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第105話 名前を取り戻さない救済はあるのか

 相談票に残された一文は、朝になっても消えていなかった。


 ――次は、入る。


 白い紙の上に、その文字だけが静かに残っている。


 保護印、扉。


 呼称不可。

 記録上のみ使用可。

 状態、未定。

 前回記録、夢の相談室で椅子に触れた。

 座席使用、未定。

 名前、まだ。

 相談、継続。


 そして。


 次は、入る。


 たった五文字なのに、相談室の机に置かれていると、とても重く見えた。


 今まで、扉の声はずっと向こう側にいた。


 黒い扉の隙間から問いを投げ、夢の中でこちらを試し、相談票越しに筆談をしてきた。


 けれど、次は入ると言っている。


 夢の相談室に、入る。


 それは大きい。


 けれど、もっと大きい問題が、俺たちの前にあった。


「本当の名前を、取り戻すべきかどうか、ですね」


 俺がそう言うと、相談室に短い沈黙が落ちた。


 リリアはカップを両手で包んだまま、静かに目を伏せている。


 セリカさんは壁にもたれ、腕を組んだ。


 ノエルは記録板を開いているが、まだ何も書いていない。


 ユリアナ先輩は机の上に新しい議題紙を置き、ペンを持ったまま動きを止めている。


 アイリスは窓際で小さな氷盾を浮かべていたが、その氷もいつもより静かだった。


 通信水晶の向こうで、ミュレアもすぐには口を挟まなかった。


 アリシア様の通信水晶だけが、淡く王宮結界の光を返している。


 名前を取り戻す。


 物語なら、きっと美しい場面になる。


 失われた本名。

 奪われた自己。

 黒く塗りつぶされた札。

 それを誰かが見つけ、本人が涙ながらに名乗る。


 そして、救われる。


 分かりやすい。


 感動的だ。


 読者も喜ぶかもしれない。


 でも、今の扉の声にそれを押しつけるのは、たぶん違う。


「本当の名前を取り戻せば救い、とは限らないと思います」


 リリアがゆっくり言った。


「扉の声は、まだ本当の名前を聞かれたくありません。何度も“問うな”と示しています。今、こちらが名前を探そうとすれば、助けるためではなく、また奪うことになってしまうかもしれません」


 セリカさんが頷く。


「戻すかどうかは本人が決めることでしょ。こっちが感動するために名前を取り戻させるのは、違う」


「こっちが感動するために……」


 その言葉は強かった。


 でも、正しい。


 救う側は、ときどき救いの形を勝手に決める。


 泣いてほしい。

 笑ってほしい。

 立ち直ってほしい。

 本当の名前を名乗ってほしい。


 でも、それは本当に相手のためなのか。


 こちらが見たい結末のためではないのか。


 ユリアナ先輩が、ようやくペンを動かした。


「支援目標の再定義が必要です」


「再定義?」


「はい。現時点での支援目標を“本当の名前の回復”にしてはいけません」


 彼女は紙に書いた。


 支援目標:名前回復ではなく、呼称選択権の回復。


 ノエルが、その言葉に反応した。


「呼称選択権」


「はい」


 ユリアナ先輩は続ける。


「本人が、どう呼ばれたいかを選ぶ権利。呼ばれたくない名を拒否する権利。今は未定にする権利。休ませる権利。意味を分ける権利。距離を置く権利。そして、必要なら本当の名前を取り戻さない権利」


 相談室が静かになる。


 取り戻さない権利。


 その言葉は、強い。


 けれど、必要だった。


 アイリスが小さく頷いた。


「冷血魔女という呼び名を拒否することと、アイリスという名前をすぐ受け入れることは、同じではありませんでした」


 彼女は自分の手元の氷を見つめる。


「私は、アイリスと呼ばれることを嫌ではないと思えるまで、少し時間が必要でした。もし最初から“あなたはアイリスでしょう、だからそう呼ばれるべきです”と言われていたら、たぶん苦しかったと思います」


 リリアが静かに頷く。


「聖女という名前も同じです。私は聖女ではなくリリアと呼ばれて救われました。でも、リリアという名前さえ、怖い時がありました。名前で呼ばれること自体に緊張していたので」


