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第103話 休むことを知らない扉

 翌日の相談室には、いつもより早く全員が集まっていた。


 理由は簡単だった。


 昨日、扉の声は二度も書いた。


 ――今は、止まる。


 それは大きな前進だった。


 助けてと言った。

 ありがとうを覚え始めた。

 支援は取引ではないと知った。

 何もしなくても、相談は消えないと確認した。


 そして、止まると言った。


 だが、俺たちは分かっていた。


 止まることと、休むことは似ているようで違う。


 止まることは、動かないこと。

 休むことは、自分を回復させること。


 扉の声が、その違いを知っているとは思えなかった。


 むしろ、これまでの反応を見る限り、休むという言葉はかなり危ない。


 停止。

 不要。

 廃棄。

 機能不全。


 そういう言葉と結びついている可能性がある。


「今日の主題は、休むことです」


 ユリアナ先輩が机の中央に新しい記録用紙を置いた。


 表題には、丁寧な字でこう書かれている。


 休息記録欄。


 俺は思わず二度見した。


「休息記録欄?」


「はい」


 ユリアナ先輩は当然のように頷いた。


「相談者に休むことを説明する以上、相談窓口側も休息を記録し、実践する必要があります。言葉だけでは信頼性が低いので」


「休むことまで記録されるんですね」


「記録されなければ、守れない人がいます」


 返す言葉がない。


 この相談室には、記録されなければ休めない人が何人かいる。


 主にユリアナ先輩とノエルである。


 ノエルはすでに少し不満そうな顔をしていた。


「休息記録、必要?」


 リリアがにっこり微笑む。


「必要です」


「自動検知具を見る時間は休息に入る?」


「入りません」


「目を閉じて、頭の中で解析する時間は?」


「入りません」


「横になって、思考だけ動かす」


「入りません」


「厳しい」


「休むとは、そういうことです」


 リリアが強い。


 ノエルは、珍しく助けを求めるように俺を見た。


 俺は視線を逸らした。


「レン、裏切り」


「ここで味方すると、俺も怒られるので」


「合理的判断」


「はい」


 セリカさんが壁にもたれながら笑った。


「休むって言葉だけで、こっちが先に苦戦してるじゃない」


「本当に」


 俺が苦笑すると、ユリアナ先輩はまったく笑わずに休息記録欄へ項目を書き足した。


 担当者名。

 休息開始時刻。

 休息終了時刻。

 休息中の作業禁止項目。

 緊急時対応者。

 本人確認。


「本格的ですね」


「はい。抜け道を塞ぐ必要がありますので」


 ノエルが小さく呟いた。


「抜け道……」


「あなた向けですね」


 セリカさんが言うと、ノエルは少しだけ目を細めた。


「セリカも休まない時がある」


「私は見張りだから」


「それも抜け道」


「うっ」


 刺さった。


 セリカさんが言い返せずにいるのを見て、リリアが静かに言った。


「全員です。レンも、セリカさんも、ノエルさんも、ユリアナさんも、私も、アイリスさんも。相談窓口に関わる以上、休息は義務にします」


「リリアも?」


 俺が聞くと、リリアは少しだけ困った顔をした。


「私は……皆さんを見てから」


「駄目」


 セリカさんが即座に言った。


「リリア、それ一番駄目なやつ。自分だけ最後に回すの、だいぶ危ない」


「ですが」


「ですが、じゃない。リリアが倒れたら誰が香草茶を止めるの」


「香草茶は止めるものではありません」


「ミュレアの甘味を止めるの」


 通信水晶から、ミュレアが勢いよく反応した。


『待て、妾の甘味を止めるために白き娘を休ませるのか!?』


「半分そう」


『半分!?』


 相談室に小さな笑いが起きる。


 リリアも、少しだけ肩の力を抜いた。


「分かりました。私も休息記録に入ります」


「よし」


 セリカさんが満足そうに頷く。


 ユリアナ先輩はそれを見て、当然のように全員分の欄を作った。


 そして、最後に自分の名前も書く。


 リリアがすかさず確認した。


「ユリアナさん、自分の欄を一番下にしましたね」


「順番に意味はありません」


「今日は最初に休んでください」


「いえ、私は全体管理が」


「最初に休んでください」


「……はい」


