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明日やろうと思ったのに  作者: 井桁ライク


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忘れ物は証明写真

 証明写真ほど、拾った時に気まずくなるものはない。

写真機の外側にある受取口を確認した彼は、指先に当たる厚紙の硬さに静かに溜息を吐いた。この雑居ビルのオーナーである彼は、毎日午後8時ごろのほとんどのテナントが閉店し始める時間になると、玄関の掃除がてら、この証明写真機に忘れ物がないかを確認している。釣り銭の補充や機体の清掃は設置業者が行うことになっているので、忘れ物の確認は、ただのお節介といったところだ。

 証明写真を撮るときというのは、少なからず緊張しているものだろう。そのためか、実際に財布などの手荷物を忘れていく人が結構な頻度で出てくるのだ。免許証入りの財布と証明写真を忘れるのでは、どう考えても前者の方が肝が冷えるし、実際に困ることも多いはずだ。だけど、証明写真というものは、忘れた側、拾った側の間に妙な距離感ができる。それを彼は、証明写真が新しい挑戦の第一歩だということをお互いに知っているからだと捉えている。

 彼はその忘れ物に爪を食い込ませてしまわないようにそっと取り出して眺めてみる。成人したばかりといった年齢の女性が写っていた。前を見据えた瞳の中には光が入り、口角は僅かに上がっているがどこかぎこちない。黒いスーツはいかにもリクルート用というデザインで、首元までしっかりと留められたボタンからは真面目さが滲んでいるように見えた。黒い髪には艶があり、後ろでまとめられているのも、清潔感を際立たせている。

 どう見ても一般的な大学生の就活といった装いだ。見た目からはしっかりしているように感じられるが、どこか抜けたところがあるから、こうして写真を忘れて帰ってしまったのだろう。そう考ると、彼の口許は緩み、ふふ、と息が漏れた。

 さて、どうしたものだろう。忘れたことに気づいたら、慌てて取りにくるだろうし、だからといってそのまま置いておくのも紛失に繋がりそうでよろしくない。それなら、「証明写真を忘れた方は管理人室までお声かけください」とでも書いたメモでも入れておくのが良いか。そうやって少し悩んでから、管理人室にメモ帳を取りに行こうとした彼の背中に、


「すみません」


と低い声が掛けられる。彼が「はい」と応じて振り返ると、


「ここの証明写真機に写真の忘れ物、ありませんでした?」


そう尋ねる中年太りの男性が立っていた。彼は思わず眉を顰めて首を傾げてしまう。どう見たって、その写真の女性とは関係のない人間だ。ワイシャツの第一ボタンを留めていないのだが、それがマナーではなく崩れに見えるほど、だらしなく見える。羽織っているだけになっているジャケットは突き出た腹を強調している。ズボンの中線が薄ら二重になっており、そんな様からは草臥れた生活感が垣間見えるようだ。彼はそんな男性を内心では怪しく思いつつも、念の為に


「男性の写真の忘れ物はなかったですね。撮影した時間帯はいつ頃ですか?」


そう質問を返してみることにする。男性は彼の意図を察したようで、先程まできゅっと寄せていた眉根を柔らかく解くと、はは、と笑った。その笑みは、どこか写真の中の女性に通じるものがあるように彼には見えた。


「ああ、娘の写真を取りに来たんです。撮影したのは今日の夕方5時頃だったと聞いています。黒髪のポニーテールで鼻の横にほくろがある子の写真、まだありますか?」


それを聞いて手元の写真を見れば、小鼻の右側にほくろがあったことに彼は気づく。印字されている時間帯も概ね合っている。「だけど」と彼は考える。身内とはいえ、勝手に渡してしまってもいいものか。彼がどこか険しい顔をしているのに気づいたのか、男性は話しをし始めた。


「うちの娘、初バイトなんです。それで、証明写真を撮るって言いましてね。後で金額を確認したら、データだけじゃなくて写真も出てたみたいで、『恥ずかしくて取りに行けない』なんて言ったもので、私が代わりに来たわけです」


男性は娘に頼られて困ったというように肩をすくめてはいるが、その表情は頼られて満更でもない様子に彼には見えた。彼の声音は少し高くなる。


「そうなんですか。社会経験というやつですね」

「ええ、そうなんです。今まで進学校で部活と勉強だけだったから、大学ではバイトも頑張りたいって言いまして。それでも心配なのが親というものですよね。『小遣いだけではやりくりできないのか』って尋ねたら、『もう大人だから、家に入れたい』って言うんですよ」

「それはそれは、立派な娘さんじゃないですか」


彼が驚いたようにそう言うと、父親は目を更に細めて笑う。手を横に振って謙遜するポーズを見せているが、嬉しさを隠しきれていないのが、彼にも伝わってくる。


「いや、本人は『皆やってると思う』って言うんですよ」

「それって、娘さんなりの照れ隠しじゃないですか」


彼の言葉に応じるように、父親は「たはは」と笑う。大きめの肩幅を揺らして笑うその姿は満ち足りた空気感を纏っていた。


「初めてのバイトはカフェが良いって言うもんで、張り切って履歴書を書いているところなんです」


父親の言葉を聞いて、彼はもう一度写真を見る。彼女の下がり気味の目尻が柔和な喋り方を想起させた。


「お父さん、バイト先には来ないでよ」


なんて言うこともあるだろうけれど、父親は彼女のシフトの時間帯になると、わざわざ遠回りをして、ショーウィンドウから中を覗くのだろう。そんな起こりうる未来を想像すると、彼の頬が緩んだ。


「ああ、すみません。預かったままになっていましたね」


彼が写真を手渡すと、父親はまじまじと写真を見つめる。


「写真より実物の方がずっと可愛いんですよ」


父親のその目を見て、彼は「慈しみ」という言葉を思い浮かべたのだった。


「勝手に語ってしまって、申し訳ないです」


彼に向き直ると、父親は困ったように眉を寄せた。


「いいえ、こちらも良い話が聞けました」


父親は鞄に写真を仕舞うと、彼に一礼してから去っていった。


 彼は掃き掃除を終えて、家に帰る前にもう一度写真機の受取口を確認する。中には何も入っていない。写真のあの彼女は、今頃、履歴書を送信しているのだろうか。彼は思いを馳せる。父親と母親と彼女が食卓を囲んで楽しく話をしながら、


「もう、写真忘れるなよ」

「以後気をつけます」


なんてやり取りをしているのだろうか。そんなことを想像する。

彼の中では彼女の物語が続いていた。

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