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第106話 呼称選択権という新しい盾

翌朝、相談室の掲示板には、新しい紙が貼られた。


 まだ正式公布ではない。


 試験運用中の補助説明。


 けれど、その紙の上部には、ユリアナ先輩の整った字で大きくこう書かれていた。


 ――呼称選択権について。


 その言葉は、昨日生まれたばかりだ。


 けれど、もう相談窓口の真ん中に置かれている。


 名前を取り戻すことだけが救いではない。

 名前を捨てることだけが自由ではない。

 呼ばれ方を、本人が選べること。


 呼ばれたくない名を拒否できること。

 今は未定にできること。

 大事な名前を休ませられること。

 意味を分けられること。

 家名や役割名との距離を調整できること。

 呼ばれる相手や場所や時期を選べること。


 そして、名前を取り戻さないまま支援を受けてもいいこと。


 長い。


 ものすごく長い。


 だが、短くすると絶対に誤解される。


 だから長くていいのだと思う。


 人を守る言葉は、たいてい面倒で長い。


 昨日、ミュレアがそう言った。


 悔しいが、かなりその通りだった。


「レン様」


 ユリアナ先輩が、掲示文の下に追加する説明札を持ってきた。


「この説明で、読みにくい部分はありますか?」


「全部しっかり書いてあると思います。ただ、少し硬いかもしれません」


「硬い」


「はい。制度文としては正しいです。でも、初めて読む学生には、ちょっと身構えられるかも」


 ユリアナ先輩は真剣に頷く。


「では、補助文が必要ですね」


 すぐに紙を追加しようとする。


 仕事が速い。


 速すぎる。


 リリアが横からやんわり止めた。


「ユリアナさん、まず相談しましょう」


「はい」


「補助文は、少し柔らかくしましょう。たとえば……」


 リリアはペンを取り、別紙に書いた。


 ――呼ばれ方で苦しい時は、相談できます。

 ――本名を変える必要はありません。

 ――すぐ決める必要もありません。

 ――未定でも構いません。


 短い。


 でも、必要なことは入っている。


 セリカさんがそれを見て頷いた。


「こっちの方が入りやすいわね」


 ノエルも短く言う。


「入口用」


「そうですね」


 ユリアナ先輩は、二枚の紙を並べた。


「では、上に入口用の説明。下に制度詳細を置きます」


「良いと思います」


 アイリスは窓際で氷結界を調整しながら、掲示を見つめていた。


「呼称選択権……まだ少し、不思議な言葉です」


「アイリスにはどう見えますか?」


 俺が聞くと、アイリスは少し考えた。


「盾、という表現が近いと思います。誰かを攻撃するためではなく、勝手に貼られた名前を受け止めすぎないための盾」


「冷血魔女とか」


「はい」


 アイリスは小さく頷いた。


「今なら、あの呼び名をそのまま受け取らずに済む気がします。私は冷血魔女ではなく、アイリスです。ただ、誰にでもすぐアイリスと呼ばれたいわけでもありません。その距離を選べることが、たぶん大事です」