 ユリアナ先輩が折れた。


 相談室の中で、リリアの休息管理権限がどんどん強くなっている。


     ◇


 午前の鐘が鳴る少し前、受付箱が淡く光った。


 全員の視線が集まる。


 箱の中には、保護印「扉」の相談票が入っていた。


 呼称不可。

 記録上のみ使用可。


 相談内容欄には、一文。


 ――止まることと、休むことは違うのか。


 来た。


 予想通りだった。


 だが、実際に問われると、簡単には答えられない。


 ユリアナ先輩が記録を始める。


「第五回筆談相談。主題、休息概念の確認」


 ノエルが測定具をかざした。


「反応、相談型。攻撃性低い。自己否定、低〜中」


 リリアがペンを取る。


 だが、すぐには書かない。


「最初の答えは、慎重にした方がいいですね」


「休むという言葉が、相手には危険に聞こえる可能性がありますからね」


 俺が言うと、セリカさんが腕を組んだ。


「止まるだけなら、動かないって意味で済む。でも休むってなると、役に立ってない感じがして怖いのかも」


 アイリスが窓際から静かに言った。


「氷も、張り詰めたままだと割れます」


 全員が彼女を見る。


 アイリスは少しだけ頬を赤くしたが、続けた。


「氷結界は、強く固定し続ければいいわけではありません。必要な時に力を抜かないと、内部からひびが入ります。冷たさを保つためにも、緩める時間が必要です」


 ノエルがすぐに記録した。


「氷結界の例、有効」


 アイリスが少し困った顔をする。


「例えとして言っただけです」


「使える」


「……なら、使ってください」


 リリアが微笑み、ペンを走らせた。


 ――止まることは、動きを止めることです。

 ――休むことは、自分を壊さないために、力を緩めることです。

 ――氷も、ずっと張り詰めていると割れます。

 ――休むことは、廃棄ではありません。

 ――不要になることでもありません。

 ――続けるために、今の自分を守ることです。


 紙が光る。


 灰色の光が相談票の縁を流れた。


 返答は少し遅れて浮かんだ。


 ――力を緩める。


 ――割れないため。


 もう一行。


 ――緩めれば、役に立たない。


 やはり、そこに戻る。


 ノエルが少しだけ前のめりになった。


「書く」


「お願いします」


 ノエルはペンを握った。


 ――常に最大出力で動く魔道具は壊れます。

 ――壊れた魔道具は修理が必要です。

 ――壊れる前に出力を下げることは、故障ではありません。

 ――休むことは、機能停止ではなく保護です。


 紙が光る。


 返答。


 ――保護。


 ――休むことは、保護。


 ノエルは小さく頷いた。


「届いた」


 だが、次の文字がすぐに出た。


 ――保護されるものは、弱い。


 セリカさんが即座に顔をしかめた。


「出たわね」


「弱いという言葉も、かなり傷になっていそうですね」


 リリアが言うと、セリカさんはペンを取った。


 ――弱いから保護されるんじゃない。

 ――大事だから保護する。

 ――剣も、手入れする。防具も、しまう。薬も、保管する。

 ――大事なものほど、雑に扱わない。


 紙が強く光った。


 返答は、なかなか来ない。


 ノエルの測定具が青く揺れる。


「感情反応、中。攻撃性なし」


 やがて、文字が浮かんだ。


 ――大事。


 ――保護は、大事だから。


 セリカさんは少しだけ息を吐いた。


「そう」


 声に出して言う。


「大事だから、休ませるの」


 相談票がまた淡く光った。


 文字は出ない。


 でも、その沈黙は前ほど怖くなかった。


     ◇


 しばらくして、扉の声は別の問いを出した。


 ――休む者は、選ばれない。


 ユリアナ先輩が小さく目を伏せた。


「これは、評価と結びついていますね」


 アリシア様の通信水晶が光る。


『王宮でも根深い考えです。休まない者が忠実で、休む者は覚悟が足りないと見なされることがあります』


「学園でもありますね」


 俺が言うと、ユリアナ先輩は少しだけ苦い顔をした。


「あります。努力を可視化しやすいので、休まないことが熱意として誤解される場合があります」


「ユリアナ先輩が言うと説得力が」


「……私も学んでいる途中です」


 それは本音だった。


 ユリアナ先輩自身、休まないことを正しさとしてきた人だ。


 だからこそ、ここで書く言葉には重みがある。


