第104話 未定の扉、夢の相談室に座る
その夜、俺は眠る前に、いつもより長く相談室の椅子を見ていた。
ただの椅子だ。
木製で、背もたれが少し丸く、長く座っても疲れにくいように座面には薄い布が張られている。相談者が正面から詰問されているように感じないよう、机に対して少し斜めに置かれていた。
未定さんも、灯さんも、雨さんも、羽さんも、あの椅子に座った。
名前を書けなかった人。
呼ばれたくなかった人。
大事な呼び名を休ませたかった人。
家名との間に少し風が欲しかった人。
みんな、最初から安心して座れたわけではない。
入口で止まった。
座るかどうか迷った。
座ってからも、何度も言葉を飲み込んだ。
でも、座った。
座って、話した。
あるいは、話せないままでも、そこにいた。
それだけで相談は始まっていた。
「レン」
リリアの声で、俺は椅子から視線を戻した。
「はい」
「椅子を見ていましたね」
「今夜、夢の相談室に出そうな気がして」
リリアは少しだけ眉を寄せた。
「あり得ますね。扉の声は、休むことを覚え始めました。次に必要なのは、相談の場に入ることかもしれません」
「座る、でしょうか」
「座れなくても、入るだけで大きいと思います」
それは、リリアらしい答えだった。
座ることを強制しない。
話すことを強制しない。
ただ、入ってもいい場所を作る。
セリカさんが木剣を俺の枕元に置いた。
「今夜も踏み込みすぎないこと」
「はい」
「相手が椅子に座らなくても、座れって言わない」
「分かっています」
「分かっていても言う。レン、相手が少し進むと、嬉しくなって前のめりになるから」
痛いところを突かれた。
「……気をつけます」
「よし」
ノエルは夢干渉補助具を調整しながら言った。
「今回は、相談室の再現が来る可能性が高い。夢の中で現実と同じ対応ができるかが重要」
「現実と同じ対応」
「うん。座る、話す、書く、黙る、退室する。全部、本人が選ぶ」
ユリアナ先輩が記録用紙を確認する。
「夢接触時の対応方針を整理します。第一に、呼称不可を守る。第二に、保護印は記録上のみ使用。第三に、相手が椅子へ近づいても座席使用を同意と見なさない。第四に、相談開始の合図は相手側に委ねる」
「座ったら相談開始、ではないんですね」
「はい。座ることは、話すことへの同意ではありません。相談室に入ることも同じです」
アイリスが窓際で守護氷結を張りながら、静かに言った。
「氷結界に触れたからといって、中へ閉じ込められるわけではありません。触れるだけで戻れるようにしておきます」
「ありがとうございます、アイリス」
「守護氷結の訓練です」
いつもの言葉だった。
けれど今夜の氷は、いつもより少し柔らかい光を放っていた。
ミュレアの通信水晶が光る。
『レン。椅子とは案外、重いものじゃぞ』
「座るだけなのにですか?」
『座るとは、そこに身を置くということじゃ。逃げぬと決めることにも見える。だが、本来はそう重く扱いすぎぬ方がよい。腰を下ろしただけで契約成立など、面倒にもほどがある』
「ミュレアが言うと、急に契約魔術みたいになりますね」
『実際、そういう悪趣味な契約術もある。だからこそ、今夜ははっきり示せ。座っても、名前を書かされぬ。触れても、縛られぬ。沈黙しても、退室しても、相談は壊れぬとな』
アリシア様の声も、通信水晶から届いた。
『王宮にも似たものがあります。会議の席に座っただけで同意と見なされることがあります。けれど本来、席に着くことと承認することは別です』
「それも伝えた方がよさそうですね」
『はい。扉の声は、動作を契約や義務として受け取る傾向があります。慎重に』
俺は頷いた。
レン・クロフォード。
名前を確認する。
才能名は未定。
今夜の目的は、扉の声を座らせることではない。
夢の相談室に、入ってもいいと伝えることだ。
座らなくてもいい。
話さなくてもいい。
名前を書かなくてもいい。
それでも、相談は始められる。
◇
夢に落ちると、俺は相談室にいた。
現実の相談室と同じ机。
同じ椅子。
同じ受付箱。
同じ窓。
ただし、窓の外には学園の中庭がなかった。
真っ白な空間が広がっている。
壁の時計は止まっている。
けれど、部屋の中は不思議と息苦しくない。
机の上には、一枚の相談票が置かれていた。
