昔の回線
雨の日にもかかわらず、客足がそれほど落ち込んでいない。
おそらく、「家電量販店は雨の日が狙い目」なんて言説があちこちで流れているからだろう。
彼はそんなことを考えていた。
今日は妙に値切りの交渉を持ちかけてくる客が多かった。
ただ、名刺を渡して本格的に交渉に入ろうとすると、帰ってしまう。
冷やかしでも「やってる感」が出るだけ、まあいいか。
頬が神経質にひくりと動くのを感じながら、彼は時計を見る。
閉店まであと30分余り。
それぐらいの時間帯になれば、客は出口近くのレジ付近に集まってくる。
奥の方のテレビや冷蔵庫などの家電コーナーには担当者が立っているので、閉店が近づくにつれ居づらくなるのだ。
特に何もなければ、閉店作業を早く初めてしまいたい。
スマートフォンのアクセサリー類の棚の辺りで、あれこれと未だに見比べている客が数人いるが、彼らはどうせ今日は買わないと決めるのだろう。
そんな投げやりな予測を立てながら、彼は一足早くレジに入っている金額の確認作業に入ろうとしていた。
「すんません。スマホの機種変更したいんじゃけどね」
ここ東京にはあまり馴染まない広島あたりの言葉の響きだった。
彼は「え、今からですか」という声が喉元まで出かかったのを飲み下して、レジの前に立った小柄な女性に、彼は視線を向ける。
50代程度。
その背丈の割に押しの強そうな雰囲気。
臆面もなく微笑むその女性と相対し、彼は反射的に眉間が寄るのを抑えられない。
そのまま次に浮かんだ「何しにきたんだ」という言葉もなんとか吐き出さずに済んだ。
「……今からですと、かなりお時間かかりますので、明日以降に——」
「今日じゃないと困るんよ」
彼の言葉に被せるように、女性客はそう言い切る。
説得すれば帰ってくれるタイプでないことは明白だった。
深く吸った息を、大きく吐かずに留め、その代わり、営業の決まり文句を繰り出す。
「かしこまりました。機種はお決まりですか?」
それは早く済ませて帰ってもらうしかないという諦めからだろう。
店によっては、閉店の1時間程度前に機種変更の受付を終了するところも多いが、彼が勤めている店は閉店の30分前まで受け付けている。
以前からこの体制に不満があったが、口にしたところで何かが変わるわけでもない、と彼は考えていた。
彼が女性客に椅子を勧めると、彼女は閉店間際にあるまじき鷹揚さで腰掛けて、隣の椅子にハンドバッグを置いたのだった。
「iPhoneの一番新しいの」
「iPhone17のシリーズですと、スペックの違いで何種類かあるのですが——」
そこまで言って、彼の手元にはスペックが書かれた表しかないことに気づいた。
普段であれば、展示されている場所まで連れて行って現物を見ながら説明するが時間が押している。
だから別の方法で切り抜けることにした。
「お色はお決まりですか?」
彼の質問に女性客は少し悩んでから、
「確か、ピンクっぽい色にする予定じゃったんよ」
と答えたのだった。
「ピンクっぽいお色ですと、17eのソフトピンクか17のラベンダーですね」
その言葉に女性客は首を傾げる。
「その17とeって何が違うの」
「簡単に言えば、eは17の廉価版です。見た目でのわかりやすい違いで言いますと、背面のカメラがeでは1つですが、17では2つ付いて——」
また彼の言葉に被せるように女性は話し始める。
「私、そういうスペックとかよう分からんけえ、あんた決めてくれん」
彼は溜息をつきそうになる。
なんとか接客中だと思い出して止めたつもりだ。
それでも、少しは顔に出てたような気がしていた。
彼は曖昧に苦笑いしながら、選択権を女性客に突き返す。
「お支払い金額も違いますから、お好きな色でお決めになられるといいと思います」
どうせ、違いなんて分からないだろうに、という気持ちを噛み殺しながら彼は笑う。
でも、その笑みはどうしてもぎこちない。
「そう? じゃあ、ラベンダーにするわ」
「承知いたしました。
ラベンダーも在庫はございますので、大丈夫です」
そこまで言ってから、彼はカウンターの上のPCを立ち上げる。もう今日は機種変更の手続きはないと思っていたのでシャットダウンしていたのだった。PCにログインしようとしていた彼に、女性客が声をかける。
「ついでに頼みたいことがあるんだけど」
この仕事をしていると、「ついで」で頼まれることほど面倒なものはない。
彼は「何ですか」と親切に声をかける代わりに迷惑そうに視線を上げた。
その視線の先に、メモ用紙が差し出される。
書いてあるのは電話番号だ。
「これ、新しいケータイに登録してくれん?」
彼は返事ができない。
その番号は、彼が前に使っていた番号と同じだった。
だけど、前の番号だ。
彼にかかることはない。
再利用されていれば、別の誰かにかかるだけだ。
それを分かっていて、彼の喉は大きく上下する。
「息子の番号じゃけど」
女性客はそこまで言うと、一息おいた。
声が低くなる。
「繋がらんのよ。もう変えてしもうたんかねえ」
彼は息を吸い損ねる。
心臓が一度大きく脈打ち、胸の奥がひどく傷んだ。
「息子……さんに、新しい番号を聞いた方が良いのでは?」
彼のその言葉に、女性客は眉根を寄せて笑う。
それは彼の困ったようなその顔によく似ていた。
「じゃけえ、こうして聞きに来たんよ」
昔の回線は全部切ったつもりだった。
だから、勝手にまた繋ごうとする相手を前にして、彼はただ手を止めて返事を喉に詰まらせていた。