 言葉が、かなり自然に出ていた。


 以前のアイリスなら、ここまで自分のことを話さなかったかもしれない。


 リリアが微笑む。


「アイリスさん、とても分かりやすいです」


「……そうでしょうか」


「はい」


 アイリスは頬を赤くして、氷盾を少しだけ厚くした。


 照れると氷が増える。


 最近の分かりやすい変化だ。


 通信水晶からミュレアが言う。


『呼称選択権か。なるほど、妾にも必要な権利じゃな』


「ミュレアは何と呼ばれたいんですか」


『偉大なるミュレア様』


「却下ですね」


『なぜじゃ!』


 セリカさんが即答する。


「長い」


 ノエルも頷く。


「呼称として非効率」


『効率で妾の偉大さを削るな!』


 リリアが微笑みながら言う。


「では、相談室では今まで通りミュレアさんで」


『むう……まあ、白き娘がそう呼ぶなら許してやらぬでもない』


「ありがとうございます」


『む、礼を言われると調子が狂う……』


 このやり取りを聞いていると、呼称選択権は本当に面倒だと思う。


 でも、その面倒さの中に、人との距離がある。


 近すぎず、遠すぎず、本人が息をできる呼び方。


 それを選ぶ権利。


     ◇


 午前の授業前、教師向けの簡易研修が開かれた。


 場所は小会議室。


 参加者は各科の代表教師と、相談窓口に関わる補助教員たち。


 前回、保護印制度について慎重な意見を出した貴族教養科の教師も来ていた。


 表情はまだ厳しい。


 だが、敵意ではない。


 制度を見極めようとしている顔だった。


 ユリアナ先輩が前に立つ。


「本日は、保護印制度の補助概念として、呼称選択権について説明します」


 教師たちの前に、資料が配られる。


 見出しはこうだ。


 呼称選択権:呼ばれ方を本人が選び、拒否し、未定にし、休止し、距離を調整する権利。


 魔術科主任が資料を見ながら言う。


「権利、とすると少し強い印象がありますね」


 ユリアナ先輩は頷いた。


「はい。ですが、単なる配慮とすると運用が担当者任せになります。最低限守るべき線として、権利という形にしました」


 記録管理担当教師が続ける。


「公的記録上の氏名や家名まで、本人希望で自由に変えるという意味ではないのですね」


「違います」


 ユリアナ先輩ははっきり答えた。


「公的記録、成績管理、身分確認には、正式名が必要です。ただし、相談時や授業内呼称、掲示名、呼びかけ方において、本人の苦痛を軽減する余地を作ります」


 リリアが補足する。


「呼ばれたくないあだ名や、本人を傷つける呼び方を続けることは、学習や相談の妨げになります。呼称選択権は、単なる好みの問題ではなく、学ぶため、相談するための安全に関わります」


 貴族教養科の教師が静かに手を上げた。


「たとえば、家名を呼ばれたくないという生徒がいた場合、教師はどう対応すべきですか。貴族教養科では、家名を含めた呼称が礼法の一部でもあります」


 これも当然の疑問だ。


 ユリアナ先輩は資料の一部を示した。


「場面を分けます。公式儀礼や公的記録では家名を用いる場合があります。ただし、通常授業や個別指導、相談時には、本人の希望に応じて個人名、保護印、席番号、提出番号などを使い分けることができます」


