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明日やろうと思ったのに  作者: 井桁ライク


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7/17

カンパニュラと後悔

 駅前の朝7時頃とはいえ、開店前の花屋の内側は静かだ。

ショーウィンドウの向こう側を忙しなく通り過ぎていく会社員の群れを時々横目に見ながら、風香は今朝配達する分の確認をしている。

 今日の配達分は、入学などのお祝い用が15件と送別会用が10件だった。

4月の頭は、まだ送別会用の需要が多く、先月の末にやっと発表された人事異動に対応するための注文が多い。

 花屋の中は、植物特有の青い匂いと、滞留した水の臭いが混ざり合った空気が充満している。

特に春先は、入荷する花の種類が増えて、色んな匂いが混ざり合う。

甘かったり、少し青臭かったり、饐えたような匂いだったり。

特別いい匂いでもないが、風香はこの職場の空気感は嫌いではなかった。

朝一番にブラシを掛けたタイルから、靴裏を通して伝わってくる冷たさも、この季節になれば和らぐ。

そういう変化を感じられる朝のシフトが風香は好きだ。

前夜の出来事から離れられるのだから、尚更、花屋の朝は居心地良い。


 8時半頃には店長が配達に回るので、風香はメッセージカードの最終確認をすることにした。

入学祝いには、柔らかで丸い印象の書体で、平仮名の名前とともに「ごにゅうがくおめでとう」と書いてあるものと、流麗な書体で書かれているものがある。

小学校入学までは前者で、それ以上は後者だ。

実際に小学生の子どもが花束を受け取っても、お母さんへすぐに横流しされるだけだろう。

だけど、「あの時、お花を貰った」という一場面としての記憶は、意外と残っているものだと風香は思っている。

何故なら、彼女が花屋で働こうと思ったきっかけも、そこにあったからだ。

花束を渡された母親がちょっと困った顔をしながら花瓶に生け替えてくれたことで、しばらくの間、小学校から帰ってきた風香を玄関で花が出迎えていた。

それが美しい原風景として、未だに風香の中に刻まれている。

面接の時に、何気なくその話を店長にしたが、店長自身も「分かる」と何度も頷いていたのだった。

 一方で、送別会用にも様々な種類がある。定年退職する人への餞別もあれば、急に転属が決まった人へ送るものも多い。

そのため、依頼主の意向に応じて、メッセージは細かくアレンジされている。

そんな送別会用の花束の共通点としては「感謝」の花言葉を持つ花を入れていることだ。

4月からはカンパニュラの入荷が多くなるため、この花もよく入っている。


「長い間本当にお疲れ様でした」

「感謝の気持ちを込めて」

「これからのご活躍を楽しみにしています」


そんな前向きの言葉ばかりだ。

メッセージだけだと、浮いてしまうような美辞麗句も、色とりどりの花と一緒なら素直に受け取れそうだ。

風香はそんなことを思いながら、名前とメッセージの対応を確認していく。

一番端の花束の中に、「行かなきゃよかった」という文字列が見えたような気がして、風香は足を止めた。

風香の喉が小さく詰まるような音を立てる。 


——そんなメッセージ、贈るはずがない。


そう思って、チェックリストを再度見直す。

見間違えるような文字の並びは乗っていなかった。

風香は軽く目を閉じて息を吐く。


——見間違い、だよね。


そう思いながら、もう一度、端に置かれた花束に目を遣る。

やはり、先ほど見た通りの文言が静かに主張していた。


「行かなきゃよかった」


風香の手の中から、ペンが滑り落ちそうになる。

妙に熱を持った唾をうまく飲み込めずに、喉が空気だけを嚥下する。耳の奥が、じんと痺れて音が遠くなった気がした。


 それは昨日の夜に彼女が感じた思いだった。


 仕事終わりに恋人である悠司の部屋を訪れることはよくあった。

悠司は忙しさにかまけて、自分の身の回りの世話を後回しにすることが多い。

それが心配で、風香は半ば押しかけるように悠司の部屋に行き、「補給物資」と称して夕食を振る舞う日が週に2度程度はある。

 昨日も、彼女は仕事が早く終わったので、悠司の部屋に向かった。

訳もなく気分が乗っていたので、豚の角煮でも作ろうと、スーパーに寄って豚ブロックを調達したのだった。

 風香と悠司の間には、お互いの家に行く時には前もって連絡を入れるという取り決めはなかった。

合鍵を使って好きな時に、勝手に入る。

ただ、気が向いた時に気軽に行き来できるほどの間柄だというのが、彼女の中では、信頼関係の証として機能していた。

 風香は勝手知ったる手つきで鍵を回してドアを開ける。

電気が付いていることを不審に思いつつ、廊下の奥に声を掛けた。


「悠司、もう帰ってきてたんだ」


でも、奥から聞こえてきたのは、焦っているようなそんな声色で、


「勝手に入ってくんなよ」


というぶっきらぼうな言葉だった。

悠司が普段しないようなその言い方が引っかかって、風香は慌てて奥のダイニングの扉を押した。


「ちょ、ちょっと待って——」


中では、慌てふためいた様子の悠司が何かを隠していた。

だけど、テーブルの上には、丈夫そうなカルティエの紙袋。

悠司は眉を寄せて、困ったような顔をした。


「ごめん」


彼の謝る声はか細い。


——あなたが謝ることないじゃない。


そう思っているのに、風香は平静を装うことはできない。

何故か、先ほどの悠司の言い方ばかりが気に障って仕方がなかった。

自分でも、こんなことを言うのはおかしいと分かっているのに、口から出てきたのは憎まれ口だった。


「何よ。さっきの言い方」


思ったよりも低い声が出て、風香は自分でも驚いていた。

そんな声を想像だにしていなかった悠司は、眉根を寄せて、


「そんなに怒らなくて、いいだろ」


と力無く言う。


——ああ、台無しだ。


風香はそう思ったら、踵を返して彼の家を飛び出していた。

側頭部が熱を帯びて、気持ち悪い。


——どうして、こんなタイミングで。


 自分の溜息が、店内の壁で思いの外反響したことで、風香は顔を上げた。

深呼吸すると、肺が柔らかな花の匂いで満たされる。

吐き出された息は、青臭い味がした。

 彼女は、例のメッセージカードを摘み上げる。

裏返しても何も書いていない。

破ろうとして、彼女の手は止まった。


「謝らなきゃ、だめだよね」


その声が思ったよりも不機嫌そうで、自然と肩を竦めてしまう。

止まった手はそのままズボンのポケットに伸びた。

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