本人名欄、空白。
保護印欄、扉。
呼称、発話不可。
状態、未定。
前回記録、今は休む。
そして、相談者用の椅子。
その背もたれに、小さな紙片が貼られていた。
保護印:扉。
俺はすぐに、その紙片を見て少し迷った。
椅子に保護印を貼るのは、相手をそこへ縛ることにならないか。
そう思った瞬間、紙片の文字が薄くなった。
そして、こう変わった。
――希望時使用可。
俺は息を吐いた。
「そうだな。専用席じゃない。使いたければ使っていい椅子だ」
声に出すと、相談室の入口に黒い扉が現れた。
今までと同じ黒い扉。
ただ、縁には細い白い線が走っている。
完全な黒ではない。
その白い縁を見るたびに、前回の夢で届けた記憶を思い出す。
名は傷だけではない。
でも、傷を消すわけでもない。
黒い扉が、音もなく少し開いた。
灰色の存在が、扉の向こうに立っている。
顔はまだない。
名前もない。
輪郭だけが、以前より少し人らしくなっている。
俺はまず、自分の名前を確認した。
「レン・クロフォード」
灰色の存在が、わずかに揺れる。
そして、ぎこちなく返した。
――レン・クロフォード。
「はい」
返事をしてから、俺は一歩も近づかなかった。
こちらから手招きもしない。
ただ、机のこちら側に立ったまま言った。
「今日は、夢の相談室です」
灰色の存在は、部屋の中を見ているようだった。
見ている、と言っても顔はない。
けれど、椅子、机、受付箱、窓、そして俺の順に意識が動いたのが分かった。
――ここは。
「相談室です。現実の相談室に似ています。でも、夢の中なので、嫌ならすぐ出ていい」
――入れば、記録される。
「入ったこと自体は、こちらの記憶には残ります。でも、それをあなたを縛る記録にはしません」
――座れば、名前を書く。
「座っても、名前を書く必要はありません」
灰色の存在が、はっきり揺れた。
その反応は、恐怖に近かった。
――座ることは、同意。
「違います」
俺はゆっくり答えた。
「座ることは、座ることです。話すことへの同意でも、名前を書く同意でも、命令を聞く同意でもありません」
――だが、席に着けば。
「席に着いても、嫌なら話さなくていい。名前も書かなくていい。途中で立ってもいい。ここでは、座ったことを契約にしません」
扉の向こうの灰色が、少し濃くなる。
――契約では、ない。
「はい」
――義務では、ない。
「はい」
――逃げても、よい。
「退室できます。戻りたくなったら、また続きからでもいい」
灰色の存在は、入口から動かない。
だが、扉の隙間は閉じなかった。
それだけで、今日は大きい。
俺は椅子を指ささないように気をつけながら言った。
「立ったままでも相談できます」
――立ったまま。
「はい」
――座らねば、失礼。
「ここでは失礼ではありません」
――話さねば、無駄。
「ここでは、話せない時間も相談の一部です」
――書かねば、進まない。
「進まない時があってもいいです。止まっても、休んでも、相談は消えない」
灰色の存在が、少しだけ入口から部屋の中へ入った。
ほんの半歩。
だが、その瞬間、俺の胸が熱くなる。
嬉しい。
でも、前のめりになるな。
セリカさんの声が、遠くから聞こえた気がした。
――踏み込みすぎない。
リリアの声も。
――急がなくて大丈夫です。
ノエル。
――反応安定。
ユリアナ先輩。
――同意確認を忘れずに。
アイリス。
――戻り道はあります。
ミュレア。
――焦るな、レン。
アリシア様。
――対話は続いています。
俺は息を整えた。
「そこに立ったままでも大丈夫です」
灰色の存在は、相談者用の椅子を見ている。
椅子の背に貼られた「希望時使用可」という紙片が、淡く光った。
――希望。
「使いたい時だけ」
――座りたいか、分からない。
「分からなくても大丈夫です」
――未定。
「はい。座るかどうかも未定でいい」
灰色の存在は、ゆっくり椅子へ近づいた。
一歩。
もう一歩。
床は軋まない。
夢だから音はない。
でも、俺にはその一歩一歩が聞こえるような気がした。
灰色の存在は、椅子の前で止まった。
座らない。
ただ、椅子を見ている。
――座れば、戻れない。
「戻れます」
――座れば、問いに答える。
「答えなくてもいい」
――座れば、名前を求められる。
「求めません」