 セリカさんが少しくだけた言い方で補足した。


「要するに、全部一緒くたにしないってことです。礼法で必要な呼び方と、普段の呼び方と、相談室の呼び方は分けられる」


 貴族教養科の教師は少し考え、頷いた。


「なるほど。家名そのものを否定する制度ではなく、家名が本人を圧迫する場面を減らす制度ということですね」


「はい」


 リリアが微笑む。


「家名を大切にしたいからこそ、少し距離を置きたい生徒もいます」


 羽さんのことだ。


 もちろん名前は出さない。


 だが、言葉の裏にその相談があることは、俺たちには分かっている。


 ノエルは魔術的観点から説明した。


「本人が拒否している呼称を繰り返すと、才能名や自己認識の揺らぎが強くなる場合がある。第四の系統干渉がある現状では、呼称の強制はリスク」


 魔術科主任が真剣な顔になる。


「つまり、呼び名一つでも魔力反応へ影響する可能性があると」


「ある」


 ノエルは即答した。


「特に才能名未定、保護印使用中、呼称休止中の生徒は注意」


 教師たちが資料へ視線を落とす。


 硬かった空気が、少しずつ実務の顔へ変わっていく。


 反発ではなく、運用の検討。


 それは前進だった。


     ◇


 だが、全員が納得したわけではない。


 若い実技担当教師が、困ったように言った。


「ですが、授業中に一人ひとりの呼ばれ方を確認するのは、正直かなり手間です。実技訓練では即時指示が必要ですし、名前を呼ぶたびに確認していては遅れます」


 セリカさんが少し眉を上げる。


 けれど、すぐには噛みつかなかった。


 現場の負担としては、確かに分かるからだ。


 ユリアナ先輩が答える。


「全ての呼称を毎回確認する必要はありません。事前に呼称希望欄を作ります。通常呼称、避けるべき呼称、緊急時呼称。この三つを登録します」


「緊急時呼称?」


「はい。危険回避のため、短く呼ぶ必要がある場面があります。その場合に使ってよい呼称を本人と事前に決めます」


 ノエルがすぐに補足する。


「戦闘時は短さ重要。だからこそ事前登録」


 セリカさんが頷いた。


「剣術訓練でも使える。呼ばれたくないあだ名で怒鳴るより、最初から緊急時の呼び方を決めた方が早い」


 実技担当教師は少し考え込んだ。


「なるほど……実務的ですね」


「感情論だけだと回りませんから」


 セリカさんが言うと、ユリアナ先輩が一瞬だけ彼女を見た。


「セリカ様が制度運用寄りの発言を」


「何その意外そうな顔」


「いえ、頼もしいと思いました」


「褒め方が硬い」


 小会議室に少し笑いが起きる。


 笑いがあると、制度の話も入っていきやすい。


 これも相談室で学んだことだ。


 リリアは、最後に教師たちへ向けて言った。


「呼称選択権は、教師の皆さんを責めるための制度ではありません。これまでの呼び方をすべて否定するものでもありません。ただ、ある呼び方で苦しんでいる生徒がいた時、変えられる道を作るものです」


