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明日やろうと思ったのに  作者: 井桁ライク


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辞めどき

 昼休みに入る直前の時間には、既に住民課の窓口は混み始めている。

人というのは、往々にして同じようなことを考えるのだろう。

中抜けを使って昼休みを少し早めに始めて、市役所と銀行を回ればいい。

そんな考えが、市内のそこかしらで偶発して、この窓口の混雑に繋がっていく。

 

 窓口の様子を見ながら、由紀は「また春だな」と感じていた。

会計任用職員も数年続けていると、季節ごとの傾向ぐらいわかるようになる。

その事実は由紀に特段の感慨のようなものをもたらさなかった。


 「大内さん、お昼先にいただいてきます」


申し訳なさそうな小声で、最近配属されたばかりの晴香が、由紀に声をかけてカウンターを出ていく様子が視界の端に映った。

由紀は発行したばかりの書類から視線を上げて微笑み、


「行ってらっしゃい」


と返事をする。

カウンターを出た晴香の背中を無意識に視線が追う。

その後ろ姿は、やや背筋が伸びて、肩が軽くなったように見えた。


——カウンターとキャビネットに囲われた中の世界は、息が詰まるよね。


由紀の中にそんな納得が落ちた。


 晴香は1年目の正職員だ。

研修を終えてすぐに配属されたのが、この住民課だった。

住民課は覚えることが多い上、他部署と違って市民との関わりが多く、時にはクレーム対応の初動を担うため、コミュニケーションに苦手意識を持つ若手職員にとっては、退職を考えるきっかけになることすらある。

だからこそ、できるだけ不満を蓄積させないように気遣わなくてはならない。

これも春の定例業務の一つだと、由紀は感じていた。

同じことの繰り返しに慣れることは悪くない。

そう言い聞かせながら。


 1時半を過ぎても窓口の混雑度合いはあまり変わらなかった。

どこかでタイミングを見つけないと、変な時間に昼を食べることになる。

ぼんやりとそれを覚悟し始めていた頃に、


「大内さん、お昼まだですよね?

今の方の対応が終わったら、行ってください」


そう係長に声を掛けられた。

由紀は「ありがとうございます」と半ば自動的に返しながら、今日何度見たのかすら判然としない戸籍抄本の書式に目を通していた。

区切りの時間が決まれば、いつもと同じ対応でも時間が進むのが早く感じるのだった。


 「お昼いただいてきます」


他の窓口担当職員に声をかけて、後方のデスクへ下がる。

デスク最下段の引き出しから、鞄を取り出そうとしたところ、見覚えのない封筒が床の上に落ちた。

鞄のポケットに引っかかっていたのだろうか。

由紀は首を傾げ、封筒を眺めてはみたが、このまま中身を確認していて昼を食べ損ねるのも嫌だったので、右手に持ったまま休憩室に移動した。

 

 昼休みの時間からずれていたことで、休憩室は他に誰もおらず、思いの外快適だった。

誰かが入ってくる可能性を考慮して、スマートフォンの音を最小にして、動画を見ながら、昨日の残り物を詰め合わせた弁当を食べる。

窓口の喧騒が嘘のように、窓の外は穏やかな天気だった。

薄く煙ったような青空を細い雲の筋がゆっくりと流されていく。

窓口という狭い世界にいると、時々、窓の外に現実らしさが摩耗する感覚が由紀にはあった。

だからと言って、それが悪いことだとも思わなかったのだが。


 昼食を終えて歯を磨いた由紀は、先ほど引き出しから出てきた封筒を開けてみることにした。

封はされておらず、封筒の口も折られていない。

静かに傾ければ、中から白い1枚の様式が出てきた。


退職願。


その様式自体は、由紀には見覚えのあるものだった。

決まった書き方と、それに倣って自筆の上に押印する形。

だけど、彼女が書いたものではなかった。

喉の奥に何かが詰まったように感じた。

遠くで流れる下水管の音が遠くなる。

その筆跡は彼女のものによく似ていたのだった。


——たちの悪い嫌がらせだ。


そう思うこともできたが、一体誰が、と考えた時に、思い当たるような人はいなかった。


——この職場の人たちに不満はない。

——誰かが私に不満を抱く理由もない。


すぐに捨ててしまってもよかった。

でも、由紀はそうしなかった。

ただ鞄にその退職願を片付けただけだった。

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