海風の街
二ヶ月前、地方都市のマンションに引っ越した。
夫の転勤についていく形で、私も縁のないこの土地で暮らしている。
突然の辞令だった。夫の前任者が病気で倒れ、この地方の事業所が回らなくなったらしい。
元々、少人数で回している会社だ。
突然の異動なんて大きな負担は、若くて子どものいない家庭に回される。
「すまないが、お願いできるな?」
そう頼まれて、夫は断れなかったという。
私は、というと、その時やっていた仕事に別に思い入れなんてなかった。
だから、特に反対もせず、気分転換のような気軽さで、ついてきたのだった。
近所の土手を歩く。
都会の川は生臭かったのだと、今になって気づく。
ここにいると、潮の匂いの方が生活圏にある。
時々、粘ついた風が身体にまとわりつくように感じて煩わしい。
この風のせいで、外に洗濯物を干すとべたつくのが嫌で、浴室乾燥を使うことが多くなった。
内陸部に住んだ経験しかない私にとって、海風が常に生活圏に入ってくることは、招かれざるものの侵犯のようなものだった。
川縁を見下ろせば、管理の行き届いていない広場が見下ろせる。
キャッチボールをしている二人の少年がいる。
部活動ではなく遊びといった感じだ。
時々、声変わりしていない甲高い声がこちらまで飛んできた。
植栽の周辺には雑草が茂り、広場の舗装は波打っている。
従順さを欠いた木々は、都会の街路樹よりも他人行儀な感じがした。
集合ポストの中に何も入っていなかったことを確認してから、ボタンを押してエレベーターを呼ぶ。
この物件の不満をあげるなら、エレベーターが一機しかないことだ。
今のような帰りの時間なら問題ないが、朝の通勤の時間帯は下り優先となるため、忘れ物を取りに戻る時は階段で上がった方が早いくらいだ。
表示灯を見ると、エレベーターは3階で停まってから降りてきている。
誰だろうか、と思いつつ、エントランスのガラスに映った自分を見直す。
少し疲れてはいるが、髪型は乱れていなかった。
電子音が鳴り、ドアが開く。
降りてきたのは、隣の部屋の女性だった。名前は知らないが年齢も近いようで、時々話す仲になっていた。
「あ、こんにちは」
言葉の頭に「あ」を付けてしまうのは、悪い癖だと思っている。
だけど、気がついたら出てしまう。息継ぎのようなものかもしれない。
「ちょっと、今時間大丈夫?」
相手は、軽く手をあげて応じながら、話かけてきた。
少し眉を顰め、抑えた声の調子。
どうも良い話ではないようだ。
私は頷いてみせた。
「最近、猫の鳴き声せん?」
「いや、私は聞いたことないですけど」
このマンションはペット不可だ。
今のところ隠れて飼っている人の話も聞いたことはない。
「今日、うち在宅で家におったやんか? そしたら、猫の声が聞こえたんよ。多分、二時ぐらいだったかなあ。結構ずっと鳴いてて」
「そうだったんですか」と驚いたように返事しながら、悪い人ではないんだけどな、と思う。
どうもこの人の話す言葉は、私が彼女が今日何をしていたのかを知っていることを前提で進んでいる印象を受けてしまう。
この地方の言い回しなんだそうだ。
旦那が会社で質問したら、方言だと教えられたらしいから。
それでも、何だかこの言葉には馴染めない気がしてくるのだ。
「ペット不可やからここ選んだのに。私、猫アレルギーなんよね」
「ええ、困りますよね」
「次聞こえたら、管理会社に苦情入れとこ思うんよ」
「うちも気にしておきます」
私のその返事を聞いて、
「ほんま、迷惑よな」
と憤懣やる方なしという様子で、彼女はエントランスを出て行った。
私は息を吐いてから、エレベーターに乗り込んだ。
その日の夜だった。
寝苦しくて起きると、外から話し声のようなものが聞こえてくる。
煩わしく思いながらも寝付けずに、寝返りを打つ。
頭はぼんやりとしたままで、目を閉じると意識に靄がかかり始める。
それでも外の声は耳に入ってき続ける。
まーお、まーおと高い調子で掛け合いをしているようだ。
どうにも喧嘩前の前口上のようにも聞こえる。
そのまま耳だけに意識を集めると、はっきりと言葉が聞こえてきた。
「てめえ、やるんか、こら」
「おん、てめえこそ。こっちみんな」
「てめえがガンとばしてきてんやろ」
「なめたこというな。いてまうぞ」
「ほな、やってみい」
言葉が遠くなっていく中で、声のトーンが次第に上擦っていくのが、少しおかしかったことだけ覚えている。
朝起きると、夫は既に出勤済みだった。
テーブルの上には、皿に盛られた目玉焼きとベーコンにラップがしてある。
今朝は私が当番だったのに、悪いことをしたな、と思う。
せめて、夜は快眠できるように布団を干しておこう。
ベランダに出ると、海の匂いのする風が顔に吹き付けてきた。
二ヶ月間使っていなかったせいか、落ち葉や泥が多少隅に溜まっている。
土日に掃除しないとな、と見下ろしていると、あちらこちらに、白っぽい毛玉が散乱していた。
傍迷惑だな、と諦めるしかない。
3階なら入ってくるはずがないと思っていたのにな、とも思う。
玄関から箒を持ってきて、軽く掃く。
白っぽい毛玉はところどころに飛び散っていて、喧嘩の規模を物語っていた。
掃除を終えて、ふと空を見る。
風はあるけど、雲は一つもない。
今日はよく乾きそうだ。