 セリカさんが肩をすくめる。


「赤髪の剣士って呼ばれるのは嫌でも、いきなりセリカって近づかれるのも嫌な相手はいるしね。誰が、いつ、どう呼ぶかも大事」


「呼称選択権には、呼ぶ側の条件も含めるべきですね」


 ユリアナ先輩がすぐに書き足す。


 呼称選択権:呼ばれ方、呼ばれる相手、呼ばれる場面、呼ばれる時期を本人が選ぶ権利。


 ノエルが記録板に同じ言葉を写す。


「第四の系統の本質、名前消失ではないかも」


 全員がノエルを見る。


 ノエルは記録板に、これまでの反応を並べた。


「最初は名前を消す、才能名を薄める、無名へ誘う反応だった。でも最近の相談を見ると、核は“名前そのものが嫌”だけじゃない。勝手に呼ばれること、役割名で固定されること、不要と呼ばれること、嫌だと言えないこと、名前を問われることへの恐怖」


「つまり?」


 セリカさんが促す。


「第四の系統は、名前消失じゃなくて、呼称選択権の喪失から生まれた可能性がある」


 呼称選択権の喪失。


 名前を奪われたのではない。

 名前を選ぶ権利を奪われた。


 本名を呼ばれなくなった。

 役割名を押しつけられた。

 失敗名で固定された。

 罪名で縛られた。

 不要と呼ばれた。

 便利、危険、機能と分類された。

 嫌だと言っても止まらなかった。


 それなら、名を捨てるしかないと思ったとしても不思議ではない。


 ミュレアが通信越しに低く言った。


『名を憎んだのではなく、名を選べぬ世界を憎んだのかもしれぬな』


「はい」


 俺は頷いた。


「だから、本当の名前を取り戻す前に、まず選べることを取り戻す必要がある」


 リリアが優しく言った。


「名前を持たなくても、傷つけられない場所。名前をまだ出さなくても、相談者として扱われる場所。そこが必要です」


 アリシア様の声が通信水晶から響く。


『王宮でも重要な考えです。地位や家名により、本人の呼ばれ方が固定されることは多くあります。呼称選択権は、王宮制度にも応用できるかもしれません』


「また王宮規模になってきましたね」


 俺が言うと、ユリアナ先輩が真顔で頷く。


「学園制度としても、王宮制度としても、検討価値があります」


「俺、そこまで大きくなると思ってませんでした」


 セリカさんが苦笑する。


「レンの周り、だいたい大きくなるわよね」


「俺のせいですか?」


「半分くらい?」


 ミュレアがすかさず言う。


『七割じゃな』


「増えた」


『残り三割は世界が面倒なのじゃ』


「世界、責任重いですね」


 リリアがくすっと笑った。


 重い議題の中に、少しだけ空気が戻る。


 でも、話し合いはまだ終わらない。


     ◇


 昼前、受付箱が光った。


 保護印、扉。


 呼称不可。

 記録上のみ使用可。


 相談内容欄に、一文。


 ――取り戻さなくても、よいのか。


 全員の視線が集まった。


 まるで、こちらの議論を聞いていたような問いだった。


 ノエルが測定具を確認する。


「攻撃性なし。相談型。反応、かなり静か」


 リリアが小さく息を吸った。


「扉の声も、その問いを持っていたのですね」


 取り戻さなくても、よいのか。


 その文字は、震えてはいない。


 けれど、どこか恐る恐る置かれているように見えた。


 俺はペンを持った。


 でも、すぐには書けなかった。


 これは、簡単に答えていい問いではない。


 取り戻さなくていい。


 そう書けば楽かもしれない。


 でもそれは、名前を完全に捨てろと言っているようにも読める。


 取り戻すべきだ。


 そう書けば物語としては分かりやすい。


 でもそれは、本人の拒否を踏みにじる。


 リリアが俺の横に立った。


「一緒に書きましょう」