 その言葉に、貴族教養科の教師が静かに頷いた。


「分かりました。試験運用として協力します」


 その一言で、場の空気が大きく変わった。


 正式な全面承認ではない。


 でも、協力するという言葉が出た。


 ユリアナ先輩は丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


     ◇


 昼過ぎ、相談室へ戻ると、受付箱が光っていた。


 保護印、扉。


 相談内容欄には一言だけ。


 ――盾。


 昨日と同じ言葉。


 だが、今日は少し違った。


 文字の横に、小さな線があった。


 まるで、盾の縁をなぞったような白い線。


 ノエルが測定具をかざす。


「反応、安定。概念定着中」


「概念定着って言い方、すごいですね」


「呼称選択権を盾として理解し始めている」


 ユリアナ先輩が頷き、返答用紙を用意した。


「今日は、こちらから報告してみましょう」


 リリアがペンを取る。


 ――呼称選択権について、学園の教師たちへ説明しました。

 ――まだ全員が完全に理解したわけではありません。

 ――でも、試験運用として協力してもらえることになりました。

 ――盾を、相談室の中だけでなく、少しずつ外へ広げます。


 紙が光った。


 返答。


 ――外へ。


 もう一行。


 ――外は、危険。


 俺はペンを取った。


 ――はい。外にはまだ危険があります。

 ――呼称選択権を面倒だと思う人もいます。

 ――間違える人もいます。

 ――だから、すぐ全部を変えるとは言いません。

 ――まず、相談室と学園の一部から始めます。


 紙が光る。


 ――嘘ではない。


 この返答は、前にもあった。


 扉の声は、綺麗すぎる言葉より、不完全でも正直な言葉を信じ始めている。


 リリアが優しく続けた。


 ――外が危険だからこそ、盾が必要です。

 ――盾は、攻撃するためではありません。

 ――全部を防げなくても、呼ばれ方を選ぶ助けになります。


 返答。


 ――全部を防げない盾。


 ――役に立つのか。


 セリカさんが笑った。


「完璧じゃない盾でも、あるとないじゃ違うでしょ」


 彼女はそのまま書いた。


 ――完璧じゃなくても役に立つ。

 ――剣を全部止められない盾でも、一撃を弱められる。

 ――逃げる時間を作れる。

 ――仲間が来るまで耐えられる。

 ――だから、盾は必要。


 紙が光る。


 返答。


 ――逃げる時間。


 ――仲間が来るまで。


 しばらく沈黙があり、次の文字が浮かんだ。


 ――盾は、待つためのもの。


 セリカさんが少し驚いた顔をした。


「なるほどね」


 ノエルが記録板に書く。


「盾=完全防御ではなく、時間確保。扉の理解、進行」


 アイリスが静かにペンを取った。


 ――盾は、待つためにも使えます。

 ――自分を守りながら、考えるためにも使えます。

 ――すぐ答えを出せない時、未定でいるためにも使えます。


 返答。


 ――未定でいるための盾。


 俺は、その文字を見て胸が少し熱くなった。


 未定でいるための盾。


 俺にも必要なものだ。


 才能名を急いで決めないための盾。

 好意支配という名前に飲まれないための盾。

 便利な覚醒装置にならないための盾。


 呼称選択権は、扉の声だけではなく、俺自身にも必要だった。


     ◇


 その日の午後、呼称選択権の申請用紙が試作された。


 ユリアナ先輩とノエルが中心になり、リリアが言葉を柔らかくし、セリカさんが実技向けに短くし、アイリスが拒否呼称欄の表現を慎重に調整した。


 内容はこうだ。


 通常呼称。

 避けてほしい呼称。

 休ませたい呼称。

 保護印の使用希望。

 未定希望。

 緊急時呼称。

 教師への共有範囲。

 相談時のみ適用か、授業時にも適用か。

 後日変更可能。


 俺はその用紙を見て、少し感心した。


「かなり実用的ですね」


 ユリアナ先輩が頷く。


「使われなければ意味がありませんから」


 ノエルが補足する。


「項目が多すぎると書けない。少なすぎると守れない。調整中」


「未定でも出せるんですか?」


「出せます」


 ユリアナ先輩が答える。


「通常呼称だけ未定、緊急時呼称だけ指定、避けたい呼称だけ記入など、部分提出を認めます」


 リリアが微笑む。


「全部決められなくても出せるようにしたいです」


「それは大事ですね」


 アイリスが拒否呼称欄を見つめながら言った。


「避けてほしい呼称を書くのは、少し勇気が要ります」


「そうですね」


「ですから、選択式もあるとよいと思います。あだ名、家名付き呼称、役割名、才能名、蔑称、その他。自由記述だけだと、書くのが苦しい人もいます」


 リリアが頷き、すぐに追加した。


「とても大切です」


 アイリスは少し照れたように視線を逸らした。


「経験上です」


 セリカさんが、緊急時呼称欄を見ながら言う。


「実技訓練用には、短い呼び方を一つ決めておくと助かる。フルネームが嫌でも、戦闘中に長い保護印は呼べないし」


「セリカさん、完全に運用側ですね」


「実技で事故ると困るからね」


 そうして、用紙は少しずつ形になっていった。


 制度は面倒だ。


 でも、こうして誰かの具体的な困りごとを拾っていくと、ただの紙ではなくなっていく。


 未定さんのための空欄。

 灯さんのための休止欄。

 雨さんのための意味分離。

 羽さんのための家名距離。

 男子生徒のための名乗り疲労。

 扉の声のための呼称不可と未定。


 全部が、紙の中に少しずつ入っている。


     ◇


 夕方、受付箱にまた保護印「扉」の相談票が届いた。


 内容は短かった。


 ――盾を、持つ。

 ――未定のまま。


 リリアが目を細める。


「はい」


 俺は返答を書く。


 ――持っていてください。

 ――使い方は、すぐに決めなくても構いません。

 ――盾を持ったまま、休んでも構いません。

 ――次に夢の相談室へ入る時も、盾を持っていて大丈夫です。


 紙が光る。


 返答。


 ――入る。

 ――盾を持つ。

 ――名前は、まだ。


 ユリアナ先輩が静かに記録する。


「次回夢接触時、扉の声は呼称選択権を“盾”として保持した状態で入室する可能性あり」


 ミュレアが通信越しに言う。


『よい。盾を持って入る者に、こちらが剣を向けるなよ』


「もちろんです」


『いや、物理的な剣だけではない。問いも剣になる。善意も剣になる。救いたいという気持ちも、ときに剣になる』


 その言葉に、相談室は静かになった。


 救いたい気持ちも剣になる。


 本当に、その通りだ。


 俺たちは扉の声を救いたい。


 でも、その気持ちで本当の名前を迫ったら、それは剣になる。


 椅子に座れと促しすぎたら、それも剣になる。


 ありがとうを言わせようとしたら、それも剣になる。


 だから、盾を持って入ってきた相手には、こちらも言葉を慎重に持たなければならない。


 リリアが静かに言った。


「次は、迎える準備ですね」


「はい」


 アイリスが氷結界を少しだけ広げる。


「守るための結界にします。閉じ込めるためではなく」


 ノエルが補助具を確認する。


「誘導ではなく、帰還補助」


 ユリアナ先輩が記録する。


「入室を同意と扱わない。着席を義務と扱わない。沈黙を拒絶と扱わない。退室を相談終了と扱わない」


 セリカさんが頷く。


「よし。面倒だけど、大事」


 俺は胸元の学生証に触れた。


 レン・クロフォード。


 才能名は未定。


 俺も、盾を持っている。


 未定のまま、自分の力を守る盾。


 扉の声も、未定のまま盾を持つ。


 次は、夢の相談室に入る。


 まだ座らなくていい。


 まだ名前を書かなくていい。


 ただ、入る。


 それだけで十分だ。

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