 彼女はペンを取った。


 ――休まない者だけが選ばれる制度は、壊れやすい制度です。

 ――休む者を排除すると、最後には誰も残りません。

 ――役目を続けるためには、休息を前提にした仕組みが必要です。

 ――休むことは、選ばれない理由ではありません。

 ――少なくとも、この相談窓口ではそう扱いません。


 紙が光る。


 返答。


 ――この相談窓口では。


 もう一行。


 ――外では。


 痛いところを突いてきた。


 この相談室では、休んでいいと言える。


 でも、外の世界は違うかもしれない。


 学園、家、王宮、ギルド、社会。


 休んだ者が責められる場所はある。


 俺たちは、そこを嘘で覆えない。


 リリアが静かに言った。


「外では、まだ難しい場所があります」


 そして、そのまま書いた。


 ――外では、まだ休むことを責める場所があります。

 ――それは事実です。

 ――だから、まずここで休んでも消えない経験を作ります。

 ――その経験を少しずつ外へ広げます。

 ――今すぐ全部を変えるとは言えません。

 ――でも、ここでは始めます。


 紙が光る。


 長い沈黙。


 返答。


 ――嘘ではない。


 俺はその文字を見て、胸が少し熱くなった。


 扉の声は、綺麗な嘘を警戒している。


 休めば大丈夫。

 誰も責めない。

 世界は優しい。


 そんな言葉は、きっと届かない。


 でも、外ではまだ難しい場所がある。

 それでも、ここから始める。


 その不完全な答えを、扉の声は「嘘ではない」と受け取った。


     ◇


 ちょうどその時、ノエルの休息時間を知らせる小さな魔道具が鳴った。


 ちりん、と控えめな音。


 相談室に微妙な沈黙が落ちる。


 ノエルはその魔道具を見た。


 それから、何事もなかったように記録板へ視線を戻した。


 リリアが静かに言った。


「ノエルさん」


「今、相談中」


「休息記録欄に、開始時刻が書かれています」


「あと少し」


「あと少し、が積み重なって寝不足になりました」


「……」


 ノエルは沈黙した。


 セリカさんが笑う。


「今の流れで休まないの、さすがに説得力ゼロよ」


「う」


 その瞬間、相談票が光った。


 全員が見る。


 文字が浮かんだ。


 ――休まない者が、休みを語るのか。


 相談室が凍った。


 次の瞬間、セリカさんが吹き出した。


「扉に突っ込まれた!」


 ノエルは固まった。


 目を少しだけ見開いている。


 リリアが口元を押さえている。


 ユリアナ先輩も、明らかに笑いを堪えていた。


 ミュレアの通信水晶からは、容赦ない笑い声が響いた。


『はははははっ! これは痛烈じゃ! 研究者娘、扉に正論で刺されたぞ!』


「ミュレア、笑いすぎです」


『笑わずにおれるか! 休息を説きながら休まぬとは、扉でなくとも突くわ!』


 ノエルはしばらく沈黙した後、記録板を閉じた。


「休む」


 リリアが満面の笑みを浮かべる。


「はい。休んでください」


「でも、相談が」


 相談票がまた光った。


 ――休め。


 短い。


 強い。


 セリカさんがまた笑う。


「命令されたわよ」


 ノエルは、少し不服そうに相談票を見た。


「休むことは命令ではない」


 紙が光る。


 ――では、休んでもよい。


 リリアが優しく言った。


「はい。休んでもよい、です」


 ノエルは小さく頷いた。


「分かった。休む」


 そして本当に椅子から立ち上がった。


 相談室の入口で一度振り返る。


「記録、お願い」


「任せてください」


 ユリアナ先輩が頷く。


 ノエルは少しだけ迷ってから、相談票に向かって言った。


「……ありがとう」


 紙が淡く光った。


 返答。


 ――届いた。


 ノエルはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


 それから休憩室へ向かった。


 扉の声に促されてノエルが休む。


 ものすごく不思議な光景だった。


 でも、悪くなかった。


     ◇


 ノエルが休憩に入った後、相談は少し静かに続いた。


 扉の声は、新しい問いを出した。


 ――休む間、名は消えないのか。


 これは大事な問いだった。


 俺はペンを取った。


 ――消えません。

 ――少なくとも、ここでは消しません。

