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明日やろうと思ったのに  作者: 井桁ライク


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3/17

忘れ物のカセットテープ

 銀座町商店街の閉店時間は早い。

夕方5時頃になると、近くの小さな個人経営のスーパーに向かうおばさんたちが、「自転車は降りてください」の看板を無視して走り抜けていく。

それを僕は、未だにLEDに更新されずに生き残った白熱灯の曖昧な光を反射するガラス越しに、眺めていた。

今日の勤務終了まで1時間。

バイトが終わったら研究室で、レポートをまとめる予定だ。


ーー片付けしてから、学生会館に着いたら18:30ぐらいか、1時間はネタの練習出来るな。


惰性で浮かんだそんな考えを振り払う。

研究室の小笠原教授は厳しい人だと先輩たちから聞いている。

1日も欠かさずに研究室で努力と進捗を見てもらって、少しでも良い職場に就職できるようにしなければ。

強迫観念に近い「僕がすべきこと」が頭の中を占領している。

胸が重くなって、長く息を吐いた。

その音は何故か溜息に似てしまった。


 うちの中古レコード店には、平日はほとんど客入りがない。

それでも商売が成り立っているのは、ネット店舗での売り上げが大部分を占めており、店舗は実質在庫を置くための倉庫だ。

その倉庫を綺麗に整頓し、時々来る常連さんたちの話し相手になる。

それが僕の仕事だ。

常連さんたちは年配の方が多く、僕を孫のように可愛がってくれる。

今日来ていた橋本さんもその一人だ。

橋本さんは、3代目桂米朝師匠の高座を生で観た話をしてくれたこともある。

橋本さんの語り口は生き生きとしていて、僕も生で聴く機会があれば良かったのに、と思うほどだった。


 カウンターを乾拭きしていて、見慣れないものが視界の隅に入った気がした。

顔を上げると、カウンター脇に平積みされた音楽雑誌の上に、ぽつんと置かれた四角いケースのようなものが目に留まる。

お客さんの忘れ物だろうか、と手に取ると、それはケースに入ったカセットテープのようだった。

だけど、カセットテープにしては、少し重い気がする。

忘れ物だったら申し訳ないと思いつつも、ケースから取り出すと、メタルテープだった。

ただ、中身の分かるラベルも何も付いていない。

それなら、恐らく、何か気に入った音源を、個人が高音質で残そうとしたものに違いない。

それにしても、今時、こんな珍しいものを忘れていくものだろうか。

今日、僕のシフトの間に来たお客さんは、5人。

橋本さん以外の常連が2人と、若い男性の2人組。

常連の3人ともカセットテープが置かれていた音楽雑誌に手を伸ばしていた。

つまり、最後に触った人が置き忘れたのだろう。

それなら、持ち主は橋本さんのはずだ。

カウンターの下の引き出しから、付箋とペンを出す。

黄色い付箋に「4/10の忘れ物です(多分、橋本さんです)」と書いて、カウンター裏の貴重品入れの上に置く。

こうしておけば、次の日に開店に来た店長が確認してくれるだろう。

時間は6時10分。

片付けも終わったし、すぐに研究室に向かおう。

頭の中ではそう思っているのに、なぜかカセットテープに視線が吸い寄せられている。

鞄を手に持ったのに、出口に足が向かわない。


ーーカセットの中身、検めておいた方がいいよな?

ーー中身が分かった方が、橋本さんの忘れ物っぽいか、分かりやすいだろうし。


そんな言い訳めいた考えが浮かんだ時には、カセットテープを手に持っていた。


ーーちょっと聞くだけだし。


言い訳を重ねながら、カウンター下に備え付けられたデッキに入れて、再生する。


 からっと乾いた三味線の出囃子の音が流れる。

ああ、落語だな。

そこで分かったのだから、「落語のテープです」とだけ付箋に付け足して、止めれば良かった。

でも、僕はそのまま流し続けた。

いや、止められなかったのだろう。

やがて渋みのある力強い声が流れる。

これは、桂米朝師匠の声だ。

音質の状態も良い。

メタルテープ選んだのは正解だっただろう。

ややあって、枕が始まる。


「余所から大きな鯖を貰いましてね」


主人公は、鯖にあたって死に、地獄に来てしまった、という筋書きが語られ始めた。

これは、「地獄八景亡者戯」だ。

地獄に落とされた者たちが、それぞれの特技を生かして地獄の責苦から逃れる古典的な演目。

子どもの頃に母親に何度もせがんで読んでもらった「じごくのそうべえ」の元になった話と知った時には、僕が落語を好きになったのは必然だったと、すとんと腑に落ちた感覚だった。


「こないだ、ウォーターライドなんて拵えまして」


三途の川を鬼の手漕ぎ舟で渡るが、近代化されたこともある、という話が語られる。

客席が笑い声に包まれる。

気がつけば、僕の口元も緩んでいた。


 店内が再び静かになった時には、7時を回っていた。

僕はカセットテープをデッキから出して、再びカウンターの上に置く。

その上には、あの黄色い付箋を貼っておく。

橋本さんには勝手に聴いたことを謝った方が良いのだろうか、それともお礼を言った方が良いのか。

どちらにせよ、次のシフトで会えると良いな、と思う。

 ほとんどのシャッターが降りて、静まり返った、アーケード街は、どこか不気味だ。

いつもなら、「自転車は降りてください」の看板を見て見ぬ振りをして、すぐに乗ってしまう。

でも、今晩の風は、少し暖かくて柔らかい。

もう少し味わってから、学生会館に向かおう。

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