「はい」


 俺たちは、言葉を一つずつ選んだ。


 ――今すぐ取り戻さなくても構いません。

 ――取り戻すかどうかを、今決めなくても構いません。

 ――本当の名前を持っていることと、それを今ここで出すことは別です。

 ――名前を休ませたままでも、相談は続けられます。

 ――取り戻す日が来てもいい。

 ――来なくても、あなたは不要ではありません。

 ――大切なのは、あなたが選べることです。


 書き終えた瞬間、相談票が静かに光った。


 返答はすぐには来ない。


 長い沈黙。


 ノエルの測定具が淡い白を示す。


「感情反応、高い。でも安定」


 やがて、文字が浮かんだ。


 ――選べること。


 もう一行。


 ――名前を取り戻さないことも、選べる。


 ユリアナ先輩が静かに頷いた。


「はい」


 セリカさんが腕を組みながら言う。


「取り戻すな、じゃない。取り戻せ、でもない。決めるのはそっち」


 紙がまた光る。


 ――決めるのは。


 そこで止まった。


 少し間を置いて、続きが出る。


 ――わたし。


 相談室の空気が震えた。


 紙の上に、はっきりと書かれていた。


 わたし。


 夢の中では言いかけた。

 筆談でも一度書いた。

 けれど今回は、問いの中ではなく、意思の主語として出た。


 決めるのは、わたし。


 リリアの目が潤む。


 アイリスの氷が静かに光る。


 ノエルが、いつになく慎重に記録した。


「自己決定文、初出」


 ユリアナ先輩も少し声を低くした。


「重要記録です」


 俺は胸元が熱くなるのを感じながら、短く書いた。


 ――はい。

 ――決めるのは、あなたです。


 紙が光る。


 返答。


 ――まだ、決めない。


 俺は頷いた。


「それでいい」


 そして、書いた。


 ――未定で構いません。


 紙の縁が、白く細く光った。


 黒い滲みは、以前よりずっと薄い。


     ◇


 午後、ユリアナ先輩は「呼称選択権」について正式な試案を書き始めた。


 セリカさんはそれを見て、少し呆れたように笑った。


「また制度が増える」


「必要です」


 ユリアナ先輩は当然のように答える。


「呼ばれ方を本人が選ぶ権利は、保護印制度の中核になります。ここを曖昧にすると、名前を取り戻すことだけが救済として扱われてしまう」


 リリアが頷く。


「取り戻す前に、守られる場所が必要です」


 ノエルが記録板に分類を書く。


 呼称選択権。

 一、呼ばれ方を選ぶ権利。

 二、呼ばれたくない呼称を拒否する権利。

 三、呼称を未定にする権利。

 四、大事な呼称を休止する権利。

 五、意味を分ける権利。

 六、家名・役割名との距離を調整する権利。

 七、呼ばれる相手・場所・時期を選ぶ権利。

 八、名前を取り戻さないまま支援を受ける権利。


 アイリスが最後の項目を見て、小さく言った。


「八つ目があることで、救われる人がいると思います」


「はい」


 リリアが答える。


「名前を取り戻せない自分は駄目だ、と思わなくていいように」


 ミュレアが通信越しに言う。


『しかし、反発もあるぞ』


「でしょうね」


 セリカさんがため息をつく。


「呼び方まで選ばせるのか、面倒だって言う人は絶対いる」


 アリシア様も静かに言った。


『王宮なら、なおさらです。呼称は序列や礼法と結びついています。本人の希望だけでは決められない場もあります』


「そこはどうするんですか?」


 俺が聞くと、ユリアナ先輩は少し考えた。


「全てを本人希望だけで決める制度ではありません。公的記録、礼法、身分、責任上必要な呼称はあります。ただし、それらを本人の存在そのものと混同しない仕組みを作ることはできます」


