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明日やろうと思ったのに  作者: 井桁ライク


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 まだ、春の雨とは言い切れない。

少し身を切るような、そんな雨がここ数日降り続いていた。

雨の日はコールセンターに寄せられる苦情が多くなる。

瑠美は、その経験則が今日も間違っていなかったことに、胃の奥が重くなるような思いを抱えていた。

 一昨日からあまり眠れていない。

確かに、夜にもかかわらず、妙に混雑した職場の回線もその一因だ。

だけど、私用のスマートフォンに毎日来る通知が原因のほとんどを占めているのは、彼女の中で明白だった。

 その通知は、別れたばかりの元彼である圭太から送られてくるメッセージによるものだった。

内容は圭太の飼っている猫が映った画像が送られてくるだけ。

無視していれば特に害のないものだが、瑠美には不可解に思うことがいくつかあった。


 まず、圭太は別れた相手の連絡先を残さない主義だということだ。

これは、瑠美自身が確認している事実なのだ。

 同棲し始めてすぐの頃、瑠美は酔った勢いで、肥大化した嫉妬心を隠そうともせずに、彼のスマホの中身を確認させろと迫ったことがある。

その時に、


「見てもいいよ。

そもそも今までの元カノの情報は残してないから」


と圭太は言っていた。

本当に瑠美が確認したところ、瑠美自身のデータ以外には家族と職場関係者、あとは友人しか連絡先が入っていなかった。

これは、一人ずつ「誰で、どういう関係か」を説明させ、言い淀みや誤魔化しが無いかを瑠美自身が確かめていたので、間違いないことだった。

彼女が冗談めかして、


「私のために整理したの?」


と尋ねると、


「いや、別れる度にスマホ買い替えてるんだよ。

連絡先だけじゃない。画像もメールも、引き継いでない。

だって、未練があるみたいに思われたら癪だろ?」


そんな素っ気ない返事が返ってきたのだった。


「こうやって詮索されるの前提だったりして?」


そう押してみても、圭太の態度は揺らがなかった。


「ネットとかで『男は名前を付けて保存。女は上書き保存』とか聞かない?

俺の場合はスマホごと削除なんだよ」


こんな答えに、嫉妬に駆られる未来が今後訪れないことへの安堵とともに、「この人とは、別れてしまったら完全に他人になってしまうんだ」という、心の隅の隙間を風が通り抜けるような、足元からの冷えに近い感覚を抱いたのを、瑠美はよく覚えている。

戯れに、「大好き」、「何番目に?」なんて遣り取りをすれば、圭太は決まって、


「瑠美が一番だよ」


と答えていた。

確かに、圭太にとっては、いつでもその時に付き合っている女性が「一番」なのは偽りではないが、どんなに時間をかけて関係を育んでも、別れた瞬間にスマホと一緒に捨てられてしまう「一番」には、何の意味もないんじゃないかと瑠美は思ったのだった。


 もう一つの引っ掛かりは、圭太があまりマメな性格ではないことだ。

圭太とは、コミュニケーション不足が引き金となって別れたのだった。

彼は毎日仕事から帰る時間はきちんと伝えていたが、それは業務的な報告に過ぎないものだと瑠美は常々不満に思っていた。

夕飯の準備。

洗濯の都合。

お風呂の順番。

そういう段取りのためだけに送られてくる、「今から帰ります」という連絡。

瑠美は、この同棲にはそういう実務的なことではなく、柔らかくて甘いやりとりを期待していたのだった。

そのせいか、瑠美にとって圭太の「業務的報告」の範囲は日に日に拡大していった。

瑠美が作ったご飯に対する感想すら、気持ち良く家事を回すために自動的に出てくる言葉に聞こえたし、圭太が連れてきた猫のしらたまの世話についてのお礼さえ、瑠美が思い通りに動いたことへの評価のように感じるようになったのだった。


 その圭太が毎日、瑠美に宛ててしらたまの画像を送ってくるのだ。

瑠美にすれば、それは晴天の霹靂とも言える行為だった。


スマホ、解約してなかったんだ。

私の連絡先、消してないんだ。

今更、「業務」以外の内容を送ってくるんだ。


瑠美は圭太のスマホに自分の連絡先がまだ残されていることについて、どのような反応をしていいのかわからなくなっていた。

そのため、毎日送られてくるしらたまの画像だけ確認して、何も返事をしていない。

なのに圭太は、飽きもせずにメッセージを送ってくるのだった。


 瑠美は、何度か返事を打とうとして、やめていた。


「今更、しらたまの画像なんてどういうつもり?」


そう送ろうとして、何度も文字を消していた。

いつも、今日こそはと思いつつも、何かを確定させるのが怖かったのだ。

だけど、今日で別れてから一ヶ月。

30日分の猫画像が溜まってしまった。


 今日も布団の中で、スマホを握りしめて思考を堂々巡りさせているうちに、深夜の時間が過ぎていくのだった。


「あf」


寝落ちしそうになった拍子にそんな文字列を圭太に送ってしまう。

瑠美は血の気が引くような思いで、一気に目が冴えるのを感じた。

指先が冷える。

心臓の鼓動がいつもより近い。

まだ既読は付かない。

——それなら。

瑠美は息を深く吸って、静かに吐いてから、次の言葉を打ち込んだ。


「スマホ、解約してなかったんだ?」


その後、瑠美は何度も既読が付くかを確認していたが、朝まで圭太からの反応は返ってこなかった。


 次の朝、いつも以上に眠れなかったため、瑠美は休日だったことに感謝した。

起きた後も、度々スマホを手に取って、アプリを無意味に開いてしまう。

圭太からの既読はまだ付かない。

彼も今日は休みなのだろうか。

落ち着かず、外に出る予定もないのにメイクをしていたところに、通知の音が鳴った。


「解約してるよ」


圭太からの返事は短かった。


「なんで、しらたまの画像ばっかり送ってくるの?」


瑠美はすぐに返事をしたが、彼からの既読はすぐには付かなかった。

自分が焦れていることに気づいた瑠美は、何となく動画を見始める。

どうでも良いショート動画が目の前を通り過ぎていく。

Excelの便利なショートカットも、本場イタリアのパスタのレシピも全て無意味な記号に見えた。

それなのに、動画をスワイプする指を止められなかった。

やがて、また通知が鳴る。


「前に瑠美が、『圭太のこと嫌いになっても、しらたまのことは好きだから、別れても毎日会わせてよね』って言ってたから」


瑠美は、胸の奥に重石を乗せられたような気分になった。

喉の奥が苦くていがいがする。

それを誤魔化すような軽い調子で送る。


「真面目か笑

てか、私の連絡先、新しいスマホにも引き継いでるんだ?」


答えはすぐに返ってきた。


「これ、前のスマホから送ってる」


その次に、


「いらない?」

「送るのやめようか?」


その言葉を見て、瑠美は息が詰まった。

自分だけは特別だったと思いたかった。

だけど、そうじゃないとわかったから。


「送ってくれたら、嬉しい」


その一言を瑠美はまだ送れずにいる。

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