 ――相談者が休んでいる間も、保護印は残ります。

 ――名前を呼ばない約束も、嫌だと言った記録も、助けてと書いたことも、消えません。

 ――休むことは、相談をなかったことにすることではありません。


 紙が光る。


 返答。


 ――残る。


「はい」


 俺は声に出した。


「残ります」


 リリアが続けて書く。


 ――あなたが今は止まると書いたことも、休みたいと感じたことも、相談記録として残ります。

 ――ただし、あなたを縛るためではありません。

 ――戻ってきた時に、続きから話せるようにするためです。


 紙が光る。


 返答。


 ――続きから。


 ユリアナ先輩が静かに言った。


「はい。休息は、最初からやり直しになることではありません」


 アイリスが氷結界を見ながら、そっとペンを取った。


 ――氷も、一度緩めたからといって、最初から作り直しになるわけではありません。

 ――残った形を見て、必要なところから整え直します。

 ――休んでも、完全に消えるわけではありません。


 紙が光る。


 しばらく沈黙。


 そして。


 ――休む。


 その二文字が浮かんだ。


 相談室の全員が静かに息を呑んだ。


 扉の声が、初めて自分から「休む」と書いた。


 止まる、ではなく。


 休む。


 ノエルは不在だったが、休憩室で検知具を見ていないことを願う。


 見ていたら休息にならない。


 セリカさんが小声で言った。


「書いたわね」


「はい」


 リリアの目が少し潤んでいる。


「書けましたね」


 ユリアナ先輩が記録する手を、ほんの少しだけ止めた。


 それから丁寧に書いた。


 保護印:扉。

 第五回筆談相談。

 主題:休息概念。

 確認事項:休むことは停止・不要・廃棄ではない。自分を壊さないための保護。休んでいる間も相談者としての記録は残る。休息は継続をなかったことにしない。

 相談者、初めて「休む」と記入。


 記録欄の文字が、妙に重く見えた。


 扉の声は、休むことを覚えた。


 まだ意味を完全に理解したわけではないだろう。


 それでも、自分から書いた。


 休む。


 その二文字は、今日の相談室にとって大きな成果だった。


     ◇


 相談票の最後に、扉の声はこう書いた。


 ――今は、休む。


 リリアがゆっくり頷いた。


「はい。今は、休んでください」


 俺も返答を書く。


 ――分かりました。

 ――相談は消えません。

 ――戻りたくなったら、続きから始められます。

 ――こちらも休みます。


 紙が光る。


 返答。


 ――こちらも。


「はい」


 セリカさんが言った。


「こっちも休む」


 ユリアナ先輩も、静かに頷いた。


「本日の相談窓口は、ここで休止します」


 ミュレアが通信越しに言った。


『では妾も休むとするか』


 リリアがすかさず言う。


「甘味は一品です」


『休む前の甘味くらい自由に――』


「一品です」


『ぐぬ……しかし今日は研究者娘も休んだ。妾も一品で妥協してやろう』


「ありがとうございます」


『礼を言われると調子が狂うな……』


 その会話に、相談票が少し光った。


 もう文字は出ない。


 ただ、灰色の光がふっと和らいだ。


 まるで、本当に休みに入ったように。


 俺たちは相談票を封印箱に収めた。


 それから、ユリアナ先輩が休息記録欄を開いた。


「では、全員の休息開始時刻を記録します」


「全員?」


 俺が聞くと、ユリアナ先輩は当然のように頷いた。


「はい。相談者に休むと伝えた以上、私たちも休みます」


 セリカさんが笑う。


「いいじゃない」


 リリアも頷く。


「はい。休みましょう」


 アイリスが氷結界をゆっくり解除する。


「守護氷結も、少し休ませます」


「氷も休むんですね」


 俺が言うと、アイリスは小さく頷いた。


「割れないために」


 それは、今日の答えだった。


 休むことは、止まることでは終わらない。


 休むことは、不要になることではない。


 休むことは、捨てられることではない。


 大事なものを、壊さないために守ること。


 俺は胸元の学生証に触れた。


 レン・クロフォード。


 才能名は未定。


 扉の声も未定。


 そして今は、休む。

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