――座れば、助けを受け取らねばならない。
「受け取れないなら、受け取らなくてもいい」
――では、座るとは何だ。
俺は少し考えた。
簡単に答えると、嘘になりそうだった。
座ること。
それは確かに、ただ体を置くだけではない時がある。
話す準備。
休む準備。
逃げずにいる意思。
あるいは、少しだけ信じてみる動作。
でも、それを重くしすぎてはいけない。
「座ることは、形の一つです」
俺はゆっくり言った。
「話す準備の形かもしれない。休む形かもしれない。ただ、立っているのが疲れたから座るだけかもしれない。意味は、座った本人が決めていい」
――本人が。
「はい」
――意味を決める。
「座る意味も、書く意味も、話す意味も、あなたが選んでいい」
灰色の存在は、長く黙った。
そして、椅子の背へ手を伸ばした。
座らない。
まだ座らない。
ただ、椅子の背に指先を触れた。
その瞬間、相談室の空気が静かに震えた。
受付箱が淡く光る。
机の上の相談票に文字が浮かぶ。
――触れた。
俺は小さく頷いた。
「はい。触れました」
――座っていない。
「はい。座っていません」
――名前を書いていない。
「はい。書いていません」
――それでも、相談は壊れない。
「壊れません」
灰色の存在の手が、椅子の背を少しだけ握った。
強くはない。
いつでも離せるくらいの力。
でも、確かに触れている。
――ここに、いてもよいのか。
俺の胸が詰まった。
簡単に「いい」と言いたい。
でも、軽く言ってはいけない気もした。
俺は、ちゃんと声を整えて答えた。
「いてもいいです。立ったままでも、椅子に触れているだけでも、何も話さなくても」
灰色の存在は動かない。
でも、黒い扉の白い縁が少し広がった。
以前より、ほんの少しだけ。
――今は、触れる。
「はい」
――座るかは、未定。
「はい。未定で大丈夫です」
――話すかも、未定。
「大丈夫です」
――名前は。
そこで声が止まった。
俺は待った。
急がない。
問わない。
勝手に続けない。
長い沈黙のあと、灰色の存在は言った。
――名前は、まだ。
「分かりました」
――まだ、聞くな。
「聞きません」
――でも。
また止まる。
椅子の背に触れた手が、少し震えた。
――記録は、残る。
「残ります」
――縛るためではない。
「続きから話せるようにするためです」
灰色の存在は、ほんの少しだけ頷いたように見えた。
顔はない。
けれど、確かに頷いた気がした。
その瞬間、相談票に新しい文字が浮かんだ。
――保護印:扉。
――状態:椅子に触れた。
――座席使用:未定。
――名前:まだ。
――相談:継続。
それは、まるで扉の声自身が記録したような文だった。
俺は笑いそうになって、少しだけ目が熱くなった。
自分で記録した。
状態を。
未定を。
継続を。
「届きました」
俺は静かに言った。
灰色の存在は、椅子から手を離さなかった。
そして、消え入りそうな声で返した。
――ありがとう。
もう、その言葉は昨日より少しだけ自然だった。
◇
夢がほどける前、灰色の存在は最後に言った。
――次は。
「はい」
――座る、かもしれない。
「はい」
――未定。
「未定で大丈夫です」
黒い扉がゆっくり閉じていく。
でも、完全には閉まらない。
白い縁が残ったまま、扉は相談室の入口に立っている。
夢の相談室が白く薄れていく。
最後に見えたのは、椅子の背に残った灰色の指の跡だった。
それは汚れではない。
たぶん、触れた証だ。
◇
目を覚ますと、朝だった。
窓際の氷結界は割れていない。
ただ、白銀の結界の一部に、小さな手形のような曇りが残っていた。
もちろん、現実の手形ではない。
夢の反応が氷に映ったのだろう。
「レン」
リリアの声がした。
扉が開く。
いつものように、みんなが入ってくる。
リリア。
セリカさん。
ノエル。
ユリアナ先輩。
アイリス。
通信水晶のミュレアとアリシア様。
名前確認。
「レン」
「はい。リリア」
「レン」
「はい。セリカさん」
「レン」
「はい。ノエル」
「レン様」
「はい。ユリアナ先輩」
「レン・クロフォード」
「はい。アイリス」
『レン』
「はい。ミュレア」
『レン様』
「はい。アリシア様」
名前が戻る。
俺はゆっくり息を吐いた。
「椅子に、触れました」
