じ匂いじゃ』
リリアは少しだけ目を閉じた。
だが、すぐに開く。
「私は、憎しみだけで動きたくありません」
『ほう』
「でも、許すとも決めていません」
その声は静かで、強かった。
「知りたいのです。何が行われていたのか。誰が苦しめられていたのか。そして、もう同じことが起きないようにしたい」
迷宮の空気が、一瞬だけ静まった気がした。
ミュレアは少し黙り、それから愉快そうではなく、どこか興味深そうに言った。
『聖女というのは、もっと退屈なものかと思っていたが。そなたは違うのう』
「私はもう、教会の聖女ではありません」
『では何者じゃ?』
「ギルド所属の治癒師、リアです」
リリアがそう言った瞬間、俺の視界に淡い表示が浮かんだ。
リリア・セレスティア
状態:自己確立進行
備考:自分の肩書きを自分で選び始めています
胸が少し熱くなる。
セリカさんも、小さく笑った。
「いいじゃない」
リリアは少し照れたように視線を伏せた。
『ふむ。白き娘、覚えておこう』
「覚えなくていいです」
俺が反射的に言うと、ミュレアが笑った。
『嫉妬か?』
「違います」
『では独占欲か?』
「もっと違います」
セリカさんがこちらを見る。
「レン、反応しすぎ」
「だって」
「からかわれてるのよ」
「分かってます」
『分かっておって反応するところが、そなたの愛らしいところよ』
「愛らしくありません」
調査隊の何人かが笑いをこらえている。
ダリウスさんまで、ほんの少しだけ口元が動いていた。
俺は顔を覆いたくなった。
古代迷宮調査中に、なぜ俺は魔王令嬢から言葉責めのようなものを受けているのか。
人生、分からなすぎる。
◇
さらに奥へ進むと、広い円形の部屋に出た。
中央には壊れた台座。
周囲には八本の石柱。
そのうち二本が黒く変色している。
俺の視界に、強い反応が出た。
偽装封印石:確認
位置:北東石柱、南西石柱
性質:模造品
効果:封印術式の流れを偽装、魔力漏れ誘導
危険:放置時、小型魔物誘引増加
「ここです」
俺は部屋の二本の石柱を指差した。
「あの二本に偽物の封印石が入っています」
オルフェさんがすぐに調査道具を取り出す。
魔力計の針が激しく揺れた。
「確かに異常です。表面だけ本物に似せていますが、内部の魔力構造が違う」
「外せるか?」
ダリウスさんが聞く。
「慎重にやれば。ただ、術式が変に絡んでいます。無理に抜くと魔力漏れが一気に広がるかもしれません」
表示も同じ警告を出していた。
注意:強制除去により封印術式暴走
推奨:聖力安定化、剣気による外部干渉遮断、好感度リンクによる流路確認
また出た。
好感度リンク。
俺が思わず眉をひそめると、リリアが気づいた。
「何か必要ですか?」
「聖力で安定化。セリカさんの剣気で外部干渉を遮断。俺が流れを確認する、と出ています」
セリカさんが剣を抜く。
「やればいいのね」
「即答ですね」
「必要ならやるわ」
リリアも手をかざす。
「私もやります」
「二人とも、無理は」
「レン」
二人が同時に俺を見た。
「……はい」
言わなくても分かった。
無理を心配するのは俺だけの役目ではない。
誰かに任せることも、必要なのだ。
オルフェさんが中心の術式を読み取り、リリアが白い光で石柱周辺を包む。
セリカさんは剣に赤い光を宿し、柱の周囲に薄い斬撃の線を描いた。
俺は台座に手を置く。
冷たい。
同時に、迷宮全体の魔力の流れが見えた。
水路のようだった。
本来なら、石柱から台座を通り、下層封印へ流れるはずの力。
だが、偽物の封印石が入れられたことで流れが曲がり、外へ漏れている。
「左の流れが詰まっています。リリア、もう少し北東側へ聖力を」
「分かりました」
「セリカさん、南西の黒い筋を切れますか?」
「やってみる」
セリカさんの剣が短く走る。
石柱の表面に浮かんだ黒い筋が、赤い光で断ち切られた。
偽物の封印石が震える。
オルフェさんが叫ぶ。
「今です、引き抜きます!」
ギルド職員が専用の器具で石を外す。
ごとり、と鈍い音。
一つ目の偽装封印石が外れた。
続いて二つ目。
部屋全体の紫の光が、少し弱まった。
偽装封印石:二基除去
魔力漏れ:二十七%低下
小型魔物誘引:低下
残存偽装箇所:不明
完全ではないが、効果はあった。
俺は息を吐く。
「魔力漏れが下がりました」
ダリウスさんが頷く。
「上出来だ」
その時、ミュレアの声が響いた。
『ほう。見事じゃ。やはりそなたの力、封印術式と相性がよい』
「褒めても何も出ません」
『妾が喜ぶ』
「それは出なくていいです」
『つれないのう』
ミュレアは楽しそうだった。
しかし、次の瞬間、その声色が少し変わる。
『だが、気をつけよ。そなたら以外の者が入ってきた』
全員が身構えた。
俺の表示も遅れて赤く光る。
敵性反応:接近
数:四
所属:不明
装備:隠密装束、対聖女用呪具
目的:封印石回収、証拠隠滅
注意:リリア・セレスティアの正体露見リスク
心臓が跳ねた。
来た。
教会密偵かもしれない。
セリカさんが剣を構える。
「数は?」
「四人。対聖女用の呪具を持ってます」
リリアの顔が少し白くなる。
それでも、彼女は後ろへ下がらなかった。
「私は、大丈夫です」
「無理はしないでください」
「無理ではありません」
リリアは白い光を手に灯した。
「もう、ただ奪われるだけではいたくありません」
その声に、俺は頷いた。
セリカさんが一歩前へ出る。
「レン、指示を」
「はい」
俺は杖を握り直す。
迷宮の通路の奥から、黒い影が近づいてくる。
ミュレアの声が、楽しそうに囁いた。
『さあ、来るぞ。白き娘を狙う者どもじゃ』
俺は奥歯を噛んだ。
またか。
また、誰かを道具にしようとする連中か。
なら、今度も見逃すわけにはいかない。
通路の影が、円形部屋の入口に現れた。
黒い外套。
白い仮面。
手には、黒い石のはめ込まれた短い杖。
その黒い石を見た瞬間、リリアの聖力がわずかに乱れた。
俺の視界に、赤い文字が浮かぶ。
対聖女用呪具
効果:聖力循環妨害、聖属性支援低下
弱点:制御核、柄の根元
推奨:即時破壊
俺は叫んだ。
「呪具の核は、杖の根元です!」
セリカさんが低く構える。
リリアが息を整える。
ダリウスさんが盾役へ指示を飛ばす。
そして、仮面の密偵が言った。
「その聖力……まさか、逃げた聖女か?」
リリアの表情が、一瞬だけ止まった。
俺は前へ出た。
「違う」
声が自然と低くなる。
「彼女は、ギルド所属の治癒師リアだ」
密偵の仮面の奥で、目が細くなる。
セリカさんが剣を上げる。
「それ以上その子を見るなら、まず私を越えなさい」
ミュレアが奥で笑った。
『ふふ。よいぞ。実に面白くなってきた』
笑い事ではない。
だが、ここで退く気もなかった。
古代迷宮の中層。
偽物の封印石を外した直後。
教会密偵らしき者たちとの戦闘が、始まろうとしていた。