「たとえば?」


「公的呼称と個人呼称を分ける。掲示名と封印記録名を分ける。呼称拒否が出た場合、教師側が不用意にあだ名や蔑称を使わない。家名や役割名を過剰に結びつけない」


 ノエルが頷く。


「現実的」


 セリカさんが言う。


「全部自由にするんじゃなくて、傷つける呼び方を減らすってことね」


「はい」


 ユリアナ先輩は書類にそう記した。


 呼称選択権は、礼法や記録を破壊するための制度ではない。

 本人を傷つける呼称の強制を避け、公的呼称と個人の輪郭を分離するための制度である。


 硬い。


 硬いが、必要だ。


 制度の言葉にしなければ、保護は長続きしない。


     ◇


 夕方、保護印「扉」の相談票に、また文字が浮かんだ。


 ――名前を取り戻さない者は、偽物か。


 この問いは、胸に刺さった。


 リリアが少し目を伏せる。


 セリカさんがすぐに言った。


「違う」


 彼女はペンを取る。


 ――違う。

 ――本名を出していないから偽物、なんてことはない。

 ――本名を知らなくても、今ここにいるなら本物。

 ――保護印でも、未定でも、相談しているなら本物。


 紙が光る。


 返答。


 ――本物。


 もう一行。


 ――保護印でも。


 ノエルが書く。


 ――保護印は偽名ではありません。

 ――仮の印です。

 ――本当の名前の代わりに奪うものではありません。

 ――本当の名前を守るため、または今は出さないための印です。


 紙が光る。


 ――偽名では、ない。


 ユリアナ先輩が続けて書いた。


 ――記録上、保護印は正式名ではありません。

 ――しかし、相談者を見失わないための正式な手段です。

 ――あなたは保護印「扉」として相談を継続できます。

 ――本当の名前を出すかどうかは未定です。


 紙が光る。


 ――保護印、扉。


 少し間。


 ――偽物では、ない。


 リリアが優しく微笑んだ。


「はい。偽物ではありません」


 アイリスが静かに言った。


「冷血魔女という呼び名の方が、私にとっては偽物でした」


 その言葉に、紙が反応した。


 ――偽物の名。


 アイリスは少し考えてから、ペンを取った。


 ――相手を決めつける名前は、本人の本当とは限りません。

 ――周囲がつけた名前の方が偽物の場合もあります。

 ――だから、本人が選ぶ権利が必要です。


 紙が光る。


 ――本人が選ぶ権利。


 ――呼称選択権。


 扉の声が、その言葉を書いた。


 初めて。


 呼称選択権。


 ノエルが小さく言った。


「概念、受容開始」


 ミュレアが低く笑う。


『盾を受け取り始めたな』


「盾?」


『そうじゃ。名を捨てる剣ではなく、呼ばれ方を選ぶ盾じゃ』


 その言葉を聞いた瞬間、受付箱の中に黒い紙片が現れた。


 今までのような不気味な黒ではない。


 縁に白い線が入った、小さな紙片。


 そこに、一文字だけ浮かんでいた。


 ――盾。


 相談室に、静かな緊張が走る。


 攻撃ではない。


 宣言でもない。


 受け取った印のようだった。


 ユリアナ先輩が、ゆっくりと紙片を記録用封筒へ入れた。


「保護印:扉。呼称選択権を“盾”として認識」


 リリアが小さく息を吐く。


「名前を捨てるためではなく、守るためのものになってきましたね」


「はい」


 俺は胸元の確認票に触れた。


 俺の才能名も、まだ未定だ。


 でも、それはもう空白ではない。


 俺が自分の力を、勝手に歪んだ名前で呼ばせないための盾でもある。


 扉の声も、盾を受け取り始めた。


 名前を取り戻すかどうかは、まだ未定。


 でも、未定のまま守ることはできる。


     ◇


 その日の終わり、ユリアナ先輩は新しい支援目標を正式記録に書いた。


 支援対象:保護印・扉。

 支援目標:本当の名前の回復ではなく、呼称選択権の回復。

 現段階の確認:本当の名前を取り戻さなくても、相談者は偽物ではない。保護印は偽名ではなく、相談継続のための仮印。呼称選択権は、名前を捨てる剣ではなく、呼ばれ方を選ぶ盾として機能し得る。


 読み上げたあと、ユリアナ先輩は少しだけ息を吐いた。


「長いですね」


「でも、必要な長さです」


 リリアが言う。


 セリカさんが笑った。


「短くすると、また誤解されるやつ」


「はい」


 ノエルが頷く。


「短い誤解は強い。長い説明で支える」


 ミュレアが通信越しに言った。


『よい。面倒で長い。だが、人を守る言葉はたいてい面倒で長いものじゃ』


「今日のミュレア、本当にまともですね」


『いつもまともじゃ。褒美に菓子二品』


「一品です」


『様式美のように止めるな!』


 相談室に笑いが戻る。


 その笑いの中で、受付箱の中の白い相談票が、静かに光った。


 文字が一行。


 ――盾。

 ――未定のまま、持つ。


 俺はその文字を見つめた。


 名前を取り戻さない救済はあるのか。


 今日の答えは、まだ完全ではない。


 けれど、少なくとも一つは言える。


 名前を取り戻す前に、呼ばれ方を選ぶ盾を持つことはできる。


 未定のままでも。


 名前がまだでも。


 相談は、継続できる。

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