届かなくなる前に
シャッターを下ろし掛けたところに、声を掛けられるとは思っていなかった。
「あの、古い革靴をですね、しばらく前に修理で預けていたのです。
今日引き取りたいのですが、もうお店閉めるところですよね」
その声に振り返ると、少し猫背の初老の男性と目が合った。
その男性は俺と目が合うと、ばつが悪そうに少し頭を下げる。
その仕草は背の低さと相俟って気弱そうに見えた。
俺は中途半端に下ろしたシャッターをそのままにして、腰に手を当てて考える素振りを見せることにする。
「お預かりした時期から時間が経っているものは、店の奥で保管しているもので、すぐにはお出しできないのですが」
そう言えば「明日にします」と返ってくるだろうと思っての発言だった。
だけど、その予想はすぐに裏切られる。
「いえ、時間がかかるのは大丈夫です。
こちらこそ取りに来れなかったせいで、長いことご迷惑をおかけしていたようで」
男性はただでさえ前屈みの姿勢で、更に卑屈に見えるほどに何度も頭を下げる。
困ったもんだ。
申し訳ないと思うなら、出直してくれれば良いのに。
そう思うと溜息の一つも出るものだ。
時間外なんだからそれくらいは許されるだろうと思いたい。
「分かりました。では、伝票をお預かりしてもよろしいですか?」
俺が尋ねると、男性は眉根を寄せて首を傾げる。
その仕草は考えているようには、一応見える。
「伝票ですか。
そんなものが必要だったんですね。
随分前に預けたものだったので」
忘れたから取りに帰るという選択には繋がらないようだ。
どうしても今日持って帰りたいのだろう。
俺がこの辺りで諦めて、さっさと渡した方が早く終わるように思えた。
「お名前をお伺いしても?」
「木本です」
「念の為、その靴の特徴を教えてください」
「フォーマル用の革靴で、ストレートチップの内羽根式。
左側の踵を少し踏み潰したような跡があります。
あ、色は黒です。
修理の内容は靴底全体の交換でした」
そこまで聞いて、この店で一番長く引き取り待ちのまま置かれている靴が頭を過ぎる。
それは一年前の4月に修理で預けれられた靴だった。
修理に何日かかりそうかと尋ねられて、1ヶ月程かかる旨を伝えたら、それでは困ると頼まれて3週間で仕上げたものだ。
その癖、引き渡し日に取りに来ることすらなく、何度か電話しても「今はそれどころではないので」の一点張りだった。
そのうち電話しても話し中や留守電に繋がることが多くなったので、こちらから催促の電話すらかけなくなっていたものだ。
それに加えて、この靴を預かった日の出来事が印象に残っている。
母と喧嘩して連絡を取るのを辞めたのだ。
その日までは毎日メールが来ていた。
俺も俺で煩わしくても、「今日はカレー作った」だの「そろそろ米買わなきゃ」だの日記かメモ書き未満のことを返していた。
喧嘩のきっかけは些細なものだったように思う。
俺が米がそろそろなくなるという内容を送らず、市販のものを買って帰った時だった。
それまで、俺の「そろそろなくなるメール」を目安に母が実家から米を送ってくれていた。
「今日米買った」
「え? お母さん、米なくなる前に連絡してって言ったよね?」
「でも、こっちでも米売ってるし。
たまには知らん銘柄食うのも悪くない」
「あるものをわざわざ買うのも、もったいないでしょ」
そんなどうでもいいようなやり取りだった。
最終的に、
「俺の生活を管理しようとするな」
って、俺が送ってから没交渉になったのだった。
預かり物の靴を裏から出してきて、男性の目の前に差し出す。
「これです。
母がこれだけは手元に置いておきたい、って言ってたもので」
相手は、懐かしむような目で、靴を通り抜けた先のどこか遠くを見ていた。
「折角、家族写真のために直していただいたのに、結局写真は撮れないまま、父は履くこともできませんでした」
それを聞いて、頭から冷え切った水を浴びせられた気がした。
右側の踵を少し潰しながら、右足を引きずって歩いていたような独特のすり減らしを作っていた人には、綺麗になったこの靴が届くことがないのか。
「ありがとうございました。遅い時間に対応していただいて」
男性は何度も振り返っては頭を下げていた。
それを見て俺も深く頭を下げる。
こういう時に口下手なのは良くないと思いつつ、治せるものでもないから仕方ないとは思う。
今日は帰ったら母に連絡をしよう。
何も届かなくなる前に。