リリアの目が見開かれる。
「座ったのですか?」
「いいえ。座っていません。触れただけです」
セリカさんが小さく笑った。
「いいじゃない。触れただけ」
「はい。座るかどうかは未定です」
ノエルが記録板を開く。
「重要。座席接触、同意なし。相談継続」
「同意なしというか、座ったわけでは」
「座席使用未定。接触のみ」
ノエルはすでに記録語に変換している。
ユリアナ先輩が真剣に聞く。
「相手は、座ることを契約や名前記入義務と混同していましたか?」
「はい。座れば名前を書く、座れば戻れない、座れば助けを受け取らなければならない、という反応がありました」
「やはり、動作と同意が強く結びついているのですね」
アリシア様の通信水晶が淡く光る。
『王宮結界側にも、夢接触中に“未定の座席”に近い波形が出ました。攻撃性はありません』
アイリスが窓際の氷結界を見た。
「こちらにも手形のような反応があります。拒絶ではありません。触れて戻った痕跡です」
ミュレアが低く笑う。
『ふむ。椅子に座らず、触れただけで帰ったか。よい。非常によい』
「座らなかったのに、良いんですか?」
『良いに決まっておろう。無理に座れば、それは進展ではなく押し込みじゃ。触れられたなら、次に触れる場所があると知ったということじゃ』
リリアが静かに頷いた。
「ここにいてもいい、と少し思えたのかもしれません」
「はい」
俺は夢の最後の記録を話した。
保護印:扉。
状態:椅子に触れた。
座席使用:未定。
名前:まだ。
相談:継続。
それを聞いたユリアナ先輩のペンが、ほんの少し止まった。
「自分で記録したのですね」
「たぶん」
「大きな変化です。これまでは、こちらが記録していました。今回は、扉の声自身が自分の状態を記録した」
ノエルが頷く。
「自己記録、初出」
セリカさんが少しだけ目を細める。
「自分で“まだ”って言えたのも大きいんじゃない?」
「はい」
リリアが微笑む。
「名前はまだ。座るのも未定。でも、相談は継続」
アイリスが静かに言った。
「それは、逃げではなく、戻るための未定ですね」
俺は頷いた。
その通りだと思った。
扉の声は、まだ座っていない。
まだ名前も書いていない。
まだ本当の名前も分からない。
でも、相談室に入った。
椅子に触れた。
自分で状態を記録した。
ありがとうと言った。
それは、たしかな前進だった。
◇
相談室へ戻ると、受付箱の中に白い相談票が一枚入っていた。
保護印:扉。
相談内容欄には、夢で見たものと同じ文が書かれていた。
――状態:椅子に触れた。
――座席使用:未定。
――名前:まだ。
――相談:継続。
その下に、もう一行。
――次は、入る。
リリアが息を呑んだ。
「入る……」
セリカさんが腕を組む。
「夢の相談室に、本格的に入るってこと?」
ノエルが測定具をかざす。
「反応、相談型。攻撃性なし。次回予告」
ユリアナ先輩が静かに記録した。
「第六回夢接触記録。次回、夢の相談室入室可能性あり」
ミュレアが言う。
『次は大きいぞ。椅子に触れるのと、中に入るのは違う』
「はい」
『だが、焦るな。座らせようとするな。名を書かせようとするな。入るだけでも十分じゃ』
「分かっています」
リリアが俺を見る。
「レン、次も一人で抱えないでくださいね」
「はい」
「私たちの声が届くように、準備しましょう」
ノエルが頷く。
「補助具、調整する。ただし休息後」
全員がノエルを見る。
ノエルは少しだけ不満そうに言った。
「学習済み」
セリカさんが笑う。
「よろしい」
ユリアナ先輩は休息記録欄を開いた。
「では、本日も休息を組み込んだ上で準備します」
リリアが満足そうに頷く。
「はい」
俺は相談票の文字を見つめた。
次は、入る。
それはまだ、完全に相談室へ座るという意味ではない。
名前を書くという意味でもない。
ただ、入る。
それでも十分だ。
かつて「無名こそ自由」と言っていた扉の声が、今は自分で保護印を選び、相談票を書き、椅子に触れ、次は入ると言っている。
名前を取り戻したわけではない。
でも、名前を奪われない場所へ、少しずつ近づいている。
俺は胸元の学生証に触れた。
レン・クロフォード。
才能名は未定。
扉の声も、まだ未定。
だから次も、未定のまま迎えればいい。




